2022年7月13日水曜日

キャロル・ブッゲ作「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / インドの星」(The further adventures of Sherlock Holmes / The Star of India by Carole Bugge) - その2

英国の Titan Publishing Group Ltd. の Titan Books 部門から
2011年に出版された
キャロル・ブッゲ作
「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / インドの星」の裏表紙


ハドスン夫人の姉からの電報を受けたシャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンの二人は、直ぐに馬車でウォータールー駅(Waterloo Station → 2014年10月19日付ブログで紹介済)へ向かい、昼12時の列車でコンウォール州(Cornwall)へと出発した。

ハドスン夫人の姉であるフローラ・キャンベル(Mrs. Flora Campbell)の家は、ティンタジェル(Tintagel)の町から2-3マイル程離れたところにあった。


実は、ホームズが駅で切符を買っている間に、見知らぬ背の低い男がワトスンに近付いて来て、今日のテレグラフ紙を渡すと、人混みの中に姿を消してしまったのである。

ワトスンからそのことを聞いたホームズが新聞を調べたところ、広告欄のページに変な記載があった。


“Mr. Fermat to Mr. Shomel : it’s your move ; your pawn is in deep water and speed is of essence.”


(注)

ピエール・ド・フェルマー(Pierre de Fermat:1607年ー1665年)

フランスの裁判官で、数学者でもあった人物。「フェルマーの定理」で知られており、「数論の父」と呼ばれている。


誰かが新聞の広告欄を使って、チェスゲームをしているようだ。ホームズは、ワトスンに対して、「これは、自分(Mr. Shomel)に対するメッセージだ。」と断言した。しかし、一体、誰が?


ホームズとワトスンがハドスン夫人の姉の家を訪れると、彼女は、「ホームズ宛に電報を出していない。」と答えた。ハドスン夫人自身の所在を尋ねられると、「She(Martha)’s out at Tintagel.」と話した。ハドスン夫人は、ティンタジェルの町に出かけたついでに、ティンタジェル城(Tintagel Castle)の見物をしているようだ。


ティンタジェルの町へと引き返したホームズとワトスンであったが、ティンタジェル城にハドスン夫人の姿は全く見当たらなかった。

ホームズがティンタジェル城に残るハドスン夫人の足跡を辿った結果、満潮が迫る海岸の洞窟の奥に、手足を縛られたハドスン夫人を発見したのである。


無事に救出したハドスン夫人から聞いた証言をベースに、ホームズは、「ハドスン夫人の手足を縛って、海岸の洞窟の奥に運んだ犯人は、ジョージ・シンプソン(George Simpson)だ。」と断定した。

ホームズによると、ジョージ・シンプソンは、「犯罪界のナポレオン(Napoleon of crime)」と呼ばれたジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)の部下として、イーストエンド(East End)で暗躍していた、とのこと。数年前に、ホームズは、ジョージ・シンプソンを捕まえて、ニューゲート監獄(Newgate Prison)へと送ったが、どうやら、既に脱獄済のようだった。


ホームズの話を聞いたワトスンは、彼に対して、「一体、誰が今回の事件の背後に居るのか?(Who … who do you think is behind all of this ?)」と尋ねると、長い沈黙の後、ホームズは答えた。まるで、彼の声は、遠くから聞こえてくるようだった。

「幽霊だよ、ワトスン。幽霊だ。(A ghost, Watson - a ghost.)」

ワトスンが、更に尋ねる。

「墓場から死者が甦ったのか?(I wonder, do ghosts rise from the dead ?)」

すると、ホームズが、あの有名なセリフを繰り返す。

「Once you have eliminated the impossible, whatever remains, however improbable, is the truth.」

そして、最後に付け加えたのである。

「そうさ、ワトスン、モリアーティー教授は、生きていたんだ。(Yes, Watson, Professor Moriarty has returned from the dead.)」と。

モリアーティー教授は、自分と同じ数学者であるピエール・ド・フェルマーの名前を使って、自分をチェスゲームに引き込もうとしていると、ホームズは考えていた。


ホームズと同じく、スイスのマイリンゲン(Meiringen)にあるライヘンバッハの滝壺(Reichenbach Falls)から復活したモリアーティー教授は、先日、彼らの元を訪れたメリーウェザー嬢(Miss Merriweather)が保有する「インドの星(The Star of India)」と呼ばれる青いサファイアに狙いを定めた。

「インドの星」は、正当な持ち主ではない人物の手に渡ると、死をもたらすと言い伝えてられていたのである。(The Star of India, it is said to bring death upon a wrongful owner.)


