2016年7月16日土曜日

ロンドン ステップニー地区チャーチストリート(Church Street / Stepney)

王立ロンドン病院(The Royal London Hospital)の西側のステップニーウェイ(Stepney Way)

サー・アーサー・コナン・ドイル作「六つのナポレオン像(The Six Napoleons)」は、ある夜、スコットランドヤードのレストレイド警部(Inspector Lestrade)がベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)のシャーロック・ホームズの元を訪れるところから、物語が始まる。


最近、ロンドンの街中で何者かが画廊や住居等に押し入って、ナポレオンの石膏胸像を壊してまわっていたのだ。そのため、レストレイド警部はホームズのところへ相談に来たのである。最初の事件は、4日前にモース・ハドソン氏(Mr Morse Hudson)がテムズ河(River Thames)の南側にあるケニントンロード(Kennington Road)で経営している画廊で、そして、2番目の事件は、昨夜、バーニコット博士(Dr Barnicot)の住まい(ケニントンロード)と診療所(ロウワーブリクストンロード(Lower Brixton Road))で発生していた。続いて、3番目の事件がケンジントン地区(Kensington)のピットストリート131番地(131 Pitt Street)にあるセントラル通信社(Central Press Syndicate)の新聞記者ホーレス・ハーカー氏(Mr Horace Harker)の自宅で起きたのであった。4体目の石膏胸像が狙われた上に、今回は殺人事件にまで発展したのだ。

王立ロンドン病院の東側のステップニーウェイ

モース・ハドソン氏の画廊を訪れたホームズとジョン・ワトスンは、彼がナポレオンの石膏胸像をステップニー地区(Stepney)のチャーチストリート(Church Street)にあるゲルダー社(Gelder and Co.)から3体仕入れたことを聞き出す。そこで、彼らはゲルダー社へ向かって、馬車をとばしたのであった。

ステップニーウェイの東側から見た王立ロンドン病院

ステップニーウェイの西側から見た王立ロンドン病院

私達は、急ぎ足の馬車で、上流階級のロンドン、ホテル街のロンドン、劇場街のロンドン、文学街のロンドン、商業地のロンドン、そして最後に、海のロンドンを駆け抜けて、10万人の市民が暮らすテムズ河沿いの街へとやって来た。そこでは、ヨーロッパから見捨てられた人々が住む家屋が、汗と悪臭を放っていた。富裕なシティーの商人達がかつて住んでいた広い道路に、私達が探していた彫刻/彫像工場があった。工場の表は記念碑用の石で一杯の広い作業場になっており、工場の内部は大きな部屋で、50人の職人が彫刻したり、彫像を制作していた。工場の経営者は大柄で金髪のドイツ人で、私達を礼儀正しく迎え、ホームズの質問に全て明確な回答をしてくれた。彼の書類によると、何百もの彫像がドゥヴィーヌ作ナポレオン像の大理石複製から制作されていた。しかし、1年程前にモース・ハドソン氏へ送られた3体は、同時期に制作された6体のうちの半分で、残りの3体はケンジントン地区のハーディングブラザーズへ送られていたのである。これら6体の彫像が他の彫像と異なっていることはありえない。経営者は、何故何者かがこれら6体の彫像を壊したいと思うのか、適切な理由を示唆することができなかったし、実際、彼はそんな馬鹿げたことはないと言って、笑い飛ばしたのであった。

ステップニーウェイ沿いにある王立ロンドン病院の入口

王立ロンドン病院の入口の反対側に設置されているアレクサンドラ・オブ・デンマーク像
(Alexsandra of Denmak:1844年―1925年)
アレクサンドラ・オブ・デンマークは、英国王エドワード7世(Edward VII:1841年―1910年
在位期間:1901年―1910年)の妃である

In rapid succession we passed through the fringe of fashionable London, hotel London, theatrical London, literary London, commercial London, and, finally, maritime London, till we came to a riverside city of a hundred thousand souls, where the tenement houses swelter and reek with the outcasts of Europe. Here, in a broad thoroughfare, once the abode of wealthy City merchants, we found the sculpture works for which we searched. Outside was a considerable yard full of monumental masonry. Inside was a large room in which fifty works were carving or moulding. The manager, a big blond German, received us civilly, and gave a clear answer to all Holmes's questions. A reference to his books showed that hundreds of casts had been taken from a marble copy of Devine's head of Napoleon, but the three which had been sent to Morse Hudson a year or so before had been half of a batch of six, the other three being sent to Harding Brothers, of Kensington. There was no reason why those six should be different to any of the other casts. He could suggest no possible cause why anyone should wish to destroy them - in fact, he laughed at the idea.

