2025年9月30日火曜日

ロンドン ヘイマーケット通り(Haymarket)- その1

ヘイマーケット通りの中間辺りから
ピカデリーサーカス方面(北側)を見たところ(その1)
<筆者撮影>

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1936年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)が登場するシリーズ第7作目に該る「アラビアンナイトの殺人(The Arabian Nights Murders → 2025年8月30日付ブログで紹介済)」の場合、クリーヴランドロウ(Cleveland Row → 2025年9月5日付ブログで紹介済)沿いに建つウェイド博物館(Wade Museum - 大富豪であるジェフリー・ウェイドが10年程前に開設した私立博物館で、中近東の陳列品(Oriental Art)を展示する他、初期の英国製馬車で、素晴らしい逸品も保存)が、殺人事件の舞台となる。


東京創元社から創元推理文庫として出版された
ジョン・ディクスン・カー作「アラビアンナイトの殺人」の表紙
(カバー:山田 維史)


天下の奇書アラビアンナイトの構成にならって、スコットランドヤードのお歴々である(1)ヴァインストリート(Vine Street → 2025年9月19日付ブログで紹介済)署勤務のジョン・カラザーズ警部(Inspector John Carruthers - アイルランド人)、犯罪捜査部(CID)のデイヴィッド・ハドリー警視(Superintendent David Hadley / イングランド人)と(3)副総監であるハーバート・アームストロング卿(スコットランド人)が、三人三様の観察力と捜査法を駆使して、この事件を解説する。

彼らの話の聞き手は、南フランスで4ヶ月間の休暇を楽しんで、アデルフィテラス1番地(1 Adelphi Terrace → 2018年11月25日付ブログで紹介済)の自宅に戻ったばかりのギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)だった。


サヴォイプレイス(Savoy Place → 2017年1月29日付ブログで紹介済)から見上げた
アデルフィテラス
<筆者撮影>


アデルフィテラスにある
「アデルフィ(The Adelphi)」と呼ばれる新古典主義の集合住宅(テラスハウス)の記念碑
<筆者撮影>


ヴァインストリート署勤務のジョン・カラザーズ警部による陳述が続く。



私がホスキンズ(巡査部長)と出会ったのは、六月十四日金曜日の夜、十一時を十五分過ぎたときでした。(ヴァインストリート)署の仕事がたてこんでいましたので、私はそんなおそくでも居残っておりました。仕事がすんだわけではなかったのですが、腹ごしらえの必要がありましたので、私は一度、外へ出ました。パントン・ストリート(Panton Street → 2025年9月21日付ブログで紹介済)のかどに出ている屋台店で、コーヒーとサンドイッチをとって、それからあらためて、もう一度仕事にとりかかる考えだったのです。


ヘイマーケット通りの中間辺りにおいて、
西側から東側
を見たところ
<筆者撮影>


灯火の明るい町かどまでいって、ほっと一息いれるつもりで、ヘイ・マーケットのほうへ目をむけたときです。私はあやうく、ホスキンズとぶつかるところでした。あの男は、いかにも旧式なタイプの警察官でして、堂々とした体躯に、ナポレオン三世風の口ひげをピンとはね、いつも威厳を保つことを忘れないんです。ところがそのホスキンズが、いまは威厳どころか、すっかり平静を失って、完全にとり乱しているのでした。私としても、そんなホスキンズを見るのは初めてでした。


<宇野 利泰訳>


ヘイマーケット通りの中間辺りから
パル・マル通り方面(南側)を見たところ
<筆者撮影>


ヴァインストリート署勤務のジョン・カラザーズ警部が、腹ごしらのために、コーヒーとサンドイッチを売っている屋台店が出ていたパントンストリート(Panton Street)へと向かった際、ホスキンズ巡査部長と危うくぶつかりかけたヘイマーケット通り(Haymarket)は、ロンドンの中心部であるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のセントジェイムズ地区(St. James’s)内の東端にある通りである。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ピカデリーサーカス周辺の地図を抜粋。


トラファルガースクエア(Trafalgar Square)から西へ向かう通りは、ヘイマーケット通りとパル・マル通り(Pall Mall → 2016年4月30日付ブログで紹介済)の2つに分かれる。


