2015年3月29日日曜日

ロンドン ストランド通り(Strand)


サー・アーサー・コナン・ドイル作「入院患者(The Resident Patient)」は、シャーロック・ホームズがジョン・ワトスンと一緒にフリートストリート(Fleet Street)やストランド通り(Strand)を散策する場面から始まる。

地下鉄チャリングクロス駅の構内にある地図―チャリングクロスからストランド通りは始まる
ストランド通り1番地の建物

チャリングクロス駅(→「ボヘミアの醜聞」や「アビー農園」等に登場)と
チャリングクロスホテル(→「ブルース・パーティントン型設計図」に登場)

10月の蒸し暑い雨の日だった。「ワトスン、生憎と良くない天気だが」とホームズが言った。「晩になって、心地よい風が吹いてきた。ロンドンの街を散策するというのはどうだい?」
私は小さな居間に居ることに飽き飽きしていたので、喜んで同意した。3時間程、我々はフリートストリートやストランド通りを流れて行く無限の変化に満ちた人生の万華鏡を眺めながら、一緒に散策した。鋭い細部観察と鋭敏な推理能力を伴うホームズ独特の話は、私にとって非常に面白く、また、魅了された。我々がベーカーストリートに戻って来たのは、10時過ぎだった。ブルーム型馬車(一頭立四輪箱馬車)が一台戸口のところに停まっていたのである。

旧チャリングクロス病院(現チャリングクロス警察署
→「高名な依頼人」に登場)

サヴォイホテル

ローストビーフが有名なシンプソンズ
(→「瀕死の探偵」や「高名な依頼人」に登場)

It had been a close, rainy day in October. 'Unhealthy weather, Watson,' said my friend. 'But the evening has brought a breeze with it. What do you say to ramble through London ?'
I was weary of our little sitting-room and gladly acquiesced. For three hours we strolled about together, watching the ever-changing kaleidoscope of life as it ebbs and flows through Fleet Street and the Strand. Holmes's characteristic talk, with its keen observance of detail and subtle power of inference, held me amused and enthralled. It was ten o'clock before we reached Baker Street again. A brougham was waiting at our door.

ストランドパレスホテル

ライシアム劇場(→「四つの署名」に登場)

ストランド通りの中州に建つセントメアリー・ル・ストランド教会

ストランド通りは、ロンドン中心部のウェストミンスター区(City of Westminster)内にある大通りである。ストランド通りの西側は、トラファルガースクエア(Trafalgar Square)から始まり、途中、道路の中州のような場所に建つセントメアリー・ル・ストランド教会(St. Mary Le Strand)とセントクレメントデインズ教会(St. Clement Danes)、そして、ロンドンの政治の中心地であるウェストミンスター(Westminster)とロンドンの経済の中心地であるシティー(City)を分けていた関所跡であるテンプルバー(Temple Bar)を過ぎると、フリートストリートへと名前を変える。フリートストリートは更にラドゲートヒル(Ludgate Hill)と変わり、セントポール大聖堂(St. Paul's Cathedral)の正面へと至る。ストランド通り自体の長さは約1㎞である。

現在は使用されていない地下鉄ストランド駅

ストランド通りの中州に建つセントクレメントデインズ教会

テンプルバー―
ストランド通りは、ここからフリートストリートへと名前を変える

フリートストリートについては、「赤毛組合(The Red-Headed League)」において言及しておるので、御参照いただきたい。
歴史上、ストランド通りはローマ時代から登場する。11世紀には「strondway」、12世紀には「stronde」、そして、13世紀には「la Stranda」と呼ばれ、古英語の「浜」や「岸」を意味する「Strand」に行き着いた。これは、ストランド通り一帯が川幅がまだ広かったテムズ河(River Thames)の浅瀬に該ったことに由来している。

ホームズファンの聖地であるバーリーストリート12番地

ストランド通り沿いには、ホームズシリーズの舞台となるチャリングクロス駅(Charing Cross Station)、チャリングクロスホテル(Charing Cross Hotel)、旧チャリングクロス病院(Charing Cross Hospital:現チャリングクロス警察署)シンプソンズ(Simpson's)やライシアム劇場(Lyceum Theatre)等が所在している。また、ライシアム劇場の裏手、ストランド通りからコヴェントガーデン(Covent Garden)方面に向かって北へ延びるバーリーストリート(Burleigh Street)の12番地はホームズファンの聖地で、「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」がここで創刊されたのである。

