2025年9月24日水曜日

ロンドン セントジェイムズ宮殿(St. James’s Palace)- その2

セントジェイムズ宮殿の建物正面
<筆者撮影>

テューダー朝(House of Tudor)の第5代かつ最後の君主であるエリザベス1世(Elizabeth I:1533年ー1603年 在位期間:1558年-1603年)は、未婚のまま(夫と子がないまま)、1603年3月24日に崩御したため、テューダー朝(House of Tudor)の初代イングランド王であるヘンリー7世(Henry VII:1457年ー1509年 在位期間:1485年ー1509年 → 2024年7月5日付ブログで紹介済)の直系で、既にスコットランド国王として即位して居たジェームズ6世(James VI:1566年ー1625年 在位期間:1567年ー1625年)が、イングランド国王のジェイムズ1世(James I - 在位期間:1603年-1625年)として即位して、ステュアート朝(House of Stuart)を開いた。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
チャールズ1世の肖像画の葉書
(Daniel Mytens
 / 1631年 / Oil on canvas
2159 mm x 1346 mm) 


ステュアート朝の第2代国王であるチャールズ1世(Charles I:1600年ー1649年 在位期間:1625年ー1649年 → 2017年4月29日付ブログで紹介済)は、ステュアート朝の初代国王ジェイムズ1世の次男として出生したが、兄ヘンリー・フレデリック・ステュアート(Henry Frederick Stuart:1594年ー1612年)が腸チフスに倒れて18歳の若さで死亡したため、1616年に王太子(Prince of Wales)に叙位された。

1625年に父ジェイムズ1世の死去に伴い、王位を継承して、チャールズ1世となる。彼は、父王と同様に「王権神授説」を信奉して、議会と対立。1628年に議会は「権利の請願(Petition of Right)」を提出し、課税には議会の承認を得ることを求めたが、チャールズ1世は1629年に議会を解散して、議会の指導者を投獄する等、専制政治を実行した。更に、彼は国教統一にも乗り出し、ピューリタン(Puritan)を弾圧したため、各地での反乱を引き起こす引き金となった。

1642年、チャールズ1世が反国王派の議員を逮捕しようとしたことに伴い、議会派と王党派の内戦が勃発。これが、清教徒革命(Puritan Revolution:1642年ー1649年)である。

当初、内戦は王党派(Royalists)が優勢であったが、鉄騎隊を率いるオリヴァー・クロムウェル(Oliver Cromwell:1599年ー1658年 → 2024年8月4日 / 8月7日付ブログで紹介済)が議会派(Parliamentarians)を勝利に導いた。1646年、チャールズ1世は議会派に降伏して、囚われの身となる。一旦脱出するものの、1648年、再度幸降伏する。


ルーベンスが描いたバンケティングハウス内の天井画
<筆者撮影>


1649年1月27日、チャールズ1世の処刑が宣告され、同年1月30日、フランドルの画家パーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens:1577年ー1640年)に内装や天井画を依頼したホワイトホール宮殿(Whitehall Palace)のバンケティングハウス(Banqueting House)前で公開処刑(斬首)された。


バンケティングハウスの入口上に設置されているチャールズ1世の胸像
<筆者撮影>


なお、チャールズ1世は、処刑前夜、セントジェイムズ宮殿(St. James’s Palace)に泊まり、最後の夜を迎えている。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)
で販売されている
オリヴァー・クロムウェルの肖像画の葉書
(Robert Walker / 1649年頃 / Oil on canvas
1257 mm x 1016 mm) 


チャールズ1世を処刑した後、イングランド共和国(Commonwealth of England:1649年ー1660年)の初代護国卿( Lord Protector)となったオリヴァー・クロムウェルは、セントジェイムズ宮殿を引き継ぎ、共和制(1649年ー1660年)の間、兵舎として使用させた。


以降、ステュアート朝の歴代の国王は、セントジェイムズ宮殿において出生している。


*チャールズ2世(Charles II / ステュアート朝の第3代国王:1630年-1685年 在位期間:1660年ー1685年)- 1630年5月29日に、チャールズ1世の長男として出生。


ソーホースクエアガーデンズ(Soho Square Gardens)内に設置されている
チャールズ2世像 -
デンマーク人の彫刻家 Caius Gabriel Cibber (1630年―1700年)が制作
<筆者撮影>


*ジェイムズ2世(James II / ステュアート朝の第4代国王:1633年-1701年 在位期間:1685年ー1688年)- 1633年10月24日に、チャールズ1世の次男として出生。


*メアリー2世(Mary II / ステュアート朝の第5代国王:1662年-1694年 在位期間:1689年ー1694年)- 1662年4月30日に、ジェイムズ2世の長女として出生。


イングランド銀行博物館(Bank of England Museum)のエントランスホールの
右側の壁に掛けられているメアリー2世の肖像画 -
ドイツ生まれの英国の肖像画家である初代男爵サー・ゴドフリー・ネラー
(Sir Godfrey Kneller, 1st Baronet:1646年ー1723年)による
作品だと考えられている。
<筆者撮影>


*アン(Anne Stuart / ステュアート朝の第6代国王:1665年-1714年 在位期間:1702年ー1714年)- 1665年2月6日に、ジェイムズ2世の次女として出生。


セントポール大聖堂(St. Paul's Cathedral
→ 2018年8月18日 / 8月25日 / 9月1日付ブログで紹介済)の正面前の広場に設置されている
アン女王像
<筆者撮影>


1688年の名誉革命(Glorious Revolution)を経て、ステュアート朝の第5代国王に就いたメアリー2世(Mary II:1662年ー1694年 在位期間:1689年ー1694年)との共同統治を行い、メアリー2世の没後、夫のウィリアム3世(William III:1650年ー1702年 在位期間:1689年ー1702年)が、単独統治を行っていた。


イングランド銀行博物館のエントランスホールの
左側の壁に掛けられているウィリアム3世の肖像画 -
メアリー2世の肖像画と同様に、
ドイツ生まれの英国の肖像画家である初代男爵サー・ゴドフリー・ネラーの
作品だと考えられている。
<筆者撮影>


ウィリアム3世による統治時の1698年、第一王宮であるホワイトホール宮殿が火事で焼失したため、セントジェイムズ宮殿が、ロンドンにおけるステュアート王家の第一王宮となり、ステュアート朝の行政の中枢として使用された。なお、この役割は、現在も残っている。


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