2025年7月10日木曜日

ロンドン グラスハウスストリート(Glasshouse Street)

グラスハウスストリートの名を冠した
パブ「The Glassblower」-
グラスハウスストリートの西端に所在。


サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)が、シャーロック・ホームズシリーズの短編小説56作のうち、50番目に発表した作品「高名な依頼人(The Illustrious Client → 2025年6月18日 / 6月23日 / 6月27日 / 7月5日 / 7月7日付ブログで紹介済)」において、1902年9月4日の午後5時半に、シャーロック・ホームズは、ロンドンの裏社会に通じた情報屋で、ホームズの協力者であるシンウェル・ジョンスン(Shinwell Johnson)から紹介されたキティー・ウィンター(Kitty Winter - オーストリアの貴族であるアデルバート・グルーナー男爵(Baron Adelbert Gruner)の元愛人で、被害者)を連れて、ド・メルヴィル将軍(General de Merville)とヴァイオレット・ド・メルヴィル(Violet de Merville)嬢が住むバークリースクエア104番地(104 Berkeley Square → 2014年11月29日付ブログで紹介済)を訪問した。


バークリースクエアガーデンズ(Berkeley Square Gardens)の内部 -
なお、シャーロック・ホームズとキティー・ウィンターが訪ねた
ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢の住まいであるバークリースクエア104番地は架空の住所であり、
同スクエアには3桁の番地は存在していない。


しかしながら、ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢は、ホームズによる説得、そして、キティー・ウィンターによる暴露にも、全く聞く耳を持たず、アデルバート・グルーナー男爵に対する妻殺害疑惑を濡れ衣だと思い込んでいる彼女の態度は非常に頑なで、残念ながら、アデルバート・グルーナー男爵との結婚を思いとどませることは、不調に終わった。


現在の「シンプソンズ」入口


その日の夜、ストランド通り(Strand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)のレストラン(シンプソンズだと思われる)において、本業の医師の仕事を終えたジョン・H・ワトスンと一緒に食事をしたホームズは、ワトスンに対して、「こちらが次の一手(を指す前に、向こうが次の一手を打ってくる可能性がありうる。(it is possible that the next move may lie with them rather than with us.)」と告げる。


ストランド通りに面しているチャリングクロス駅の正面


2日後の夕方、ホームズの読みは、悪い方に的中した。

ワトスンが、グランドホテル(Grand Hotel)とチャリングクロス駅(Charing Cross Station → 2014年9月20日付ブログで紹介済)の間で、夕刊紙の売り子が持つ新聞見出しを見て、暫し呆然と立ち尽くす。そこには、黄色の地に黒色の文字で、次のように書かれていた。


「シャーロック・ホームズ氏が暴漢の襲撃に遭う!(Murderous Attack upon Sherlock Holmes)」と...


リージェントストリート沿いの
カフェロイヤルの入口


新聞によると、今日の昼の12時頃、カフェロイヤル(Cafe Royal → 2014年11月30日付ブログで紹介済)の外のリージェントストリート(Regent Street)の路上において、ホームズは、ステッキを持った二人組の暴漢に襲われたのだった。


グラスハウスストリートの西端から東方面を見たところ。

有名な私立探偵のシャーロック・ホームズ氏が今朝襲撃に遭って重態に陥ったことは非常に遺憾である。今のところ、その詳細は不明なるも、事件は昼の12時頃、リージェントストリート沿いのカフェロイヤルの前で発生した模様。襲撃はステッキで武装した二人の男達によって行われ、ホームズ氏は頭部と身体に打撃を受けて、医師団によると、重傷とのこと。当初、ホームズ氏はチャリングクロス病院へ運ばれたが、その後、本人の希望でベイカーストリートの自宅に移送された。ホームズ氏を襲撃した犯人達は紳士然とした服装の男達で、カフェロイヤルの中を通り、裏側のグラスハウスストリートへと抜けて、目撃者の追及から免れた模様。負傷したホームズ氏の活動と明晰な頭脳に常日頃悩まされてきた犯罪者達の一味と目される。