2015年3月28日土曜日

ロンドン ノーサンバーランドアベニュー(Northumberland Avenue)


サー・アーサー・コナン・ドイル作「独身の貴族(The Noble Bachelor)」(出版社によっては、「花婿失踪事件(A Case of Identity)」との対比から「花嫁失踪事件」と訳しているケースあり)において、1887年10月、ロバート・ウォルシンガム・ド・ヴェア・セント・サイモン卿(Lord Robert Walsingham de Vere St Simon)との結婚式の後、花嫁であるハティー・ドラン(Hatty Doran)が披露宴の席上、気分がすぐれないと言って自室に引き下がり、そのまま姿を消してしまったのである。セント・サイモン卿がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れ、ドラン嬢の行方を捜してほしいと依頼する。

「Corinthia Hotel London(=ホテル)」や
「The Northall(=レストラン)」等が入っている建物

セント・サイモン卿の話を一通り聞いただけで、ホームズは直ぐに事件の真相に辿り着いてしまった。そして、ホームズはジョン・ワトスンをベーカーストリート221Bに残したまま外出する。ホームズは行方不明になっていたドラン嬢を無事見つけ出した。米国の鉱山労働者のキャンプがアパッチインディアンに襲われた際に死亡したと新聞で報道されていた夫フランシス・ヘイ・モールトン(Francis Hay Moulton)が実際には生存しており、彼女は夫とロンドンで再会していたのであった。ワトスンはホームズの手際の良さに感服する。

「Citadines Trafalgar Square London(=ホテル)」が
入っている建物の入口
同ホテルが入っている建物の外壁―
夕方になると、ライトアップされる

「一体どうやって彼ら二人を見つけ出したんだい?」
「やっかいな捜査になるかもしれなかったが、我らが友人レストレード警部が必要な情報を入手してくれたのさ。彼自身はその情報の価値を判っていなかったがね。もちろん、イニシャルが非常に重要だったが、それよりももっと重要だったのは、彼(フランシス・ヘイ・モールトン)がここ1週間以内にロンドンの最も高級なホテルの一つで勘定をし支払ったことが判ったことなんだ。」
「どうして高級だと判ったんだい?」
「値段が高級だったからさ。一泊8シリングで、シェリー酒一杯が8ペンスということは、最も高級なホテルの一つであることを示していた。これだけの値段のホテルは、ロンドンではそんなに多くない。ノーサンバーランドアベニューの2軒目のホテルで宿泊者名簿を調べた結果、フランシス・ヘイ・モールトンという米国の紳士が前日ホテルをチェックアウトしていることが判った。そして、彼に関する記載事項を一通り確認したところ、勘定書きの複写で目にしたものとまさに同じ項目が見つかったんだ。彼の手紙はゴードンスクエア226番地へ転送されることになっていたので、そこまで出かけ、幸運にもその家で愛し合う二人を見つけ出したのさ。...」

ノーサンバーランドアベニューが
トラファルガースクエアに接する角(東側)にある建物の外壁に
施されている動物や魚類等の彫刻


'And how in the world did you find them ?'
'It might have been difficult, but friend Lestrade held information in his hands the value of which he did not himself know. The initials were, of course, of the highest importance, but more valuable still was it to know that within a week he had settled his bill at one of the most select London hotels.'
'How did you deduce the select ?'
'By the select prices. Eight shillings for a bed and eight pence for a glass of sherry pointed to one of the most expensive hotels. There are not many in London which charge at that rate. In the second one which I visited, in Northumberland Avenue, I learned by an inspection of the book that Francis H. Moulton an American gentleman, had left only the day before, and on looking over the entries against him, I came upon the very items which I had seen in the duplicate bill. His letters were to be forwarded to 226 Gordon Square, so thither I travelled, and being fortunate enough to find the loving couple at home, ...'

