2026年8月7日金曜日

ロンドン キングストリート18番地(18 King Street)- その1

キングストリート18番地に建つ「オークハウス」(その1)
<筆者撮影>


アガサ・クリスティー作「スペイン櫃の謎(The Mystery of the Spanish Chest)」は、短編集「クリスマスプディングの冒険(The Adventure of the Christmas Pudding)」(1960年)に収録されている一編である。


英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作短編集「クリスマスプディングの冒険」の
ペーパーバック版の表紙 -
中編「スペイン櫃の謎」が収録されている。


裕福な独り者であるチャールズ・リッチ少佐(Major Charles Rich)が、クレイトン夫妻(Mr and Mrs Clayton)、スペンス夫妻(Mr and Mrs Spence)とマクラーレン中佐(Commander McLaren)という長年来の友人5人を、自宅のフラットへ食事に招く。

ところが、直前になって、招待客の一人であるクレイトン氏に、急な商用でスコットランドへ出かける必要が生じて、食事会に参加できなくなった。マクラーレン中佐と一緒にクラブで一杯飲んだ後、クレイトン氏は、駅へ向かう途中、事情を説明するために、リッチ少佐のフラットに立ち寄ったが、生憎と、リッチ少佐は外出していた。

そこで、クレイトン氏は、リッチ少佐への伝言を残すべく、リッチ少佐の執事バージェス(Burgess)に居間へ案内してもらう。バージェスは、キッチンでの準備のため、クレイトン氏を居間に残したまま、その場を後にするが、リッチ少佐への伝言をしたためた後、クレイトン氏が立ち去るところを見かけていなかった。10分程して、リッチ少佐が帰宅し、バージェスを使い走りに外出させた。


その後、クレイトン氏を除いた残り5人で、食事会は滞りなく終わったのであるが、翌朝、居間の掃除をしていたバージェスは、部屋の角に置いてあるスペイン櫃の蓋を開けると、櫃の内には首を刺し貫かれたクレイトン氏の死体が入っていたのである。スコットランドに居る筈のクレイトン氏が、スペイン櫃の内に居たのか?そして、彼は櫃の内で何をしていたのか?


キングストリート18番地に建つ「オークハウス」(その2)
<筆者撮影>


リッチ少佐は、クレイトン氏殺害の容疑で、警察に逮捕される。リッチ少佐はクレイトン夫人に魅かれており、リッチ少佐にとって、クレイトン氏は邪魔な存在だったと、警察は推測する。そして、食事会の直前、帰宅したリッチ少佐は、居間で彼への伝言をしたためているクレイトン氏に出会い、口論の末、クレイトン氏を刺し殺して、スペイン櫃内に押し込んだ単純明快な事件だと、警察は考えたのである。


クレイトン夫人と共通の友人経由、クレイトン夫人から依頼を受けたエルキュール・ポワロは首をひねった。刺し殺されたクレイトン氏の死体をスペイン櫃内に押し込んだまま、リッチ少佐は、その櫃がある居間で残りの招待客4人と一緒に食事会を行い、翌朝、執事のバージェスがクレイトン氏の死体を発見するまで、そのまま死体を放置していたことになる。リッチ少佐は、それ程までに愚かなのだろうか?ポワロの灰色の脳細胞が動き出す。




英国のTV会社 ITV1 で放映されたエルキュール・ポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の第3シリーズ / 第27話「スペイン櫃の謎」(放送日:1991年2月17日)において、クレイトン夫妻の家はルーメインガーデンズ(Roumaine Gardens)にあると言う設定になっているが、実際には、ロンドンの特別区の一つで、ロンドン南西部郊外のリッチモンド・アポン・テムズ区(London Borough of Richmond upon Thames)のリッチモンド(Richmond → 2018年3月17日 / 3月24日付ブログで紹介済)内に所在するリッチモンドグリーン(Richmond Green → 2026年7月24日付ブログで紹介済)と呼ばれる大きな緑地帯の南側、南北に延びるオールドパレステラス通り(Old Palace Terrace)と東西に延びるキングストリート(King Street)が交差する場所に建つキングストリート18番地(18 King Street)の「オークハウス(Oak House)」が、撮影に使用されている。


