2014年10月26日日曜日

ロンドン キャノンストリート駅(Cannon Street Station)

キャノンストリート駅の入口

サー・アーサー・コナン・ドイル作「唇のねじれた男(The Man with the Twisted Lips)」では、ネヴィル・セントクレア(Neville St Clair)が謎の失踪を遂げる。
1884年5月、ネヴィル・セントクレアはケント州(Kent)のリー(Lee)にやって来て、大きな邸宅を購入する。1887年に、彼は地元の醸造業者の娘と結婚し、二人の子供を設けた。
彼には定職はなかったが、いくつかの会社との取引があり、朝になるとロンドンに出かけ、毎晩キャノンストリート駅発5時14分の列車で帰って来ることを日課にしていた。(He had no occupation, but was interested in several companies and went into town as a rule in the morning, returning by the 5.14 from Cannon Street every night.)
そして、1889年6月のある月曜日、事件は発生したのである。

アッパーテムズストリート(Upper Thames Street)から
キャノンストリート駅を見上げる

ネヴィル・セントクレアが毎日利用していたキャノンストリート駅(Cannon Street Station)は、ロンドンの金融街シティー・オブ・ロンドン(City of Londonー別名:1マイル四方(Square Mile))内にあるナショナルレールとロンドン地下鉄の複合駅で、駅の正面はキャノンストリート(Cannon Street)に、また、駅の裏面はテムズ河(River Thames)に架かるキャノンストリート鉄道橋(Cannon Street Railway Bridge)に面している。キャノンストリート鉄道橋を経て、テムズ河南岸に渡ると、東西にあるロンドンブリッジ駅(London Bridge Station)とウォータールー イースト駅(Waterloo East Station)の二方向に分岐する。

テムズ河南岸からキャノンストリート駅の裏面と
キャノンストリート鉄道橋を望む

テムズ河を間にして、キャノンストリート駅の対岸には
「シャード(Shard)」ビルが聳えている

キャノンストリート駅は、チャリングクロス駅(Charing Cross Station)と同じように、ジョン・ホークショー卿(Sir John Hawkshaw:1811年ー1891年)により設計され、サウスイースタン鉄道(South Eastern Railway)が1866年9月1日に開業。
駅舎に遅れること1年、1867年にエドワード・ミドルトン・バリー(Edward Middleton Barry:1830年ー1880年)が設計したホテルや前庭が新たに付け加わった。バリーはチャリングクロスホテル(Charing Cross Hotel)も設計しており、その際、駅正面にはフランス・ルネッサンス様式が採用されたが、今回はイタリア様式に基づいている。バリーが設計した5階建てのホテルは、当初「シティー ターミナス ホテル(City Terminus Hotel)」と呼ばれていたが、名前を二回変更している。一回目は「キャノンストリートホテル(Cannon Street Hotel)」に、二回目はオフィスビルとして「ザザンハウス(Southern House)」と名前を変えている。
ネヴィル・セントクレアがキャノンストリート駅を利用していたのは、駅が開業して約20年後の初期の頃である。

第二次世界大戦(1939年ー1945年)中、キャノンストリート駅はドイツ軍の爆撃の被害を大きく蒙った。
1950年代に入り、不動産ブームが起きると、戦争の被害を受けたキャノンストリート駅は、不動産開発業者から大きな注目を浴びることになった。駅の上に多層階のオフィスビルを建設する計画が持ち上がり、当時の英国国鉄総裁グラハム・タンブリッジ(Graham Tunbridge)は、親友の建築家ジョン・ポウルスン(John Poulson:1910年ー1993年)に設計を依頼した。ナショナルレールの各ターミナル駅を再開発するために、この友情を利用して、グラハム・タンブリッジに金品を送っていたジョン・ポウルスンは、1974年の裁判において、贈賄の罪状で有罪宣告を受ける。また、彼が設計したオフィスビルは、英国内の全ての駅舎の中で最も醜いものの一つに見做され、非常に評判が悪かった。

