2019年8月4日日曜日

ロンドン ウェルロード24番地 / キャノンコテージ(24 Well Road / Cannon Cottage)–その2

ウェルロードから見たウェルロード24番地の「キャノンコテージ」

1931年に小説第1作「愛は全ての上に(The Loving Spirit)」を出版し、小説家デビューの翌年の1932年に英国陸軍少佐(Major)のサー・フレデリック・アーサー・モンタギュー・ブラウニング(Sir Frederick Arthur Montague Browning:1896年ー1965年→後に中将(Lieutenant-General)まで昇進)と結婚したディム・ダフニ・デュ・モーリエ(Dame Daphne du Maurier:1907年ー1989年)は、2人の娘(長女:テサ(Tessa:1933年生まれ)と次女:フラヴィア(Flavia:1937年生まれ))と1人の息子(長男:クリスチャン(Christian:1940年生まれ))を育てながら、作家として、

(1)「埋もれた青春(Jamaica Inn)」(1936年)
(2)「レベッカ(Rebecca)」(1938年)
(3)「情炎の海(Frenchman’s Creek)」(1941年)
(4)「レイチェル(My Cousin Rachel)」(1951年)
(5)「鳥(The Birds)」(1952年ー短編集)
(6)「いま見てはいけない(Don’t Look Now)」(1971年ー短編集)

等の代表作を出版して、ベストセラー作品となった。


ディム・ダフニ・デュ・モーリエが執筆した作品群

また、英国の映画監督 / 映画プロデューサー / 脚本家であるアルフレッド・ヒッチコック(Alfred Hitchcock:1899年ー1980年)が、

・「埋もれた青春」→「巌窟の野獣」(1939年)
・「レベッカ」(1940年)ーアカデミー作品賞を獲得
・「鳥」(1963年)

を映画化して、ダフニ・デュ・モーリエは、小説の映像化でも、成功を納めた。



ダフニ・デュ・モーリエは、子供の時に遊びに行ったコンウォール州(Cornwall)を一目で気に入って、人生の大半を主にコンウォール州のフォーイ(Fowey)で過ごし、彼女の作品の多くが、コンウォール州を物語の舞台としている。
小説や映画等で自分が有名になっていくにつれて、あまり社交的ではなかった彼女は、逆に世間を避けて、隠遁生活へと入っていった。
そして、夫のフレデリックが1965年に亡くなると、直ぐに彼女はコンウォール州のキルマース村へと転居し、そこを舞台にして、1969年、「わが幻覚の時(The House on the Strand)」を発表した。
同年、彼女は大英帝国勲章(The Order of the British Empire)のナイト・コマンダー(Dame Commander)の爵位を受けているので、以降、正式には「Lady Browning, Dame Daphne du Maurier」と呼ばれるが、彼女がこの称号を使用したことは、一度もない。



1989年4月19日、ダフニ・デュ・モーリエは、キルマース村の自宅において、81歳の生涯を終えた。そして、彼女の遺志により、遺体は火葬された後、遺灰はキルマースに撒かれた。



ダフニ・デュ・モーリエが、1932年から1934年までの間住んでいたウェルロード24番地(24 Well Road)の建物である「キャノンコテージ(Cannon Cottage)」について、2008年6月、イングリッシュヘリテージ(English Heritage)は、ブループラークの認定を行わず、その対応は世間から批判された。

ダフニ・デュ・モーリエが、1932年から1934年までの間、ここに住んでいたことを記す
プラークが、ヒース&ハムステッド ソサイエティーによって設置されている

その代わりに、ヒース&ハムステッド ソサイエティー(Heath & Hampstead Society)が、2011年にウェルロード(Well Road)に面したキャノンコテージの塀に、ダフニ・デュ・モーリエがここに住んでいたことを記すプラークを設置したのである。


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