ヘイマーケット通りの中間辺りから
ピカデリーサーカス方面(北側)を見たところ(その2)
<筆者撮影>


ヘイマーケット通りは北上して、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)へと至る。

一方、パル・マル通りは更に西進して、進行方向左手にセントジェイムズ宮殿(St. James’s Palace)が見えたところで、セントジェイムズストリート(St. James’s Street → 2021年7月24日付ブログで紹介済)とクリーヴランドロウの2つに分かれる。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
エリザベス1世の肖像画の葉書
(Unknown English artist / 1600年頃 / Oil on panel
1273 mm x 997 mm) -
エリザベス1世は、王族しか着れない
イタチ科オコジョの毛皮をその身に纏っている。
オコジョの白い冬毛は、「純血」を意味しており、
実際、エリザベス1世は、英国の安定のために、
生涯、誰とも結婚しなかったので、「処女女王」と呼ばれた。
エリザベス1世の」赤毛」と「白塗りの化粧」は、
当時流行したものである。


テューダー朝(House of Tudor)の第5代かつ最後の君主であるエリザベス1世(Elizabeth I:1533年ー1603年 在位期間:1558年-1603年)の統治時から、ヘイマーケット通りは、ピカデリーサーカスとパル・マル通りを結ぶ通りとして、既に存在していた。

ヘイマーケット通りの「ヘイ(Hay:干し草)」が示すように、同通り沿いでは、主に家畜用の飼料や農産物等が売られていた。


イングランド銀行博物館(Bank of England Museum)のエントランスホールの
右側の壁に掛けられているメアリー2世の肖像画 -
ドイツ生まれの英国の肖像画家である初代男爵サー・ゴドフリー・ネラー
(Sir Godfrey Kneller, 1st Baronet:1646年ー1723年)による
作品だと考えられている。
<筆者撮影>


イングランド銀行博物館のエントランスホールの
左側の壁に掛けられているウィリアム3世の肖像画 -
メアリー2世の肖像画と同様に、
ドイツ生まれの英国の肖像画家である初代男爵サー・ゴドフリー・ネラーの
作品だと考えられている。
<筆者撮影>


1688年の名誉革命(Glorious Revolution)を経て、ステュアート朝の第5代国王に就いたメアリー2世(Mary II:1662年ー1694年 在位期間:1689年ー1694年)と夫のウィリアム3世(William III:1650年ー1702年 在位期間:1689年ー1702年)による共同統治時には、干し草や麦藁(straw)を乗せた馬車が数多く行き来し、当初は、馬車の往来は無料とされていたが、同通りに歩道が設けられた1692年からは、有料化された。 


2025年9月29日月曜日

ロンドン セントジェイムズ宮殿(St. James’s Palace)- その3

セントジェイムズ宮殿の建物正面
<筆者撮影>

ステュアート朝の第6代かつ最後の国王であるアン(Anne Stuart:1665年-1714年 在位期間:1702年ー1714年)が1714年8月1日に崩御したことに伴い、ステュアート朝の第2代国王であるチャールズ1世(Charles I:1600年ー1649年 在位期間:1625年ー1649年 → 2017年4月29日付ブログで紹介済)の姪の長男で、ドイツ神聖ローマ帝国のハノーファー選帝侯であるゲオルク・ルートヴィヒ(Georg Ludwig)が、ジョージ1世(George I:1660年ー1727年 在位期間:1714年ー1727年)として即位し、ハノーヴァー朝(House of Hanover)を開いた。


ハノーヴァー朝における最初の3代の国王である


*ジョージ1世


*ジョージ2世(George II / ジョージ1世の長男で、ハノーヴァー朝の第2代国王:1683年ー1760年 在位期間:1727年ー1760年)


*ジョージ3世(George III / ジョージ2世の孫で、ハノーヴァー朝の第3代国王:1738年ー1820年 在位期間:1760年ー1820年)


ナショナルポートレートギャラリー(National Portrait Gallery)内で
所蔵 / 展示されている
ハノーヴァー朝の第3代英国王であるジョージ3世の肖像画
(By the studio of Allan Ramsay / Oil on canvas /
based on a portrait of 1761 - 1762)
<筆者撮影>


は、1698年に第一王宮であるホワイトホール宮殿(Palace of Whitehall)が火事で焼失したため、他の欧州王家の宮殿が誇る豪華さとは全く比べ物にならないセントジェイムズ宮殿(St. James’s Palace)をロンドンにおける第一王宮として引き続き使用。


