2018年12月16日日曜日

ジョーゼフ・ラドヤード・キップリング(Joseph Rudyard Kipling)–その1

1889年から1891年にかけて、
英国の小説家 / 詩人ジョーゼフ・ラドヤード・キップリングが住んでいた
ヴィリアーズストリート43番地の建物(その1

ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のチャリングクロス地区(Charing Cross)内に所在するヴィリアーズストリート43番地(43 Villiers Street→2018年12月8日付ブログで紹介済)に住んでいたジョーゼフ・ラドヤード・キップリング(Joseph Rudyard Kipling:1865年ー1936年)は、英国の小説家 / 詩人である。

ジョーゼフ・ラドヤード・キップリングは、1865年12月30日に英国領インドのボンベイ(現在のムンバイ)に出生する。父親のジョン・ロックウッド・キップリングは彫刻家 / 陶器デザイナーで、ボンベイに設立された芸術・産業学校に建築彫刻の教授として勤めていた。両親は、2年前に彼らが出会った英国スタッフォードシャー州(Staffordshire)のラドヤード湖(Lake Rudyard)の美しさに因んで、生まれた息子にラドヤードと名付けた、とのこと。
キップリングの両親は、自分達を英国陣ではなく、「アングロ・インディアン(Anglo Indian→英国で生まれ、インドで暮らした人々、あるいは、英国人とインド人の混血児のこと)」と考えるようになり、息子にも、英国人として、そして、インド人としても、一人前の人間になるように教育した。まずヒンディー語で考え、それを英語に翻訳しながら話す生活は、インド生まれで英語を知らない彼に大きな苦痛をもたらした。こうしたアイデンティティーの複雑な問題が、後に彼の作品を特徴付けるようになる。

1889年から1891年にかけて、
英国の小説家 / 詩人ジョーゼフ・ラドヤード・キップリングが住んでいた
ヴィリアーズストリート43番地の建物(その2)

彼が6歳になると、2歳下の妹と一緒に、英国ポーツマス(Portsmouth→2016年9月17日付ブログで紹介済)近郊のサウスシー(Southsea)に住む知人のホロウェイ夫妻に預けられ、彼らの屋敷で6年間を過ごす。この時期、彼はホロウェイ夫人から虐待と無視を受けたようで、彼は父親から送られた物語を読むことに逃げ込み、それが彼の文学人生を決定づけたものと思われる。一方、彼の妹の方は、ホロウェイ夫人から自分の息子との結婚を望まれる程に気に入られた、とのこと。
1878年、彼はデヴォン州(Devon)にある軍人の子弟のために設立された全寮制の学校ユナイテッド・サービス・カレッジ(United Services College)に入学し、そこで英国、フランスやロシアの文学を愛読するとともに、学友会雑誌の編集部員を務めた。同カレッジを卒業した後、彼の両親は彼をオックスフォード大学(Oxford University→2015年11月21日付ブログで紹介済)へ進学させたがったが、学費の工面ができなかったこと、それに加えて、彼の学力が奨学金を得られる程ではなかったことから、諦めざるを得なかった。そこで、彼の父親は、自身が校長を務める美術学校と館長を務める博物館がある都市ラホール(現パキスタン)にある小さな地方新聞「シビル&ミリタリーガゼット」紙の編集助手としての仕事を彼のために探し出した。

1882年9月、まだ16歳のジョーゼフ・ラドヤード・キップリングは、英国からインドへ向けて出発し、同年10月に自分が生まれたボンベイに到着した。そして、数日かけて、汽車でボンベイからラホールへと移動した。
彼は、「シビル&ミリタリーガゼット」紙の編集助手として働くとともに、詩を書いて掲載。1886年、最初の詩集を刊行する。その後、新しい編集者から彼は短編小説の寄稿を依頼され、1886年11月から1887年6月までの間に、39作の小説を発表する。

その後、より広い文筆活動の場を求めた彼は、1889年3月にインドを離れ、シンガポール、香港、日本、米国やカナダ、そして、再度米国を巡り、同年10月、英国のリヴァプールに到着したのである。