リッチモンド内のリッチモンドグリーン南側の地図(Google Maps から抜粋)-
ピンク色の蛍光ペンで囲った建物が、キングストリート18番地に建つ「オークハウス」。


なお、アガサ・クリスティーの原作上、クレイトン夫妻の家は、スローンストリート(Sloane Street)近くのカーディガンガーデンズ(Cardigan Gardens)にあると言及されている。 


2026年8月6日木曜日

エマ・ハミルトン(Emma, Lady Hamilton)- その5

(右側)ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)に所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作のエマ・ハートの肖像画(1785年頃)
(左側)同じく、ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている
Sir William Beechey 作のホレーシ・ネルソンの肖像画(1800年)
<筆者撮影>

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、物語の語り手であるマイケル・ロジャース(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))が、キングストンビショップ村(Kingston Bishop)の住民で、友人となったフィルポット少佐(Major Phillpot)と一緒に出かけたバリントンマナーハウス(Barrington Manor)において開催されたオークションに出品された絵画の作者のうち、ジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年 → 2026年5月16日 / 5月21日 / 5月26日 / 5月31日付ブログで紹介済)は英国の肖像画家で、同時代に活躍したサー・ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。


2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャース
(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))と

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン

(Fenella Guteman - 通称:エリー(Ellie))の2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックス(Rudolf Santonix)に依頼して、

キングストンビショップ村(Kingston Bishop)にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘(Gipsy’s Acre)」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


そのジョージ・ロムニーに多大な芸術的霊感を与えてくれる女神(muse)とも言える存在となったエマ・ハート(Emma Hart:1765年ー1815年)は、英国の絵画モデル / 舞踏家 / 女優である。


ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作の自画像(Self-portrait)(1784年)
<筆者撮影>


英国の外交官で、ナポリ公使として駐在していたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトン(Sir William Douglas Hamilton:1730年ー1803年)の愛人を経て、1791年9月6日の結婚後、彼の正式な妻、即ち、ナポリ公使夫人となったレディー・エマ・ハミルトンは、1793年9月の初対面の5年後の1798年9月に再会した後に英国海軍提督となる初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson:1758年ー1805年)と恋愛関係になる。

前述の通り、エマ・ハミルトンは、1791年にサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンと結婚して、ナポリ公使夫人と言う立場にあり、また、ホレーショ・ネルソンも、1787年にフランシス・ハーバート・ウールワード(Frances Herbert Woolward:1758年ー1831年)と結婚していたため、2人とも不倫だった訳である。

2人の不倫関係は、何故か、周囲から寛大に見られており、エマ・ハミルトンの夫であるサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンも、そうであった。サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとしては、ホレーショ・ネルソンを英国にとって必要不可欠な人物であると見做して、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係を黙認する一方、ホレーショ・ネルソンとの友情関係も維持していた、とのこと。

ただ、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係は、ナポリから本国である英国へと伝わり、新聞報道を経て、公となってしまった。


ホレーショ・ネルソンの英国への召喚と時を同じくして、サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンもナポリ公使の任を解かれた。

エマ・ハミルトンは、少なくとも、1800年4月の時点で、ホレーショ・ネルソンの子を懐妊していたと推測される。

エマ・ハミルトンは、母メアリー・キッド(Mary Kidd)、夫サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンや愛人ホレーショ・ネルソンと一緒に、中央ヨーロッパ経由で、1800年11月6日に英国へ帰国。

妊娠しているエマ・ハミルトンを見たホレーショ・ネルソンの妻フランシス・ハーバート・ウールワードは、不快な表情を見せたため、これがまた新聞の恰好なネタとなり、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係は、再度世間を騒がせた。サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとは異なり、フランシス・ハーバート・ウールワードは、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係を最後まで認めなかった。


英国への帰国後、サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとエマ・ハミルトンは、グローヴナースクエア22番地(22 Grosvenor Square)にある英国の作家 / 政治家であるウィリアム・トマス・ベックフォード(William Thomas Beckford:1760年ー1844年)の邸宅へ一旦入居。