王立ロンドン病院の西側のステップニーウェイ沿いに建つ教会

ナポレオンの石膏胸像を制作したゲルダー社があるステップニー地区は、ロンドン・タワーハムレッツ区(London Borough of Tower Hamlets)内にあり、ロンドンの経済活動の中心地シティー(City)の東側にあるホワイトチャペル地区(White Chapel)から北東へ延びるホワイトチャペルロード(White Chapel Road)と東へ延びるコマーシャルロード(Commercial Road)に挟まれた地域である。
ステップニー地区の南側には、シャドウェル地区(Shadwell)があり、その向こうにテムズ河(River Thames)が流れている。シャドウェル地区の南西には、セントキャサリンドックス(St. Katharine Docks)を含むセントキャサリンズ&ワッピング(St. Katharine's & Wapping)があり、これが「海のロンドン」を意味していると思われる。

王立ロンドン病院の西側のステップニーウェイ沿いに営業しているパブ

なお、ステップニー地区内には、ナポレオンの石膏胸像を制作したゲルダー社があったチャーチストリート(Church Street)は存在していないので、架空の住所である。

2016年7月10日日曜日

ロンドン バタシーパーク(Battersea Park)

TV版のポワロシリーズの撮影に使用されたバタシーパーク内の屋根付き野外ステージ

アガサ・クリスティー作「愛国殺人(→ 英国での原題は、「One, Two, Buckle My Shoe」(いち、にい、私の靴の留め金を締めて)であるが、日本でのタイトルは米国版「The Patriotic Murders」をベースにしている)」(1940年)は、エルキュール・ポワロがクイーンシャーロットストリート58番地(58 Queen Charlotte Street)にある歯科医ヘンリー・モーリー(Henry Morley)の待合室に居るところから、物語が始まる。
流石の名探偵ポワロであっても、半年に一回の定期検診のために、歯科医の待合室で診療を待つのは、自分の自尊心を大いに傷つけられるのであった。ようやく診療を終えて、建物の外に出たポワロは、そこで女性の患者とすれ違った際、彼女が落とした靴の留め金(バックル)を拾って渡した。そして、フラットに戻ったポワロを待っていたのは、ついさっき自分を診療したモーリー歯科医が診療室で拳銃自殺をしたとのスコットランドヤードのジャップ主任警部(Chief Inspector Japp)からの連絡であった。

駐車場近くに設置されているバタシーパークの案内図 -
屋根付き野外ステージは、案内図の中央にある円形部分にある。

ポワロの後に、モーリー歯科医の待合室にやって来た患者は、以下の3名であることが判る。
(1)マーティン・アリステア・ブラント(Martin Alistair Blunt)/銀行頭取
(2)アムバライオティス氏(Mr Amberiotis)/インドから帰国したばかりのギリシア人→モーリー歯科医の患者で、元内務省官僚のレジナルド・バーンズ(Reginald Barnes)は、アムバライオティスがスパイである上に、恐喝者だとポワロに告げる。
(3)メイベル・セインズベリー・シール(Mabelle Sainsbury Seale)/アムバライオティス氏と同じく、インド帰りの元女優

バタシーパーク西側の駐車場付近(その1) 

バタシーパーク西側の駐車場付近(その2)

モーリー歯科医の死が自殺ではなく、他殺の可能性もあると考えて、捜査を開始したポワロであったが、その後、アムバライオティス氏が歯科医が使用する麻酔剤の過剰投与により死亡しているのが発見される。モーリー歯科医は、アムバライオティス氏の診療ミス(=注射する薬品量の間違い)を苦にして、拳銃自殺を遂げたのだろうか?