2018年12月9日日曜日

ロンドン ヴィクトリアエンバンクメント通り(Victoria Embankment)

ヴィクトリアエンバンクメント通り沿いに建つ
シティー・オブ・ロンドンと
シティー・オブ・ウェストミンスター区の境界線
→ 画面奥がシティー・オブ・ロンドン

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1934年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第4作目に該る「盲目の理髪師(The Blind Barber)」では、大西洋を横断して、米国のニューヨークから英国のサウサンプトン(Southampton)へと向かう外洋航路船クイーンヴィクトリア号(ocean liner Queen Victoria)上において、(1)米国人の外交官であるカーティス・G・ウォーレン(Curtis G. Warren)が携帯していた政治的失脚や国際問題にまで発展しかねない恐れがあるフィルムと(2)スタートン子爵が所有するエメラルドの象のペンダントの盗難事件が発生する。それらに加えて、(3)瀕死の女性がある船室から突然姿を消す事件も起きる。錯綜する事件の謎に頭を痛めた英国人の探偵小説家であるヘンリー・モーガン(Henry Morgan)は、「剣の八(The Eight of Swords)」事件で知り合ったギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)に助けを求めるべく、サウサンプトンに入港したクイーンヴィクトリア号からいち早く下船して、ギディオン・フェル博士が住むロンドンへと急ぐ。原作上、ギディオン・フェル博士は、テムズ河(River Thames)に近いアデルフィテラス1番地(1 Adelphi Terrace→2018年11月25日付ブログで紹介済)に住んでいるという設定になっており、アデルフィテラスからは、テムズ河の他に、ヴィクトリアエンバンクメント通り(Victoria Embankment)を眼下に望むことができる。

ウォータールー橋の下を潜るヴィクトリアエンバンクメント通り

ヴィクトリアエンバンクメント通りは、テムズ河の北岸に建設されたヴィクトリアエンバンクメントと呼ばれる堤防に沿って延びる通りで、西側はウェストミンスター橋(Westminster Bridge)から始まり、チャリングクロス駅(Charing Cross Station→2014年9月20日付ブログで紹介済)を出入りする鉄道用の橋であるハンガーフォード橋(Hungerford Bridge)とその両側にある歩行者用の橋であるゴールデンジュビリー橋(Golden Jubilee Bridge)の下を通り、左手に見えるヴィクトリアエンバンクメントガーデンズ(Victoria Embankment Gardens→2018年12月2日付ブログで紹介済)を過ぎ、ウォータールー橋(Waterloo Bridge→2014年10月24日付ブログで紹介済)の下を潜り、そして、ブラックフライアーズ橋(Blackfriars Bridge)まで至っている。

ヴィクトリアエンバンクメント通り沿いに建つ
サマセットハウス(Somerset House)

ヴィクトリアエンバンクメント通りを下で支える堤防であるヴィクトリアエンバンクメントは、1865年から1870年にかけて、英国の土木技師で、公共事業庁(Metropolitan Board of Works)の主任技術者だったサー・ジョーゼフ・ウィリアム・バザルゲット(Sir Joseph William Bazalgette:1819年ー1891年)によって、ウェストミンスター橋とブラックフライアーズ橋に挟まれたテムズ河北岸に建設された。
ヴィクトリアエンバンクメントが建設されたのは、ロンドンに近代的な下水処理設備を導入するためで、ヴィクトリアエンバンクメント通りが敷設されたのは、北側に延びるストランド通り(Strand→2015年3月29日付ブログで紹介済)やフリートストリート(Fleet Street→2014年9月21日付ブログで紹介済)における交通渋滞を解消するためである。

サマセットハウスの外壁(その1)

サマセットハウスの外壁(その2)

