2014年5月31日土曜日

ロンドン 大英図書館(British Library)


若きシャーロック・ホームズが将来役に立ちそうな学問を勉強するために、住んでいたフラットの近所にある大英博物館(British Museum)の図書室に頻繁に通っていたことは、「大英博物館」の中で既に触れたが、1997年秋、ユーストンロード(Euston Road)の北側で、セントパンクラス駅(St. Pancras Station)の西側に「大英図書館(British Library)」の新館が完成し、書庫と図書館機能は大英博物館から同新館に移転した。大英博物館には、中庭に建設され、1857年に一般にオープンした円形閲覧室(Round Reading Room)のみが館内に残ることとなった。





大英図書館の外観は、ゴシック様式のセントパンクラス駅とうまく調和するよう、レンガ色で全面的に統一されている。ちなみに、セントパンクラス駅は、以前、ミッドランド線が発着するローカルな駅だったが、近年、ユーロスターの発着駅がウォータールー駅(Waterloo Station)から移動してきたことにより、フランスのパリやベルギーのブリュッセルとロンドンを結ぶインターナショナルな駅へと変貌している。


大英図書館は、英国の法定納本図書館(他には、オックスフォード大学ボドリアン図書館、ケンブリッジ大学図書館、ダブリン大学トリニティーカレッジ図書館、スコットランド国立図書館とウェールズ国立図書館の5つ)の一つであり、当納本制度に基づいて、英国内で流通する出版物は、出版日から1ヶ月以内に1部が出版社から大英図書館に納本されることが義務付けられている。

2014年5月26日月曜日

ロンドン 大英博物館(British Museum)


サー・アーサー・コナン・ドイルの「マスグレイヴ家の儀式書(The Musgrave Ritual)」によると、シャーロック・ホームズは、大学卒業後、ロンドンに移り、モンタギューストリート(Montague Street)に部屋を借りて、諮問探偵を開業したが、残念ながら、数ヶ月経過しても、1件の仕事依頼も持ち込まれなかった。そこで、ホームズは、この暇な時間を有効活用すべく、将来役に立ちそうな学問の勉強のために、近所にある大英博物館(British Museum)の図書室へ頻繁に通ったのである。

大英博物館の建設構想は、ハンス・スローン卿(1660年~1753年)の収集品まで遡る。医師で、博物学者でもあった彼は、1753年に亡くなる際の遺言で、彼が収集した約8万点に及ぶ美術品、植物標本、蔵書や写本等を英国王ジョージ2世に献上し、国への遺贈を希望した。その際、英国議会は、今で言うところの「宝くじ(Lottery)」を発行し、その収益金でスローン卿の収集品を買い上げて、保存・公開するための博物館の建設を目指した。カンタベリー大司教を長とする理事会は、17世紀後期の館であるモンタギューハウスを購入。モンタギュー侯爵と親しかったフランス国王ルイ14世の好意により、一流の彫刻家で、かつ建築家であったピエール・ピュジェが設計を、そして、フランスのベルサイユ宮殿を手がけた画家達が内装を担当したそうである。そうして、大英博物館は1759年1月15日に開館し、膨大なコレクションが一般公開された。ただし、開館当時、入館は無料だったものの、入館希望者は願書を提出の上、厳しい審査を受けるというかなり面倒な手続があったため、1日あたりの入館者は10人程度だったと言われている。ちなみに、大英博物館の収蔵作品数は現在約800万点に及び、入館者数は年間で600万人を超えるまでになっているとのこと。

それでは、ホームズが通ったとされる図書室に目を向けてみよう。1823年に、英国王ジョージ4世が父王ジョージ3世の蔵書約8万5千冊を寄贈することになり、開館当時から既に抱えていた問題ではあるが、モンタギューハウスでは博物館として手狭となってきたのである。そこで、1824年にモンタギューハウスの北側に新しい建物を建設することが決定され、ロバート・スマーク卿がその設計者として選ばれた。1840年代初めに、新しい建物の大部分が竣工すると、モンタギューハウスは取り壊され、1850年頃には、現在見ることができる外観となったのである。残念ながら、それでもスペース不足の問題は解消されず、続いて、6代目館長(主任司書)のアントニオ・パニッツィの下、中庭に「円形閲覧室(Round Reading Room)」の建設が開始し、1857年にオープンした。この円形閲覧室に、ホームズは足繁く通ったものと思われる。


