2014年10月24日金曜日

ロンドン ウォータールー橋(Waterloo Bridge)

ヴィクトリア エンバンクメント通り(Victoria Embankment)の歩道から
テムズ河に架かるウォータールー橋を遠くに望む

サー・アーサー・コナン・ドイル作「五つのオレンジの種(The Five Orange Pips)」では、ある嵐の激しい夜に、ホーシャム(Horsham)に住むジョン・オープンショー(John Openshaw)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を事件の相談に訪れる。
彼の伯父のイライアス(Elias Openshaw)と彼の父のジョーゼフ(Joseph Openshaw)は、表に「KKK」と書かれ、中に五つのオレンジの種が入った謎の封筒を受け取った後、不審な死を遂げる。ジョン・オープンショーによると、昨日の朝、同じ封筒がついに彼の元にも届いたのである。
ホームズに事件の調査を依頼した後、ジョン・オープンショーは「ウォータールー駅(Waterloo Station)から列車でホーシャムに帰る。」と告げて、ホームズの元を辞した。
天候が回復した翌朝、ジョン・ワトスンが起床すると、ホームズは既に朝食に向かっていた。メイドがコーヒーを運んで来るのを待つ間、ワトスンはまだ開かれていない新聞をテーブルから取り上げて、ざっと目を通すと、そこにジョン・オープンショーの名前を見つける。新聞の見出しは、「ウォータールー橋近くの悲劇(Tragedy Near Waterloo Bridge)」となっていた。

ヴィクトリア エンバンクメント通りの歩道からウォータールー橋を見上げる

新聞によると、「昨夜の9時から10時までの間、ウォータールー橋の近くで任務についていたH分署のクック巡査は、助けを求める声と水に落ちる音を聞いた。しかし、非常に暗かった上に嵐も強かったため、通行人達の手助けはあったものの、救出することはできなかった。水上警察の助けにより遺体が回収され、遺体のポケットに入っていた封筒から、ホーシャムに住むジョン・オープンショーという青年であることが判明。彼はウォータールー駅発の最終列車に乗るために急いでいたものと思われる。急いでいた上に辺りが非常に暗かったため、彼は道を外れ、テムズ河汽船用の小さな桟橋の角で足を踏み外して、河に転落したのではないかと推測されている。遺体には暴行の跡はなく、彼は不幸な事故の犠牲になったに違いない。この事故に基づき、当局に対して、河岸にある桟橋の状態改善を求めるべきである。(Between nine and ten last night Police-Constable Cook, of the H Division, on duty near Waterloo Bridge, Heard a cry for help and a splash in the water. The night, however, was extremely dark and stormy, so that, in spite of the help of several passers-by, it was quite impossible to effect a rescue. The alarm, however, was given, and, by the aid of the water-police, the body was eventually recovered. It proved to be that of a young gentleman, whose name, as it appears from an envelope which was found in his pocket, was John Openshaw, and whose residence is near Horsham. It is conjectured that he may have been hurrying down to catch the last train from Waterloo Station and that in his haste and the extreme darkness he missed his patch and walked over the edge of one of the small landing-places for river steamboats. The body exhibited no traces of violence, and there can be no doubt that the decreased had been the victim of an unfortunate accident, which should have the effect of calling the attention of the authorities to the condition of the riverside landing-stages.)」と報道されていた。

ウォータールー橋の袂にあるヴィクトリア エンバンクメント通り
―車の往来が激しい

ウォータールー橋(Waterloo Bridge)は、テムズ河(River Thames)に架かる橋の一つで、ハンガーフォード橋(Hungerford Bridgeーチャリングクロス駅(Charing Cross Station)に発着する列車が通る橋)とブラックフライアーズ橋(Blackfriars Bridgeーブラックフライアーズ駅(Blackfriars Station)に発着する列車が通る橋)の間に位置している。
橋の名前は、イギリス・オランダ連合軍およびプロイセン軍がフランス皇帝ナポレオン1世率いるフランス軍を破った「ワーテルローの戦い(Battle of Waterloo)」に由来している。

ウォータールー橋は、当初、ストランド橋会社(Strand Bridge Company)のために、スコットランドの技術者ジョン・レニー(John Rennie:1761年ー1821年)により1809年から1810年にかけて設計された。橋自体は1811年から1817年にかけて施工され、1817年6月に開通。開通するまでの間、一般に「ストランド橋(Strand Bridge)」として知られていた。

1840年代に入ると、ウォータールー橋は自殺の名所として有名になるという不名誉な評判を呼んでしまう。一方で、印象派を代表するフランスの画家クロード・モネ(Claude Monet:1840年ー1926年)や英国の風景画家ジョン・コンスタブル(John Constable:1776年ー1837年)により描かれるという名誉も受けている。
1884年に橋脚に問題が見つかり、旧ロンドン橋(Old London Bridge)が撤去され、テムズ河の勢いが増したため、土台へのダメージが増加。「五つのオレンジの種」事件において、ジョン・オープンショーがウォータールー橋から転落したのは「1887年9月」なので、橋脚の土台へのダメージがひどくなりつつあった頃である。

ウォータールー橋の下を船が頻繁に行き来する

1920年代に入ると、土台へのダメージが無視できない程になり、ついに橋の架け替え工事が行われることになった。英国の建築家ガイルズ・ギルバート・スコット卿(Sir Giles Gilbert Scott:1880年ー1960年)が1937年から1940年にかけて設計し、新しいウォータールー橋は1942年の一部開通を経て、1945年に全面的な開通を迎えた。なお、ギルバート・スコット卿は、世界的に有名な赤い電話ボックスをデザインした人としても知られている。

ウォータールー橋は、テムズ河に架かる橋の中で唯一、第二次世界大戦(1939年ー1945年)中にドイツ軍の爆撃を受けて被害を蒙っている。その際、修復工事は主に女性の作業に頼ったため、「The Ladies' Bridge」とも時々呼ばれているとのこと。

0 件のコメント:

コメントを投稿