2016年7月24日日曜日

ロンドン ジャーミンストリート(Jermyn Street)

西側(セントジェイムズストリート側)から東側(リージェントストリート)側へ
ジャーミンストリートを望む

アガサ・クリスティー作「黄色いアイリス(Yellow Iris)」は、1939年に刊行された短編集「レガッタデーの事件(The Regatta Mystery)」に収録されている短編の一つである。


エルキュール・ポワロの元に、女性の声で危機を訴える匿名の電話がかかってくるところから、物語の幕が上がる。女性に指定されたレストラン「白鳥の園」にポワロが急いで到着したが、肝心の女性の姿がその場にはなかった。唯一黄色いアイリスが置かれたテーブルがあり、気になったポワロがそのテーブル客達に話しかけると、4年前ニューヨークのレストランで青酸カリの入った飲み物で不審な死を遂げたアイリス・ラッセル(Iris Russell)を偲んでいると言う。そのテーブルには、以下の5人の客が居た。

(1)バートン・ラッセル(Barton Russell)ーアイリスの夫
(2)ポーリン・ウェザビー(Pauline Wetheby)ーアイリスの妹
(3)アンソニー・チャペル(Anthony Chapell)ーポーリンの婚約者
(4)スティーヴン・カーター(Stephen Carter)ー外務省で極秘事項に関係している噂の男
(5)ローラ・ヴァルデス(Lola Valdez)ーダンサー

セントジェイムズストリート近辺のジャーミンストリート

皆、アイリスが衆人の面前で自殺をする理由で思い当たらないと、ポワロに告げる。ポワロがテーブル客達の話を聞いている間に、4年前と全く同じ状況下、ポーリンが青酸カリの入った飲み物を飲んで、アイリスと同様に、不審な死を遂げたのである。
ポワロの面前で発生した謎の不審死!果たして、4年前、そして、今回の事件は単なる自殺なのか?それとも、殺人なのか?ポワロの灰色の脳細胞が動き出すのであった。

英国王ジョージ4世の友人で、
ロンドン社交界の伊達者だった
ジョージ・ブライアン・ブランメル
(George Bryan Beau Brummell:1778年―1840年)

英国のTV会社ITV1で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「黄色いアイリス」(1993年)では、アガサ・クリスティーの原作とは、以下のような差異がある。

(1)アイリス・ラッセルが青酸カリの入った飲み物を飲んで不審な死を遂げた時期
   原作:4年前 
   TV版:2年前
(2)アイリス・ラッセルが不審な死を遂げた場所
   原作:ニューヨークのレストラン
   TV版:ブエノスアイレスのフレンチレストラン「白鳥の園」
(3)アイリス・ラッセルが不審な死を遂げた時におけるポワロの関与度合い
   原作:ポワロは現場には居合わせていない。
   TV版:アルゼンチンで牧場を経営しているアーサー・ヘイスティングス大尉
                   に会いに行く途中、ポワロは偶然現場に居合わせている。
(4)第2の事件が発生するロンドンでの場所
   原作:レストラン「白鳥の園」
   TV版:開店したばかりのフレンチレストラン「白鳥の園」
(5)第2の事件が発生した場所へポワロはどのような経緯でやって来たのか?
   原作:匿名の女性からので電話で呼び出される。
   TV版:フレンチレストラン「白鳥の園」が開店したその日に、ポワロが住む
                   フラットの郵便受けに一輪のアイリスが入れられており、ポワロは
                   2年前の未解決事件を思い出し、独自に捜査を始める。
(6)第2の事件の被害者
   原作:ポーリン・ウェザビーは青酸カリの入った飲み物を飲んで殺害される。
   TV版:ポーリンは青酸カリの入った飲み物で狙われるが、ポワロが事件を
       未然に防ぐ。