ナショナルポートレートギャラリー内で所蔵 / 展示されている
ジョージ3世の王妃である
ソフィア・シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ
(1744年ー1818年)の肖像画

(By the studio of Allan Ramsay / Oil on canvas /
based on a portrait of 1761 - 1762)
<筆者撮影>


ジョージ3世は、1761年9月8日に、当時17歳のソフィア・シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ(Sophia Charlotte of Mecklenburg- Strelitz:1744年ー1818年 在位期間:1761年ー1818年)と挙式を行い、その14日後の同年9月22日に戴冠式を挙行した。ジョージ3世は、シャーロット王妃と一緒に、戴冠式を行うために、即位後1年以上も戴冠式を延期していたと言われている。


ナショナルポートレートギャラリー内で所蔵 / 展示されている
ハノーヴァー朝の第3代英国王であるジョージ3世の肖像画
(By the studio of Sir William Beechey / Oil on canvas /
based on a portrait of about 1800)
<筆者撮影>


ジョージ3世は、シャーロット王妃用の私的な隠れ家として、1761年にバッキンガムハウス(Buckingham House)を購入し、1762年から改修工事を開始。

このバッキンガムハウスが、現在のバッキンガム宮殿(Buckingham Palace)となる。


ジョージ3世以降も、


*ジョージ4世(George IV:ジョージ3世の長男で、ハノーヴァー朝の第4代国王:1762年ー1830年 在位期間:1820年ー1830年)


ナショナルポートレートギャラリー内で所蔵 / 展示されている
ハノーヴァー朝の第4代英国王であるジョージ4世の肖像画
(By Sir Thomas Lawrence / Oil on canvas / 1814年頃)
<筆者撮影>


*ウィリアム4世(William IV:ジョージ3世の三男で、ハノーヴァー朝の第5代国王:1765年ー1837年 在位期間:1830年ー1837年)


は、セントジェイムズ宮殿をロンドンにおける第一王宮として引き続き使用した。

ただし、次第に、限られた公式行事、歓迎式典、王家の結婚式や洗礼式等に使用されるだけになっていく。


ナショナルポートレートギャラリー内で所蔵 / 展示されている
ヴィクトリア女王の肖像画
(By Sir George Hayter / Oil on canvas / 1863年 /
based on a portrait of 1838)
<筆者撮影>


ウィリアム4世の後を継いで、ハノーヴァー朝(House of Hanover)の第6代女王として即位したヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年 → 2017年12月10日 / 12月17日付ブログで紹介済)は、セントジェイムズ宮殿からバッキンガムハウスへと引越を行い、バッキンガム宮殿として使用を開始し、同宮殿に居住した最初の君主となった。

その結果、セントジェイムズ宮殿は、ロンドンにおける第一王宮としての役目を終えたのである。


ナショナルポートレートギャラリー内で所蔵 / 展示されている
アルバート公の肖像画
(By Franz Xaver Winterhalter / Oil on canvas / 1867年 /
based on a portrait of 1859)
<筆者撮影>


ただし、ヴィクトリア女王が1840年にアルバート公(Albert Prince Consort:1819年ー1861年)と結婚した際、挙式はセントジェイムズ宮殿の Chapel Royal において行われている。 


ヴィクトリア女王の生誕200周年を記念して、
英国のロイヤルメール(Royal Mail)から2019年に発行された切手の1枚 -
画面手前左側の人物がアルバート公で、
画面手前右側の人物がヴィクトリア女王
(By Sir George Hayter / 1842年)

2025年9月28日日曜日

ロンドン キャンバーウェル地区リヨンプレイス31番地(Number 31 Lyon Place, Camberwell)

ロンドン・サザーク区キャンバーウェル地区ではなく、
シティー・オブ・ウェストミンスター区リッソングローヴ地区内にある
リヨンズプレイスの南西の角に建つフラット
<筆者撮影>

サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)作シャーロック・ホームズシリーズの短編第3作目に該る「花婿失踪事件(A Case of Identity)」の場合、ジョン・H・ワトスンが、数週間ぶりに、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)のシャーロック・ホームズの元を訪れたところから、その物語が始まる。