グラスハウスストリートの西端の建物の外壁。

We learn with regret that Mr Sherlock Holmes, the well-known private detective, was the victim this morning of a murderous assault which has left him in a precarious position. There are no exact details to hand, but the event seems to have occurred about twelve o'clock in Regent Street, outside the Cafe Royal. The attack was made by two men armed with sticks, and Mr Holmes was beaten about the head and body, receiving injuries which the doctors describe as most serious. He was carried to Charing Cross Hospital, and afterwards insisted upon being taken to his rooms in Baker Street. The miscreants who attacked him appear to have been respectably dressed men, who escaped from the bystanders by passing through the Cafe Royal and out into Glasshouse Street behind it. No doubt they belonged to that criminal fraternity which has so often had occasion to bewail the activity and ingenuity of the injured man.)」


グラスハウスストリートの中間辺り。-
左斜め奥へと延びている通りがグラスハウスストリートで、
右奥へと延びている通りがエアーストリート。


元のカフェロイヤルは、フランス人のワイン商人だったダニエル・ニコラス・セヴェノン(Daniel Nicholas Thevenon)によって1865年に創業された。フランスで自己破産した彼は、妻を伴い、1863年に英国に移住した際に、英国風の名前ダニエル・ニコルス(Daniel Nicols)に改名。

彼の息子(名前は父親と同じダニエル・ニコルス)の下でカフェロイヤルは繁盛。1890年代に入ると、ロンドンの人気スポットとなり、オスカー・ワイルド(Oscar Wilde:1854年ー1900年 / 代表作:「サロメ」や「ドリアン・グレイの肖像(The Picture of Dorian Gray → 2022年9月18日 / 10月8日付ブログで紹介済)」)、ヴァージニア・ウルフ(Virginia Wolf:1882年ー1941年 / 代表作:「ダロウェイ夫人」、「灯台」、「オーランドー」や「波」)、デイヴィッド・ハーバート・ローレンス(David Herbert Lawrence:1885年ー1930年 / 代表作:「チャタレイ夫人の恋人」や「息子と恋人」)やジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw:1856年ー1950年 / 代表作:「ピグマリオン」や「ウォレン夫人の職業」)等、英国を代表する作家達が多数つめかけた。

大改装のため、カフェロイヤルは2008年12月に一旦閉鎖され、約4年間の改装工事を経て、2012年12月に5つ星ホテルに新しく生まれ変わり、現在に至っている。



リージェントストリートとグラスハウスストリートを繋ぐ
エアーストリート沿いにあるホテルの玄関口


現在のカフェロイヤルの場合、


(1)リージェントストリート側:カフェの入口

(2)エアーストリート(Air Street):ホテルの入口

(3)グラスハウスストリート(Glasshouse Street):バーの入口


がある。



現在、カフェロイヤルの裏口は、バーの入り口になっており、
ホームズを襲撃した二人組の暴漢は、ここからグラスハウスストリートへと抜け出て、
何処かへ逃走したのである。-
左奥へと延びる通りがグラスハウスストリートで、
右斜め奥へと延びる通りがエアーストリート。

ホームズを襲撃した二人組の暴漢(アデルバート・グルーナー男爵が放ったと思われる)は、カフェロイヤルの中を通り、裏のグラスハウスストリートへ抜け出た後、逃走している。

従って、現在のカフェロイヤルの場合、グラスハウスストリート側に面したバーの入口から、彼らは逃走したことになる。


グラスハウスストリートとエアーストリートが交差した地点から、
グラスハウスストリート沿いの建物外壁を見上げたところ(その1)

グラスハウスストリートは、ロンドン中心部のシティー・オブ・ウェストミンスター(City of Westminster)区内のリージェントストリートの北側に所在する通り(約240m)で、リージェントストリートとピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)を結んでいる。


グラスハウスストリートとエアーストリートが交差した地点から、
グラスハウスストリート沿いの建物外壁を見上げたところ(その2)

グラスハウスストリートは、ガラス工業の店が多数この通り沿いにあったことから、この名前が付けられたものと思われる。


2025年7月9日水曜日

サー・ジョン・ソーン(Sir John Shane)- その3

サー・ジョン・ソーンズ博物館内に所蔵 / 展示されている
サー・ジョン・ソーンの肖像画(その1)