2022年7月10日日曜日

コナン・ドイル作「空き家の冒険」<小説版>(The Empty House by Conan Doyle ) - その3

英国で出版された「ストランドマガジン」
1903年10月号に掲載された挿絵(その4) -
ベイカーストリート221B221B Baker Street →
2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)
の向かい側に建つ
カムデンハウス(Camden House)から、
ロンドンに帰還したシャーロック・ホームズを狙撃しようと、
ジェイムズ・モリアーティー教授の部下で、彼の右腕でもある
セバスチャン・モラン大佐(Colonel Sebastian Moran)が
カムデンハウスへとやって来た。
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット

(Sidney Edward Paget 1860年 - 1908年)

1891年7月の「ボへミアの醜聞(A Scandal in Bohemia)」を皮切りに、「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」にほぼ毎月シャーロック・ホームズ作品を連載していたアーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)であったが、毎回新しいストーリーを考え出して作品を創作することが、彼にはだんだん苦痛となってきていた。また、コナン・ドイルとしては、自分の文学的才能は長編歴史小説の分野において発揮/ 評価されるべきと考えており、ホームズ作品は彼にとってはあくまでも副業に過ぎなかったのである。


ところが、「ストランドマガジン」を通じて、ホームズ作品が予想以上に爆発的な人気を得るに至ったため、コナン・ドイルは、ホームズ作品の原稿締め切りに毎回追われる始末で、自分が本来注力したい長編歴史小説に時間を全く割けない状況であった。

そこで、彼は、1893年12月の「最後の事件(The Final Problem → 2022年5月1日 / 5月8日 / 5月11日付ブログで紹介済)」において、「犯罪界のナポレオン(Napoleon of crime)」と呼ばれるジェイムズ・モリアーティ教授(Professor James Moriarty)と一緒に、ホームズをスイスのマイリンゲン(Meiringen)にあるライヘンバッハの深い滝壺(Reichenbach Falls)の中に葬ってしまったのである。

実は、同年4月に、彼は母親のメアリーに対して手紙を出しており、その中で、ホームズを最後に殺すことで、ホームズ今回のシリーズを以って、終わりにすることを伝えている。ホームズ作品の爆発的な人気のお陰で、長年の貧乏暮らしから脱却できたことを十二分に判っていた母親のメアリーは、息子の方針に対して、反対を唱えたが、彼の決意が翻ることはなかったのである。


「最後の事件」が「ストランドマガジン」に掲載された際、読者は大いに嘆き悲しみ、ロンドン市民は正式な喪に服すべく、黒い腕章を身につけたとのことである。更に、2万人以上の読者が「ストランドマガジン」の購読を中止した上、何千通もの抗議の手紙が出版社宛に届けられたそうである。更に、コナン・ドイルに対しても、抗議、非難や中傷の手紙が多数送り付けられた。


しかしながら、コナン・ドイルの決意は固く変わらず、長期間に渡り、読者や出版社からの要望を拒否し続け、ホームズが復活することはなかったのである。

当初の計画通り、ホームズを抹殺したコナン・ドイルは、ナポレオン戦争時代を舞台にして、「ジェラール准将」シリーズの執筆を1894年から始めた。最初の8編については、1896年に短編集「ジェラール准将の功績(The Exploits of Brigadier Gerard)」として、また、残りの8編に関しては、1903年に短編集「ジェラールの冒険(The Adventures of Gerard)」として単行本化されている。コナン・ドイルの期待通り、ジェラール准将シリーズもそれなりの人気作品となったが、読者や出版社からは、ホームズシリーズの再開とホームズの復活を求める声が、依然として強かった。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1903年10月号に掲載された挿絵(その5) -
ロンドンに帰還したシャーロック・ホームズは、
セバスチャン・モラン大佐を捕まえようと格闘するものの、
非常に苦戦しているホームズのために、
ジョン・H・ワトスンが救援に入った。
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット

(1860年 - 1908年)