一方、ホレーショ・ネルソンとフランシス・ハーバート・ウールワードは、グローヴナースクエア22番地から徒歩圏内にあるドーヴァーストリート17番地(17 Dover Street)に入居した。

1800年12月に、サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとエマ・ハミルトンは、ピカデリー通り23番地(23 Piccadilly)の家を賃借して、グローヴナースクエア22番地から転居。


1801年1月1日、ホレーショ・ネルソンは、青色艦隊中将(Vice-admiral of the Blue)へ昇進し、新たな任務を帯びる。

航海中、ホレーショ・ネルソンは、妻フランシス・ハーバート・ウールワード宛に、短く、かつ、冷淡な手紙を送り、以降、彼女に会うことは二度となかった。一方、彼は、エマ・ハミルトンとは、何度も書簡を交わし、彼女の健康状態を気にかけていた。

エマ・ハミルトンは、1780年(15歳)に産んだ娘エマ・カルー(Emma Carew - 愛人だった第2代準男爵サー・ヘンリー・フェザーストノー(Sir Henry Fetherstonhaugh, 2nd Baronet:1754年ー1846年)の子供)の存在を、ホレーショ・ネルソンから隠し続けた。


そして、1801年1月29日、エマ・ハミルトンは、夫サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとエマ・ハミルトンは、ピカデリー通り23番地の家において、ホレーショ・ネルソンの娘ホレイシア・ネルソン(Horatia Nelson:1801年ー1881年)を出産したのである。


         

2026年8月5日水曜日

ロンドン パラダイスロード34番地 / ホガースハウス(Hogarth House, 34 Paradise Road)- その2

パラダイスロード沿いの歩道から
パラダイスロード34番地「ホガースハウス」を見たところ
<筆者撮影>


1912年8月10日に結婚した英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf / 本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年 / 英国の小説家 / 評論家)レナード・シドニー・ウルフ(Leonard Sidney Woolf:1880年ー1969年 / 英国の作家 / 出版業者 / 公務員の2人は、シティー・オブ・ロンドン(City of London → 2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)の西端に所在しているクリフォーズイン(Clifford’s Inn → 2026年7月9日 / 7月10日付ブログで紹介済)と言うフラットへ移り住んだ。


1912年8月10日に結婚した
ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が
移り住んだフラット「クリフォーズイン」の玄関を北側から見たところ
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフは、1912年12月から1913年3月にかけて行った彼女の最初の長編小説となる「船出(The Voyage Out)」の大幅な改稿作業の結果、肉体的にも、精神的にも、極度の消耗状態になった。その後、彼女は何度も神経衰弱に陥り、1913年9月9日には、睡眠薬のヴェロナール(veronal)の過剰摂取により、自殺を試みたが、なんとか一命をとりとめた。


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売
されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


重度の精神疾患に苦しむヴァージニア・ウルフのことを心配したレナード・シドニー・ウルフは、1914年の秋、彼女を連れて、ロンドン市内を離れ、緑豊かなリッチモンド(Richmond → 2018年3月17日 / 3月24日付ブログで紹介済)にあるリッチモンドグリーン(Richmond Green → 2026年7月24日付ブログで紹介済)へと引っ越した。


リッチモンドグリーンの緑地帯を
南西側から北東方面へと進むところ
<筆者撮影>


テムズ河(River Thames)の上流にあるリッチモンドは、ロンドンの特別区の一つで、ロンドン南西部郊外のリッチモンド・アポン・テムズ区(London Borough of Richmond upon Thames)内にあり、テムズ河の中流域に位置して、テムズ河の東岸に広がる高級住宅地である。


リッチモンドの周辺地図(Google Maps から抜粋)-
画面中央から左側にある大きな緑地帯が「リッチモンドグリーン」で、
画面右下の赤い矢印部分に、パラダイスロード34番地のホガースハウスが所在している。


ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人がリッチモンドグリーンへ引っ越した1914年の秋頃、彼女の精神状態は落ち着いていたが、引越後の1915年2月には、精神疾患が再発、彼女の容体は悪くなってしまう。