大英博物館の図書部門は、他の管理部門から分離の上、1973年にロンドン国立中央図書館等と機能統合され、「大英図書館(British Library)」が新たに編成された。1997年秋に、セントパンクラス駅(St. Pancras Station)に隣接した場所に大英図書館の新館が完成し、書庫と図書館機能は大英博物館から移転。それに伴って、旧大英博物館図書館は、円形閲覧室のみを残して、フォスター・アンド・パートナー事務所のノーマン・フォスター卿のデザインによる屋根付きの中庭「グレート・コート(Great Court)」に改築されたのである。このグレート・コートは、円形閲覧室の周囲に新たに設置された通路で博物館の各部屋を繋いだ上、円形閲覧室の下にはミュージアムショップを、また、円形閲覧室の上にはレストランやカフェを附設しており、ホームズが通った頃と比べると、大英博物館は大きく進化している。

2014年5月25日日曜日

ロンドン モンタギューストリート(Montague Street)


ロンドンのモンタギューストリート(Montague Street)、第二次アフガニスタン戦争への従軍で負傷退役したジョン・ワトスンと一緒に、ベーカーストリート221Bで共同生活を始める前に、シャーロック・ホームズはここに部屋を借りて、諮問探偵を開業した。サー・アーサー・コナン・ドイルの「マスグレーブ家の儀式(The Musgrave Ritual)」によると、ロンドンにおけるホームズの探偵業は、ここから始まったのである。

グレートラッセルストリート側から見たモンタギューストリート
モンタギュープレイス側から見たモンタギューストリート

モンタギューストリートの角をちょっと曲がれば、大英博物館(British Museum)があり、非常に便利なところに位置している。具体的に言うと、大英博物館の表玄関を正面に見て、建物の右側(東側)に接して南北に走る通りが、モンタギューストリートである。モンタギューストリートは、南側で大英博物館の表玄関を東西に走るグレートラッセルストリート(Great Russell Street)に、また、北側で大英博物館の裏玄関を東西に走るモンタギュープレイス(Montague Place)にぶつかる。

右側がモンタギュープレイスで、左側がラッセルスクエア

写真は、モンタギューストリートとモンタギュープレイスがぶつかる角から南に向けて、モンタギューストリートを撮影したものである。そして、写真の左側にはラッセルスクエア(Russell Sqaure)という公園が、背後にはロンドン大学(University of London)が位置している。モンタギューストリートの両側には、こじんまりしたホテルや住居等が並んでおり、ホームズが生活をしていた当時に比べて、それ程大きくは変わっていない雰囲気のままかと思う。大英博物館の表玄関近辺は、いつ行っても観光客で一杯だが、モンタギューストリートやモンタギュープレイスについては、南北あるいは東西に走る幹線道路から数本内に入った通りのため、大英博物館の表玄関近辺の喧騒とは違って、非常に静かな場所で、騒がしい事を好まないホームズにとって、静かに思索に耽るにうってつけだったのではないだろうか。

モンタギュープレイスとの角からモンタギューストリートを望む

一般の観光客にとっては、ホームズとワトスンが共同生活を送ったベーカーストリート221Bが名ではあるが、真のホームズファンであれば、是非とも一度訪ねていただきたいのが、大学卒業後、ホームズがロンドンで最初に間借りした部屋があるモンタギューストリートである。そして、ここでの雌伏の時を経て、ホームズの探偵業はベーカーストリート221Bで大きく開花した。そういった意味では、全てはここモンタギューストリートから始まったと言っても過言ではない。

2014年5月24日土曜日

ロンドン デヴォンシャープレイス2番地(2Devonshire Place)