一方で、コナン・ドイル家には、悲劇が訪れていたのである。


1885年にルイーズ・ホーキンズと結婚したコナン・ドイルには、長女のマリー・ルイーズに続き、1892年11月には、待望の長男が生まれた。彼は、自作の「白衣の騎士団(The White Company)」(1891年)の主人公の名前を採って、アーサー・アレイン・キングスレー・ドイルと名付けられた。


そして、1893年に入ると、時折、身体の不調を訴えていた妻のルイーズが、脇腹の痛みと激しい咳に悩まされるようになり、最後には、血痰を出すまでに至った。これに驚いたコナン・ドイルが、ロンドンのハーリーストリート(Harley Street → 2015年4月11日付ブログで紹介済)にある専門医に依頼して、妻ルイーズの診察をしてもらったところ、結果は、「結核(tuberculosis)」(当時、不治の病と考えられていた)という診断だった。それも、病状は既に相当進行しており、余命は長くないという非常に厳しいものであった。当時、結核に対する唯一の対処療法は、肉体的な消耗を極力避けて、安静に過ごすことで、とにかく自力回復を待つことだけだった。そのためには、湿気は大敵で、キレイな空気と風が得られる土地での静養が必須だった。


更に、追い打ちをかけるように、同年10月に、彼の父親であるチャールズ・アルタモント・ドイル(Charles Altamont Doyle)が亡くなったのである。享年61歳だった。

彼の祖父であるジョン・ドイルは、ロンドンで人気の風刺政治漫画家で、5人居た息子のうち、上の4人は父親の芸術的な素養を受け継ぎ、その才能を開花させていったが、末っ子のチャールズは、残念ながら、「はぐれもの」だった。17歳のチャールズは、ロンドンから職を求めて、エジンバラへと都落ちし、父親ジョンの口利きで、王立建設院の土木助手の仕事を得ることができた。彼は、下宿していた家の娘であるメアリー・フォーリーと結婚したものの、刺激の乏しいエジンバラでの生活の中、次第に現実逃避的になり、過度の飲酒が原因で、失職した。そして、1879年に地元の施設(治療院)に収容されてしまったのである。

それから、チャールズは、スコットランド東北部のアルコール中毒専門の治療院へと移されたが、その後、本格的な治療院を転々とした後、最後は、スコットランド南部の小さな町で息を引き取ったのであった。


2つの悲劇が訪れたコナン・ドイルは、最後の事件」を書き上げると、妻ルイーズの療養のために、ロンドン郊外に購入した家を引き払うと、ルイーズを伴い、スイスのダボス(アルプス山脈の海抜1,600メートルに位置する保養都市)にあるホテルへと転地したのである。


2022年7月9日土曜日

シャーロック・ホームズ が1890年に手掛けた3つの事件について

2010年6月に株式会社原書房から出版された
「ミステリ・ハンドブック シャーロック・ホームズ〔新装版〕」 -
各事件の発生年月は、有名なシャーロキアンである
ウィリアム・ステュアート・ベアリング=グールドの説に基づいている。


英国イーストサセックス州(East Sussex)ルイス(Lewes)出身の作家であるジェイムズ・マシュー・ヘンリー・ラブグローヴ(James Matthew Henry Lovegrove:1965年ー)が2013年に発表した「悪夢の塊(The Stuff of Nightmares → 2022年6月11日 / 6月18日 / 6月24日付ブログで紹介済)」において、ジョン・H・ワトスンは、序文で以下のように述べている。


「As I wrote in the story entitled “The Final Problem”, there were only three cases of which I retain any record for the year 1890, and two of those I published as “The Red-Headed League” and “The Copper Beeches”. This is the third, and it has remained solely in note form until now.」


つまり、著者のジェイムズ・ラヴグローヴは、ジョン・ワトスンの口を借りて、彼(ジョン・ワトスン)が知る限り、シャーロック・ホームズが1890年に手掛けた事件は3件しかなく、それらは、

(1)「赤毛組合」

(2)「ぶな屋敷」

(3)「悪夢の塊」(←これは、ジェイムズ・ラヴグローヴによる創作である。)

の3件だと言わせているのである。



ところが、「最後の事件(The Final Problem → 2022年5月1日 / 5月8日 / 5月11日付ブログで紹介済)」において、原作者のサー・アーサー・イグナティス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Diyle:1859年ー1930年)自身は、ジョン・ワトスンに、