後に英国の新古典主義を代表する建築家となるサー・ジョン・ソーン(Sir John Soane:1753年ー1837年)は、1788年10月16日に、英国の建築家 / 彫刻家であるサー・ロバート・テイラー(Sir Robert Taylor:1714年ー1788年)の後を継いで、イングランド銀行(Bank of England → 2015年6月21日 / 6月28日付ブログで紹介済)の建築家に就任し、その後、1833年まで45年間にわたり、その任を務めた。


イングランド銀行の建物正面


1788年から1833年までの45年間、(サー・)ジョン・ソーンは、イングランド銀行にかかる様々な改修工事を行ったが、その後、イングランド銀行が敷地を拡張する過程で、英国の建築家であるハーバート・ベイカー(Herbert Baker:1862年ー1946年)によって、(サー・)ジョン・ソーンが設計したオリジナル部分はほとんど失われてしまい、「シティーにおける20世紀最大の建築上の罪(the greatest architectural crime, in the City of London, of the twentieth century)」と言われている。


イングランド銀行裏手(ロスベリー通り(Lothbury)沿い)の外壁に設置されている
サー・ジョン・ソーン像


その代わり、イングランド銀行の裏手ではあるが、ロスベリー通り(Lothbury)に面した建物の外壁内に、サー・ジョン・ソーンの像が彼の栄誉を称えるために設置されている。


イングランド銀行の他に、サー・ジョン・ソーンの主要な作品として、


(1)サー・ジョン・ソーンズ博物館(Sir John Soane’s Museum / 住所: 12 - 14 Lincoln’s Inn Fields, London WC2A 3BP → 2025年5月22日 / 5月30日 / 6月3日 / 6月13日付ブログで紹介済):サー・ジョン・ソーンの自邸


リンカーンズ・イン・フィールズ12番地の建物 -
サー・ジョン・ソーンズ博物館の一棟


リンカーンズ・イン・フィールズ13番地の建物 -
サー・ジョン・ソーンズ博物館の一棟


リンカーンズ・イン・フィールズ14番地の建物 -
サー・ジョン・ソーンズ博物館の一棟


(2)ピッツハンガーマナー(Pitzhanger Manor):ロンドンの西部イーリング地区(Ealing)のウォルポールパーク(Walpole Park)内に所在するマナーハウスで、サー・ジョン・ソーンの自邸


(3)ダリッジピクチャーギャラリー(Dulwich Picture Gallery):テムズ河(River Thames)の南岸のブリクストン(Brixton)とペッカム(Peckham)の間にあるダリッジヴィレッジ(Dulwich Village)内に所在する美術館


ピッツハンガーマナーとダリッジピクチャーギャラリーについては、後々紹介したい。


サー・ジョン・ソーンは、1806年に王立芸術院(Royal Academy of Arts)の教授となり、1831年にはナイトの称号(knighthood)を得ている。


上記の通り、サー・ジョン・ソーンは、建築家として、大きな成功を収めたが、プライベート面において、子供達が彼の意に沿わないと言う問題を抱えていた。


サー・ジョン・ソーンは、1784年8月21日に、エリザベス・スミス(Elizabeth Smith:1760年ー1815年 / 通称:エリザ(Eliza))と結婚し、以下の通り、4人の息子が生まれた。


*長男:ジョン(John)- 1786年4月29日に出生。

*次男:ジョージ(George)- 1787年のクリスマス前に出生するも、6ヶ月後に死亡。

*三男:ジョージ(George)- 1789年9月28日に出生。

*四男:ヘンリー(Henry)- 1790年10月10日に出生するも、翌年に死亡。


サー・ジョン・ソーンズ博物館内に所蔵 / 展示されている
「サー・ジョン・ソーンの長男ジョン(右側の人物)と
三男ジョージ(左側の人物)の肖像画」で、
英国の肖像画家であるウィリアム・オーウェン(William Owen:1769年ー1825年)が、
1804年に制作。


