「トラファルガーの海戦」の200周年を記念して、 英国のロイヤルメールが2018年10月5日に発行した記念切手(その1) |
「トラファルガーの海戦(Battle of Trafalgar)」の200周年を記念して、英国のロイヤルメール(Royal Mail)が2018年10月5日に6種類の切手を発行してしているので、今回、それらについて紹介したい。
これらの記念切手は、英国の芸術家で、自分を「肖像画と軍の画家(portrait & military painter)」と称したウィリアム・ヒース(William Heath:1794年ー1840年)による「Panorama of the Battle of Trafalgar」がベースとなっている。
トラファルガーの海戦は、1805年10月21日にスペインのトラファルガー岬(Cape Trafalgar)の沖で行われたナポレオン戦争(Napoleonic Wars:1803年ー1815年)における最大の海戦で、英国艦隊は、フランス / スペインの連合艦隊(当時、スペインは、フランスによる支配下にあった)を打ち破った。この海戦における勝利によって、英国は、フランス第一帝政の皇帝であるナポレオン・ボナパルト(Napoleon Bonaparte:1769年ー1821年 在位期間:1804年-1814年+1815年)が計画した英国本土上陸の野望を粉砕したのである。
なお、以前紹介した英国海軍艦である「ビクトリー(HMS Victory → 2022年1月16日付ブログで紹介済)」は、トラファルガーの海戦において、英国海軍提督の初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson:1758年ー1805年)が座乗して、旗艦となっている。
「トラファルガーの海戦」の200周年を記念して、 英国のロイヤルメールが2018年10月5日に発行した記念切手(その2) |
そのため、ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)は、フランス陸軍による英国本土上陸作戦を援護させるべく、フランス海軍に対して、英国海軍による海上封鎖の突破を命令した。
ところが、トゥーロン艦隊司令長官であるラトゥーシュ・トレヴィル(Louis-Rene-Madeleine de Latouche-Treville:1745年ー1804年)の病死、荒天やスペインのフィニステレ岬(Cape Finisterre)の沖で行われたフィニステレ岬の海戦(Battle of Cape Finisterre - 1805年7月22日に、英国艦隊とフランス / スペイン連合艦隊の間で行われた海戦)における敗戦等により、ナポレオン1世は、英国本土上陸作戦を中止せざるを得ない状況に追い込まれた。
「トラファルガーの海戦」の200周年を記念して、 英国のロイヤルメールが2018年10月5日に発行した記念切手(その3) |
英国本土上陸作戦の中止を決断したナポレオン1世は、次の計画として、オーストリアへの侵攻を準備していた。そして、ナポレオン1世は、フィニステレ岬の海戦から撤退して、スペインのカディス(Cadiz:スペイン南西部に位置し、大西洋に面する港湾都市)に入り、整備を行っていたフランス / スペイン連合艦隊を率いる提督のピエール=シャルル=ジャン=バティスト=シルヴェストル・ド・ヴィルヌーヴ伯爵(Pierre-Charles-Jean-Baptiste-Silvestre de Villeneuve:1763年ー1806年 - ラトゥーシュ・トレヴィルの病死後、トゥーロン艦隊司令長官となった)に対して、命令を下した。
ナポレオン1世からの命令を受けたド・ヴィルヌーヴ提督は、1805年10月19日から20日にかけて、フランス / スペイン連合艦隊をカディスから出撃させた。一方、ホレーショ・ネルソンが率いる英国地中海艦隊は、出撃したフランス / スペイン連合艦隊をカディス沖で監視していた。
そして、カディス沖に布陣していた英国地中海艦隊とカディスを出撃したフランス / スペイン連合艦隊は、翌日の1805年10月21日に、スペインのトラファルガー岬の沖において、相見えることになる。
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