「in the year 1890 there were only three cases of which I retain any record.」


と言わせているが、それらの中に、「赤毛組合」と「ぶな屋敷」が含まれるとまでは言っていない。



それでは、具体的に、ホームズが1890年に手掛けた3つの事件に、どの事件が含まれるのかについて、検証してみたい。



イングランド国教会の牧師、考古学者、民俗学者で、聖書学者でもあるセイバイン・ベアリング=グールド(sabine Baring-Gould:1834年ー1924年)の孫で、有名なシャーロキアンであるウィリアム・ステュアート・ベアリング=グールド(William Stuart Baring-Gould)は、ホームズが1890年に手掛けた3つの事件として、以下の3件を挙げている。


(1)「ウィステリア荘(Wisteria Lodge)」:1890年3月

(2)「名馬シルヴァーブレイズ(Silver Blaze)」:1890年9月

(3)「緑柱石の宝冠(The Beryl Coronet)」:1890年12月


コナン・ドイルの原作によると、「ウィステリア荘」の場合、事件発生年月について、「1892年3月」と明記している一方、「名馬シルヴァーブレイズ」 / 「緑柱石の宝冠」の場合、事件発生年月に関して、全く言及されていない。

今回の内容について、
分かり易いように、一覧表に纏めたもの


それでは、「赤毛組合」については、どうだろうか?


コナン・ドイルの原作によると、日付の整合性が合わないところがあるものの、事件発生年月は「1890年10月」ということでよいのではないかと思われる。なお、詳細については、2014年4月26日付ブログを御参照願いたい。


「ぶな屋敷」に関しては、どうだろうか?


コナン・ドイルの原作によると、具体的な事件発生年月の言及はないものの、「ボヘミアの醜聞(A Scandal in Bohemia)」、「花婿失踪事件(A Case of Identity)」、「唇のねじれた男(The Man with the Twisted Lips)」と「独身の貴族(The Noble Bachelor)」の4件の内容が言及されている。


*「ボヘミアの醜聞」:事件発生年月 - 1888年3月

*「花婿失踪事件」:具体的な事件発生年月の言及はないものの、「ボヘミアの醜聞」と「四つの署名(The Sign of the Four)」の内容が言及されている。上記の通り、ボヘミアの醜聞」の事件発生年月 は「1888年3月」で、「四つの署名」の事件発生年月 は「1888年7月」なので、「花婿失踪事件」の事件発生年月は、それ以降ということになる。

*「唇のねじれた男」:事件発生年月 - 1889月6月

*「独身の貴族」:具体的な事件発生年月の言及はないものの、事件の依頼者であるロバート・ウォルシンガム・ド・ヴェア・セント・サイモン卿(Lord Robert de Vere St Simon)に関して、ホームズが「1846年生まれで、現在、41歳」が言っていることから、事件発生年月は1887年だと言える。


上記を総合的に考慮すると、「ぶな屋敷」の事件発生年月は、上記の4件のうち、事件発生年月が一番新しい「唇のねじれた男」の事件発生年月 である「1889月6月」以降ということになる。



そうすると、「悪夢の塊」の著者であるジェイムズ・ラヴグローヴの説の通り、「赤毛組合」は、ホームズが1890年に手掛けた事件と言えるが、「ぶな屋敷」の場合、事件発生年月 が「1889月6月」以降である関係上、ホームズが1890年に手掛けた可能性はあるものの、確定的ではないと言える。


2022年7月7日木曜日

ステュアート・ダグラス作「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / アルビノの財宝」(The further adventures of Sherlock Holmes / The Albino’s Treasure by Stuart Douglas) - その3

英国の Titan Publishing Group Ltd. の Titan Books 部門から
2015年に出版された
ステュアート・ダグラス作
「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / アルビノの財宝」の表紙


読後の私的評価(満点=5.0)


(1)事件や背景の設定について ☆☆☆半(3.5)