ホームズとワトスンの2人が会話を交わしている最中、事件の依頼人であるメアリー・サザーランド(Mary Sutherland)が、給仕の少年に案内されて、部屋へと入って来た。そして、彼女は、ホームズに対して、「結婚式の場から行方不明になったホズマー・エンジェル(Hosmer Angel)を探してほしい。」と依頼するのであった。


1891年9月号に掲載された挿絵(その1) -
数週間ぶりにベイカーストリート221B を訪れた
ジョン・H・ワトスンに対して、
「今手掛けている事件は、10件か、12件位あるが、
面白い事件は、一つもない。」と愚痴をこぼすシャーロック・ホームズの元を
事件の依頼人であるメアリー・サザーランドが訪れた。
画面左側から、シャーロック・ホームズ、給仕の少年、
そして、
メアリー・サザーランド


彼女の母親の再婚相手であるジェイムズ・ウィンディバンク(James Windibank - メアリー・サザーランドの母親よりも15歳近く年下)は、フェンチャーチストリート(Fenchurch Street → 2014年10月17日付ブログで紹介済)にある大きな赤ワイン輸入業者ウェストハウス&マーバンク(Westhouse & Marbank)で外交員をしている、とのことだった。



ロンバードストリート(Lombard Street
→ 2015年1月31日付ブログで紹介済)から
フェンチャーチストリートを望む。
<筆者撮影>


義理の父となったジェイムズ・ウィンディバンクは、メアリー・サザーランドに対して、男友達との交際を禁じていたが、彼がフランスへ出張している間に、彼女は、ガス管取付業界の舞踏会(gasfitters' ball)へ出かけ、そこでホズマー・エンジェルと知り合い、間もなく婚約した。


1891年9月号に掲載された挿絵(その2) -
母親の再婚相手であるジェイムズ・ウィンディバンクは、
メアリー・サザーランドに対して、男友達との交際を禁じていたが、
彼がフランスへ出張している間に、
彼女は、ガス管取付業界の舞踏会へ出かけ、
そこでホズマー・エンジェルと知り合い、間もなく婚約した。

画面手前左側から、
メアリー・サザーランド、
そして、ホズマー・エンジェル。


ホズマー・エンジェルは、レドンホールストリート(Leadenhall Street → 2014年10月5日付ブログで紹介済)にある事務所で出納係(cashier)として働いていて、寝起きもその事務所でしている(He slept on the premises.)と言う。



レドンホールストリート沿いに建つロイズ保険組合の本社ビル「ロイズビル」-
ロイズ(Lloyd’s)」とは、正式には、
「ロイズ・オブ・ロンドン(Lloyd’s of London
→ 2023年12月8日付ブログで紹介済)」と言う。
<筆者撮影>


義理の父ジェイムズ・ウィンディバンクが再度フランスへ出張した際、ホズマー・エンジェルがメアリー・サザーランドの家を訪れて、「ジェイムズ・ウィンディバンクさんがフランスへ出かけているうちに、結婚式を挙げるべきだ。」と説得した。(Mr Hosmer Angel came to the house again and proposed that we should marry before father came back.)

彼女は母親にも相談したが、母親も、ホズマー・エンジェルを非常に気に入っており、「結婚式のことは、後で報告すればよい。」と答えた。

その結果、ホズマー・エンジェルとメアリー・サザーランドは、金曜日の朝に結婚式を挙げることが決まった。


残念ながら、セントサヴィオール教会は実在しておらず、
セントパンクラス オールド教会(St. Pancras Old Church)が、その候補地と思われる。
<筆者撮影>


メアリー・サザーランドとホズマー・エンジェルは、キングスクロスの近くにあるセントサヴィオール教会(St. Saviour's (Church) near King's Cross 2014年10月11日付ブログで紹介済)で結婚式を挙げ、その後、セントパンクラスホテル(St. Pancras Hotel → 2014年10月12日付ブログで紹介済)へ移動して、そこで結婚披露朝食会を開催する運びとなった。