サー・アーサー・コナン・ドイルが「ボヘミアの醜聞」と「赤毛組合」等の短編を執筆した診療所があったとされる「アッパーウィンポールストリート2番地(2 Upper Wimpole Street)」からマリルボーンロード(Marylebone Road)に向かって北上したところに、デヴォンシャープレイス2番地(2 Devonshire Place)がある。実は、ドイルの自伝には、「この建物(デヴォンシャープレイス2番地)が、1891年に診療所として借りた場所である。」と記されている。具体的に言うと、ドイルは年間120ポンドでこの建物内の正面の部屋と待合室の一部を使用する契約を結んでいたとのこと。

しかしながら、今日では、ドイルが自分の自伝を執筆した際に、診療所の住所として「アッパーウィンポールストリート2番地」と記すべきところを、近くにある「デヴォンシャープレイス2番地」と書き間違えたものと一般に理解されている。この二つの建物は、およそ100m程しか離れておらず、アッパーウィンポールストリートとデヴォンシャープレイスは実際には一本の通りで、途中から名前が変わるのである。


その結果、現在、デヴォンシャープレイス2番地の建物の玄関口には「コナン・ドイル・ハウス(Conan Doyle House)」と表示されているが、アッパーウィンポールストリート2番地のような銘板(ウェストミンスター・シティー・カウンシル(Westminster City Council)とアーサー・コナン・ドイル・ソサイエティー(Arthur Conan Doyle Society)が製作)は掲げられていない。

2014年5月18日日曜日

ロンドン アッパーウィンポールストリート2番地( 2 Upper Wimpole Street )


エディンバラ大学医学部を卒業し、1882年6月にロンドンの南にあるポーツマス(正確には、その近郊の住宅街サウスシーのエルムグローブにあるブッシュヴィラ1号という家)で個人医院を開業していたサー・アーサー・コナン・ドイルは、1890年8月、ドイツのベルリンで開催された国際医学会議(当会議において、ドイツのコッホ博士が結核菌の発見とその治療薬であるツベルクリンの開発を発表)に大きな刺激を受け、早速ベルリンに向かった。ドイルは、ベルリン行きの列車内で、ロンドンで成功をおさめていた皮膚科の専門医モリルに出会い、GP(一般開業医)ではなく、眼科専門医への転身を説得される。

ベルリンから帰国したドイルは、妻ルイーズ(1885年8月に結婚)と相談の上、眼科の勉強のため、ウィーンを訪問する。ただし、ドイツでは仲間の眼科医の手伝いをした経験位しかない上、ドイツ語にも自信がなかった。大学に入学する前に、ドイルはドイツにあるイエズス会系の学校でドイツ語を一年間学んだものの、仲間内では英語で話したため、結局のところ、ドイツ語はほとんど身につかなかったようである。ウィーンの大学においても、早々とドイルは講義についていけなくなり、最終的には、眼科の勉強をギブアップすることになった。

ウィーンでの眼科の勉強を諦めたドイルは、1891年初頭にロンドンに戻り、眼科医用の診療室と自宅を探し始めた。当初、ドイルは高級医師街のハーリーストリート(Harley Street)に診療室を開こうとしたが、高額な家賃が足枷となり、やむを得ず、ハーリーストリートから少し北に上がったアッパーウィンポールストリート2番地(2 Upper Wimpole Street)で眼科医を開業した。ところが、彼の大きな期待とは裏腹に、ドイルの診療室を訪れる患者はほとんど居らず、その結果、暇にまかせて、彼は大量の原稿用紙に向かう日々が続いたのである。