ナショナルポートレートギャラリー(National Portrait Gallery)での肖像画損壊事件、贋作事件、そして、「イングランドの財宝」の捜索と、話は進んでいくが、全ての事件の背後には、英国王室の歴史上、唯一人処刑されたチャールズ1世(Charles I:1600年-1649年 在位期間:1625年ー1649年)が居る。物語において、チャールズ1世に関連するキーワードがいろいろと出てくるが、世界史、特に英国の歴史に非常に詳しくないと、本当の面白さを理解するのは難しいのではないかと思う。


(2)物語の展開について ☆☆☆半(3.5)


ナショナルポートレートギャラリーでの肖像画損壊事件から始まり、贋作事件、そして、「イングランドの財宝」の捜索へと、物語が展開していく流れに、「The Lord of Strange Deaths」という中国人犯罪組織や Willoughby Frogmorton なる人物等が関与してくる。無関係とまでは言わないものの、中国人犯罪組織は物語の本筋とはあまり関係ないため、当該組織関連の話は、正直、余分な気がする。当該組織が出てくる場面は、アクションシーンが主体で、他は比較的大人しい展開になりがちなので、著者のステュアート・ダグラス(Stuart Douglas)として、そういったアクションシーンを加えたい気持ちは理解できなくもないが…


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)
で販売されている
チャールズ1世の肖像画の葉書
(Daniel Mytens
 / 1631年 / Oil on canvas
2159 mm x 1346 mm) 


(3)ホームズ / ワトスンの活躍について ☆☆☆半(3.5)


他の作品でもそうだが、例によって、ジョン・H・ワトスンが、ナショナルポートレートギャラリーで働くローデス嬢(Miss Rhodes)に魅かれる御馴染みの展開がある。

「The Lord of Strange Deaths」なる中国人犯罪組織との戦いを除くと、基本的には、大人しい展開であるが、ナショナルポートレートギャラリーでの肖像画損壊事件、贋作事件、そして、「イングランドの財宝」の捜索と、シャーロック・ホームズが、一本の糸のようにして、謎を解明している。


(4)総合評価 ☆☆☆半(3.5)


「The Lord of Strange Deaths」なる中国人犯罪組織関係の話を除くと、基本的に大人しい展開ではあるが、英国の歴史、特に清教徒革命(Puritan Revolution:1642年ー1649年)辺りに興味がある人、あるいは、詳しい人にとっては、なかなか面白い内容であると思う。



2022年7月3日日曜日

ロンドン ロウワーテラス2番地(2 Lower Terrace)

19世紀の英国を代表する風景画家であるジョン・コンスタブルが
1821年の夏場と1822年の夏場に住んでいたロウワーテラス2番地の家

ロンドン北西部郊外の高級住宅街ハムステッド地区(Hampstead→2018年8月26日付ブログで紹介済)内のウェルウォーク40番地(40 Well Walk → 2018年12月29日付ブログで紹介済)には、19世紀の英国を代表する風景画家であるジョン・コンスタブル(John Constable:1776年ー1837年)が住んでいた家がある。


ジョン・コンスタブルは、ロンドンの中心部ロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)のフィッツロヴィア地区(Fitzrovia)内にあるシャーロットストリート(Charlotte Street)沿いにアトリエを有していたが、結核を患う妻マリア(Maria:1787年ー1828年)の療養のため、1827年にハムステッドヒースに近いウェルウォーク40番地の家を借りた。


ロウワーテラスの通り(その1)

残念ながら、彼の妻マリアは、翌年の1828年に死去してしまうが、ジョン・コンスタブルは、この家で暮らし続けて、ハムステッド地区周辺の風景を描くとともに、妻マリアとの間に生まれた7人の子供を一人で育て上げた。

1837年3月31日、彼は、ロンドン市内のアトリエにおいて、心臓麻痺のため、61歳の生涯を終えたが、亡くなるまで、ウェルウォーク40番地の家に住んでいたのである。

ロウワーテラスの通り(その2)


ジョン・コンスタブルが住んでいた家が、ハムステッド地区内に、もう一つある。

それは、ロウワーテラス2番地(2 Lower Terrace)にある家である。

ロウワーテラスの通り(その3)

ジョン・コンスタブルが、1827年から亡くなる1837年までの間、住んでいたウェルウォーク40番地の家は、地下鉄ハムステッド駅(Hampstead Tube Station)からハムステッドヒース(Hampstead Heath→2015年4月25日付ブログで紹介済)へと北上するヒースストリート(Heath Street)の東側にあるが、ロウワーテラス2番地の家は、ヒースストリートの西側に所在している。

