2016年7月30日土曜日

「緋色の研究(A Study in Scarlet)」

シャーロック・ホームズの記念すべき第一作「緋色の研究」

サー・アーサー・イグナチウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)は、1876年にエディンバラ大学(University of Edinburgh)医学部に入学し、1881年8月に同大学で医学士と外科修士の学位を取得した。彼は同年10月にアフリカ汽船会社に船医として就職し、リヴァプール(Liverpool)から出航するも、航海中にマラリアに罹患して、一時生死の境をさまようことになった。そのため、これ以上アフリカ汽船会社に船医として留まることが困難となり、翌年の1882年1月に同社を退職する。

2014年夏場に、ロンドンの中心部
ロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)の
ブルームズベリー(Bloomsbury)地区内にある
ウォバーンスクエアガーデン(Woburn Square Garden)に
設置されたブックベンチ

アフリカ汽船会社を退職したコナン・ドイルは、1882年6月末から英国南部のポーツマス(Portsmouth)郊外にあるサウスシー(Southsea)において、個人診療所を開業した。その後、彼はサウスシーにて診療所を8年にわたって続けるが、既に医師が多く開業する地域だったこともあって、医師としての大きな成功を納めることはなく、ひたすら患者を待つ日々が続いた。

ブックベンチは、その名の通り、
本を真ん中で開いたような形をしている

コナン・ドイルは、患者を待つ間、暇に飽かせて、短編小説を執筆して、雑誌社へ投稿するようになる。幸い、執筆した短編小説のいくつかは、雑誌社に買い取ってもらえたが、大半は雑誌社から彼の元へ返却されていた。
ポーツマス暮らしが3年目に入った1885年に、(病死した)患者の姉であるルイーズ・ホーキンズ(Louise Hawkins)と(最初の)結婚をしたコナン・ドイルは、このまま短編小説を書いていても、単なる小遣い稼ぎ程度しかならないと思い、単行本として出版できる位の長編小説の執筆を思い立った。
彼は、まず最初に、「ガードルストーン会社」という長編小説を書き上げたが、出版してくれそうな出版社がなかなか見つからなかった(実際に、当作品が出版されたのは、1890年)。彼が、その次に、1886年3月から同年4月にかけて執筆した長編小説が、シャーロック・ホームズの記念すべき第一作の「緋色の研究(A Study in Scarlet)」であった。

ブックベンチを背凭れ側から見たところ―
中央にシャーロック・ホームズのシルエット像が描かれている

「緋色の研究」では、
(1)第二次アフガン戦争に副軍医として従軍して負傷したジョン・H・ワトスン(John H. Watson)が英国へ戻った場所がポーツマスで、コナン・ドイルが住んでいたサウスシーの近郊であること
(2)厳密には、殺人事件とは言えないが、被害者となったイーノック・J・ドレッバー(Enoch J. Drebber)と彼の秘書のジョーゼフ・スタンガーソン(Joseph Stangerson)の二人が米国へ逃げ帰ろうとして、ユーストン駅(Euston Station)から向かおうとしていた場所がリヴァプールで、コナン・ドイルが船医として就職したアフリカ汽船会社が出航し、彼がマラリアに罹患して退職する破目になったところであること
等、登場する場所のいくつかは、彼の実生活から取り入れられている。

一番左側には、赤い本「緋色の研究」がある

「緋色の研究」についても、「ガードルストーン会社」と同様に、なかなか出版社が見つからなかったが、1886年10月末にウォードロック社という出版社に短編小説並みの安値でやっと買い取ってもらい、更に1年後の1887年11月、同作品は「ビートンのクリスマス年間(Beeton's Christmas Annual)」に掲載され、1888年には単行本化もされた。

残念ながら、この時点での世間の反響は程々であり、ホームズシリーズの短編小説が「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」に掲載され、ホームズ(とワトスン)が爆発的な人気を得るのは、まだ数年先の話である。

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