リンカーンズ・イン・フィールズ内の広場(左側)とリンカーン法曹院の入口(正面奥) |
アガサ・クリスティー作「愛国殺人(→英国での原題は、「One, Two, Buckle My Shoe」(いち、にい、私の靴の留め金を締めて)であるが、日本でのタイトルは米国版「The Patriotic Murders」をベースにしている)」(1940年)は、エルキュール・ポワロがクイーンシャーロットストリート58番地(58 Queen Charlotte Street)にある歯科医ヘンリー・モーリー(Henry Morley)の待合室に居るところから、物語が始まる。
流石の名探偵ポワロであっても、半年に一回の定期検診のために、歯科医の待合室で診療を待つのは、自分の自尊心を大いに傷つけられるのであった。ようやく診療を終えて、建物の外に出たポワロは、そこで女性の患者とすれ違った際、彼女が落とした靴の留め金(バックル)を拾って渡した。そして、フラットに戻ったポワロを待っていたのは、ついさっき自分を診療したモーリー歯科医が診療室で拳銃自殺をしたとのスコットランドヤードのジャップ主任警部(Chief Inspector Japp)からの連絡であった。
リンカーンズ・イン・フィールズ内の広場は ロンドン・カムデン区に属している |
ポワロの後に、モーリー歯科医の待合室にやって来た患者は、以下の3名であることが判る。
(1)マーティン・アリステア・ブラント(Martin Alistair Blunt)/銀行頭取
(2)アムバライオティス氏(Mr Amberiotis)/インドから帰国したばかりのギリシア人→モーリー歯科医の患者で、元内務省官僚のレジナルド・バーンズ(Reginald Barnes)は、アムバライオティスがスパイである上に、恐喝者だとポワロに告げる。
(3)メイベル・セインズベリー・シール(Mabelle Sainsbury Seale)/アムバライオティス氏と同じく、インド帰りの元女優
リンカーンズ・イン・フィールズの南西側から見た広場 |
リンカーンズ・イン・フィールズ内の広場(その1) |
モーリー歯科医の死が自殺ではなく、他殺の可能性もあると考えて、捜査を開始したポワロであったが、その後、アムバライオティス氏が歯科医が使用する麻酔剤の過剰投与により死亡しているのが発見される。モーリー歯科医は、アムバライオティス氏の診療ミス(=注射する薬品量の間違い)を苦にして、拳銃自殺を遂げたのだろうか?
続いて、メイベル・セインズベリー・シールが行方不明となり、アルバート・チャップマン夫人(Mrs Albert Chapman)という女性のフラットにおいて、彼女の死体が発見される、しかも、彼女の顔は見分けがつかない程の有り様だった。チャップマン夫人がメイベル・セインズベリー・シールを殺害の上、逃亡したのだろうか?ところが、モーリー歯科医の診療記録によると、発見された死体はメイベル・セインズベリー・シールではなく、チャップマン夫人であることが判明する。
ポワロが診療を終えて去った後、モーリー歯科医の診療室において、一体何があったのであろうか?ポワロの灰色の脳細胞がフル回転し始める。
リンカーンズ・イン・フィールズ内の広場から見たリンカーン法曹院 |
英国のTV会社 ITV1 が放映したポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「愛国殺人」(1992年)の回では、アムバライオティス氏の検死結果を聞いた後、ポワロとジャップ主任警部が外を歩く場面として、リンカーンズ・イン・フィールズ(Lincoln's Inn Fields)が撮影に使用されている。正確には、リンカーンズ・イン・フィールズとサールストリート(Serle Street)が接するリンカーン法曹院(The Honourable Society of Lincoln's Innー法廷弁護士の養成や認定を行う機関で、ロンドンに4つある法曹院の1つ)の入口付近である。
ポワロとジャップ主任警部が歩いている場面が撮影された リンカーン法曹院の入口ー 自転車が進んで行く右側の通りがサールストリート |
サールストリートは シティー・オブ・ウェストミンスター区に属している |
リンカーンズ・イン・フィールズとは、ロンドンの中心部ロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)のホルボーン地区(Holborn)内にある広場とその周辺地域を指している。厳密に言うと、リンカーンズ・イン・フィールズ内の広場、東側、北側および西側の建物はロンドン・カムデン区に属しているが、南側の建物はシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)に属している。また、リンカーンズ・イン・フィールズは、ロンドン・カムデン区最古の広場で、かつ、ロンドン最大の面積を誇っている。
