2020年に英国のロイヤルメール(Royal Mail)から発行された 英国の詩人を特集した切手10種類の一人として、 パーシー・ビッシュ・シェリーが選ばれている。 |
パーシー・ビッシュ・シェリー(Percy Bysshe Shelley:1792年ー1822年)は、英国のロマン派詩人で、ゴシック小説「フランケンシュタイン、或いは、現代のプロメテウス(Frankenstein; or, the Modern Prometheus. → 2021年3月24日付ブログで紹介済)」(1818年)を執筆し、フランケンシュタインの怪物を創造して、SF の先駆者と見做される英国の小説家メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン・シェリー(Mary Wollstonecraft Godwin Shelley:1797年ー1851年 → 2021年3月9日 / 3月16日付ブログで紹介済)の夫である。
パーシー・シェリーは、1792年8月4日、ウェストサセックス州(West Sussex)ホルシャム(Horsham)近くのフィールドプレイス(Field Place)に、富裕な貴族の長男として出生。父親は、サー・ティモシー・シェリー(Timonthy Shelley:1753年ー1844年)で、母親は、エリザベス・ピルフォルド(Elizabeth Pilfold:1763年ー1846年)。
イートン校(Eton College)を経て、1810年10月にオックスフォード大学(University College, Oxford → 2015年11月21日付ブログで紹介済)に入学するも、1811年に「無神論の必要(Necessity of Atheism)」というパンフレットを書いて、オックスフォードの書店で売り出すという暴挙に出たため、同年3月に大学から放校となった。
オックスフォード大学から放校となる前の1810年12月、彼は、妹の学友であるハリエット・ウェストブルック(Harriet Westbrook:1795年ー1816年)と出会い、彼女の学校での不遇に同情して、翌年の1811年8月に、彼女と結婚する。その後、彼は、アイルランドやウェールズを放浪する。
1814年、妻ハリエットやその姉と不和になったパーシー・シェリーは、幼い頃に読んだ「政治的正義」を執筆した無政府主義の先駆者でもある英国の政治評論家 / 著述家のウィリアム・ゴドウィン(William Godwin:1756年ー1836年)の邸に足しげく通うようになる。
そして、そこで、彼は、ウィリアム・ゴドウィンの娘であるメアリー(当時の名前は、まだメアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン)と出会い、付き合うようになる。ただ、当時、パーシー・シェリーは、妻帯者だったため、彼との恋愛に父親であるウィリアム・ゴドウィンは大反対をし、その結果、同年、メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィンは、パーシー・シェリーと一緒に、欧州大陸へ駆け落ちをするのであった。
一旦、欧州大陸から英国に帰国するものの、パーシー・シェリーの友人で、英国のロマン派詩人である第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron, 6th Baron Byron:1788年ー1824年)に誘われて、1816年5月、バイロン卿、彼の愛人であるクレア・クレモント(Claire Clairmont:1798年ー1879年 / メアリー・シェリーの義姉妹)、パーシー・シェリーとメアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィンの4人は、スイス / ジュネーヴ近郊のレマン湖畔にあるディオダディ荘(Villa Diodati)に滞在した。
ナショナルポートレートギャラリー (National Portrait Gallery)で販売されている 第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンの肖像画の葉書 (Richard Westall / 1813年 / Oil on canvas 914 mm x 711 mm) |
同年7月、長く降り続く雨のため、屋内に閉じ込められていた折、バイロン卿は、「皆で一つずつ怪奇譚を書こう。(We will write a ghost story.)」と、他の3人に提案した。このディオダディ荘での怪奇談議を切っ掛けに、メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィンは、フランケンシュタインの怪物の着想を得て、小説の執筆に取りかかった。
同年9月、彼ら4人が英国に帰国した後、同年12月10日に、ハイドパーク(Hyde Park → 2015年3月14日付ブログで紹介済)のサーペンタイン湖(Serpentine → 2015年3月15日付ブログで紹介済)から入水自殺したパーシー・シェリーの妻ハリエット・シェリーの遺体が発見される。検視によると、ハリエット・シェリーは、パーシー・シェリー以外の男の子供を身籠っていた、とのこと。
その20日後の同年12月30日、パーシー・シェリーは、ロンドンの教会でメアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィンと正式に結婚して、彼女は、メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン・シェリーとなった。
メアリー・シェリーは、スイス / ジュネーヴ近郊のレマン湖畔にあるディオダディ荘での怪奇談議を切っ掛けに着想を得たフランケンシュタインの怪物の話を1817年5月に脱稿し、翌年の1818年1月に匿名で出版した。このゴシック小説の正式なタイトルが、「フランケンシュタイン、或いは、現代のプロメテウス」である。当作品の出版により、後に、彼女は SF の先駆者と見做されるようになる。
1818年3月に、彼女は、夫であるパーシー・シェリーの序文を付けて、再度、匿名で同作品を出版した。
現在、一般に流布している版は、1831年に出版された第3版(改訂版)がベースとなっている。
パーシー・シェリーとメアリー・シェリーの間には、1815年に長女を生後間もなくして亡くした後、長男のウィリアム(1816年ー1819年)と次女のクレアラ(1817年ー1818年)が生まれているが、1818年9月にクレアラを赤痢で、そして、1819年6月にウィリアムをマラリアで、幼少期に亡くしまうという波瀾の人生を送っている。
1822年7月8日、パーシー・シェリーは、ジェノヴァ(Genoa)の造船業者に特注で建造させた帆船に乗り、イタリアのリヴォルノ(Livorno)からレーリチ(Lerici)への帰途についた数時間後、突然の暴風雨に襲われ、ヴィアレッジョ(Viareggio)沖で帆船は沈没。
10日後、パーシー・シェリーの遺体がヴィアレッジョ郊外の海岸に漂着したが、身元確認も困難な程に、無残な水死体となっていた。疫病の蔓延を恐れた当局の指示により、彼の遺体は、海岸で火葬された。その際、彼の友人である第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンは立ち会ったが、妻のメアリー・シェリーは、当時の英国の慣習を守り、火葬には参列しなかった。
パーシー・シェリーの遺骨は、ローマのプロテスタント墓地に葬られ、墓石の表面には、「Cor Cordium(ラテン語で「心の心」の意味)」と彼が生前愛誦した句が刻まれた。
「Nothing of him that doth fade / But doth suffer a sea-change / Into something rich and strange」
(ウィリアム・シェイクスピア「テンペスト」)
また、パーシー・シェリーの心臓は、妻のメアリー・シェリーとともに、英国南部ボーンマス(Bournemouth)にあるセントピーター教区教会(The Parish Church of St. Peter)敷地内の墓に安置されている。
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