パラダイスロード沿いの歩道から
パラダイスロード34番地「ホガースハウス」の入口を見たところ
<筆者撮影>


そこで、1915年3月、彼らは、リッチモンドグリーン近くのパラダイスロード34番地(34 Paradise Road)の家へ再度引っ越して、その家を「ホガースハウス(Hogarth House)」と名付けた。

リッチモンドグリーンからパラダイスロード34番地の「ホガースハウス」へ引っ越したものの、ヴァージニア・ウルフの精神疾患は、1917年まで続いた。

レナード・シドニー・ウルフは、彼女が興味を持てそうな趣味や活動をなんとか見つけて、執筆による精神的ストレスから彼女を解放しようと努めた。幸いにして、2人が興味を持っていた印刷技術に注目したレナード・シドニー・ウルフは、1917年3月、「ホガースプレス(Hogarth Press)」と言う出版社を、「ホガースハウス」の居間に設立したのである。


パラダイスロード34番地「ホガースハウス」の外壁には、
Greater London Council のプラークが掛けられている。
<筆者撮影>


レナード・シドニー・ウルフは、小さな手動印刷機、古い活字、道具や材料等を購入。
レナード・シドニー・ウルフとヴァージニア・ウルフの2人は、活字を一字一字拾い、自分達で印刷と製本を行った。

2人が「ホガースプレス」として出版した最初の本は、「Two Stories」で、1917年7月のことであった。「Two Stories」は、レナード・シドニー・ウルフの随筆とヴァージニア・ウルフの短編「壁の染み(The Mark on the Wall)」が収録された32ページの小冊子だった。


パラダイスロード34番地「ホガースハウス」の外壁に掛けられている
Greater London Council のプラークには、
レナード・ウルフとヴァージニア・ウルフの2人が、1915年から1924年までの間、
パラダイスロード34番地の建物に住んでおり、
また、1917年にここで出版社「ホガースプレス」を設立したことが記されている。
<筆者撮影>


「ホガースプレス」は、当初、レナード・シドニー・ウルフとヴァージニア・ウルフによる手作業だったので、150部止まりの出版が多かった。

そのため、アイルランド出身の小説家 / 詩人であるジェイムズ・オーガスティン・アロイジアス・ジョイス(James Augustine Aloysius Joyce:1882年ー1941年)が長編小説「ユリシーズ(Ulysses)」を持ち込んだ際には、大作のため、印刷を断らざるを得なかった。


トマス・スターンズ・エリオットが住んでいたフラットが、
ケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)内の
ケンジントンコートプレイス通り(Kensington Court Place)沿いに建っている。
このフラットは、現在、
「ケンジントンコートガーデンズ(Kensington Court Gardens)」と呼ばれている。
<筆者撮影>


トマス・スターンズ・エリオットは、1965年にこのフラットで死去した。
<筆者撮影>

その後、「ホガースプレス」に追加の設備が導入され、事業が拡大した結果、一部の印刷作業は、外部の会社に委託されるようになった。

「ホガースプレス」は、当初、レナード・シドニー・ウルフとヴァージニア・ウルフの2人が属する著述家や芸術家の知的サークルである「ブルームズベリーグループ(Bloomsbury Group)」による著作の出版が中心であったが、米国出身の英国の詩人 / 文芸批評家であるトマス・スターンズ・エリオット(Thomas Stearns Eliot:1888年ー1965年 → 2017年6月25日付ブログで紹介済)作「荒地(The Waste Land)」(1923年)やオーストリアの心理学者 / 精神科医であるジークムント・フロイト(Sigmund Freud:1856年ー1939年)の著作等も発行している。


ハムステッド地区(Hampstead → 2018年8月26日付ブログで紹介済)内に所在する
タヴィストック クリニック(Tavistock Clinic)前に設置されている
ジークムント・フロイト像
<筆者撮影>


1938年にヴァージニア・ウルフが「ホガースプレス」による出版事業から離れた後、夫のレナード・シドニー・ウルフは、英国の出版業者 / 詩人であるルドルフ・ジョン・フレデリック・レーマン(Rudolf John Frederick Lehmann:1907年ー1987年)と共同で「ホガースプレス」を経営。