サー・ジョン・ソーンとしては、長男のジョンと三男のジョージの両方、あるいは、どちらかが自分の後を継いで、建築家になることを望んでいたが、残念ながら、長男のジョンも、三男のジョージも、建築には全く興味を示さなかった。

長男のジョンは、怠惰な上に、病気がちで、1811年にマーゲイト(Margate)へ療養に出かけた際、そこで知り合った女性(マリア・プレストン(Maria Preston))と同年6月に結婚。サー・ジョン・ソーンは、渋々、ジョンの結婚を承諾するしかなかった。

また、三男のジョージは、ケンブリッジ大学(Cambridge University)で法律を学んでいたが、親交を結んだジャーナリストのジェイムズ・ボーデン(James Boaden:1762年ー1839年)の娘アグネス(Agnes)と、両親への事前の連絡なしに、同年7月に結婚。1814年9月、ジョージとアグネスの間に、双子が生まれたが、片方が出生後まもなくして亡くなった。

更に、ジョージは、1814年11月、負債と詐欺の容疑で投獄され、1815年1月、サー・ジョン・ソーンの妻エリザが、ジョージを保釈させるために、彼の負債と被害者への支払を肩代わりした。


三男のジョージの投獄による恥辱と心労のためか、サー・ジョン・ソーンの妻エリザは、1815年11月22日になくなってしまう。


三男のジョージは、保釈されたものの、妻アグネスと子供に対する家庭内暴力を続ける他、妻アグネスの妹との間にも、子供を設ける等、サー・ジョン・ソーンの面目を潰すことばかりを行った。


また、長男のジョンは、1823年10月21日に死去。


サー・ジョン・ソーンズ博物館内に所蔵 / 展示されている
サー・ジョン・ソーンの肖像画(その2)


サー・ジョン・ソーンは、自分の死に際して、博物館の創設のために、自邸のリンカーンズ・イン・フィールズ12番地 / 13番地の建物を国家に寄贈することを決めた。

三男のジョージは、これが認められると、自分が父親の遺産を相続できなくなることを恐れ、裁判所に訴えたが、成功しなかった。


サー・ジョン・ソーンが埋葬されているセントパンクラス オールド教会は、
サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル
(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)作
シャーロック・ホームズシリーズの短編第3作目に該る
「花婿失踪事件(A Case of Identity)」にも登場する。

サー・ジョン・ソーンは、1837年1月20日に亡くなり、セントパンクラス オールド教会(St. Pancras Old Church → 2014年10月11日付ブログで紹介済)に埋葬された。


2025年7月8日火曜日

ロンドン ポーツマスストリート21番地(21 Portsmouth Street)

リンカーンズ・イン・フィールズ側から
ポーツマスストリートを見たところ(その1)-
画面奥を左右に横切る通りは、ポルトガルストリート。

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1935年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)が登場するシリーズ第5作目に該る「死時計(Death-Watch → 2025年4月30日 / 5月4日付ブログで紹介済)」の場合、9月4日、風が吹くひんやりした夜の12時近く、ギディオン・フェル博士とメルスン教授(Professor Melson - 歴史学者で、ギディオン・フェル博士の友人)が、ホルボーン通り(Holborn → 2025年5月6日付ブログで紹介済)を歩いていところから、その物語が始まる。


ホルボーン通りの東端(ホルボーン通りは、ここから右手(西方面)へと向かって延びている)- 
ホルボーンサーカス内に建つのは、アルバート公(Albert, Prince Consort)のブロンズ像 。

アルバート公は、ヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年―1901年
在位期間:1837年ー1901年)の夫君である。
ホルボーンサーカスの南西の角に建つビル(画面奥の建物)には、
スーパーマーケットを全国的に展開しているセインズベリーズ(Sainsbury's)の本社が入居している。


ホルボーン通りの西端(ホルボーン通りは、左手(東方面)からここまで延びている)-
ここがシティー・オブ・ロンドンの北西の境界線に該り、
この交差点を過ぎると、ハイホルボーン通りとなり、
ロンドンの特別区の一つであるロンドン・カムデン区ホルボーン地区内へ入る。