続いて、メイベル・セインズベリー・シールが行方不明となり、バタシーパーク(Battersea Park - ロンドンの特別区の一つであるワンズワース区(London Borough of Wandsworth)のバタシー地区(Battersea)内に所在)近くにあるキングレオポルドマンションズ(King Leopold Mansions)のアルバート&シルヴィア・チャップマン(Albert & Sylvia Chapman)のフラットにおいて、彼女の死体が発見される、しかも、彼女の顔は見分けがつかない程の有り様だった。

チャップマン夫人がメイベル・セインズベリー・シールを殺害の上、逃亡したのだろうか?ところが、モーリー歯科医の診療記録によると、発見された死体は、メイベル・セインズベリー・シールではなく、チャップマン夫人であることが判明する。


ポワロが診療を終えて去った後、モーリー歯科医の診療室において、一体何があったのであろうか?ポワロの灰色の脳細胞がフル回転し始める。


バタシーパーク内の庭園(その1) 

バタシーパーク内の庭園(その2)

英国のTV会社 ITV1 が放映したポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「愛国殺人」(1992年)の回では、事件の捜査を進めるポワロがモーリー歯科医の秘書であるグラディス・ネヴィル(Gladys Nevill)と彼女の恋人であるフランク・カーター(Frank Carter)に会う場面があるが、このシーンはバタシーパーク(Battersea Park)内の屋根付き野外ステージ(Bandstand)前で撮影されている。

屋根付き野外ステージを下から見上げたところ

TV版では、フランク・カーターは急進的な左派政治団体に所属し、後にマーティン・アリステア・ブラントの邸宅で彼を銃で射殺しようとした容疑で逮捕されてしまう。アガサ・クリスティーの原作では、マーティン・アリステア・ブラントの姪であるジェーン・オリヴェラ(Jane Olivera)の恋人ハワード・レイクス(Howard Raikes)が、TV版におけるフランク・カーターの役割を果たしているが、約1時間半の尺におさめるために、TV版にハワード・レイクスは登場せず、フランク・カーターが代わりにハワード・レイクスの役割を担当することになったものと思われる。それに伴って、ハワード・レイクスの恋人であるジェーン・オリヴェラの出番も少なくなっている。

屋根付き野外ステージの床に設置されている記念碑

バタシーパークは、テムズ河(River Thames)南岸のロンドン・ワンズワース区(London Borough of Wandsworth)のバタシー地区(Battersea)内にあり、テムズ河沿いに広がる大きな公園である。テムズ河を挟んで、バタシーパークの対岸には、ケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のチェルシー地区(Chelseaー高級住宅街の一つ)が位置している。

シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の
ピムリコ地区(Pimlico)内の Denbigh Street 沿いに設置されている
トマス・キュービット像


当地は、以前、バタシーフィールズ(Battersea Fields)と呼ばれ、貴族階級が決闘を行う場所として有名であった。当時、テムズ河北岸からのアクセスは、少し上流に架かっている木製のバタシーブリッジ(Battersea Bridge)か、もしくは、フェリーに頼っていた。
その後、当地の教会区司祭や対岸に土地を有する建設業者/不動産開発業者であるトマス・キュービット(Thomas Cubitt:1788年ー1855年)等から、当地に王立公園(Royal Park)を建設する計画が持ち上がり、1846年に議会の承認が得られると、英国の建築家サー・ジェイムズ・ペネーソン(Sir James Pennethorne:1801年ー1871年)が、英国の建築家ジョン・ギブソン(John Gibson:1817年ー1892年)の協力の下、1846年から1864年にかけて、バタシーパークの設計を行った。バタシーパーク自体は、1858年にオープンしている。

