2015年2月14日土曜日

ロンドン シェフィールドテラス58番地(58 Sheffield Terrace)

アガサ・クリスティーが住んでいたシェフィールドテラス58番地の全景

最初の夫アーチボルド・クリスティー(Archibald Christie:1889年ー1962年)の浮気が原因で、1928年に彼と離婚したアガサ・クリスティーは、中東旅行の際に知り合った考古学者サー・マックス・エドガー・ルシアン・マローワン(Sir Max Edgar Lucien Mallowan:1904年ー1978年)と1930年に再婚する。その後、1934年に二人は地下鉄ノッティングヒルゲート駅(Notting Hill Gate Tube Station)の近くにあるシェフィールドテラス58番地(58 Sheffield Terrace)の家を購入した。


シェフィールドテラス58番地へ行くには、セントラルライン(Central Line)、サークルライン(Circle Line)およびディストリクトライン(District Line)が交差する地下鉄ノッティングヒルゲート駅を出て、東西に延びるノッティングヒルゲート通り(Notthing Hill Gate)を渡り、ケンジントン チャーチストリート(Kensington Church Street)を南へ下る必要がある。このケンジントン チャーチストリートの両側には、高級な絵画や家具等を販売するアンティークショップが数多く並んでいる。ケンジントン チャーチストリートを数分南へ下ると、進行方向右手にシェフィールドテラス通り(Sheffield Terrace)が見えてくる。シェフィールドテラス通りは、一軒家やフラット等が並ぶ高級住宅街内にある。シェフィールドテラス通り自体は、ケンジントン チャーチストリート側から非常に緩やかな登り坂となっている。この坂道を上がって行くと、キャンプデンヒルロード(Campden Hill Road)に突き当たるが、その数軒手前の右手にある真っ白な3階建ての家が、シェフィールドテラス58番地である。

シェフィールドテラス通り(手前の道路)が
キャンプデンヒルロード(左手奥の道路)に突き当たった角

1939年に第二次世界大戦が勃発すると、ドイツ軍によるロンドン爆撃が激しくなり、1940年10月にはシェフィールドテラス58番地も被弾して、地下室、3階および屋根に大きな被害を受けたとのこと。残念ながら、1941年にアガサとマックスの夫妻はシェフィールドテラス58番地を手放して、ロンドン北部のハムステッド(Hampstead)へ移り住んでしまった。

シェフィールドテラス58番地の玄関を
ライオンとユニコーンが守っている

現在、シェフィールドテラス58番地の家は、白く高い塀と植え込みに囲まれていて、外の通りから(日本で言う)1階部分はあまり見ることができない。家の門には緑のドアがあり、「グリーンロッジ(Green Lodge)」という名前がかろうじて読み取ることができる。また、門のドアの右側には、番地名を示す「58」のプレートが付いている。1階にある玄関のドアの上には、右手にライオン、そして、左手に一角獣(ユニコーン)のプレートが架けられている。

アガサ・クリスティーがシェフィールドテラス58番地に
住んでいたことを示すブループラーク

更に、(日本で言う)2階部分に該る左手の出窓の左側に、「アガサ・クリスティーが1934年から1941年までの間、ここに住んでいた」ことを示すイングリッシュ・ヘリテージ(English Heritage)管理のブループラーク(Blue Plaque)が掲げられている。

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