シャーロック・ホームズとジョン・ワトスンは、1887年11月に「緋色の研究」で、また、1890年2月に「四つの署名」で世に出てはいたが、我々が今知っているような大人気はまだ先のことであった。上記2作のように、当時は長編物が主流であったが、ドイルは全く新しい発想として「読み切り連載」、つまり短編物への転換を思い付いた。ドイルの性格上、長編物ではなく、毎回事件が完結する短編物の方が合っていたのかもしれない。即、ドイルは最初の2話である「ボヘミアの醜聞」と「赤毛組合」を書き上げて、創刊間もない月刊誌である「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」宛に送付した。他誌との差別化に苦心していた「ストランドマガジン」は、ドイルのアイデアに飛び付き、上記2話に4話を追加するよう、依頼してきたのである。


かくして、1891年7月の「ストランドマガジン」に、「シャーロック・ホームズの冒険」の第1作に該る「ボヘミアの醜聞」が掲載され、読者の熱狂を生み出し、貧乏に苦しむドイルにとっては、三度目の正直というか、起死回生のホームランとなった。つまり、アッパーウィンポールストリート2番地は、ホームズが約130年後の今に続く絶大な人気を得ることになった短編物がドイルによって執筆された場所なのである。現在、建物の入口左手に掲げられている緑色の銘板には、「1891年にドイルがここで働き、そして、作品を執筆した。(Sir Arther Conan Doyle (Author 1859-1930) worked and wrote here in 1891.)」と記されている。

ロンドン 地下鉄ベーカーストリート駅 ベーカールーラインのプラットフォームにあるホームズのシルエット


ベーカールーラインのプラットフォームに移動すると、こちらには、パイプを口に咥えた、お馴染みのシャーロック・ホームズの横顔(右向きと左向きの二つのシルエット)がベーカーストリートの表示を間に挟んで、壁のタイル一面に描かれている。このホームズの横顔にもっと近づいてみて見ると、小さな横顔が集まって大きなシルエットを形作っていることが判る。一個一個数えるのは非常に大変だが、概算で3000個を超えているのではないか。


プラットフォームから駅の出口に向かう通路の壁にも、黒色、赤色やえび茶色などのホームズの横顔を焼き付けたタイルが嵌め込まれている。


朝夕と地下鉄でベーカーストリート駅を通って行くが、他の人はあまり興味がないのか、あるいは皆自分のことに忙しいのか、ジュビリーラインやベーカールーラインのプラットフォームの壁画に目を向ける人は殆ど居らず、ホームズファンの一人としては非常に寂しい。

ただ、ベーカーストリート駅の近くにあるシャーロック・ホームズ博物館の前を通ったりすると、博物館の前にはいつも入場待ちの長い列が出来ているので、これを見て、ホームズの人気を確認し安心するのである。

2014年5月11日日曜日

ロンドン 地下鉄ベーカーストリート駅 ジュビリーラインのプラットフォームにあるホームズの物語(7)

(7)チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン(Charles Augustus Milverton)


初出:「コリアーズ ウィークリー」(米)1904年3月
「ストランドマガジン」(英)1904年4月号
                                                     事件の発生:1899年1月
                                                     収録:「シャーロック・ホームズの帰還(The Return of Sherlock Holmes)」

ロンドンの恐喝王であるチャールズ・オーガスタス・ミルヴァートンに強請られているレディー・エヴァ・ブラックウェルから依頼を受けたホームズは、恐喝の材料となっている手紙を盗み出すべく、ワトスンと一緒に闇夜に紛れ、ミルヴァートン邸に忍び込む。ところが、運悪く、以前ミルヴァートンから恐喝を受け破滅させられた女性が、復讐のために彼を訪ねて来たのだ。その女性は小型の拳銃を取り出し、ミルヴァートンに報復の弾丸を次々と撃ち込む。その場面が描かれている。


本作品はサー・アーサー・コナン・ドイルによるシャーロック・ホームズ作品の第34作目で、56ある短編小説のうち、31番目に発表された。日本語訳のタイトルでは「犯人は二人」の方が一般的のようである。ホームズ曰く「ロンドン一の悪党」というレッテルを貼られているものの、その名に恥じず、恐喝王ミルヴァートンは高度の情報戦に長けており、さすがのホームズもミルヴァートン邸に不法に侵入するという強攻策を講じざるを得ず、ホームズ作品中、ホームズが最も精彩を欠いている。「ライオンのたてがみ」と同様に、本作品よりももっと有名な事件が他にもあるのに、何故本作品が壁画の一つに選ばれたのだろうか?