屋根付き野外ステージ内から見たバタシーパーク

画面中央奥には、パゴタが見える。

バタシーパークのオープンに合わせるように、バタシーパークの東側でテムズ河の北岸と南岸がチェルシーブリッジ(Chelsea Bridge)で結ばれ、ヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年-1901年 在位期間:1837年ー1901年)の出席の下、開通を迎えた。バタシーパークの東側の通りは、クイーンズタウンロード(Queenstown Road)と呼ばれている。
その後、バタシーパークの西側には、アルバートブリッジ(Albert Bridge)が架けられ、バタシーパークの西側の通りは、アルバートブリッジロード(Albert Bridge Road)と名付けられている。

画面奥を左右に横切る通りがアルバートブリッジロード

現在、バタシーパークは、サッカー場、クリケット場、テニスコート、(ボート用の)湖、動物園、遊園地や屋根付き野外ステージ等を備えた公園となっている。

2016年7月9日土曜日

ロンドン ケンジントンハイストリート(Kensington High Street)

地下鉄ハイストリートケンジントン駅の入口前から見たケンジントンハイストリート

サー・アーサー・コナン・ドイル作「六つのナポレオン像(The Six Napoleons)」は、ある夜、スコットランドヤードのレストレイド警部(Inspector Lestrade)がベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)のシャーロック・ホームズの元を訪れるところから、物語が始まる。


最近、ロンドンの街中で何者かが画廊や住居等に押し入って、ナポレオンの石膏胸像を壊してまわっていたのだ。そのため、レストレイド警部はホームズのところへ相談に来たのである。最初の事件は、4日前にモース・ハドソン氏(Mr Morse Hudson)がテムズ河(River Thames)の南側にあるケニントンロード(Kennington Road)で経営している画廊で、そして、2番目の事件は、昨夜、バーニコット博士(Dr Barnicot)の住まい(ケニントンロード)と診療所(ロウワーブリクストンロード(Lower Brixton Road))で発生していた。続いて、3番目の事件がケンジントン地区(Kensington)のピットストリート131番地(131 Pitt Street)にあるセントラル通信社(Central Press Syndicate)の新聞記者ホーレス・ハーカー氏(Mr Horace Harker)の自宅で起きたのであった。4体目の石膏胸像が狙われた上に、今回は殺人事件にまで発展したのだ。レストレイド警部に呼び出されたホームズとジョン・ワトスンは、野次馬で溢れた現場に到着する。

ケンジントンハイストリート沿いは、1階は店舗が入っているが、
2階以上はフラットになっているケースが多い

シャーロック・ホームズと私は一緒にケンジントンハイストリートへ歩いて行った。そこで、ホームズは、(ホーレス・ハーカー氏によって)胸像が購入されたハーディングブラザーズの店に寄った。若い店員によると、ハーディング氏は午後まで外出中で、自分は新入りなので何も知らない、とのことだった。ホームズの顔には、失望と苛立ちが表れた。
「そうか。ワトスン、我々の思うように、全てがうまくいくことは期待しない方がいいな。」と、ホームズは遂に言った。「もしハーディング氏が午後まで不在なのであれば、我々はその時間に戻って来るしかない。もちろん、君も気付いていると思うが、僕はこれらの胸像のことを原点まで追跡しようと思っている。こんな注目すべき運命を迎えるような特殊な事情がなかったかどうかを見極めるためにね。ケニントンロードのモース・ハドソン氏の店(画廊)へ行って、彼からこの事件について何か新しい手掛かりを得られるかどうか確認してみよう。」

ケンジントンハイストリートは、
バスやタクシー等、車の往来が多い

Sherlock Holmes and I walked together to the High Street, where he stopped at the shop of Harding Brothers, where the bust had been purchased. A young assistant informed us that Mr Harding would be absent until afternoon and that he was himself a newcomer who could give us no information. Holmes's face showed his disappointment and annoyance.
'Well, well, we can't expect to have it all our own way, Watson,' he said at last. 'We must come back in the afternoon if Mr Harding will not be here until then. I am, as you have no doubt surmised, endeavouring to trace these busts to their source, in order to find if there is not something peculiar which may account for their remarkable fate. Let us make for Mr Morse Hudson, of the Kennington Road, and see if he can throw any light upon the problem.'

