1891年7月の「ボへミアの醜聞」を皮切りに、「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」にほぼ毎月ホームズ作品を連載していたサー・アーサー・コナン・ドイルであったが、毎回新しいストーリーを考え出して作品を創作することが、彼にはだんだん苦痛となってきていた。また、ドイルとしては、自分の文学的才能は長編歴史小説の分野で発揮、評価されるべきと考えており、ホームズ作品は彼にとってはあくまでも副業に過ぎなかったのである。ところが、「ストランドマガジン」を通じて、ホームズ作品が予想以上に爆発的な人気を得るに至ったため、ドイルはホームズ作品の原稿締め切りに毎回追われる始末で、自分が本来注力したい長編歴史小説に時間を全く割けない状況であった。よって、彼は、1893年12月の「最後の事件」において、ホームズをモリアーティ教授と一緒に、ライヘンバッハの深い滝壺の中に葬ってしまったのである。
「最後の事件」が「ストランドマガジン」に掲載された際、読者は大いに嘆き悲しみ、ロンドン市民は正式な喪に服すべく、黒い腕章を身につけたとのことである。更に、2万人以上の読者が、「ストランドマガジン」の購読を中止した上、何千通もの抗議の手紙が出版社宛に届けられたそうである。しかしながら、ドイルの気持ちは固く変わらず、ホームズが復活することはなかった。
そして、時は流れ、1899年に南アフリカでボーア戦争が勃発した。愛国心に燃えるドイルは、義勇兵に志願するも、高齢を理由に受け入れられなかったため、その代わりに、彼の友人が現地に設営した野戦病院の医師として赴くことになった。かくして、ドイルは1900年2月末、南アフリカに出征し、半年後の同年8月にロンドンに帰国した。現地での悲惨な状況により体調を崩していたドイルは、静養のため、1901年3月にイングランド東部のノーフォーク州のクローマーという保養地に出かける。そこで彼は英国南西部のダートムーア出身のジャーナリスト、フレッチャー・ロビンソンに出会い、ダートムーアに言い伝えられている魔犬伝説を聞かされた。
荒涼としたダートムーアに出現する巨大な黒い魔犬。ロビンソンから魔犬伝説を聞いたドイルは、早速ダートムーアに向かった。そして、ロビンソンは現地での案内役を務めたのである。当初、ドイルはロビンソンとの共同作品、つまりホームズ作品とは全く異なる作品を考えていたが、ロビンソンが固辞したため、ドイルは単独で執筆を進めることにした。そこで、ドイルが非常に困ったのは、ダートムーアの魔犬伝説に対抗できるだけの強力な主役を据えることだったが、残念ながら一筋縄にはいかなかった。それではドイルはどうしたのか?なんとドイルは、ホームズを主役に据えたものの、長らく生死不明だったホームズを生還させるのではなく、逆に本作品の事件発生年月を「最後の事件」以前に設定するという手法を採ったのである。実際、事件の発生年月を1888年9月に設定し、「ジョン・ワトスンが記録はしたものの、未発表だった事件を今回発表する」ということにしたのだ。この時点で、ホームズは完全復活を果たした訳ではなかったが、長らくホームズ作品に飢えていた読者は、それでも驚喜し、ストランドマガジンでホームズは一時的に復活したのである。彼が完全復活するには「バスカヴィル家の犬」の連載終了月である1902年4月から約1年半後の「空き家の冒険」(1903年9月初出)まで、読者はもうしばらく待つ必要があった。
追加情報であるが、魔犬伝説の調査のため、ダートムーアにやって来たドイルは、移動手段として馬車を雇った。実は、この馬車の御者がバスカヴィルという名前で、この名前をひどく気に入ったドイルは御者と交渉し、彼の名前をこれから執筆する作品の中で使用することの許可を得たとのこと。こうして、バスカヴィルという名前は、「バスカヴィル家の犬」としてホームズファンの間で不滅の名前となったのである。