ロウワーテラスの通りから2番地の家を望む


ハムステッドヒースの南側を延びるイーストヒースロード(East Heath Road)が、地下鉄ハムステッド駅から北上してくるヒースストリートと交差した後、ゴルダースヒルパーク(Golders Hill Park)の南側を延びるウェストヒースロード(West Heath Road - 北側)と住宅街へと下って行くロウワーテラス(Lower Terrace - 南側)の2つの通りに分かれる。

建物の2階の外壁に、
ジョン・コンスタブルが1821年の夏場と1822年の夏場に
ここに住んでいたことを示すプラークが掛けられている


ジョン・コンスタブルが住んでいたもう一つの家は、ヒースストリートからロウワーテラスを下って行くと、右手に建つ2番地の家が、それである。

ジョン・コンスタブルが、1821年の夏場と1822年の夏場に、ロウワーテラス2番地の家に住んでいたことを示すプラークが、建物の2階の外壁に掛けられている。

ロウワーテラスの通り(その4)


ロウワーテラスの通りは、日中でも、人や車の往来がほとんどない、非常に閑静な場所である。

2022年7月2日土曜日

ステュアート・ダグラス作「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / アルビノの財宝」(The further adventures of Sherlock Holmes / The Albino’s Treasure by Stuart Douglas) - その2

英国の Titan Publishing Group Ltd. の Titan Books 部門から
2015年に出版された
ステュアート・ダグラス作
「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / アルビノの財宝」の裏表紙

元伍長(Corporal)であるチャールズ・オドネル(Charles O’Donnell)が捕まった際に発した「次は、肖像画では済まないぞ!(Next time it wo’nt just a painting.)」という言葉がきになるシャーロック・ホームズは、スコットランドヤードから出ると、ジョン・H・ワトスンに対して、「ナショナルポートレートギャラリー(National Portrait Gallery)へ行って、前日の日中、チャールズ・オドネルが美術館内をうろつくのを見かけた者が居るかどうか、そして、彼に同行者が居たかどうかを調べてほしい。」と頼む。一方、ホームズは、独自に捜査を進めると言う。一旦、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)に戻り、朝食をとって着替えを済ませたワトスンは、ナショナルポートレートギャラリーへとやって来た。


とりあえず、自分一人で問題の事件現場(英国首相を務めたソールズベリー卿(Lord Sailsbury)の肖像画は、既に壁から取り外されており、辺りも清掃済)を見回った後、ワトスンは美術館の館長(Secretary of the Gallery)であるドナルド・ペトリー(Donald Petrie)の部屋を訪ねた。ドナルド・ペトリー館長は、ホームズとワトスンの二人が、スコットランドヤードからの依頼を受けて、本件の捜査に携わっていることを聞くと、非常に喜び、事件の経緯について、ワトスンへの説明を始めた。


ちょうどその時、修復業者がチャールズ・オドネルに傷つけられた肖像画を引き取りにやって来たことを告げる若い女性が、館長室に入って来た。思わず、その女性に見とれてしまうワトスンに、ドナルド・ペトリー館長は、ローデス嬢(Miss Rhodes)を紹介する。

ローデス嬢が退出すると、ドナルド・ペトリー艦長は、事件の続きに関する説明を再開した。彼によると、チャールズ・オドネルは警備員二人に捕まるのを逃れるため、周辺の作品を手当たり次第に壊してまわったと言う。特に、彼は、清教徒革命(Puritan Revolution:1642年ー1649年)時に、議会派を率いて、王党派を破り、時の英国王チャールズ1世(Charles I:1600年-1649年 在位期間:1625年ー1649年)を処刑した護国卿( Lord Protector)オリヴァー・クロムウェル(Oliver Cromwell:1599年ー1659年)の胸像を武器として振り回した、とのこと。つまり、スコットランドヤードのレストレイド警部(Inspector Lestrade)による説明では、被害を蒙ったのは、ソールズベリー卿の肖像画だけのようであったが、実際には、数々の作品が被害を受けていた訳で、ホームズが自分をナショナルポートレートギャラリーへ派遣したのは、これ(こういった新事実を得るため)が目的だったのではないかと、ワトスンが確信したのであった。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
チャールズ1世の肖像画の葉書
(Daniel Mytens
 / 1631年 / Oil on canvas
2159 mm x 1346 mm) 