ケンジントンルーフカーデンズ(Kensington Roof Gardens)が
屋上にあるビル前から見たケンジントンハイストリート

ケンジントンハイストリート(Kensington High Street)は、ケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のケンジントン地区(Kensington)内にある大通りである。ハロッズ(Harrods)デパート等があるナイツブリッジ(Knightsbridge)からロンドン西部にあるハマースミス(Hammersmith)へと向かう通りで、通りの名前をナイツブリッジ通り(Knightsbridge)、ケンジントンロード(Kensington Road)と変えて、ケンジントン宮殿(Kensington Palace)への入口辺りからケンジントンハイストリートとなる。そして、ケンジントン&チェルシー王立区が終わり、ロンドン・ハマースミス&フルハム区(London Borough of Hammersimith and Fulham)に入るケンジントン・オリンピア駅(Kensington (Olympia) Station)辺りからハマースミスロード(Hammersmith Road)へとまた名前を変える。

画面中央には、地下鉄ハイストリートケンジントン駅
(2016年6月25日付ブログで紹介済)が、
画面左屋上には、ケンジントンルーフガーデンズ
(2016年2月28日付ブログで紹介済)がある

19世紀後半から、ケンジントンハイストリートは、富裕層を相手にした最も人気のあるショッピング街の一つで、現在も、通りの中間辺りにある地下鉄ハイストリートケンジントン駅(High Street Kensington Tube Station)周辺には、有名なショップが集中している。ロンドン中心部にあるリージェントストリート(Regent Street)やオックスフォードストリート(Oxford Street)等のショッピング街は、観光客を含む買物客でいつも非常に混雑していて、騒々しい感じが否めず、あまり落ち着かないが、ケンジントンハイストリートの場合、周辺住民が主体のため、リージェントストリート/オックスフォードストリート対比、人混みはそれ程ではなく、落ち着いた感じの通りで、買い物をするのであれば、こちらの方がお薦めである。

2016年7月3日日曜日

ロンドン リンカーンズ・イン・フィールズ(Lincoln's Inn Fields)

リンカーンズ・イン・フィールズ内の広場(左側)とリンカーン法曹院の入口(正面奥)

アガサ・クリスティー作「愛国殺人(→英国での原題は、「One, Two, Buckle My Shoe」(いち、にい、私の靴の留め金を締めて)であるが、日本でのタイトルは米国版「The Patriotic Murders」をベースにしている)」(1940年)は、エルキュール・ポワロがクイーンシャーロットストリート58番地(58 Queen Charlotte Street)にある歯科医ヘンリー・モーリー(Henry Morley)の待合室に居るところから、物語が始まる。
流石の名探偵ポワロであっても、半年に一回の定期検診のために、歯科医の待合室で診療を待つのは、自分の自尊心を大いに傷つけられるのであった。ようやく診療を終えて、建物の外に出たポワロは、そこで女性の患者とすれ違った際、彼女が落とした靴の留め金(バックル)を拾って渡した。そして、フラットに戻ったポワロを待っていたのは、ついさっき自分を診療したモーリー歯科医が診療室で拳銃自殺をしたとのスコットランドヤードのジャップ主任警部(Chief Inspector Japp)からの連絡であった。

リンカーンズ・イン・フィールズ内の広場は
ロンドン・カムデン区に属してい
る。

ポワロの後に、モーリー歯科医の待合室にやって来た患者は、以下の3名であることが判る。
(1)マーティン・アリステア・ブラント(Martin Alistair Blunt)/銀行頭取
(2)アムバライオティス氏(Mr Amberiotis)/インドから帰国したばかりのギリシア人→モーリー歯科医の患者で、元内務省官僚のレジナルド・バーンズ(Reginald Barnes)は、アムバライオティスがスパイである上に、恐喝者だとポワロに告げる。
(3)メイベル・セインズベリー・シール(Mabelle Sainsbury Seale)/アムバライオティス氏と同じく、インド帰りの元女優

リンカーンズ・イン・フィールズの南西側から見た広場

リンカーンズ・イン・フィールズ内の広場(その1)

モーリー歯科医の死が自殺ではなく、他殺の可能性もあると考えて、捜査を開始したポワロであったが、その後、アムバライオティス氏が歯科医が使用する麻酔剤の過剰投与により死亡しているのが発見される。モーリー歯科医は、アムバライオティス氏の診療ミス(=注射する薬品量の間違い)を苦にして、拳銃自殺を遂げたのだろうか?