レナード・シドニー・ウルフの出版業への熱意は生涯にわたるもので、第二次世界大戦(1939年ー1945年)後、そして、ヴァージニア・ウルフの死(1941年)後も続いたが、最終的には、1946年に現在のペンギンランダムハウス(Penguin Random House)に統合された。

「ホガースプレス」は、1917年の設立以降、1946年のペンギンランダムハウスへの統合までの間に、527冊のタイトルに及ぶ本を出版したのである。 


2026年8月4日火曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その40B

英国の HarperCollinsPublishers 社から現在出版されている
アガサ・クリスティー作「死者のあやまち」ペーパーバック版の表紙 -
血痕らしきものが付いた壁紙が、鍵の形に切り取られている。
いずれも、事件の舞台となるナス屋敷のものだろうか?


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)作「死者のあやまち(Dead Man’s Folly)」(1956年)のストーリーは、以下の通り。


エルキュール・ポワロは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立っている。
<筆者撮影>


ある日、ロンドン市内にあるエルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)のオフィスにおいて、電話が鳴り、ポワロの秘書であるフェリシティー・レモン(Miss Felicity Lemon → 2025年10月15日付ブログで紹介済)が受話器をとる。ポワロに電話をかけてきたのは、人気推理作家で、昔なじみのアリアドニ・オリヴァー夫人(Mrs. Ariadne Oliver → 2025年10月26日付ブログで紹介済)であった。電話はデヴォン州(Devon)からで、オリヴァー夫人は、ポワロに対して、「直ぐこちらに来てほしい。」と頼み込む。そこで、ポワロは、早速、ロンドン発の列車でデヴォン州へと向かう。


ミス・フェリシティー・レモンは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立つ
エルキュール・ポワロの左斜め下に居る。

<筆者撮影>


ナスコム駅(Nassecombe Station)からオリヴァー夫人が滞在しているナス屋敷(Nasse House)へ迎えの車で向かう途中、ポワロは、外国人旅行者の女性二人(オランダ人とイタリア人)を車に乗せて、近くのユースホステルまで送ってあげる。この辺り一帯は、外国人ハイカー達に人気の場所で、後でも、彼女達はナス屋敷の地所を勝手に横切ろうとして、ナス屋敷の主であるサー・ジョージ・スタッブス(Sir George Stubbs)から厳重な注意を受けている。


アリアドニ・オリヴァーは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立つ
エルキュール・ポワロ
のすぐ右側に居て、

肘掛け椅子に座っている。

<筆者撮影>


ナス屋敷に到着したポワロに対して、オリヴァー夫人は、次のように説明する。ナス屋敷で催される慈善パーティーのために、(殺人)犯人探しゲーム(Murder Hunt)の段取りをしているところだが、このゲーム自体に何かおかしな点があるものの、それが何なのか、よく判らない。オリヴァー夫人は、そんな不安を口にする。彼女としては、それをポワロに明らかにしてほしいと頼むのであった。


ナス屋敷では、次の人達が慈善パーティーの準備をしていた。

(1)サー・ジョージ・スタッブス:ナス屋敷の主

(2)レデイー・スタッブス ハティー(Lady Stubbs, Hattie Stubbs):サー・ジョージ・スタッブスの年若い妻

(3)アマンダ・ブレウィス(Amanda Brewis):サー・ジョージ・スタッブスの秘書

(4)マイケル・ウェイマン(Michael Weyman):サー・ジョージ・スタッブスに雇われて、ナス屋敷の改装を行っている建築家

(5)原子科学者のアレック・レッグ(Alec Legge):原子科学者 / サリー・レッグ(Sally Legge):アレック・レッグの妻

→「エルキュール・ポワロとグリーンショア屋敷の阿房宮(Hercule Poirot and the Greenshore Folly → 2014年9月27日付ブログで紹介済)」の場合、近所のコテージに住むアレックとペギーのレッグ若夫婦(Alec Legge + Peggy Legge)となっている。