ヴィクトリアエンバンクメント建設工事の他に、当時、アルバートエンバンクメント<Albert Embankmentーランベス橋(Lambeth Bridge→2018年2月4日付ブログで紹介済)とヴォクスフォール橋(Vauxhall Bridge→2017年9月16日付ブログで紹介済)に挟まれたテムズ南岸の堤防>とチェルシーエンバンクメント<Chelsea Embankmentーチェルシー橋(Chelsea Bridge)とバタシー橋(Battersea Bridge)に挟まれたテムズ河北岸の堤防>の2つが建設され、サー・ジョーゼフ・ウィリアム・バザルゲットは、総計で 1,800 ㎞ にも及ぶ下水道を敷いたことにより、ロンドン内の公衆衛生問題を解決したため、「ロンドン下水道の父」と呼ばれている。

英国の技師である
イザムバード・キングダム・ブルネル
(Isambard Kingdom Brunel:1806年ー1859年)の
ブロンズ像

イザムバード・キングダム・ブルネルは、
パディントン駅(Paddington Station)を初めとするグレイトウェスタン鉄道の施設や車輌等を設計した

ヴィクトリアエンバンクメント通りは、1878年12月に英国で最初にガス灯から電気灯へと切り替えられたが、電気灯では効率が良くないとの理由で、1884年6月にガス灯が再度導入されている。



テムズ河北岸沿いに延びるヴィクトリアエンバンクメント通りの北側には、以下の地下鉄の駅が並んでおり、サークルライン(Circle Line)とディストリクトライン(District Line)が通っている。
(1)地下鉄ウェストミンスター駅(Westminster Tube Station)
(2)地下鉄エンバンクメント駅(Embankment Tube Station)
(3)地下鉄テンプル駅(Temple Tube Station)
(4)地下鉄ブラックフライアーズ駅(Blackfriars Tube Station)

2018年12月8日土曜日

ロンドン ヴィリアーズストリート43番地(43 Villiers Street)

ジョーゼフ・ラドヤード・キップリングが住んでいた
ヴィリアーズストリート43番地

ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のチャリングクロス地区(Charing Cross)内に所在するヴィクトリアエンバンクメントガーデンズ(Victoria Embankment Gardens→2018年12月2日付ブログで紹介済)を囲む西側の通りヴィリアーズストリート(Villiers Street)沿いに、小説「ジャングルブック」や「少年キム」等の作品で有名で、1907年にノーベル文学賞を41歳の史上最年少の若さで受賞した英国の小説家 / 詩人であるジョーゼフ・ラドヤード・キップリング(Joseph Rudyard Kipling:1865年ー1936年)が住んでいた家が建っている。


トラファルガースクエア(Trafalgar Square)からシティー・オブ・ロンドン(City of London→2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)方面へ向かって東に延びるストランド通り(Strand→2015年3月29日付ブログで紹介済)を右折して、地下鉄エンバンクメント駅(Embankment Tube Station)へ向かって南下するヴィリアーズストリートを進むと、進行方向左手にあるヴィクトリアエンバンクメントガーデンズ手前の43番地(43 Villiers Street)の建物が、それである。

ヴィリアーズストリート43番地の建物は、
現在、「キップリングハウス」というフラットになっている

インドのラホールにある「シビル&ミリタリーガゼット」紙で編集助手として働くとともに、同紙に短編小説や詩を寄稿していたジョーゼフ・ラドヤード・キップリングは、より良い文筆活動の場を求めて、1889年3月にインドを離れ、シンガポール、香港、日本、米国やカナダ、そして、再度米国を巡り、同年10月、英国のリヴァプールに到着。オリエンタリズムやジャポニズム等の異国文化が当時流行していたロンドンの文学界でデビューした後、彼はたちまち人気を博して有名になった。その後、2年間、様々な編集者に作品を売ったが、階級社会に息苦しさを感じていた彼は、神経衰弱を患ったため、医者の助言に従い、1891年に療養旅行に出かけ、南アフリカ、オーストラリアやニュージーランドを巡った後、出生地のインドを再訪する。
つまり、ジョーゼフ・ラドヤード・キップリングは、この2年間(1889年ー1891年)、ヴィリアーズストリート43番地に住んでいた訳である。

