エディンバラ大学医学部を卒業し、1882年6月にロンドンの南にあるポーツマス(正確には、その近郊の住宅街サウスシーのエルムグローブにあるブッシュヴィラ1号という家)で個人医院を開業していたサー・アーサー・コナン・ドイルは、1890年8月、ドイツのベルリンで開催された国際医学会議(当会議において、ドイツのコッホ博士が結核菌の発見とその治療薬であるツベルクリンの開発を発表)に大きな刺激を受け、早速ベルリンに向かった。ドイルは、ベルリン行きの列車内で、ロンドンで成功をおさめていた皮膚科の専門医モリルに出会い、GP(一般開業医)ではなく、眼科専門医への転身を説得される。
ベルリンから帰国したドイルは、妻ルイーズ(1885年8月に結婚)と相談の上、眼科の勉強のため、ウィーンを訪問する。ただし、ドイツでは仲間の眼科医の手伝いをした経験位しかない上、ドイツ語にも自信がなかった。大学に入学する前に、ドイルはドイツにあるイエズス会系の学校でドイツ語を一年間学んだものの、仲間内では英語で話したため、結局のところ、ドイツ語はほとんど身につかなかったようである。ウィーンの大学においても、早々とドイルは講義についていけなくなり、最終的には、眼科の勉強をギブアップすることになった。
ウィーンでの眼科の勉強を諦めたドイルは、1891年初頭にロンドンに戻り、眼科医用の診療室と自宅を探し始めた。当初、ドイルは高級医師街のハーリーストリート(Harley Street)に診療室を開こうとしたが、高額な家賃が足枷となり、やむを得ず、ハーリーストリートから少し北に上がったアッパーウィンポールストリート2番地(2 Upper Wimpole Street)で眼科医を開業した。ところが、彼の大きな期待とは裏腹に、ドイルの診療室を訪れる患者はほとんど居らず、その結果、暇にまかせて、彼は大量の原稿用紙に向かう日々が続いたのである。
シャーロック・ホームズとジョン・ワトスンは、1887年11月に「緋色の研究」で、また、1890年2月に「四つの署名」で世に出てはいたが、我々が今知っているような大人気はまだ先のことであった。上記2作のように、当時は長編物が主流であったが、ドイルは全く新しい発想として「読み切り連載」、つまり短編物への転換を思い付いた。ドイルの性格上、長編物ではなく、毎回事件が完結する短編物の方が合っていたのかもしれない。即、ドイルは最初の2話である「ボヘミアの醜聞」と「赤毛組合」を書き上げて、創刊間もない月刊誌である「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」宛に送付した。他誌との差別化に苦心していた「ストランドマガジン」は、ドイルのアイデアに飛び付き、上記2話に4話を追加するよう、依頼してきたのである。
かくして、1891年7月の「ストランドマガジン」に、「シャーロック・ホームズの冒険」の第1作に該る「ボヘミアの醜聞」が掲載され、読者の熱狂を生み出し、貧乏に苦しむドイルにとっては、三度目の正直というか、起死回生のホームランとなった。つまり、アッパーウィンポールストリート2番地は、ホームズが約130年後の今に続く絶大な人気を得ることになった短編物がドイルによって執筆された場所なのである。現在、建物の入口左手に掲げられている緑色の銘板には、「1891年にドイルがここで働き、そして、作品を執筆した。(Sir Arther Conan Doyle (Author 1859-1930) worked and wrote here in 1891.)」と記されている。
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