(6)マスタートン夫人(Mrs. Masterton):慈善パーティー全体のとりまとめ役

(7)ワーバートン大尉(Captain Warburton):マスタートン夫人の手助けをしている人物

→「エルキュール・ポワロとグリーンショア屋敷の阿房宮」の場合、ワーボロー大尉(Captain Warborough)となっている。

(8)フォリアット夫人(Mrs. Folliat):ハティー・スタッブスの庇護者で、ナス屋敷の前の持ち主でもある。フォリアット家は1598年から何代にもわたってこの地所を所有していたが、第二次世界大戦前に、彼女の夫が亡くなってしまった。また、彼女の長男であるヘンリー・フォリアット(Henry Folliat)は海軍で出征した後、乗っていた艦が沈められ、彼女の次男であるジェイムズ・フォリアット(James Folliat)は陸軍に入隊したが、イタリアで戦死したようである。財政上の窮地に陥ったフォリアット夫人は、サー・ジョージ・スタッブスに対して、屋敷を売却し、その代わりに、園丁が住んでいたコテージを貸し与えられて住んでいる。


オリヴァー夫人によると、犯人探しゲームのアイデアを出したのはマスタートン夫人だが、何か腑に落ちないところがあるという言う。ある誰かが何らかの意図をもって、他の人達の背後で彼らを操りながら、何かを計画しているような気がしてならない、と...


犯人探しゲームの被害者は、原子科学者の先妻のユーゴスラビア人女性で、ボート小屋で殺される筋書きになっていた。当初、サリー・レッグが被害者役を務める筈だったが、慈善パーティーで占い師の役を担当することになり、この村に住む少女マーリン・タッカー(Marlene Tucker)が被害者役を代わった。慈善パーティー当日、ポワロとオリヴァー夫人がボート小屋へ様子を見に行くと、マーリンはスカーフで本当に絞殺されていたのであった!


一方、慈善パーティー会場に、(9)ハティーの従兄弟と称するエティエンヌ・ド・スーザ(Etienne da Sousa→「エルキュール・ポワロとグリーンショア屋敷の阿房宮」の場合、ポール・ロペス(Paul Lopez)となっている)が姿を現す。西インド諸島から到着したばかりで、ダートマス(Dartmouth → 2023年9月6日付ブログで紹介済)にヨットを係留し、ダート川(River Dart → 2023年9月6日付ブログで紹介済)をボートで上がって、屋敷にやって来たのである。ハティー・スタッブスに久しぶりに会いたいと言う。ところが、従兄弟を忌み嫌うハティー・スタッブスは、エティエンヌ・ド・スーザの到着前に姿を消してしまい、その後、その行方が杳として知れない。


ダートマス城(Dartmouth Castle → 2023年9月10日 / 9月12日付ブログで紹介済)から、
ダート川越しに、対岸を望む。
<筆者撮影>


その後、また一人犠牲者が出る。この村に住むマーデル老人(Old Merdel)で、ある晩、乗っていた船から船着場に飛び移ろうとして、ダート川に落ちて溺死したのである。彼は、絞殺された少女の祖父だったことが判明する。警察当局は老人の死を事故死として処理しようとするが、ポワロは、以前マーデル老人に会った際、彼が発した思わせ振りな言葉が非常に気になった。「フォリアット家が、ナス屋敷からは離れることはない。('Always be Folliats at Nasse.')」と...


果たして、マーデル老人の溺死は事故死なのか?彼女の孫であるマーリン・タッカーを殺害したのは誰なのか?そして、その理由は?更に、ハティー・スタッブスは何処に行ってしまったのか?


(93)ナス屋敷(Nasse House)



「死者のあやまち」において、事件の舞台となるのが、ナス屋敷である。


(94)ボート小屋(boathouse)



ナス屋敷で催される慈善パーティーのために、アリアドニ・オリヴァー夫人が段取りをした犯人探しゲームにおいて、原子科学者の先妻のユーゴスラビア人女性が、被害者として、ボート小屋で殺される筋書きになっていた。

当初、サリー・レッグが被害者役を務める筈だったが、慈善パーティーで占い師の役を担当することになり、村に住む少女マーリン・タッカーが被害者役を代わる。慈善パーティー当日、ポワロとオリヴァー夫人がボート小屋へ様子を見に行くと、マーリン・タッカーがスカーフで本当に絞殺されていた。


(95)5種類の凶器(five murder weapons)