「ジョーゼフ・ラドヤード・キップリングが、1889年から1891年にかけて、
ここに住んでいた」ことを示すブループラークが、
1階の外壁に掛けられている

ジョーゼフ・ラドヤード・キップリングが住んでいたヴィリアーズストリート43番地の建物は、現在、「キップリングハウス(Kipling House)」という名前のフラットになっており、地上階(Ground Floor)にはカフェ等の商業店舗が営業している。1階(1st Floor)の外壁には、ジョーゼフ・キップリングが、1889年から1891年にかけて、ここに住んでいたことを示すロンドンカウンティーカウンシル(London County Council)が管理するブループラークが掛けられている。


2018年12月2日日曜日

ロンドン ヴィクトリアエンバンクメントガーデンズ(Victoria Embankment Gardens)

ヴィクトリアエンバンクメントガーデンズ内の植栽(その1

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1934年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第4作目に該る「盲目の理髪師(The Blind Barber)」では、大西洋を横断して、米国のニューヨークから英国のサウサンプトン(Southampton)へと向かう外洋航路船クイーンヴィクトリア号(ocean liner Queen Victoria)上において、(1)米国人の外交官であるカーティス・G・ウォーレン(Curtis G. Warren)が携帯していた政治的失脚や国際問題にまで発展しかねない恐れがあるフィルムと(2)スタートン子爵が所有するエメラルドの象のペンダントの盗難事件が発生する。それらに加えて、(3)瀕死の女性がある船室から突然姿を消す事件も起きる。錯綜する事件の謎に頭を痛めた英国人の探偵小説家であるヘンリー・モーガン(Henry Morgan)は、「剣の八(The Eight of Swords)」事件で知り合ったギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)に助けを求めるべく、サウサンプトンに入港したクイーンヴィクトリア号からいち早く下船して、ギディオン・フェル博士が住むロンドンへと急ぐ。原作上、ギディオン・フェル博士は、テムズ河(River Thames)に近いアデルフィテラス1番地(1 Adelphi Terrace→2018年11月25日付ブログで紹介済)に住んでいるという設定になっており、アデルフィテラスからは、テムズ河の他に、ヴィクトリアエンバンクメントガーデンズ(Victoria Embankment Gardens)を眼下に望むことができる。

ヴィクトリアエンバンクメントガーデンズの東端から見上げた
チャリングクロス駅(Charing Cross Station)が入っている建物

ヴィクトリアエンバンクメントガーデンズは、北側のアデルフィテラスと南側のテムズ河に挟まれた場所に広がる公園で、公園の北側と東側はサヴォイプレイス(Savoy Place→2017年1月29日付ブログで紹介済)に、西側はヴィリアーズストリート(Villiers Street)と地下鉄エンバンクメント駅(Embankment Tube Station)に、そして、南側はヴィクトリアエンバンクメント通り(Victoria Embankment)に囲まれている。

ヴィクトリアエンバンクメントガーデンズ内から
チャリングクロス駅が入っている建物

1865年から1867年にかけて、英国の土木技師で、公共事業庁(Metroploitan Board of Works)の主任技師でもあったサー・ジョーゼフ・ウィリアム・バザルゲット(Sir Joseph William Bazalgette:1819年ー1891年)により、ウェストミンスター橋(Westminster Bridgeー西側)とブラックフライアーズ橋(Blackfriars Bridgeー東側)に挟まれたテムズ河北岸に、ヴィクトリアエンバンクメント(Victoria Embankment)と呼ばれる堤防や下水道設備等が建設された。テムズ河北岸に沿って、堤防の上に敷設されたヴィクトリアエンバンクメント通りの北側の場所を使って、1874年にヴィクトリアエンバンクメントガーデンズが造営されたのである。

ヴィクトリアエンバンクメントガーデンズ内の植栽(その2)

ヴィクトリアエンバンクメントガーデンズは、全体をフェンスで囲まれた公園であるが、早朝(午前7時半)から夜間(冬場:午後4時半~夏場:午後9時半)まで一般に開放されており、特に昼間は、公園近辺のオフィス勤務者や観光客等の憩いの場となっている。