セントパンクラスホテルの正面入口
<筆者撮影>


ユーストンロード(Euston Road)から見上げたセントパンクラスホテルの建物
<筆者撮影>


結婚式を挙げる金曜日の朝、ホズマー・エンジェルは、メアリー・サザーランドの家に、二人乗り馬車(hansom)で迎えに来た。

メアリー・サザーランドと彼女の母親の2人は、ホズマー・エンジェルが乗って来た二人乗り馬車には乗り、ホズマー・エンジェルは、通りに居た四輪辻馬車(four-wheeler)に乗り込み、セントサヴィオール教会へと向かった。

セントサヴィオール教会には、メアリー・サザーランドと彼女の母親が先に到着。彼女と彼女の母親は、後から着いた四輪辻馬車からホズマー・エンジェルが出て来るのを待つが、彼は一向に姿を現さない。そこで、四輪辻馬車の御者が降りて馬車の中を見てみると、ホズマー・エンジェルの姿は忽然と消えていた。

更に驚くことに、それ以降、彼の消息がつかめなくなったのである。


1891年9月号に掲載された挿絵(その3) -
結婚式を挙げる金曜日の朝、キングスクロスの近くにあるセントサヴィオール教会に、
メアリー・サザーランドと彼女の母親は先に到着して、
後から着いた馬車の中からホズマー・エンジェルが降りて来るを待った。
ところが、彼女達がいつまで待っても、ホズマー・エンジェルは、一向に姿を現さない。
そこで、ホズマー・エンジェルが乗って来た馬車の御者が降りて、馬車の中を見てみると、
ホズマー・エンジェルの姿は忽然と消えていたのである。
画面手前左側から、ホズマー・エンジェルが乗って来た馬車の御者、
そして、メアリー・サザーランド

挿絵:シドニー・エドワード・パジェット
(Sidney Edward Paget:1860年 - 1908年)


メアリー・サザーランドは、「結婚式を挙げる金曜日の朝、ホズマー・エンジェルは、何か良くないことが起こりそうな懸念を示していた。」と言う。

実際、ホズマー・エンジェルは、彼女に対して、「何が起きても、君は誠実でなくてはいけないよ。例え全く予測できないことが二人を引き裂いたとしても、君は僕に対して誓ったことを決して忘れてはいけない。いずれ、僕はその誓いを求めに来るからね。」と、奇妙なことを話したのである。


また、メアリー・サザーランドの母親と義理の父ジェイムズ・ウィンディバンクの反応も、どこかおかしかった。

メアリー・サザーランドの母親は、結婚式の場からホズマー・エンジェルが突然失踪したことについて、怒ってはいたものの、彼女に対して、「この件に関しては、二度と口にするな。」と言い渡した。

義理の父ジェイムズ・ウィンディバンクは、彼女と同じように、「ホズマー・エンジェルさんに、何かが起きたのだろう。」と言う意見ではあったが、「そのうち、ホズマー・エンジェルから連絡があるだろう。」と、何故か、楽観的だった。

義理の父ジェイムズ・ウィンディバンクの言葉とは裏腹に、メアリー・サザーランドの元に、ホズマー・エンジェルからの連絡は何もなく、彼のことを他の人に尋ねても、その行方は全く判らなかった。

そこで困り果てたメアリー・サザーランドは、ホームズのところへ頼って来たのである。


メアリー・サザーランドの依頼を受けて、事件の調査を引き受けたホームズであったが、何故か、彼女に対する彼の態度はやや冷たく、「このことは、私に任せて、貴女はこれ以上この件であれこれ悩まないことです。何よりも、ホズマー・エンジェル氏のことは、貴女の記憶から消し去るようになさい。彼は、貴女の人生から既に去ったのですから。(’Let the weight of the matter rest upon me now, and do not let your mind dwell upon it further. Above all, try to let Mr Hosmer Angel vanish from your memory, as he has done from your life.’)」と助言した。


1891年9月号に掲載された挿絵(その4) -
シャーロック・ホームズが事件の調査を引き受けてくれることを聞いた
メアリー・サザーランドは、ホームズの求めに応じて、

(1)先週の土曜日の「クロニクル紙」に出した尋ね人の広告

(2)ホズマー・エンジェルから受け取った手紙4通

を預け、自宅(キャンバーウェル地区リヨンプレイス31番地 )へと帰って行った。

挿絵:シドニー・エドワード・パジェット
(1860年 - 1908年)


ところが、傷心のメアリー・サザーランドは、「彼(ホズマー・エンジェル)に対して、誠意を尽くすつもりです。(’I shall be true t Hosmer.’)」と答えると、ホームズの求めに応じて、