ベーカーストリート駅からロンドン市外方面に向かう北行き(Northbound)のプラットフォームの壁には、ホーム南側から北側に向かって、南行き(Southbound)ホームの絵と同じものが(7)→(1)の順番で飾られている。「まだらの紐」「四つの署名」「赤毛組合」そして「バスカヴィル家の犬」については、非常に有名な物語であり、壁画になるのもなるほど納得なのだが、「ライオンのたてがみ」や「チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン」に関しては、何故これらが壁画に?とやや疑問である。他に、絵になったら映えそうで、壁画にも相応しいと思われる物語が多々あるのだが(下記)、これら7つの物語が選ばれたのには、どういった経緯があったのだろうか?

「緋色の研究」:記念すべきホームズ第1作
「ボヘミアの醜聞」:’あの女性’ アイリーン・アドラー(Irene Adler)登場
「唇のねじれた男」:物乞いをしているヒュー・ブーンを描いてほしい。
「名馬シルヴァーブレイズ」:ホームズと銀星号が一緒に居る場面など壁画によいのでは?
「マスグレイヴ家の儀式書」:ホームズがワトスンに出会う前の事件
「ギリシア語通訳」:ホームズの兄、マイクロフト・ホームズが登場
「最後の事件」:ホームズが宿敵ジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)とライヘンバッハの滝で格闘
「踊る人形」:中学校の英語の教科書に採用されていた。暗号解読をテーマにした事件
「六つのナポレオン像」:ロンドン中でナポレオンの石膏胸像が壊される謎をホームズが追う。
「ソア橋の謎」:金鉱王のブラジル人妻を殺害した容疑を課せられた女性家庭教師の無実を晴らすべく、ホームズが調査を開始。個人的にはかなり好きな作品の一つ

2014年5月10日土曜日

ロンドン 地下鉄ベーカーストリート駅 ジュビリーラインのプラットフォームにあるホームズの物語(6)

(6)バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskervilles)


初出:「ストランドマガジン」(英)1901年8月号 - 1902年4月号
                                           事件の発生:1888年9月
                                           収録:「バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskervilles)」

死体で発見された富豪のバスカヴィル家当主のチャールズ・バスカヴィル卿。表向きには心臓発作による病死と発表されたが、チャールズ・バスカヴィル卿の死体の近くには巨大な犬の足跡が残っていたのである。チャールズ・バスカヴィル卿の甥でその正統な後継者に該る若きヘンリー・バスカヴィル卿に、デヴォン州ダートムーアの深い夜霧の中、バスカヴィル家に伝わる伝説の通り、黒い魔犬が襲いかかる。物語でまさに一番のハイライトとなる場面が描かれている。


本作品はサー・アーサー・コナン・ドイルによるシャーロック・ホームズ作品の第27作目で、4つある長編小説のうち3番目に発表された。これは非常に有名な話であるが、「最後の事件」において、ホームズが宿敵のジェイムズ・モリアーティ教授とともに、スイスのマイリンゲンにあるライヘンバッハの滝に落下して、生死不明となっていた時期(実際の年月:1893年12月~1903年9月 / ホームズの作品中での年月:1891年5月~1894年4月)に、ストランドマガジンに連載されたのが、本作品である。「バスカヴィル家の犬」が執筆された経緯については、次回以降に詳しく述べることにする。

数年前に、本作品の舞台となったデボン州のダートムーアやコーンウォール州のボドミンムーア(アルフレッド・ヒッチコックの監督作品「レベッカ」や「鳥」の原作者として有名な、ダフニ・デュ・モーリエが執筆した「ジャマイカ・イン」の舞台となった場所)等を、約1週間の日程で巡った。ダートムーアもボドミンムーアも、ともに荒涼とした大地で、バスカヴィル家に伝わる伝説の魔犬が生息していたとしても、全く不思議ではない雰囲気を湛えている。昼間の晴れている間は大丈夫だが、夜間になると、両方のムーアに点在する住居を除くと、辺りは真っ暗闇で、一人で外を出歩くには、二の足を踏む位の場所だ。実際、どこからか伝説の魔犬が急に姿を現すのではないか、という怖さが未だに感じられる。