2人は、劇場で映画を観た帰りで、メルスン教授が宿泊する予定のリンカーンズ・イン・フィールズ(Lincoln’s Inn Fileds → 2016年7月3日付ブログで紹介済)へと向かっていた。メルスン教授は、当初、ブルームズベリー地区(Bloomsbury)に宿泊しようとしたが、生憎と、どこも満員だったため、居心地が悪そうではあったものの、リンカーンズ・イン・フィールズ15番地(15 Lincoln’s Inn Fields → 2025年6月17日付ブログで紹介済)に寝室兼居間を見つけていた。

その日の午後、メルスン教授は、フォイルズ書店(Foyles → 2025年5月7日 / 5月9日付ブログで紹介済)において、中世ラテン語の写本辞書を見つけており、これは正真正銘の掘り出し物のため、ギディオン・フェル博士は、メルスン教授の宿でそれを見せてもらおうと考えていたのである。


現在、チャリングクロスロード107番地(107 Charing Cross Road)に所在する
フォイルズ書店(本店)の外観


リンカーンズ・イン・フィールズ15番地へ向かう途中、ギディオン・フェル博士から、


(1)1週間程前にガムリッジデパートの貴金属宝石売場において発生した事件(女性の万引き犯による売場監督の殺害+懐中時計の盗難)のこと


(2)万引き犯の女性がガムリッジデパートの貴金属宝石売場から盗んだ懐中時計は、有名な時計師(clockmaker)であるジョハナス・カーヴァー(Johannus Carver)が所蔵していたものであること / ガムリッジデパートは、ギルドホールアートギャラリー (Guildhall Art Gallery → 2025年5月13日付ブログで紹介済)からも借り出していたこと


(3)時計師のジョハナス・カーヴァーは、リンカーンズ・イン・フィールズ16番地(16 Lincoln’s Inn Fields → 2025年6月22日付ブログで紹介済)に住んでおり、それは、メルスン教授の宿であるリンカーンズ・イン・フィールズ15番地の隣りの建物であること


を知らされたメルスン教授は、言葉を失う。


ギルドホールアートギャラリーの建物正面外壁


我に戻ったメルスン教授は、ギディオン・フェル博士に対して、今朝の出来事を話し出す。

メルスン教授は、朝食後の午前9時頃、外へ出ると、ベンチに腰かけて、タバコをふかしていた。

すると、ジョハナス・カーヴァーの家のドアが開いて、家政婦のミセス・ゴースンが怖い顔をして階段を降りて来ると、舗道を歩いて来た警官に対して、泥棒に押し入れられたと訴えた。

ミセス・ゴースンによると、ジョハナス・カーヴァーは、個人的な知り合いである貴族からの依頼を受けて、田舎の本邸の塔にはめ込む大時計を製作している最中、とのこと。昨夜、その時計が漸く出来上がったので、ジョハナス・カーヴァーが塗料を塗り、乾かすために、奥の部屋に置いたのだが、何者かが家に押し入り、その時計の針を外して、盗み去ったのである。

後から、ジョハナス・カーヴァーの養女であるエリナー・カーヴァー(Eleanor Carver)が出て来た。そして、「多分、悪戯だろう。」と言って、ミセス・ゴースンを宥めると、エリナー・カーヴァーは彼女を連れて、家の中へ戻って行った。なお、ジョハナス・カーヴァー本人は、姿を見せなかった。


リンカーンズ・イン・フィールズ内の広場 


ギディオン・フェル博士とメルスン教授の2人は、リンカーンズ・イン・フィールズの北側へ出た。


リンカーンズ・イン・フィールズ12番地の建物 -
サー・ジョン・ソーンズ博物館の一棟


リンカーンズ・イン・フィールズ13番地の建物 -
サー・ジョン・ソーンズ博物館の一棟


リンカーンズ・イン・フィールズ14番地の建物 -
サー・ジョン・ソーンズ博物館の一棟


2人がサー・ジョン・ソーン博物館(Sir John Soane’s Museum - 現在の住所:リンカーンズ・イン・フィールズ12-14番地 / 12 - 14 Linclon’s Inn Fields → 2025年5月22日 / 5月30日 / 6月3日 / 6月13日付ブログで紹介済)の手前まで歩いて来ると、その隣りは、メルスン教授の宿であるリンカーンズ・イン・フィールズ15番地で、更にその向こうは、時計師のジョハナス・カーヴァーの家であるリンカーンズ・イン・フィールズ16番地だった。