*先週の土曜日の「クロニクル紙」(last Saturday’s Chronicle)に出した尋ね人の広告

*ホズマー・エンジェルから受け取った手紙4通


を預けると、自宅(キャンバーウェル地区リヨンプレイス31番地 / Number 31, Lyon Place, Camberwell)へと帰って行った。


リヨンズプレイスの西側から東側を見たところ(その1)
<筆者撮影>

リヨンズプレイスの西側から東側を見たところ(その2)
<筆者撮影>


事件の依頼人であるメアリー・サザーランドが、彼女の母親と母親の再婚相手であるジェイムズ・ウィンディバンクと一緒に同居しているキャンバーウェル地区(Camberwell → 2017年12月9日付ブログで紹介済)は、テムズ河(River Thames)の南岸にあるロンドン・サザーク区(London Borough of Southwark)内に所在しているが、現在の住居表示上、リヨンプレイス(Lyon Place)と言う名の通りは存在していないので、「リヨンプレイス31番地」は、多分、架空の住所だと思われる。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
リッソングローヴ地区周辺の地図を抜粋。


現在の住居表示上、ロンドン市内には、「リヨンプレイス」とと言う名の通りは存在していないが、「リヨンズプレイス(Lyons Place)」と言う名の通りは存在している。


リヨンズプレイスの西側から東側を見たところ(その3)
<筆者撮影>

リヨンズプレイスの西側から東側を見たところ(その4)
<筆者撮影>


「リヨンズプレイス」は、テムズ河の北岸にあるロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター(City of Westminster)の北西部にあるリッソングローヴ地区(Lisson Grove)内の通りで、便宜上、「リヨンズプレイス」で撮影した写真を使用している。


2025年9月27日土曜日

アンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck)- その1

ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
アンソニー・ヴァン・ダイクの肖像画の葉書
(Sir 
Anthony van Dyck / 1640年頃 / Oil on panel
560 mm x 460 mm) 


軽率だった夜盗(A Guest in the House / The Incautious Burglar → 2025年9月9日付ブログで紹介済)」は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1940年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの短編である。


軽率だった夜盗」は、英国の場合、ハミッシュ・ハミルトン社(Hamish Hamilton)から1963年に、また、米国の場合、ハーパー社(Harper)から1964年に出版された「奇跡を解く男(The Men Who Explained Miracles)」に収録されている。

軽率だった夜盗」は、1940年に「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」に掲載された際、「A Guest in the House」と言うタイトルだったが、 「奇跡を解く男」に収録される際に、「The Incautious Burglar」へ改題された。


日本の場合、日本の出版社である東京創元社が1970年に編集した「カー短編全集2 妖魔の森の家(The Third Bullet, The House in Goblin Wood and Other Stories)」に収録されている。


東京創元社から、創元推理文庫の一冊として出版されている
ジョン・ディクスン・カー作
「カー短編全集2 妖魔の森の家」の表紙
(カバー : アトリエ絵夢 志村 敏子氏) -
「軽率だった夜盗」(宇野 利奏訳)において、
夜盗がクランレイ荘に侵入した際、
「その(懐中電燈の)光が、食器棚に沿って匍っていくと、
銀色にきらめくものがあった。果物鉢である。
鉢の中のリンゴに、まるでそれが人間の胴であるかのように、
小型ナイフが不気味につき刺さったままだ。」や
「銀の食器類が一そろい、食器棚の前に散乱していた。
果物鉢も転げ落ちていた。
オレンジとリンゴ、そして葡萄の粒が潰れているあいだに、
死体が仰向けに倒れている。」と言う記述があるので、
表紙のデザインは、同作の内容を参考しているものと思われる。


ケント州(Kent)の荒涼たる平原を見下ろす丘の上に建つクランレイ荘が、物語の舞台となる。

ある夜、午後11時を過ぎると、屋敷に滞在する客を除く訪問客が帰り、以下のメンバーが山荘に残った。


(1)マーカス・ハント(Marcus Hunt - 企業家 / 投資家で、クランレイ荘の主人)

(2)ハリエット・ディヴィス(Harriet Davis - マーカス・ハントの姪)

(3)アーサー・ロルフ(Arthur Rolfe - 美術商)