ナショナルポートレートギャラリーで販売されている
オリヴァー・クロムウェルの肖像画の葉書
(Robert Walker / 1649年頃 / Oil on panel
1257 mm x 1016 mm) 


ワトスンは、「チャールズ・オドネルがこれらの作品を狙った理由について、心当たりはないか?」と訪ねるものの、残念ながら、ドナルド・ペトリー館長の答えは否定的だった。これ以上、ドナルド・ペトリー館長から新たに得られる情報はないと考えたワトスンは、辞去しようとして、席を立った。

ドナルド・ペトリー館長の求めに応じて、ワトスンが(館長が持つ)自分の著作にサインをしていると、ローデス嬢が館長室に慌てて入って来る。彼女は、ワトスンとドナルド・ペトリー館長の二人に対して、驚くべき事実を告げたのであった。


早朝、チャールズ・オドネルが傷つけた作品の一つ、チャールズ1世の肖像画が「贋作(forgery)」であることが判明したと…


2022年7月1日金曜日

コナン・ドイル作「空き家の冒険」<小説版>(The Empty House by Conan Doyle ) - その2

英国で出版された「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」
1903年10月号に掲載された挿絵(その3) -
ロンドンに帰還したシャーロック・ホームズは、
ジェイムズ・モリアーティー教授の部下で、
彼の右腕でもあるセバスチャン・モラン大佐を捕まえるべく、
ジョン・H・ワトスンを連れて、通りを挟んで、
ベイカーストリート221B221B Baker Street →
2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)
の向かい側に建つ
カムデンハウスへとやって来た。
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット

(Sidney Edward Paget 1860年 - 1908年

1894年3月30日の夜、メイヌース伯爵(Earkl of Maynooth)の次男である青年貴族ロナルド・アデア(Ronald Adair)が、パークレーン427番地(427 Park Lane → 2015年6月27日付ブログで紹介済)の自宅において、殺害された事件のニュースで、ロンドンは大騒ぎだった。犯行時刻は、彼が帰宅した午後10時から、彼の母親と妹が帰宅した午後11時20分までの間と考えられた。


ある晩、ケンジントン地区(Kensington)の自宅からハイドパーク(Hyde Park → 2015年3月14日付ブログで紹介済)へ散策に出かけたジョン・H・ワトスンは、そのついでに事件現場に立ち寄った。残念ながら、何の成果もなく、ケンジントンの自宅へと戻ったワトスンの元を、先程パークレーン(Park Lane)でぶつかった本蒐集家の老人が訪ねて来た。

訪ねて来た老人は、先程の非礼を詫びるとともに、「自分は、近所の本屋である。」と自己紹介した。そして、老人は、ワトスンの背後にある書棚に空きがあるからと言って、手持ちの本数冊の購入を進めてきた。老人にそう言われて、ワトスンが、書棚を振り返り、本の隙間を確認して、再度老人に視線を戻したところ、そこには、約3年前、「犯罪界のナポレオン(Napoleon of crime)」と呼ばれたジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)と一緒に、スイスのマイリンゲン(Meiringen)にあるライヘンバッハの滝(Reichenbach Falls)で亡くなった筈のシャーロック・ホームズが、笑顔で立っていたのである。

ホームズを見たワトスンは、すっかりと仰天してしまい、椅子から立ち上がると、ホームズを数秒間見つめた後、「生涯において、最初で最後の」気絶をしてしまった。(then it appears that I must have fainted for the first and the last time in my life.)