広場の東側には、リンカーン法曹院が建っており、同法曹院に因んで、「リンカーンズ・イン・フィールズ」と名付けられた。ただし、同広場はリンカーン法曹院に隣接してはいるが、リンカーン法曹院自体の敷地ではなく、リンカーン法曹院の敷地内には、別の広場がある。
リンカーンズ・イン・フィールズ内の広場(その2) |
リンカーンズ・イン・フィールズ内の広場中央にある屋根付き野外ステージ |
リンカーンズ・イン・フィールズ周辺は、基本的に、ロンドンの中心であるシティー(City)の郊外として発展し、都市部での操業が難しいなめし革製造や羊皮紙製造等の工場が建設された。
15世紀前半には、当地にリンカーン法曹院が設立され、徒弟制による司法訓練を開始した。その後、リンカーン法曹院周辺に、リンカーンズ・イン・フィールズの元となる広場等が徐々に整備されていった。
ハムハウス(Ham House)内の壁に架けられている チャールズ1世の肖像画 |
17世紀に入り、ロンドンの中心がシティーから西方(ウェストエンド(West End))へ移るのに伴って、リンカーンズ・イン・フィールズ周辺でも数々の建設計画が持ち上がるものの、「勉学の妨げになる。」という理由で、リンカーン法曹院がこれらの建設計画に対して強硬に反対していた。
ところが、ステュアート朝のチャールズ1世(Charles I:1600年ー1649年 在位期間:1625年ー1649年)の治世下、ベッドフォード州(Bedford)出身の不動産開発業業者であるウィリアム・ニュートン(William Newton)がリンカーンズ・イン・フィールズ周辺の土地の大部分を手に入れ、建設計画を申請した。リンカーン法曹院は強固に抵抗するものの、残念ながら、税収増を主張するウィリアム・ニュートンの意見が受け入れられ、彼はチャールズ1世かた32棟の建設許可を得ることに成功する。そのため、1639年、リンカーン法曹院は、ウィリアム・ニュートンとの間で、「リンカーンズ・イン・フィールズの中心は広場のまま残して、そこには何も建てない。」という協定を締結したのである。
リンカーンズ・イン・フィールズの北東角に設置されている 北ウェールズ出身の彫刻家バリー・フラナガン (Barry Flanagan:1941年ー2009年)作「Camdonian」 |
リンカーンズ・イン・フィールズの南東角に 設置されている水飲み用噴水 |
リンカーン法曹院との間で合意に至ったウィリアム・ニュートンは早速建設計画に着手し、旧ホワイトホール宮殿(Whitehall Palace)のバンケティングハウス(Banqueting House)やサマセットハウス(Somerset House)等の設計で知られる英国の建築家イニゴー・ジョーンズ(Inigo Jones:1573年ー1652年)等が不動産開発に関わった。1642年までに、リンカーンズ・イン・フィールズの西側の建物群はほぼ出来上がったが、ピューリタン革命(Puritan Revolution:1642年ー1649年)のため、建設工事は一旦ストップする。ピューリタン革命後、工事が再開され、1659年にはリンカーンズ・イン・フィールズの北側、西側および南側の建物群が全て完成し、現在とほぼ同じ形に広場とその周辺が整備されたのである。
リンカーンズ・イン・フィールズ内の広場(その3) |
リンカーンズ・イン・フィールズ内の広場(その4) |
19世紀に入ると、リンカーンズ・イン・フィールズ周辺の建物は、オフィス用(主に事務弁護士事務所や法廷弁護士事務所が使用)に改装されていった。当時、リンカーンズ・イン・フィールズの中央にある広場には、周辺の建物に入居するオフィスのみがアクセスできたが、ロンドンの王立公園や一般に開放されていなかった広場が公共の公園や広場へと変わりつつある時代の流れもあって、1894年、ロンドン カウンティー カウンシル(London County Councilー現在のグレーター ロンドン カウンシル(Greater London Council))が広場周辺のオフィス代表者達との間で2555年までの661年間のリース契約を締結して、翌年の1895年に中央の広場を一般に開放した。1971年にロンドン・カムデン区がロンドン特別区として設立された以降は、ロンドン・カムデン区がリース契約を引き継ぎ、リンカーンズ・イン・フィールズの管理を行っている。
リンカーンズ・イン・フィールズ内の南西角にあるテニスコート |
リンカーンズ・イン・フィールズは、地下鉄ホルボーン駅(Holborn Tube Station)に近いが、交通量が激しい大通りのハイホルボーン通り(High Holbornー東西に延びる道路)やキングスウェイ(Kingswayー南北に延びる道路)から一本奥に入ったところにあるため、非常に落ち着いた雰囲気の静かな広場である。また、同広場内には、テニスコートやネットボールコートがあり、広場を管理しているロンドン・カムデン区から有料で借りることが可能。
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