サヴォイホテル(Savoy Hotel)を創業した
リチャード・ドイリー・カート(Richard D'Oyly Carte:1844年ー1901年)を讃える記念碑が
サヴォイホテルの裏玄関前のヴィクトリアエンバンクメントガーデンズ内に設置されている

ヴィクトリアエンバンクメントガーデンズは、現在、シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)によって管理されている。

2018年12月1日土曜日

ロンドン ラウンドポンドプレイス13番地(13 Round Pond Place)


米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1939年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第11作目に該る「テニスコートの殺人」(The Problem of the Wire Cage→2018年8月12日 / 8月19日付ブログで紹介済)において、フランク・ドランス(Frank Dorrance)の絞殺死体が発見されたテニスコートがあるニコラス・ヤング邸は、ロンドン北西部郊外の高級住宅街ハムステッド地区(Hampstead→2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるという設定になっている。


同作品で探偵役を務めるギディオン・フェル博士は、校長、ジャーナリストや歴史家を経て、現在は引退している。「テニスコートの殺人」上、明記はされていないが、ギディオン・フェル博士は、ハムステッド地区内のラウンドポンドプレイス13番地(13 Round Pond Place)に住んでいる設定になっている。



ジョン・ディクスン・カーが1934年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士シリーズの長編第4作目に該る「盲目の理髪師(The Blind Barber→2018年11月17日 / 11月24日付ブログで紹介済)」において、ギディオン・フェル博士は、テムズ河(River Thames)に近いアデルフィテラス1番地(1 Adelphi Terrace→2018年11月25日付ブログで紹介済)に住んでいるという設定になっていたので、「盲目の理髪師」事件以降、「テニスコートの殺人」事件までの間に、ギディオン・フェル博士は、アデルフィテラス1番地からラウンドポンドプレイス13番地へと引っ越したことになる。



ハムステッド地区は、ロンドンの中心部の一つであるロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)内にある地区で、ロンドン郊外の北西部に位置している。広大な公園のハムステッドヒース(Hampstead Heath→2015年4月25日付ブログで紹介済)とハムステッドハイストリート(Hampstead High Street)を中心とした緑が非常に多い場所である。また、古くから文化人が多く住んでいて、現在は高級住宅街の一つとして知られている。


なお。ギディオン・フェル博士が住んでいるという設定になっているラウンドポンドプレイス13番地については、現在の住所表記上、ハムステッド地区内やロンドン・カムデン区内を問わず、ロンドン市内には存在しておらず、残念ながら、作者であるジョン・ディクスン・カーが創造した架空の住所である。

2018年11月25日日曜日

ロンドン アデルフィテラス1番地(1 Adelphi Terrace)

アデルフィテラスにある
「アデルフィ(The Adelphi)」と呼ばれる新古典主義の集合住宅(テラスハウス)の記念碑

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1934年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第4作目に該る「盲目の理髪師(The Blind Barber)」では、大西洋を横断して、米国のニューヨークから英国のサウサンプトン(Southampton)へと向かう外洋航路船クイーンヴィクトリア号(ocean liner Queen Victoria)上において、(1)米国人の外交官であるカーティス・G・ウォーレン(Curtis G. Warren)が携帯していた政治的失脚や国際問題にまで発展しかねない恐れがあるフィルムと(2)スタートン子爵が所有するエメラルドの象のペンダントの盗難事件が発生する。それらに加えて、(3)瀕死の女性がある船室から突然姿を消す事件も起きる。

サヴォイプレイス(Savoy Place →
2017年1月29日付ブログで紹介済)から見上げたアデルフィテラス

錯綜する事件の謎に頭を痛めた英国人の探偵小説家であるヘンリー・モーガン(Henry Morgan)は、「剣の八(The Eight of Swords)」事件で知り合ったギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)に助けを求めるべく、サウサンプトンに入港したクイーンヴィクトリア号からいち早く下船して、ギディオン・フェル博士が住むロンドンへと急ぐ。原作上、ギディオン・フェル博士は、テムズ河(River Thames)に近いアデルフィテラス1番地(1 Adelphi Terrace)に住んでいるという設定になっている。