左側から、リンカーンズ・イン・フィールズ12番地 / 13番地 / 14番地
(サー・ジョン・ソーンズ博物館)、
リンカーンズ・イン・フィールズ15番地(メルスン教授の宿泊先)、そして、
リンカーンズ・イン・フィールズ16番地(時計師であるジョハナス・カーヴァーの住居)。


その時、ギディオン・フェル博士が、ジョハナス・カーヴァーの家の玄関のドアが空いているのに気付いた。また、メルスン教授は、家の真ん前の木の下に、ひときわ黒い影を見てとった。問題の家から呻き叫ぶ声が聞こえると、木の下の人影がその場を離れると、家の玄関前の石段を上がって行った。その人物の頭に、警官のヘルメットが黒く浮かび上がるのを見て、メルスン教授は思わずホッとした。


日本の出版社である東京創元社から創元推理文庫として出版された
ジョン・ディクスン・カー作「死時計」の裏表紙
カバーイラスト:山田 維史

現在のリンカーンズ・イン・フィールズ16番地の建物には、
ジョン・ディクスン・カー作「死時計」の裏表紙に描かれたような
地面から家の玄関までの長めの石段は存在していない。
また、リンカーンズ・イン・フィールズ16番地の場所として、
リンカーンズ・イン・フィールズの北西(左上)の角に
① が表示されているが、
実際には、もっと右側の位置、
リンカーンズ・イン・フィールズの北側の真ん中辺りが正しい。


ギディオン・フェル博士が、その警官に追い付くと、彼は、スコットランドヤードのディヴィッド・ハドリー主任警部(Chief Inspector David Hadley)の部下であるピアスだった。

ギディオン・フェル博士、メルスン教授とピアス警官の3人が、ジョハナス・カーヴァーの家の玄関ホールに入ると、奥に一続きの階段があり、2階から射している明かりが階段下まで届いていた。3人が階段を上がり、2階の奥にある両開きのドアへと向かった。


リンカーンズ・イン・フィールズ側から
ポーツマスストリートを見たところ(その2)-
画面左斜め奥へ延びる通りが、ポーツマスストリート。

その部屋では、2人の人間が入口の敷居を見つめており、もう一人は椅子に座って両手で頭をかかえていた。更に、その敷居のところには、一人の男が右脇をやや下にして仰向けに倒れていた。

最初の2人は、ジョハナス・カーヴァーの養女であるエリナー・カーヴァーとカーヴァー家の同居人であるカルヴィン・ボスコーム(Calvin Boscombe)で、カルヴィン・ボスコームは手にピストルを持っていた。

椅子に座って両手で頭をかかえていたのは、カルヴィン・ボスコームの友人で、スコットランドヤード犯罪捜査部(CID)の元主任警部(former Chief Inspector)であるピーター・E・スタンリー(Peter E. Stanley)だった。



そして、敷居のところに倒れていた男は、ピストルで撃たれた訳ではなく、背後から喉を貫き、胸の中へ突き刺されて殺されていた。被害者の体から突き出ている凶器を見たギディオン・フェル博士は、ジョハナス・カーヴァーがある貴族のために製作していた大時計から盗まれた長針だと推測する。

更に、驚くことに、後に判明した被害者の身元は、なんと、ガムリッジデパートの貴金属宝石売場において発生した事件を担当していたジョージ・フィンリー・エイムズ警部(Detecive-Inspector George Finley Ames)だったのである。

非常に不可思議な事件だと言えた。


ヴィクトリア朝を代表する英国の小説家である
チャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens:1812年ー1870年)が
発表した「骨董屋(The Old Curiosity Shop)」(1840年ー1841年)に登場する店舗
(住所: 13 -14 Portsmouth Street, London WC2A 2ES)-
この店舗は、本屋、アンティークショップや靴屋等を経て、現在に至っている。