続いて、メイベル・セインズベリー・シールが行方不明となり、バタシーパーク(Battersea Park - ロンドンの特別区の一つであるワンズワース区(London Borough of Wandsworth)のバタシー地区(Battersea)内に所在)近くにあるキングレオポルドマンションズ(King Leopold Mansions)のアルバート&シルヴィア・チャップマン(Albert & Sylvia Chapman)のフラットにおいて、彼女の死体が発見される、しかも、彼女の顔は見分けがつかない程の有り様だった。

チャップマン夫人がメイベル・セインズベリー・シールを殺害の上、逃亡したのだろうか?ところが、モーリー歯科医の診療記録によると、発見された死体は、メイベル・セインズベリー・シールではなく、チャップマン夫人であることが判明する。


ポワロが診療を終えて去った後、モーリー歯科医の診療室において、一体何があったのであろうか?ポワロの灰色の脳細胞がフル回転し始める。


リンカーンズ・イン・フィールズ内の広場から見たリンカーン法曹院

英国のTV会社 ITV1 が放映したポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「愛国殺人」(1992年)の回では、アムバライオティス氏の検死結果を聞いた後、ポワロとジャップ主任警部が外を歩く場面として、リンカーンズ・イン・フィールズ(Lincoln's Inn Fields)が撮影に使用されている。正確には、リンカーンズ・イン・フィールズとサールストリート(Serle Street)が接するリンカーン法曹院(The Honourable Society of Lincoln's Inn - 法廷弁護士の養成や認定を行う機関で、ロンドンに4つある法曹院の1つ)の入口付近である。

ポワロとジャップ主任警部が歩いている場面が撮影された
リンカーン法曹院の入口 -
自転車が進んで行く右側の通りがサールストリート
 

サールストリートは
シティー・オブ・ウェストミンスター区に属している。

リンカーンズ・イン・フィールズとは、ロンドンの中心部ロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)のホルボーン地区(Holborn)内にある広場とその周辺地域を指している。厳密に言うと、リンカーンズ・イン・フィールズ内の広場、東側、北側および西側の建物はロンドン・カムデン区に属しているが、南側の建物はシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)に属している。また、リンカーンズ・イン・フィールズは、ロンドン・カムデン区最古の広場で、かつ、ロンドン最大の面積を誇っている。
広場の東側には、リンカーン法曹院が建っており、同法曹院に因んで、「リンカーンズ・イン・フィールズ」と名付けられた。ただし、同広場はリンカーン法曹院に隣接してはいるが、リンカーン法曹院自体の敷地ではなく、リンカーン法曹院の敷地内には、別の広場がある。

リンカーンズ・イン・フィールズ内の広場(その2) 

リンカーンズ・イン・フィールズ内の広場中央にある屋根付き野外ステージ

リンカーンズ・イン・フィールズ周辺は、基本的に、ロンドンの中心であるシティー(City)の郊外として発展し、都市部での操業が難しいなめし革製造や羊皮紙製造等の工場が建設された。
15世紀前半には、当地にリンカーン法曹院が設立され、徒弟制による司法訓練を開始した。その後、リンカーン法曹院周辺に、リンカーンズ・イン・フィールズの元となる広場等が徐々に整備されていった。