ワトスンが意識を取り戻すと、ホームズが自分(ワトスン)の首元を緩め、気付け薬として、ブランディーを飲ませているところだった。ワトスンは、改めて、自分の目の前のホームズが本当に生きていて、元気で居ることを確認するのであった。

ホームズは、ワトスンに対して、変装で驚かせてしまったことを詫びるとともに、何故、自分が生きているのか、そして、この3年間の間、どこで何をしていたのかを説明した。


<何故、自分が生きているのか?>

ライヘンバッハの滝において、モリアーティー教授と対峙したホームズは、体得していた日本の格闘術(Japanese system of wrestling)である「バリツ(baritsu)」を以って、自分に襲い掛かってきたモリアーティー教授のみを滝壺へと落とすことができ、無事生き延びたのである。

ライヘンバッハの滝近辺には居たのは、モリアーティー教授だけではなく、彼の部下も居ることを確信したホームズは、モリアーティー教授と一緒に、自分も死んだことにするために、崖を登って、身を隠した。そして、自分(ホームズ)は滝壺へ転落して死んだものと思ったワトスンが、滝から引き上げるまでの一部始終を、ホームズは、崖の岩棚から見守っていた。その後、ホームズが懸念して居た通り、彼は、モリアーティー教授に同行していた部下から襲撃を受けたものの、部下の襲撃を何とかやり過ごして、フィレンツェ(Florence)まで辿り着くと、そのまま姿を消したのである。


<この3年間の間、どこで何をしていたのか?>

‘I travelled for two years in Tibet, therefore, and amused myself by visiting Lhassa and spending some days with the head Llama.(中略)I then passed through Persia, looked in at Mecca, and paid a short but interesting visit to the Khalifa at Khartoum, the results of which I have communicated to the Foreign Office. Returning to France I spent some months in a research into the coal-tar derivatives, which I conducted in a laboratory at Montpelier, in the South of France.’

「僕は、2年間、チベットを旅行し、ラサを訪れたり、ラマ教の高僧と数日間を過ごしたりして、楽しんだ。(中略)それから、ペルシア経由で、メッカを訪れて、ハルツームでカリフと短いながらも興味深い会見をした。会見の結果については、英国の外務省に報告済だ。フランスへ戻ると、南フランスにあるモンペリエの研究所で、コールタールの誘導体に関する研究に数ヶ月を費やしたんだ。」


ホームズによるワトスンへの説明の中に、2つの誤記がある。

(1)「the head Llama」 → 「Llama」は、南米に生息する哺乳類である「リャマ」を指す。チベットのラマ教の高僧を意味するのであれば、「Lama」が正しい。

(2)「Montpelier」 → 「Montpelier」と言う場所は、米国内にあるが、南フランスにはない。従って、南フランスに所在する「モンペリエ」を指す「Montpellier」が正しい。


なお、米国コロンビア大学(Columbia University)の中東・アジア言語文化学部(Department of Middle East and Asian Languages and Cultures)の名誉教授(professor emeritus)で、以前は、インドのニューデリーにある米国大使館(United States embassy in New Delhi)の上級館員 / 参事官(counsellor)として勤務していたテッド・リッカルディ(Ted Riccardi:1937年ー)が2003年に発表した短編集「シャーロック・ホームズの東方事件簿(The Oriental Casebook of Sherlock Holmes → 2020年12月12日付ブログで紹介済)」には、この「大空白時代(1891年5月から1894年4月までの3年間)」中、ホームズが東方を旅している間に遭遇した9つの事件が収録されている。


米国ニューヨークにある Pegasus Books LLC が発行する
Pegasus Crime シリーズの一つに加えられている
テッド・リッカルディ作「シャーロック・ホームズの東方事件簿」の表紙
(Cover Design by Faceout Studio / Charles Brock)

ホームズによると、この3年間、自分が生きていたことは、兄であるマイクロフト・ホームズ(Mycroft Holmes)しか知らない、とのことだった。

ホームズは、(1)モリアーティー教授の部下がまだ一人ロンドンに残っていること、そして、(2)その部下が、パークレーンにおいて、青年貴族であるロナルド・アデアを殺害したものと思われることを考慮、3年ぶりにロンドンへと戻って来たのである。


その後、ワトスンは、自分の長い話を終えたホームズから、「悲しみを癒すには、仕事をするのが、一番の特効薬だ。今夜、自分達二人には、非常に危険な仕事が控えている。以前のように、自分の仕事を手伝って欲しい。(’Work is the best antidote to sorrow, my dear Watson,(中略)and I have a piece of work for us both tonight which if we can bring it to a successful conclusion, will in itself justify a man’s life on this planet.)」と聞かされて、大いに喜ぶ。これで、また、昔のように、二人で獲物(犯人)を追いかけられるのだ。3年間の間、悲しみに沈んでいたワトスンにとって、これ以上嬉しいことはなかった。