事件発生を受けて、スコットランドヤードのディヴィッド・ハドリー主任警部は、ギディオン・フェル博士に対して、ジョージ・フィンリー・エイムズ警部の報告書のことを話した。


チャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズが発表した
「骨董屋(The Old Curiosity Shop)」(1840年ー1841年)に登場する店舗は、
現在、
「ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス」によって保存されている。-
右奥に見えるビルに、
「ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス」は入居中。

「まったくツイてませんな。あとひと月足らずで引退という今になって、こんな事件が起こるとはね! - ええっと、どこまで読みましたっけ? 長いもんじゃないんですがね」


九月一日付報告の件を追及した結果、去る八月二十七日ガムリッジ・デパートにて売場監督エヴァン・トマス・マンダースを殺害した女は、リンカンズ・イン・フィールズ十六番地に居住しているものと思われ、その決定的証拠をつかめるものと信ずるに至った。九月一日付報告書に指摘したように、入手した匿名の情報を確認するため -


「きみはもっているのかい、その九月一日付報告書というのを?」

「ええ。でも、ちょっと待ってください」


- 本館は酒に目のない時計師くずれになりすまし、居酒屋<ポーツマス女公>の隣、リンカンズ・イン・フィールズ、ポーツマス街二十一番地に一室を間借りした。この居酒屋の特別室には、リンカンズ・イン・フィールズ十六番地に居住する男たちの全て、並びに女のうちの一人が現れ、一般室には他の二人がやってくる -

(吉田 誠一訳)


ポルトガルストリート側から
ポーツマスストリートを見たところ(その1)-
画面奥に見えるの、リンカーンズ・イン・フィールズ

ガムリッジデパートの貴金属宝石売場において発生した売場監督エヴァン・トマス・マンダース殺害事件を捜査するジョージ・フィンリー・エイムズ警部が間借りしたポーツマスストリート(Portsmouth Street)は、リンカーンズ・イン・フィールズの南西の角から南へと延びる実在の通りである。


ポルトガルストリート側から
ポーツマスストリートを見たところ(その2)

リンカーンズ・イン・フィールズ内の公園、また、リンカーンズ・イン・フィールズの東側、北側と西側は、ロンドンの特別区の一つであるロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)に属しているが、リンカーンズ・イン・フィールズの南側は、ロンドンの中心部であるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)に属しているため、リンカーンズ・イン・フィールズの南西の角から南へと延びるポーツマスストリートも、ぎりぎりシティー・オブ・ウェストミンスター区内に所在している。


ポーツマスストリートは、非常に短い通りで、北側はリンカーンズ・イン・フィールズの南西の角から始まり、南側はポルトガルストリート(Portugal Street)に突き当たって終わっている。


ポルトガルストリート側から
ポーツマスストリートを見たところ(その3)

ジョージ・フィンリー・エイムズ警部が間借りしたポーツマスストリート21番地、また、隣りのパブ「ポーツマス公爵夫人(Duchess of Portsmouth)」については、作者のジョン・ディクスン・カーが「死時計」を執筆した当時(1935年)、実在したのかもしれないが、近年、ポーツマスストリートやポルトガルストリート等を含む一帯が再開発された後、多くの建物が「ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(The London School of Economics and Political Science / LSE - 社会科学に特化した世界的に有名な大学)」によって使用されている関係上、現在は存在していない。


2025年7月7日月曜日

コナン・ドイル作「高名な依頼人」<小説版>(The Illustrious Client by Conan Doyle )- その5

英国で出版された「ストランドマガジン」
1925年2月号 / 3月号に掲載された挿絵(その5)-
本業の医師の仕事で外出していたジョン・H・ワトスンは、
チャリングクロス駅の近くで、

夕刊紙の売り子が持つ新聞の見出し

「シャーロック・ホームズ氏が暴漢の襲撃に遭う!を見て、

暫し呆然と立ち尽くすのであった。

挿絵:ハワード・ケッピー・エルコック
(Howard Keppie Elcock:1886年ー1952年)


