2016年7月17日日曜日

ロンドン サマセットハウス(Somerset House)

サマセットハウスの南ウィングのアップ

アガサ・クリスティー作「愛国殺人(→英国での原題は、「One, Two, Buckle My Shoe」(いち、にい、私の靴の留め金を締めて)であるが、日本でのタイトルは米国版「The Patriotic Murders」をベースにしている)」(1940年)は、エルキュール・ポワロがクイーンシャーロットストリート58番地(58 Queen Charlotte Street)にある歯科医ヘンリー・モーリー(Henry Morley)の待合室に居るところから、物語が始まる。
流石の名探偵ポワロであっても、半年に一回の定期検診のために、歯科医の待合室で診療を待つのは、自分の自尊心を大いに傷つけられるのであった。ようやく診療を終えて、建物の外に出たポワロは、そこで女性の患者とすれ違った際、彼女が落とした靴の留め金(バックル)を拾って渡した。そして、フラットに戻ったポワロを待っていたのは、ついさっき自分を診療したモーリー歯科医が診療室で拳銃自殺をしたとのスコットランドヤードのジャップ主任警部(Chief Inspector Japp)からの連絡であった。


ワロの後に、モーリー歯科医の待合室にやって来た患者は、以下の3名であることが判る。
(1)マーティン・アリステア・ブラント(Martin Alistair Blunt)/銀行頭取
(2)アムバライオティス氏(Mr Amberiotis)/インドから帰国したばかりのギリシア人→モーリー歯科医の患者で、元内務省官僚のレジナルド・バーンズ(Reginald Barnes)は、アムバライオティスがスパイである上に、恐喝者だとポワロに告げる。
(3)メイベル・セインズベリー・シール(Mabelle Sainsbury Seale)/アムバライオティス氏と同じく、インド帰りの元女優

サマセットハウスの中庭―奥に南ウィングが見える

モーリー歯科医の死が自殺ではなく、他殺の可能性もあると考えて、捜査を開始したポワロであったが、その後、アムバライオティス氏が歯科医が使用する麻酔剤の過剰投与により死亡しているのが発見される。モーリー歯科医は、アムバライオティス氏の診療ミス(=注射する薬品量の間違い)を苦にして、拳銃自殺を遂げたのだろうか?
続いて、メイベル・セインズベリー・シールが行方不明となり、アルバート・チャップマン夫人(Mrs Albert Chapman)という女性のフラットにおいて、彼女の死体が発見される、しかも、彼女の顔は見分けがつかない程の有り様だった。チャップマン夫人がメイベル・セインズベリー・シールを殺害の上、逃亡したのだろうか?ところが、モーリー歯科医の診療記録によると、発見された死体はメイベル・セインズベリー・シールではなく、チャップマン夫人であることが判明する。
ポワロが診療を終えて去った後、モーリー歯科医の診療室において、一体何があったのであろうか?ポワロの灰色の脳細胞がフル回転し始める。

期間限定で中庭に設置されていた貝殻のオブジェ

英国のTV会社 ITV1 が放映したポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「愛国殺人」(1992年)の回では、ポワロがある人物の戸籍を調べるために、ある場所にやって来る。その建物として、サマセットハウス(Somerset House)が撮影に使用されている。
サマセットハウスは、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のストランド地区(Strand)にあり、テムズ河(River Thames)を見下ろす絶好のロケーションに建っている。