ノーサンバーランドアベニューが
トラファルガースクエアの接する角(西側)に建つもう一つのビル
ノーサンバーランドアベニューの中間辺りにある
「The Grand at Trafalgar Square(=ホテル)」
ヴィクトリアエンバンクメント通り近辺の
ノーサンバーランドアベニュー

ノーサンバーランドアベニュー(Northumberland Avenue)は、トラファルガースクエア(Trafalgar Square)からテムズ河(River Thames)へ向かって始まり、ヴィクトリアエンバンクメント通り(Victoria Embankment)に突き当たって終わる通りである。
1608年から1609年にかけて、ノーサンバーランド伯爵(Earl of Northumberland)がこの一帯にノーサンバーランドハウス(Northumberland House)を建設した。その後、通りの施設工事のため、1874年6月にノーサンバーランド公爵(Duke of Northumberland)が土地を売却し、工事竣工後、売却主のノーサンバーランド公爵の名前を採って、ノーサンバーランドアベニューと名付けられた。

ノーサンバーランドアベニューと
ノーサンバーランドストリートが接する角に建つ
シャーロック・ホームズパブ

現在も、ノーサンバーランドアベニューの両側には、いくつかの高級ホテルが軒を連ねている。このホテルのどれかで、ホームズはハティー・ドランの夫であるフランシス・ヘイ・モールトンが宿泊していたことを見つけ出したに違いない。ノーサンバーランドアベニューとノーサンバーランドストリート(Northumberland Street)が接する角には、奇しくも、シャーロック・ホームズパブ(Sherlock Holmes Pub)が営業している。
ちなみに、2012年夏に開催されたロンドンオリンピック/パラリンピックの際、ノーサンバーランドアベニューはマラソンコースに含まれていた。

ノーサンバーランドアベニューは、「ギリシア語通訳(The Greek Interpreter)」の中にも出てくる。マイクロフト・ホームズ(Mycroft Holmes)経由、シャーロック・ホームズに事件を相談したギリシア生まれのメラス氏(Mr Melas)は、法廷で通訳をしたり、ノーサンバーランドアベニュー沿いのホテルに宿泊する裕福な旅行者のガイドをしたりして、生計を立てていた。ということは、メラス氏もこのノーサンバーランドアベニューを頻繁に歩いていた訳である。

2015年3月22日日曜日

ロンドン ローンロード3番地/ローンロードフラッツ(3 Lawn Road/Lawn Road Flats)

ローンロードフラッツの全景写真

1934年にアガサ・クリスティーは地下鉄ノッティングヒルゲート駅(Notting Hill Gate Tube Station)の近くにあるシェフィールドテラス58番地(58 Sheffield Terrace)の家を購入したが、第二次世界大戦(1939年ー1945年)が勃発し、ロンドンの中心街がドイツ軍による爆撃を受けるようになり、シェフィールドテラス58番地も被弾して、地下室と3階に大きな被害を受けてしまった。そのため、エジプト学者スティーヴン・グランヴィルの勧めににより、アガサ・クリスティーは1941年に彼が住むロンドン北部ハムステッド(Hampstead)のローンロード(Lawn Road)沿いに建つローンロードフラッツ(Lawn Road Flats)の17号室へ移り住んだ。このフラッツは、設計事務所の名前に因んで、「イソコンビルディング(Isokon building)」と呼ばれている。

ローンロードフラッツ正面の壁に架けられている建物名表示

「イソコン(Isokon)」は、1929年にジャック・プリチャード(Jack Pritchard)とモリー・プリチャード(Molly Pritchard)の夫妻が設立した設計事務所で、近代的な建物(家屋やフラット等)の設計や建設を目的としていた。その他に、家具や内装等のデザインや製造も行っていた。設立当初、設計事務所は「ウェルズ・コーテス・アンド・パートナーズ(Wells Coates and Partners)」と呼ばれていたが、ドイツのワイマールに設立されたデザイン学校「バウハウス(Bauhaus)」が起こした近代建築運動に呼応して、1931年に名前を「イソコン」へと変更した。

地下鉄ベルサイズパーク駅に近い方にあるローンロード入口

ハムステッドヒース駅(Hampstead Heath Station)の南東側に南北に延びるローンロードがあり、その中間辺りにローンロードフラッツが建っている。このフラッツは1934年7月9日にオープンし、
・1寝室フラットー22室
・2寝室フラットー4室
・スタジオフラットー3室
・共同キッチン
・スタッフ用区画
・駐車場
を備えていた。1937年には、共同キッチンがバーに改装され、「イソバー(Isobar)」と呼ばれ、ロンドン北部に住む知識階級の間で有名となり、著名人が集い、賑わったとのこと。