米国のハインズ社が開発したオフィス複合ビル
「キャノンプレイス(Cannon Place)」

2007年3月、非常に評判が悪いオフィスビルを取り壊して、駅上の空中利用権を活用したオフィス複合ビルを建設する計画が進められることになり、米国の不動産開発業者であるハインズ社(Hines)がこの大規模なプロジェクトを推進して、現在に至っている。
なお、キャノンストリート駅の左斜め前で、大規模なオフィスビル再開発計画が進行中であるが、地面の削岩中にローマ時代の遺跡品等が多数発見されたため、発掘調査の関係上、プロジェクトがやや遅れ気味になっている模様。

地面の削岩中に発見されたローマ時代の遺跡品の数々が
オフィスビル再開発工事現場を囲む壁に表示されている

話は変わるが、物語の冒頭でジョン・ワトスンの妻(「四つの署名(The Sign of the Four)」事件(発生年月:1888年9月)に依頼人で登場したメアリー・モースタン(Mary Morstan)と思われる)は、何故か自分の夫のことを「ジェイムズ(James)」と呼んでいる。ワトスンのフルネームは「ジョン・H・ワトスン」であるが、彼のミドルネームが、スコットランド名でジェイムズに該当する「ヘイミッシュ(Hamish)」で、「H」はその頭文字ではなかと識者の間では考えられている。

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1953年に発表したミス・ジェイン・マープルシリーズの長編第6作目「ポケットにライ麦を(A Pocket Full of Rye)」の場合、ロンドンにある投資信託会社の社長であるレックス・フォーテスキュー(Rex Fortescue)が、オフィスにおいて、朝の紅茶を飲んだ後、急逝するところから、物語が始まる。


検死解剖の結果、レックス・フォーテスキューの体内から、イチイの木(yew tree)から抽出される毒性のアルカロイド(toxic alkaloid)であるタキシン(taxine)が見つかり、死因は、タキシンによる中毒であることが判明した。レックス・フォーテスキューは、朝食でとったマーマレードと一緒に、タキシンを摂取したものと思われた。

更に、レックス・フォーテスキューの着衣を調べたところ、不思議なことに、上着のポケットから、大量のライ麦(rye)が出てきたのである。


当然のことながら、スコットランドヤードによって、レックス・フォーテスキューの後妻であるアディール・フォーテスキュー(Adele  Fortescue)が、第一容疑者と見做された。

ケニア(Kenya)において結婚したばかりの次男のランスロット・ フォーテスキュー(Lancelot Fortescue - 愛称:ランス(Lance))と妻のパトリシア・フィーテスキュー(Patricia Fortescue - 愛称:パット(Pat))の二人は、レックス・フォーテスキューの招待に応じて、丁度、ケニアからロンドンへと向かっている最中で、「翌日、英国に帰国する。」という電報がパリから入ったので、警察が空港まで彼らを出迎えに行った。


ランスロットが、妻のパトリシアをロンドンに残して、フォーテスキュー家の邸宅であるイチイ荘(Yewtree Lodge)に到着した正にその日、義理の母親アディールが、青酸カリ(cyanide)が混入された紅茶を飲んで、死亡した。

更に、その数時間後、メイドのグラディス・マーティン(Gladys Martin)が、イチイ荘の庭において、絞殺死体で発見された。しかも、彼女の鼻には、洗濯バサミが付けられていたのである。


物語の中盤、スコットランドヤードのニール警部(Inspector Neele)から、レックス・フォーテスキューの長男で、夫のパーシヴァル・フォーテスキュー(Percival Fortescue)の当日のアリバイを尋ねられた妻のジェニファー・フォーテスキュー(Jennifer Fortescue)は、「義理の父(であるレックス・フォーテスキュー)が経営する投資信託会社で働いてる夫は、いつも、午後6時半か、または、午後7時でないと、戻りません。あの時分は、まだロンドンだったと思います。うちの会社の場合、自動車を駐車させるのが不便なので、時々ですが、夫はキャノンストリート駅から汽車で帰ってきます。当日も、そうでした。」と答えている。


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