ハムハウス(Ham House)内の壁に掛けられている
チャールズ1世の肖像画

17世紀に入り、ロンドンの中心がシティーから西方(ウェストエンド(West End))へ移るのに伴って、リンカーンズ・イン・フィールズ周辺でも数々の建設計画が持ち上がるものの、「勉学の妨げになる。」という理由で、リンカーン法曹院がこれらの建設計画に対して強硬に反対していた。
ところが、ステュアート朝のチャールズ1世(Charles I:1600年ー1649年 在位期間:1625年ー1649年)の治世下、ベッドフォード州(Bedford)出身の不動産開発業業者であるウィリアム・ニュートン(William Newton)がリンカーンズ・イン・フィールズ周辺の土地の大部分を手に入れ、建設計画を申請した。リンカーン法曹院は強固に抵抗するものの、残念ながら、税収増を主張するウィリアム・ニュートンの意見が受け入れられ、彼はチャールズ1世かた32棟の建設許可を得ることに成功する。そのため、1639年、リンカーン法曹院は、ウィリアム・ニュートンとの間で、「リンカーンズ・イン・フィールズの中心は広場のまま残して、そこには何も建てない。」という協定を締結したのである。

リンカーンズ・イン・フィールズの北東角に設置されている
北ウェールズ出身の彫刻家バリー・フラナガン
(Barry Flanagan:1941年ー2009年)作「Camdonian」

リンカーンズ・イン・フィールズの南東角に
設置されている水飲み用噴水

リンカーン法曹院との間で合意に至ったウィリアム・ニュートンは早速建設計画に着手し、旧ホワイトホール宮殿(Whitehall Palace)のバンケティングハウス(Banqueting House)やサマセットハウス(Somerset House)等の設計で知られる英国の建築家イニゴー・ジョーンズ(Inigo Jones:1573年ー1652年)等が不動産開発に関わった。1642年までに、リンカーンズ・イン・フィールズの西側の建物群はほぼ出来上がったが、清教徒革命(Puritan Revolution:1642年ー1649年)のため、建設工事は一旦ストップする。清教徒革命後、工事が再開され、1659年にはリンカーンズ・イン・フィールズの北側、西側および南側の建物群が全て完成し、現在とほぼ同じ形に広場とその周辺が整備されたのである。

リンカーンズ・イン・フィールズ内の広場(その3) 

リンカーンズ・イン・フィールズ内の広場(その4)

19世紀に入ると、リンカーンズ・イン・フィールズ周辺の建物は、オフィス用(主に事務弁護士事務所や法廷弁護士事務所が使用)に改装されていった。当時、リンカーンズ・イン・フィールズの中央にある広場には、周辺の建物に入居するオフィスのみがアクセスできたが、ロンドンの王立公園や一般に開放されていなかった広場が公共の公園や広場へと変わりつつある時代の流れもあって、1894年、ロンドン カウンティー カウンシル(London County Councilー現在のグレーター ロンドン カウンシル(Greater London Council))が広場周辺のオフィス代表者達との間で2555年までの661年間のリース契約を締結して、翌年の1895年に中央の広場を一般に開放した。1971年にロンドン・カムデン区がロンドン特別区として設立された以降は、ロンドン・カムデン区がリース契約を引き継ぎ、リンカーンズ・イン・フィールズの管理を行っている。

リンカーンズ・イン・フィールズ内の南西角にあるテニスコート

リンカーンズ・イン・フィールズは、地下鉄ホルボーン駅(Holborn Tube Station)に近いが、交通量が激しい大通りのハイホルボーン通り(High Holborn - 東西に延びる道路)やキングスウェイ(Kingsway - 南北に延びる道路)から一本奥に入ったところにあるため、非常に落ち着いた雰囲気の静かな広場である。また、同広場内には、テニスコートやネットボールコートがあり、広場を管理しているロンドン・カムデン区から有料で借りることが可能。

2016年7月2日土曜日

ロンドン キャンプデンヒルロード(Campden Hill Road)/ キャンプデンハウスロード(Campden House Road)の候補地

キャンプデンヒルロードは、北側から南側へ向かって下っている

サー・アーサー・コナン・ドイル作「六つのナポレオン像(The Six Napoleons)」は、ある夜、スコットランドヤードのレストレイド警部(Inspector Lestrade)がベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)のシャーロック・ホームズの元を訪れるところから、物語が始まる。