2014年5月3日土曜日

ロンドン 地下鉄ベーカーストリート駅 ジュビリーラインのプラットフォームにあるホームズの物語(5)

(5)孤独な自転車乗り(The Solitary Cyclist)


   初出:「コリアーズ ウィークリー」(米)1903年12月26日号
  「ストランドマガジン」(英)1904年1月号
                                    事件の発生:1895年4月
                                    収録:「シャーロック・ホームズの帰還(The Return of Sherlock Holmes)」

カラザース氏の屋敷で、彼の一人娘の音楽の家庭教師をしているヴァイオレット・スミスが、ホームズの元に依頼に訪れる。彼女は、毎週土曜日、住み込みの屋敷からロンドンに帰り、翌日の月曜日に屋敷へ戻って来るのだが、駅の行き帰りに寂しい一本道を自転車で通ると、その度に黒ずくめの男が後ろからつけて来るというのだ。家庭教師の職を辞するある土曜日、彼女は何者かに連れ去られてしまう。猿ぐつわをされ、結婚式を強要されつつある彼女を助けに、ホームズとワトスンが駆け付ける、その場面が描かれている。


本作品は、サー・アーサー・コナン・ドイルによるシャーロック・ホームズ作品の第31作目で、56ある短編小説のうち、28番目に発表された。本作品には、ヴァイオレット・スミスと彼女の後をつける黒ずくめの男の二人の自転車乗りが登場する。本作品のタイトルである「The Solitary Cyclist」とはどちらを指すのか?今のところ、日本語訳では、定番となっているものがなく、翻訳者や出版社によって、以下の3つのパターンに分かれている。

(1)自転車乗りがどちらを指すのか不明なパターン→孤独な自転車乗り
(2)ヴァイオレット・スミスを指すパターン→美しき自転車乗り
(3)黒ずくめの男を指すパターン→怪しい自転車乗り

日本語の訳一つで、本作品のタイトルから受ける印象が微妙に異なってくるので、なかなか面白い。ちなみに、本稿のタイトルは、solitaryの単語の意味から「孤独な自転車乗り」としてある。

2014年5月2日金曜日

シャーロック・ホームズの更なる冒険 / ジキル博士とホームズ (Dr. Jekyll & Mr. Holmes)


シャーロック・ホームズの更なる冒険 / ジキル博士とホームズ
(The further adventures of Sherlock Holmes / Dr. Jekyll & Mr. Holmes)
著者 Loren D. Estleman  1979年
出版   Titan Books         2010

本作品は、ロバート・ルイス・スティーヴンソンの代表的な小説の一つである「ジキル博士とハイド氏の奇妙な物語」(The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde) を「本歌取り」している。スティーヴンソンの作品は、1885年に執筆され1886年1月に出版されたが、ジョン・ワトスン博士曰く「概ね正確だが、不完全な説明」だったため、当該事件から32年が経過した1917年8月に本作品が出版された、という形式を採っている。

そして物語は1883年10月に始まる。アターソン弁護士がベーカー街221Bのシャーロック・ホームズを訪ねて来る。アターソン弁護士によると、彼の友人で医学や数学などの博士号を持つ富裕な名士であるヘンリー・ジキル博士は、自分が死去、失踪または説明のつかない3ヶ月以上の不在をした場合には、エドワード・ハイド氏に2万5千ポンドという大金を残すという遺言を作成したとのこと。但し、ハイド氏は、ジキル博士が非常に大きな興味を示しているということ以外は、全く正体不明の人物。そこで、アターソン弁護士はホームズに、この謎の人物であるハイド氏の調査を依頼、かくしてあの有名な事件の幕が開いたのである。