ロバート ストリート側にある
旧「アデルフィ」の玄関

アデルフィテラス(Adelphi Terrace)は、トラファルガースクエア(Trafalgar Square)からシティー(City)へ向かって東に延びるストランド通り(Strand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)とテムズ河(River Thames)沿いに設けられたヴィクトリアエンバンクメントガーデンズ(Victoria Embankment Gardens)に挟まれたアデルフィ(Adelphi)という一画内にある。この一画は、北側のジョン・アダム ストリート(John Adam Street → 2016年1月10日付ブログで紹介済)、東側のアダム ストリート(Adam Street)、西側のロバート ストリート(Robert Street → 2016年8月7日付ブログで紹介済)、そして、南側のアデルフィテラスに囲まれている。

ニューアデルフィビルの外壁装飾
(その1–グラスゴー)
ニューアデルフィビルの外壁装飾
(その2–ベルファスト)
ニューアデルフィビルの外壁装飾
(その3–エディンバラ)

1768年から1774年にかけて、スコットランド出身の建築家ウィリアム・アダム(William Adam:1689年ー1748年)の息子達、所謂、アダム兄弟(Adam brothers)と言われる
・長男ージョン・アダム(John Adam:1721年ー1792年)
・次男ーロバート・アダム(Robert Adam:1728年ー1792年)
・三男ージェイムズ・アダム(James Adam:1732年ー1794年)
によって、この一画に新古典主義の集合住宅(テラスハウス)が24棟建設された。英語の「brothers(兄弟)」を意味するギリシア語「adelphi」をベースにして、この一画は「アデルフィ(Adelphi)」と呼ばれるようになり、また、この一画を囲む通りは、アダム兄弟の名前にちなんで名付けられている。
更に、ストランド通りの反対側に建つ劇場も「アデルフィ劇場(Adelphi Theatre→2015年8月1日 / 8月8日付ブログで紹介済)」と命名された。

ニューアデルフィビルの外壁装飾
(その4–リヴァプール)
ニューアデルフィビルの外壁装飾
(その5–リーズ)
ニューアデルフィビルの外壁装飾
(その6–マンチェスター)

1930年代初め頃、アダム兄弟が建てた集合住宅のほとんどが取り壊されて、その跡地にはコルカット&ハンプ(Collcutte & Hamp)という会社が設計したアールデコ(Art Deco)風の建物「ニューアデルフィビル」が建設され、現在に至っている。

ニューアデルフィビルの外壁装飾
(その7–ダービー)
ニューアデルフィビルの外壁装飾
(その8–バーミンガム) 
ニューアデルフィビルの外壁装飾
(その9–シェフィールド)

ニューアデルフィビルの正面玄関は、北側のジョン・アダム ストリート側にあり、南側のアデルフィテラスは、同ビルの裏手に該るため、日中でも人通りはほとんどなく、非常に静かである。
今も、アダム兄弟が建てた集合住宅の一部は残っているが、アデルフィテラス側のわずかである。

ニューアデルフィビルの外壁装飾
(その10–カーディフ)
ニューアデルフィビルの外壁装飾
(その11–ロンドン)
ニューアデルフィビルの外壁装飾
(その12–リヴァプール)

ロバート ストリート経由、アデルフィテラスは、ヴィクトリアエンバンクメントガーデンズの北側にあるサヴォイプレイス(Savoy Place→2017年1月29日付ブログで紹介済)と階段で繋がっている。アデルフィテラスは、サヴォイプレイスやヴィクトリアエンバンクメントガーデンズよりも高い位置にあるので、ジョン・ディクスン・カーの原作「盲目の理髪師」通り、アデルフィテラスからテムズ河を見下ろすことができる。

2018年11月24日土曜日

ジョン・ディクスン・カー作「盲目の理髪師」(The Blind Barber by John Dickson Carr)– その2

サヴォイプレイス(Savoy Place → 2017年1月29日付ブログで紹介済)から見上げた
アデルフィテラス(Adelphi Terrace)–
「盲目の理髪師」事件当時、ギディオン・フェル博士が住んでいた場所