ナス屋敷で催される慈善パーティーのために、アリアドニ・オリヴァー夫人が段取りをした犯人探しゲームにおいて、原子科学者の先妻のユーゴスラビア人女性が、被害者として、ボート小屋で殺される筋書きになっていた。その凶器として、オリヴァー夫人は、拳銃や皮下注射器等を候補に挙げていた。


2026年8月3日月曜日

ロンドン コートールドギャラリー(Courtauld Gallery)- その7


ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のストランド地区(Strand)にあり、テムズ河(River Thames)を見下ろす絶好のロケーションに建つサマセットハウス(Somerset House → 2016年7月17日)内に設けられているコートールドギャラリー(Courtauld Gallery)の3階(Floor 2)にある「Project Space」において、2026年6月日から同年10月4日まで、「Hepworth and Nicholson / The Hampstead Studio Photographs」と言う英国の芸術家 / 彫刻家であるジョスリン・バーバラ・ヘップワース(JocelynBarbara Hepworth:1903年ー1975年 → 2024年10月1日 / 10月31日 / 11月2日付ブログで紹介済)の特別展が行われているので、今回紹介したい。


コートールドギャラリーの
3階(Floor 2)のレイアウト図


ジョスリン・バーバラ・ヘップワースは、土木技師(civil engineer)である父ハーバート・ヘップワース(Herbert Hepworth)と母ガートルード・ヘップワース(Gertrude Hepworth)の長子(長女)として、1903年1月10日、ヨークシャー州(Yorkshire)のウェイクフィールド(Wakefield)に出生。

彼女は、ウェイクフィールド女子高等学校(Wakefield Girls’ High School)で学んだ後、奨学金を得て、1920年からリーズ美術学校(Leeds School of Art)へ通った。ここで、彼女は、将来、20世紀の英国を代表する芸術家 / 彫刻家となるヘンリー・スペンサー・ムーア(Henry Spencer Moore:1898年ー1986年)と同窓になる。2人は友人となり、友好的なライバル関係は、長年にわたって続くことになる。

男性優位な環境下にもかかわらず、彼女は、再度、奨学金を得ると、1921年からロンドンの王立美術カレッジ(Royal College of Art (RCA))で学び、1924年に学位を取得している。



王立美術カレッジの学位取得後、ジョスリン・バーバラ・ヘップワースは、留学奨学金を得て、1924年にイタリアのフィレンツェ(Florence)へ向かった。
留学先のフィレンツェにおいて、彼女は、ローマ賞(Prix-de-Rome)の次点になったが、優勝は、英国の彫刻家であるジョン・ラッテンベリー・スキーピング(John Rattenbury Skeaping:1901年ー1980年)が手にした。

2人は、シエナ(Sienna)とローマ(Rome)を一緒に旅行した後、フィレンツェに戻り、1925年5月13日に結婚する。

結婚後、彼女は、同地において、彫刻家であるジョヴァンニ・アルディーニ(Giovanni Ardini)に師事して、大理石彫刻を学んだ。


Portrait of Barbara Hepworth by Paul Laib (1869 - 1958)
1933年 / Vintage gelation silver print


ジョスリン・バーバラ・ヘップワースとジン・ラッテンベリー・スキーピングの2人は、1926年に英国へ戻り、ロンドンのフラットに住居を構えると、そこで共同個展を開催。

そして、1929年には、2人の間に、長男のポール(Paul)が生まれた。


Portrait of Ben Nicholson by Paul Laib (1869 - 1958)
1933年 / Vintage gelation silver print


1931年に、ジョスリン・バーバラ・ヘップワースは、英国の抽象画家であるベンジャミン・ローダー・ニコルスン(Benjamin Lauder Nicholson:1894年ー1982年)と出会い、不倫関係となるが、ジョン・ラッテンベリー・スキーピングとの婚姻関係はそのまま維持。
ただ、その2年後の1933年に、彼女は、ジョン・ラッテンベリー・スキーピングに対して、離婚を申し出て、同年3月に離婚するのである。