1884年、ハイド氏は殺人を犯して姿を消す。ホームズとワトスンは、ジキル博士の調査のため、エジンバラに赴く。紆余曲折を経て、1885年3月、事件はジキル博士の自宅にて衝撃の結末を迎える。

シャーロック・ホームズの関係年表によると「まだらの紐」事件(1883年4月)と「入院患者」事件(1886年10月)までの約3年半、ワトスンが記録・発表した ’事件がない空白期’ に該り、この「ジキル博士とハイド氏」事件は、その空白に丁度ぴったりとはまっている。そういった意味では、この空白期にホームズは「ジキル博士とハイド氏」事件を調査していたことになり、非常に興味深い。ただ、スティーヴンソンの原作を本歌取りしている故に、事件の始まりから終わりまでに約1年半を要したことになり、名探偵ホームズとしては、予想外に解決するのに手こずった印象をぬぐい難い。個人的には、ホームズにはもっと快刀乱麻のごとく解決してもらいたかった。ここが本歌取りの難しい点である。

物語の最後に、ホームズはスティーヴンソンに「ジキル博士とハイド氏」事件の詳細を説明し、フィクションとしての執筆を促す。但し、ホームズとワトスンの名前は一切出さないことを条件にして。そのため、ジキル博士の最期に至る経緯についても、変更せざるを得なかった。これについてホームズは「この非常に奇妙な事件が本当にあったことで、且つ自分たちが深く関わっていたことが公になることにスコットランドヤードが良い顔をしない。」という言い訳をしている。本来であれば、ワトスンが記録した事件として発表されるところが、上記の理由により、スティーヴンソンの「フィクション」として当事件は公になった訳で、最後はなかなかうまく着地したと言える。


読後の私的評価(満点=5.0)

1)事件や背景の設定について ☆☆☆☆(4.0)
サー・アーサー・コナンドイルがホームズ物語を発表していた同時期に、ロバート・ルイス・スティーヴンソンが発表した有名な「ジキル博士とハイド氏の奇妙な冒険」のストーリーに、ホームズとワトスンが登場。元々それぞれが、ヴィクトリア女王が統治したロンドンを舞台にしている訳で、設定的にはうまく融合されている。ホームズファンとしては、有名な実在事件を除けば、ホームズ物語として取り上げてほしいフィクション系の大事件のうちの大きな一つである。

2)物語の展開について ☆☆半 (2.5)
「まだらの紐」事件(1883年4月)と「入院患者」(1886年10月)までの約3年半の空白期に当事件は発生しているが、何故ワトスンが記録・発表していないのかを、その理由を割合とうまい具合に説明している。ただし、スティーヴンソンの原作に忠実に沿う必要があるため、ハイド氏が殺人を犯して姿を消してから、事件が衝撃の結末を迎えるまで変な間があいてしまい、やや中だるみな展開になっているように思える。

3)ホームズ/ワトスンの活躍について ☆☆半 (2.5)
例え、人間の常識をはるかに越える非常に奇妙な事件ではあっても、ホームズが事件を解決するまで約1年半を要しており、ホームズファンとしては、ホームズが予想外に解決に手こずったようにしか思えず、印象がやや悪く、残念。

4)総合 ☆☆半(2. 5)
「ジキル博士とハイド氏の奇妙な冒険」の解決に、ホームズとワトスンが挑むという、テーマ的にはとてもワクワクするストーリーではあるが、スティーヴンソンの原作に忠実であるが故に、また忠実であるようにせざるを得なかったが故に、途中やや中だるみの展開になり、かつ、ホームズ自身の推理能力に対して、逆に疑問符が付くような印象を生じさせる結果となり、とても残念。人間の人知を超える事件でもあり、本来であれば、ホームズ自身の推理能力を疑う余地はないのだか、スティーヴンソンの原作を本歌取りして、そこにホームズを登場させたが故に、大きな制約を受けてしまっている。