(4)デリク・ヘンダースン(Derek Henderson - 美術批評家)

(5)ルイス・バトラー(表面上は、ハリエット・ディヴィスの友人であるが、実際には、スコットランドヤード犯罪捜査部(C. I. D.)の警部補)


マーカス・ハントは、クランレイ荘において、レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn:1606年ー1669年 / ネーデルラント連邦共和国(現オランダ王国)の画家)の絵画を2枚、そして、アンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck:1599年ー1641年 / バロック期のフランドル出身の画家)の絵画を1枚を所蔵しており、これら3枚は、莫大な値打ちを持つ名画だった。

マーカス・ハントは、元々、これら3枚を2階の寝室の隣りにある鍵がかかる部屋で保管していたが、何故か、階下の庭に面した食堂の壁に移動させたのである。食堂から、フランス窓経由、容易に庭へ出ることができた。

不思議なことに、マーカス・ハントは、これら3枚に対して、保険を掛けていなかった。更に、奇妙なのは、彼はクランレイ荘内に設置されていた夜盗避けの警報装置を一つ残らず撤去してしまったのである。

まるで、マーカス・ハントは、盗みに入られることを待っているかのようだった。

にもかかわらず、彼は、スコットランドヤードに依頼して、内々でルイス・バトラー警部補を派遣してもらい、クランレイ荘内に張り込ませていた。

上記の通り、マーカス・ハントの行動には、全く一貫性がなかった。果たして、彼は何を考えているのか?


そして、夜中の午前2時過ぎ、夜盗が現れた。フランス窓のガラスを切り取り、開けると、食堂へと侵入。壁に掛かった額縁からレンブラント作「帽子をかぶった老婆」を抜き取ると、画布を丸く巻こうとした。その作業に熱中するあまり、夜盗は、室内にもう一人の人物が居ることに少しも気付かなかった。


金属製の物体が転げ落ちる音を聞いた皆が2階から階下の食堂へ駆け付けると、銀の食器類が散乱する中、食器棚の前に、夜盗がセーターとズボンを血で汚したまま、仰向けに倒れており、全く動かなかった。食器棚の中にあった果物鉢の果物ナイフで、肋の辺りを刺されて、既に死亡していた。

ルイス・バトラー警部補が死体の側へ歩み寄り、油染みた鳥打ち帽を脱がせ、冠っていた黒布のマスクを外したところ、なんと、夜盗の正体は、クランレイ荘の主人であるマーカス・ハントだった。彼自身の山荘に所蔵されている名画を盗み出す最中に、胸を刺されて殺害されると言う奇怪な様相を呈していた。


「自分の所有物を自分が盗みに入る」と言う一見馬鹿げた行動ではあるが、何らかの理由があったに違いない。

ルイス・バトラー警部補の上司であるデイヴィッド・ハドリー警視(Superintendent David Hadley)から依頼を受けたギディオン・フェル博士が現地へと赴き、この奇怪な事件の謎を解き明かすのである。


ジョン・ディクスン・カー作「軽率だった夜盗」において、マーカス・ハントが所有するクランレイ荘に所蔵され、謎の夜盗に狙われた絵画3枚のうち、1枚の作者であるアンソニー・ヴァン・ダイクは、1599年3月22日、スペインから独立する前のオランダ(Spanish Netherlands)アントウェルペン(Antwerpen - オランダのロッテルダム(Rotterdam)とともに、欧州を代表する港湾都市の一つであるアントワープ(Antwerp)のこと)に出生。

彼の父親は、絹取引を営む商人であるフランツ・ヴァン・ダイク(Frans van Dyck)、彼の母親は、後妻のマリア・クパース(Maria Cupers)で、夫妻の7番目の子供だった。

彼は、翌日の同年3月23日、現在のアントワープ大聖堂(Antwerp Cathedral)で、アントニオ(Anthonio)として洗礼を受けている。


アンソニー・ヴァン・ダイクは、僅か8歳の時に、母マリアを亡くしてしまうが、裕福な

家庭で育った彼は、幼少の頃から、優れた芸術の才能を見せ、10歳の時には、アントウェルペンの画家であるヘンドリック・ファン・バーレン(Hendrick van Balen:1573年頃ー1632年)の下で絵画を学び始めている。