ジョスリン・バーバラ・ヘップワースは、1934年10月3日に、不倫関係にあったベンジャミン・ローダー・ニコルスンの子供を出産。彼らの子供は、三つ子で、レイチェル(Rachel)、サラ(Sarah)とサイモン(Simon:1934年ー1990年)と名付けられた。
当時、ベンジャミン・ローダー・ニコルスンは、英国の画家であるローザ・ウィニフレッド・ニコルスン(Rosa Winifred Nicholson:1893年ー1981年)と婚姻関係にあったが、1938年に離婚が成立。

その結果、ジョスリン・バーバラ・ヘップワースは、1938年11月17日、ロンドンの北西部にあるハムステッド登記所(Hampstead Register Office)において、ベンジャミン・ローダー・ニコルスンと結婚した。

コートールドギャラリーにおいて開催されている特別展「Hepworth and Nicholson / The Hampstead Studio Photographs」は、ジョスリン・バーバラ・ヘップワースとベンジャミン・ローダー・ニコルスンの2人がハムステッド地区(Hampstead → 2018年8月26日付ブログで紹介済)内に保有していたアトリエにおいて撮影された写真である。



第二次世界大戦(1939年-1945年)が勃発した1939年、ジョスリン・バーバラ・ヘップワースとベンジャミン・ローダー・ニコルスンは、子供達を連れて、コンウォール州(Cornwall)へと疎開する。
コンウォール州が気に入った彼女は、1949年から亡くなる1975年までの間、同州のセントアイヴス(St. Ives)に所在するトレウィンスタジオ(Trewyn Sudios)に住み続けた。

第二次世界大戦中、セントアイヴスは、多くの芸術家にとって、疎開場所となったのである。



第二次世界大戦後の1949年2月8日、ジョスリン・バーバラ・ヘップワースとベンジャミン・ローダー・ニコルスンは、コンウォール州のセントアイヴスにおいて、ペンウィズ芸術協会(Penwith Society of Arts)を共同創設し、19名の芸術家が創設メンバーとして参加。

1950年、ジョスリン・バーバラ・ヘップワースの彫刻作品が、第25回ヴェネツィアビエンナーレ(XXV Venice Biennale)の英国パヴィリオン(British Pavilion)において展示される。



1951年、ジョスリン・バーバラ・ヘップワースは、夫のベンジャミン・ローダー・ニコルスンと離婚。

この頃、ジョスリン・バーバラ・ヘップワースは、彫刻作品として、石や木だけではなく、ブロンズや粘土を使い始めた。彼女は、大きなブロンズ彫刻作品を、セントアイヴスに所在する自宅のトレウィンスタジオの庭園内に設置した。



ジョスリン・バーバラ・ヘップワースと前夫のジョン・ラッテンベリー・スキーピングの間に1929年に生まれた長男のポールは、英国空軍に入隊後、タイ王国に駐在していたが、1953年2月13日、飛行機事故により、死亡。

彼女は、長男ポール追悼のため、彫刻作品「聖母子(Madonna and Child)」を制作して、セントアイヴス教区教会(parish church of St. Ives)に寄贈した。

長男ポールの死により精神的に追い込まれていた彼女は、1954年8月、彼女の親友で、芸術家のパトロンでもあるマーガレット・エミリア・ガーディナー(Margaret Emilia Gardiner:1904年ー2005年)と一緒に、ギリシアへと旅立ち、アテネ(Athens)、デルフィ(Delphi)やエーゲ海の諸島を巡る。



1960年に、ジョスリン・バーバラ・ヘップワースは、通りを挟んで、自宅のトレウィンスタジオの向かい側にある元映画 / ダンスホールのパレ・ド・ダンス(Palais de Danse)を購入して、スタジオ面積を広げた。スタジオの追加購入により、彼女は、大型の彫刻作品を制作できるようになった。


晩年、ジョスリン・バーバラ・ヘップワースは、リトグラフを用いた作品も制作した。

彼女が1971年に発表した「エーゲ海作品集(The Aegean Suite)」は、1954年8月、マーガレット・エミリア・ガーディナーと一緒に、ギリシアを旅した経験に基づいている。



ジョスリン・バーバラ・ヘップワースは、1975年5月20日、自宅のトレウィンスタジオにおける失火により亡くなった。享年72歳だった。