サー・アイザック・ニュートン(Sir Issac Newton:1642年―1727年)は、
ジャーミンストリート88番地(1696年―1700年)と
同87番地(1700年―1709年)に住んでいた。
1642年12月25日に、リンカンシャー州(Lincolnshoire)の
小さな村ウールズソープ(Woolsthorpe)に出生したアイザック・ニュートンは、
ケンブリッジ大学(Cambridge University)のトリニティーカレッジ(Trinity College)へ進学し、
26歳の若さで、同大の教授職に就く。
その後、研究生活に疲弊して、精神不調に陥った彼は、ケンブリッジを離れて、
1696年にロンドンへ移住。
当初、ジャーミンストリート88番地に住んでいたが、
1700年に同所より広いジャーミンストリート87番地が空いたため、
彼は、そちらへ移った。残念ながら、当時の建物は、1908年に取り壊されてしまった。

サー・アイザック・ニュートンは、英国の自然哲学者、数学者、物理学者、天文学者、
そして、神学者として有名である。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
サー・アイザック・ニュートンの肖像画の葉書
(Sir 
Godfrey Kneller Bt. / 1702年 / Oil on canvas
756 mm x 622 mm) 

古い英国1ポンド紙幣に描かれているサー・アイザック・ニュートン

ブエノスアイレスでフレンチレストラン「白鳥の園(ル・ジャルダン・デ・シーニュ / Le Jardin des Cygnes)」を経営していたルイジ・デ・モニコ(Luigi di Monico)が、ロンドンにおいて同名のフレンチレストランを開店した場所のジャーミンストリート(Jermyn Street)は、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のセントジェイムズ地区(St. James's)内にあり、トラファルガースクエア(Trafalgar Square)からセントジェイムズ宮殿(St. James's Palace)へ向かって西に延びるパル・マル通り(Pall Mallー2016年4月20日付ブログで紹介済)とピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)から地下鉄グリーンパーク駅(Green Park Tube Station)の前を通って地下鉄ハイドパークコーナー駅(Hyde Park Corner Tube Stationー2015年6月14日付ブログで紹介済)へ向かって西に延びるピカデリー通り(Piccadilly)とで南北に挟まれている。ジャーミンストリートの東側はヘイマーケット通り(Haymarket)から始まり、リージェントストリート(Regent Street)を横切った後、西側はセントジェイムズストリート(St. James's Street)で終わる約500mの通りである。

ジャーミンストリートの中央辺りから東方面を見たところ

ジャーミンストリートは、17世紀後半、初代セントアルバンス伯爵ヘンリー・ジャーミン(Henry Jermyn, 1st Earl of St. Albans:1605年ー1684年)がセントジェイムズ地区を再開発した際に、一緒に整備され、彼の名前に因んで、ジャーミンストリートと名付けられた。ただし、当初は、現在の「Jermyn Street」ではなく、「Jarman Street」と記録されていたようである。ちなみに、初代セントアルバンス伯爵ヘンリー・ジャーミンは、ジャーミンストリートから少し南側に下ったセントジェイムズスクエア(St. James's Squareー2015年10月25日付ブログで紹介済)にある自宅で、1684年に死去している。

ジャーミンストリートから見上げた
セントジェイムズ教会(St. James's Church)

セントポール大聖堂(St. Paul's Cathedral)等を建設した
英国の建築家サー・クリストファー・マイケル・レン
(Sir Christopher Michael Wren:1632年―1723年)が
セントジェイムズ教会を建設した

現在、ジャーミンストリートの両側には、背広、シャツ、靴や帽子等の紳士用品の店が軒を連ねて、英国の伝統的な通りとして残っている。

リージェントストリート近辺のジャーミンストリート沿いの靴屋

リージェントストリート近辺のジャーミンストリート沿いの洋服屋

アガサ・クリスティーが長編「忘れられぬ死(英題:Sparkling Cyanide、米題:Remembered Death)」(1945年)を発表してるが、この短編「黄色いアイリス」が原型になっている。なお、長編「忘れられぬ死」には、ポワロは登場せず、長編「ひらいたトランプ(Cards on the Table)」(1936年)に登場した情報部員のレイス大佐(Colonel Race)が探偵役を務めている。

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