夕陽を背に浴びるローンロードフラッツ

残念ながら、設計事務所イソコンは商業的には全く成功しなかった。1939年に第二次世界大戦が勃発したことに伴い、英国への合板(ベニヤ板)の供給が断たれたため、同年家具の製造ができなくなった。
アガサ・クリスティーは、第二次世界大戦が終わり、世間がやや落ち着く1946年までローンロードフラッツに住んでいたようである。

現在、正面右側にある駐車場が
ギャラリースペースに改装されている

2014年7月にローンロードフラッツの駐車場がギャラリースペースに改装され、フラッツの歴史、著名な住人やイソコン等を紹介する常設展を行っている。

ベルサイズウッド・ネーチャーリザーブでは、
数多くの動植物が保護されている

ローンロードフラッツの右隣りには、ベルサイズウッド・ネーチャーリザーブ(Belsize Wood Nature Reserve)と呼ばれる自然保護森への入口があり、ローンロードフラッツの裏手に広がっている。地下鉄ベルサイズパーク駅(Belsize Park Tube Station)方面からの帰り道のショーットカットとして、付近の住民に使用されたりもしている。

2015年3月21日土曜日

ロンドン ゴードンスクエア226番地(226 Gordon Square)


サー・アーサー・コナン・ドイル作「独身の貴族(The Noble Bachelor)」(出版社によっては、「花婿失踪事件(A Case of Identity)」との対比から「花嫁失踪事件」と訳しているケースあり)において、1887年10月、ロバート・ウォルシンガム・ド・ヴェア・セント・サイモン卿(Lord Robert Walsingham de Vere St Simon)との結婚式の後、花嫁であるハティー・ドラン(Hatty Doran)が披露宴の席上、気分がすぐれないと言って自室に引き下がり、そのまま姿を消してしまったのである。セント・サイモン卿がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れ、ドラン嬢の行方を捜してほしいと依頼する。

ゴードンスクエアの南西の角に建つ
クライスト・ザ・キング教会(Church of Christ the King)

セント・サイモン卿の説明を一通り聞いただけで、ホームズは直ぐに事件の真相を解き明かしてしまう。そして、ホームズはジョン・ワトスンをベーカーストリート221Bに残したまま外出する。その間に、ホームズとワトスンを含めて、5人分の夕食が用意される。ホームズによると、3人の来客があると言う。その一人はセント・サイモン卿、あとの二人はフランシス・ヘイ・モールトン夫妻(Mr and Mrs Francis Hay Moulton)で、なんと、モールトン夫人は行方不明になっていたドラン嬢だったのである。そして、彼女の口から事の顛末が語られるのであった。

ゴードンスクエア内にある中庭入口から撮った中庭内

「私が朝食のテーブルの席について10分も経過しないうちに、道路の反対側にフランク(フランシス・ヘイ・モールトンのこと)が居るのが窓越しに見えました。彼は私に手招きして、それからハイドパーク内へ歩いて行きました。っ私は席を中座し、コート等を着て、彼の後を追いました。知らない女性が、セント・サイモン卿のことについて何か話しながら、私へ近づいて来ました。彼女の話によると、セント・サイモン卿には結婚前にちょっとした秘密があるとのことでしたが、私はなんとか彼女を振り切って、直ぐにフランクに追い付きました。私達は馬車に一緒に乗って、フランクがゴードンスクエアに用意していた家へ向かいました。そして、これが私が何年も待ち望んでいた真の結婚式でした。フランクはアパッチインディアンに捕えられていましたが、なんとか脱出し、サンフランシスコまで来ました。私が彼を死んだものと諦めて、英国へ行ったことを彼はそこで知り、ここまで私の後を追って来たのです。そして、私の2度目の結婚式のまさにその朝、遂に彼は私と再会した訳です。」
「新聞で読んだんです。」と、米国人(フランク)は説明した。「新聞に名前と教会は載っていましたが、彼女(ハティー・ドラン)がどこに住んでいるのかは判りませんでした。」