中庭側から見た北ウィング

1539年にハートフォード伯爵エドワード・シーモア(Edward Seymour, Earl of Hertford:1500年ー1552年)が、 時の英国王ヘンリー8世(Henry III:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年)からこの地を譲り受け、自分の邸宅を建設したのが、そもそもの始まりである。ちなみに、彼は、ヘンリー8世の3番目の王妃ジェーン・シーモア(Jane Seymour:1509年ー1537年)の兄である。
ヘンリー8世の子供のエドワード6世(Edward VI:1537年ー1553年 在位期間:1547年ー1553年)が1547年に即位したことに伴い、ハートフォード伯爵エドワード・シーモアは初代サマセット公爵(Duke of Somerset)かつ護国卿/摂政(Lord Protector)に叙せられたので、彼の邸宅が「サマセットハウス」と呼ばれるようになった。しかし、邸宅の完成前に、彼が反逆罪に問われ、処刑されてしまったため、邸宅は未完成のまま取り残され、この地は英国王の所有地にまた戻されることとなった。

最高気温が30度を超えたある夏の日―
空の青さが目に眩しい

その後、サマセットハウスは英国王家で使用され、1685年には英国の建築家サー・クリストファー・レン(Sir Christopher Wren:1632年ー1723年)による改修も実施されたが、1688年の名誉革命(Glourious Revolution)以降、建物の維持費が次第に捻出できなくなり、次第に劣化するようになる。18世紀に入ると、倉庫や軍の兵舎等として使用されたものの、1775年には取り壊しの憂き目に会う。

中庭側から見た西ウィング

同年の1775年、新サマセットハウスの設計者として、英国の建築家で、ロイヤルアカデミーの創設メンバーの一人でもあるサー・ウィリアム・チェンバーズ(Sir William Chambers:1723年ー1796年)が任命され、1776年から建設工事が開始された。彼の新古典主義建築に基づいて、ストランド通り(Strand)に面した北ウィング部分が完成。1782年に彼は建築総監に就任し、建設計画を進めるものの、残念ながら、1796年に死去。
彼の後を継いだ英国の建築家ジェイムズ・ワイアット(James Wyatt:1746年ー1813年)によって、同年の1796年、大部分の建物が完成を迎えた。建物が竣工した時期は不明で、1800年代に入っても、工事はまだ残っていたようである。
その後、サー・ウィリアム・チェンバーズが計画していたものの、彼の存命中には成し得なかった東ウィングと西ウィングが19世紀中に増築され、中庭を東西南北のウィングが囲む現在の建物が完成した。東西ウィングの竣工後、150年以上を経過しているが、いまだに「新ウィング(New Wing)」と呼ばれている。

地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)の
ベーカールーライン(Bakerloo Line)のホーム壁に、
ナショナルポートレートギャラリー(National Portrait Gallery)に所蔵されている
絵画「サマセットハウスでの会議(The Somerset House Conference)」
(作者不詳―1604年)が描かれている

第二次世界大戦(1939年ー1945年)中、ドイツ軍による爆撃により、サマセットハウスは、特に南ウィングと西ウィングに甚大な被害を受けたが、大戦後復旧して、現在に至っている。

コートールドギャラリーの入口

現在、サマセットハウスには政府関連機関や芸術/教育関連機関等が入居しており、ロンドン大学附属コートールド美術研究所(Courtauld Institute of Art)の美術館であるコートールドギャラリー(Courtauld Gallery)もその一つで、印象派や後期印象派のコレクションで非常に有名である。
また、サマセットハウスの中庭は、冬季期間中、アイススケートのリンク場となり、ロンドンの冬の風物詩の一つとなっている。

ストランド通り側の入口からサマセットハウスの中庭を見たところ―
TV版のポワロシリーズでは、ポワロがサマセットハウスを訪れるシーンとして
この場所が撮影に使われている

1837年にイングランドとウェールズの戸籍登録/保管事務所は北ウィング内に設置され、全ての出生、婚姻や死亡に関わる記録を保管していた。この事務所は、1970年までの150年近く、サマセットハウスに所在していたので、ポワロがある人物の戸籍を調べるためにサマセットハウスにやって来たのは、そういう理由があり、撮影場所としては、正にその通りである。

サマセットハウスの中庭で子供達が噴水で涼んでいる様子が
ロンドンにおける夏の風物詩となっている

0 件のコメント:

コメントを投稿