ヘンリー・モーガン(Henry Morgan)、カーティス・G・ウォーレン(Cartis G. Warren)、トマッセン・ヴァルヴィック(Captain Thomassen Valvick)とペギー・グレン(Peggy Glenn)の4人は、何者かに奪い去られたフィルムを取り戻すために、残りのフィルムを囮にして、幸いに空室だった隣りの船室で犯人の再来を待ち受けることにした。
4人が待つこと数時間後、外のCデッキに通じるドア(水密扉)が押し開けられた。カーティス・G・ウォーレンの名を呼ぶ女性の声を聞いて、ヘンリー・モーガンが船室のドアを開け、トマッセン・ヴァルヴィックと一緒に船室の外へ出てみると、水密扉のところに、瀕死の女性が倒れていた。彼女の頭蓋骨は陥没しているようで、血がすーっとゴム材の床に細く流れた。

4人が瀕死の女性を隣りの船室内へ運び込んで介抱している隙に、何者かがカーティス・G・ウォーレンの船室のドアの掛け金を外して、内へと侵入したのである。
カーティス・G・ウォーレンの船室から出て来た何者かは、水密扉を開けて、外のCデッキへと出たようだ。4人は瀕死の女性を船室内に残したまま、外のCデッキへと出たと思われる何者かの跡を追跡した。そして、カーティス・G・ウォーレンが外のCデッキに居た男を捕まえて、ノックアウトしたが、驚いたことに、その男は船長のヘクター・ホイッスラーであった。奪われたフィルムを取り戻そうとして、4人がへスター・ホイッスラー船長の身体を調べると、エメラルドの像のペンダントが出てきた。
後で判ったことであるが、宝石を付け狙う正体不明の犯罪者が外洋航路線クイーンヴィクトリア号(ocean liner Queen Victoria)に乗船しているという情報を受けたため、盗難防止の観点から、ヘクター・ホイッスラー船長が持ち主のスタートン子爵から預かっていたのである。どうやら、4人は間違った人物を捕まえてしまったようである。それを知った彼らはパニックに陥り、運が悪いことに、慌てたペギー・グレンがそのペンダントを手近の船室の中へ放り込んでしまった。

そんなドタバタ騒ぎの後、4人がカーティス・G・ウォーレンの隣りの船室へと戻ると、そこに居た筈の瀕死の女性の姿が、どこにもなかったのである。そして、彼女が横たわっていたベッドの下には、「盲目の理髪師(Blind Barber)」の装飾が柄に施された血まみれの剃刀が残されていた。

2つの盗難事件(フィルム+エメラルドの像のペンダント)と突然姿を消した瀕死の女性の謎が、クイーンヴィクトリア号の船上で錯綜する。これらは、血のついた剃刀を残した「盲目の理髪師」の仕業なのだろうか?
サウサンプトン(Southampton)に入港したクイーンヴィクトリア号からいち早く下船したヘンリー・モーガンは、「剣の八(The Eight of Swords)」事件(1934年)で知り合ったギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)に助けを求めるべく、彼が住むロンドンへと向かったのである。
そして、ヘンリー・モーガンの話を聞いたギディオン・フェル博士は、安楽椅子探偵役を務める。

明智小五郎シリーズ等で有名な日本の推理作家 / 怪奇・恐怖小説家 / アンソロジストである江戸川乱歩(1894年ー1965年)は、1950年に「別冊宝石」で発表した「カー問答」において、ジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr) / カーター・ディクスン(Carter Dickson)の作品を、最も面白い第1位グループから最もつまらない第4位グループまでの評価分けを行っている。「盲目の理髪師」について、江戸川乱歩は第3位グループ(カーの作品としては中流で、とびっきりの不可能性とサスペンスはあるものの、それに比べて、解決が何となく呆気ないという不備がある)に評価分けされた10作品のうちの10番目に挙げている。ただ、数あるカー作品のうち、最も笑劇(ファルス)味が濃い作品と評されている。