1902年9月4日の午後5時半に、シャーロック・ホームズは、ロンドンの裏社会に通じた情報屋で、ホームズの協力者であるシンウェル・ジョンスン(Shinwell Johnson)から紹介されたキティー・ウィンター(Kitty Winter - オーストリアの貴族であるアデルバート・グルーナー男爵(Baron Adelbert Gruner)の元愛人で、被害者)を連れて、ド・メルヴィル将軍(General de Merville)とヴァイオレット・ド・メルヴィル(Violet de Merville)嬢が住むバークリースクエア104番地(104 Berkeley Square → 2014年11月29日付ブログで紹介済)を訪問した。


バークリースクエアの中心は、
バークリースクエアガーデンズ(Berkeley Square Gardens)と呼ばれる
大きな公園になっている。


しかしながら、ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢は、ホームズによる説得、そして、キティー・ウィンターによる暴露にも、全く聞く耳を持たず、アデルバート・グルーナー男爵に対する妻殺害疑惑を濡れ衣だと思い込んでいる彼女の態度は非常に頑なで、残念ながら、アデルバート・グルーナー男爵との結婚を思いとどませることは、不調に終わった。


ローストビーフが有名なシンプソンズ


その日の夜、ストランド通り(Strand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)のレストラン(シンプソンズだと思われる)において、本業の医師の仕事を終えたジョン・H・ワトスンと一緒に食事をしたホームズは、ワトスンに対して、「こちらが次の一手(を指す前に、向こうが次の一手を打ってくる可能性がありうる。(it is possible that the next move may lie with them rather than with us.)」と告げる。


ストランド通りに面しているチャリングクロス駅の正面


2日後の夕方、ホームズの読みは、悪い方に的中した。

ワトスンが、グランドホテル(Grand Hotel)とチャリングクロス駅(Charing Cross Station → 2014年9月20日付ブログで紹介済)の間で、夕刊紙の売り子が持つ新聞見出しを見て、暫し呆然と立ち尽くす。そこには、黄色の地に黒色の文字で、次のように書かれていた。


「シャーロック・ホームズ氏が暴漢の襲撃に遭う!(Murderous Attack upon Sherlock Holmes)」と...


英国で出版された「ストランドマガジン」
1925年2月号 / 3月号に掲載された挿絵(その6)-
1902年9月6日の昼の12時頃、
カフェロイヤル前のリージェントストリートの路上において、
アデルバート・グルーナー男爵が放った二人組の暴漢に襲撃される。
ホームズは、ステッキで応戦するものの、
頭部と身体に大怪我を負ってしまう。

挿絵:ハワード・ケッピー・エルコック
(1886年ー1952年)


新聞によると、今日の昼の12時頃、カフェロイヤル(Cafe Royal → 2014年11月30日付ブログで紹介済)の外のリージェントストリート(Regent Street)の路上において、ホームズは、ステッキを持った二人組の暴漢に襲われたのだった。


リージェントストリート沿いの
カフェロイヤルの入口 -
大改装のため、カフェ・ロイヤルは2008年12月に一旦閉鎖され、
約4年間の改装工事を経て、
2012年12月に5つ星ホテルとして新しく生まれ変わり、現在に至っている。


ホームズを襲撃した二人組の暴漢は、カフェロイヤルの中を通り、裏のグラスハウスストリート(Glasshouse Street)へ抜け出ると、周囲の人達の目をかわして逃走した模様。



グラスハウスストリートに面した
カフェロイヤルの裏口

カフェロイヤル前のリージェントストリートにおいて、
シャーロック・ホームズを襲撃した
アデルバート・グルーナー男爵の手下達が逃走した先の
グラスハウスストリー


二人組の暴漢にステッキで打たれて、頭部と身体に大怪我を負ったホームズは、チャリングクロス病院(Charing Cross Hospital → 2014年12月6日付ブログで紹介済)へ搬送されたものの、自宅であるベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)へ運ぶよう、主張した、とのこと。


チャリングクロス病院の建物は、現在、
チャリングクロス警察署(Charing Cross Police Station)として使用されている。


新聞記事に目を通すや否や、ワトスンは、馬車に飛び乗って、ベイカーストリート221B へと向かうのであった。