「ゴードンスクエアガーデン(Gordon Square Garden)」の沿革を示す
中庭内の立て看板
中庭内からゴードンスクエアの西側に建つ
王立哲学協会(The Royal Institute of Philosophy)の建物を望む

'I hadn't been at the table ten minutes before I saw Frank out of the window at the other side of the road. He beckoned to me and then began walking into the park. I slipped out, put on my things, and followed him. Some woman came talking something or other about Lord St Simon to me - seemed to me from the little I heard as if he had a little secret of his own before marriage also - but I managed to get away from her and soon overtook Frank. We got into a cab together, and away we drove to some lodgings he had taken in Gordon Square, and that was my true wedding after all those years of waiting. Frank had been a prisoner among the Apaches, had escaped, came on to 'Frisco, found that I had given him up for dead and had gone to England, followed me there, and had come upon me at last on the very morning of my second wedding.' 
'I saw it in a paper,' explained the American. 'It gave the name and the church but not where the lady lived.'

中庭の北東の角にある Noor Inayat Khan(1914年ー1944年)のメモリアル像
ー第二次世界大戦中、彼女は英国軍に入隊して、
パリでのスパイ活動中にナチス・ドイツ軍に逮捕され、1944年に処刑された。
彼女の死後(1949年)、彼女にはジョージクロス勲章が授与されている。
幼少期、彼女はブルームズベリー地区に住んでいたため、
ここにメモリアル像が設置されたものと思われる。
中庭の西側にあるラビンドラナート・タゴール
(Rabindranath Tagore:1861年―1941年)のメモリアル像
―インドの詩人・思想家で、1913年にノーベル文学賞を受賞(アジア人初のノーベル賞)。
すぐ近くに王立哲学協会が入居している建物があるため、ここに設置されたものと思われる。

フランシス・ヘイ・モールトンがハティー・ドランを連れて馬車で向かったゴードンスクエア(Gordon Square)は、ロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内にあり、ロンドン大学(University of London)の北側に位置している。ブルームズベリー地区は、19世紀から20世紀にかけて、多くの芸術家や学者等が住む文教地区として発展してきた街である。
ゴードンスクエアは1820年代に開発され、第6代ベッドフォード公爵(6th Duke of Bedford)の2番目の夫人であるレディー・ジョージアーナ・ゴードン(Lady Georgiana Gordon)の名前を採って名付けられた。
ロンドン市内の他のスクエアと同様に、ゴードンスクエアの真ん中にある中庭は、当初、スクエアを囲む建物の住民のみが使用可能であったが、現在はロンドン大学の所有下にあり、一般に開放されている。また、スクエアを囲む建物の多くが、2005年にロンドン大学の所有下に入っている。

広場の東側に建つ建物―ロンドン大学が使用している

フランシス・ヘイ・モールトンが用意した家はゴードンスクエア226番地(物語の終盤、ホームズからワトスンへの説明の中で、番地が特定される)であるが、残念ながら、これは架空の番地で、ゴードンスクエア内には3桁の番地は存在していない。

2015年3月15日日曜日

ロンドン サーペンタイン湖(The Serpentine)


サー・アーサー・コナン・ドイル作「独身の貴族(The Noble Bachelor)」(出版社によっては、「花婿失踪事件(A Case of Identity)」との対比から「花嫁失踪事件」と訳しているケースあり)において、1887年10月、ロバート・ウォルシンガム・ド・ヴェア・セント・サイモン卿(Lord Robert Walsingham de Vere St Simon)との結婚式の後、花嫁であるハティー・ドラン(Hatty Doran)が披露宴の席上、気分がすぐれないと言って自室に引き下がり、そのまま姿を消してしまったのである。セント・サイモン卿がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れ、ドラン嬢の行方を捜してほしいと依頼する。


セント・サイモン卿の説明を一通り聞いただけで、ホームズは直ぐに事件の真相を見抜いてしまう。セント・サイモン卿が帰って、ホームズとジョン・ワトスンが話をしていると、そこにスコットランドヤードのレストレード警部(Inspector Lestrade)がやって来た。彼の服装は船員風で、手には黒いキャンパスバッグを携えていた。