最近、ロンドンの街中で何者かが画廊や住居等に押し入って、ナポレオンの石膏胸像を壊してまわっていたのだ。そのため、レストレイド警部はホームズのところへ相談に来たのである。最初の事件は、4日前にモース・ハドソン氏(Mr Morse Hudson)がテムズ河(River Thames)の南側にあるケニントンロード(Kennington Road)で経営している画廊で、そして、2番目の事件は、昨夜、バーニコット博士(Dr Barnicot)の住まい(ケニントンロード)と診療所(ロウワーブリクストンロード(Lower Brixton Road))で発生していた。続いて、3番目の事件がケンジントン地区(Kensington)のピットストリート131番地(131 Pitt Street)にあるセントラル通信社(Central Press Syndicate)の新聞記者ホーレス・ハーカー氏(Mr Horace Harker)の自宅で起きたのであった。4体目の石膏胸像が狙われた上に、今回は殺人事件にまで発展したのだ。レストレイド警部に呼び出されたホームズとジョン・ワトスンは、野次馬で溢れた現場に到着する。

キャンプデンヒルロード(北側)―その1

キャンプデンヒルロード(北側)―その2

「それで、胸像はどうなったんだ?」と、ホームズはこの写真を注意深く調べた後、尋ねた。
「あなたが到着するちょっと前に、我々はその報告を受けました。胸像はキャンプデンハウスロードにある空き家の前庭で発見されました。それは粉々に壊されていました。私は今からそれを見に行きますが、あなた方も一緒に来られますか?」
「もちろんだ。一目見ておく必要がある。」彼は絨毯と窓を調べた。
「犯人は足が非常に長いか、あるいは、とても身が軽い男だ!」と、彼は言った。
「窓の外の下は空堀となっているから、窓の敷居にまで届いて、窓を開けるのは、難儀な芸当だ。窓から戻るのは、比較的簡単ではあるがね。ハーカーさん、我々と一緒に、胸像の残骸を見に行きましょうか?」

キャンプデンヒルロード(真ん中辺り)―その1

キャンプデンヒルロード(真ん中辺り)―その2

'And what became of the bust?' asked Holmes, after a careful study of his picture.
'We had news of it just before you came. It has been found in the front garden of an empty house in Campden House Road. It was broken into fragments. I am going round now to see it. Will you come?'
'Certainly. I must just take one look round.' He examined the carpet and the window. 'The fellow had either very long legs or was a most active man,' said he. 'With an area beneath, it was no mean feat to reach that window ledge and open that window. Getting back was comparatively simple. Are you coming with us to see the remains of your bust, Mr Harker?'

キャンプデンヒルロード沿いに建つ邸宅の前庭にある植栽

ピットストリート131番地に住む新聞記者ホーレス・ハーカー氏が所有していたナポレオンの石膏胸像が粉々に壊されていた前庭がある空き家があったキャンプデンハウスロード(Campden House Road)は、残念ながら、ケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のケンジントン地区(Kensington)内にはなく、その代わりに、キャンプデンヒルロード(Campden Hill Road)という通りがある。

キャンプデンヒルロード(南側)

キャンプデンヒルロードは、ピットストリートと同様に、北側の地下鉄ノッティングヒルゲート駅(Notting Hill Gate Tube Station)/ノッティングヒルゲート通り(Notting Hill Gate)、東側のケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens)、南側のハイストリートケンジントン駅(High Street Kensington Tube Station)/ケンジントンハイストリート(Kensington High Street)、そして、西側のホーランドパーク(Holland Park)に囲まれた高級住宅街内にある。

キャンプデンヒルロードと
ホーランドストリート(Holland Street)が交差した場所―
位置関係的には、犯人がホーレス・ハーカー氏が所有していた
ナポレオンの石膏胸像を粉々に壊した空き家の前庭があった辺りかと思われる

ハーカー氏の自宅があったピットストリートから西へ向かって、南北に延びるホーントンストリート(Hornton Street)を横切って進むと、そこにキャンプデンヒルロードがある。犯人は、ピットストリートにあったハーカー氏の自宅からナポレオンの石膏胸像を持ち去り、キャンプデンヒルロードにある空き家の前庭で粉々に壊した訳で、位置関係的には、キャンプデンヒルロードが原作のキャンプデンハウスロードであるとしてもおかしくないと思われる。