「それで、どうしたんだい?」と、ホームズは目を輝かせながら尋ねた。「不満気な顔をしているね。」
「本当に困っているんですよ。例のいまいましいセント・サイモン卿の結婚事件のことです。この件は全て手も足も出ないんです。」
「そうなんだ!そりゃ驚いたね。」
「今までに、こんなに難しい事件があったでしょうか?あらゆる手掛かりが私の指の間からこぼれ落ちていくようです。私は一日中この事件にかかりっきりの状態ですよ。」
「君がびしょ濡れになっているのは、そのためかい?」と、ホームズはピーコート(厚地の短い外套)の腕のところに手を置きながら言った。
「ええ、私はずーっとサーペンタイン湖を浚っていたんです。」
「それは一体何のためにだい?」
「もちろん、それはセント・サイモン卿夫人の遺体を捜索するためですよ。」
シャーロック・ホームズは椅子にもたれかかって、心から快活に笑った。
「君はトラファルガースクエアの噴水の水盤をもうさらったのかい?」と、彼は尋ねた。
「何故ですか?どういうことですか?」
「君がセント・サイモン卿夫人の遺体を見つけ出す可能性は、どちらも同じ位ないからさ。」
レストレード警部は怒りに満ちた視線をホームズに向けた。「思うに、ホームズさん、あなたは全てが判っているみたいですね。」と、彼はうなった。
「セント・サイモン卿から事実関係を聞いたばかりだが、何もかも判ったよ。」
「本当ですか?それで、サーペンタイン湖はこの事件に全く関係ないと、あなたは考えているのですか?」
「関係ないと思っているさ。」



'What's up, then ?' asked Holmes with a twinkle in his eyes. 'You look dissatisfied.'
'And I feel dissatisfied. It is this infernal St Simon marriage case. I can make neither head nor tail of the business.'
'Really ! You surprise me.'
'Who ever heard of such a mixed affair ? Every clue seems to slip through my fingers. I have been at work upon it all day.'
'And very wet it seems to have made you,' said Holmes laying his hand upon the arm of the pea-jacket.
'Yes, I have been dragging the Serpentine.'
'In heaven's name, what for ?'
'In search of the body of Lady St Simon.'
Sherlock Holmes leaned back in his chair and laughed heartily.
'Have you dragged the basin of Trafalgar Square fountain ?' he asked.
'Why ? What do you mean ?'
'Because you have just as good a chance of finding this lady in the one as in the other.'
Lestrade shot an angry glance at my companion. 'I suppose you know all about it,' he snarled.
'Well, I have only just heard the facts, but my mind is made up.'
'Oh, indeed ! Then you think that the Serpentine plays no part in the matter ?'
'I think it very unlikely.'



レストレード警部がセント・サイモン卿夫人の遺体を捜索するためにさらっていたサーペンタイン湖(The Serpentine)は、ハイドパーク(Hyde Park)とケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens)を二つに分けている湖である。
ハノーヴァー朝のジョージ2世(George Ⅱ:1683年ー1760年)の妃であるキャロライン王妃(Queen Caroline:1683年ー1717年)は、学問や芸術に加え、造園にも造詣が深く、彼女の指示でハイドパーク内にサーペンタイン湖が設けられた。1730年に工事が始まり、湖が完成したのは、1733年である。
サーペンタイン湖ができるまでは、公園内一帯をハイドパークと呼んでいたが、湖が設けられたことに伴い、公園の東側をハイドパークに、そして、公園の西側をケンジントンガーデンズとして正式に分けるようになった。また、1826年に湖の途中にサーペンタイン橋(Serpentine Bridge)が架けられたことに伴い、北側の湖をロングウォーター(Long Water)、そして、南側の湖をサーペンタイン湖として分けて呼ぶようになった。


2012年に開催されたロンドンオリンピックにおいて、サーペンタイン湖は男女トライアスロン(水泳)の会場として使用された。
夏になると、サーペンタイン湖上には多くのボートがくり出して、ロンドンの夏の風物詩の一つとなっている。
1864年に発足したサーペンタイン水泳クラブ(Serpentine Swimming Club)があり、毎年クリスマス(12月25日)の早朝、寒中水泳大会が行われている。この大会は、「ピーターパンカップ(Peter Pan Cup)」と呼ばれている。