2014年10月31日金曜日

ロンドン ボウストリート(Bow Street)

ボウストリート警察署が入っていた建物

 サー・アーサー・コナン・ドイル作「唇のねじれた男(The Man with the Twisted Lips)」において、セントクレア夫人(Mrs St Clair)から依頼を受けたシャーロック・ホームズは、シティー(City)近くのアヘン窟の三階で謎の失踪を遂げたネヴィル・セントクレア(Neville St Clair)の行方を追っていた。ホームズは同氏が既に亡くなっていると当初推理したが、夫人は「夫はまだ生きている。」と主張する。そして、ネヴィル・セントクレアが自筆で書いた手紙が夫人宛に届いたのを見せられると、ホームズは驚愕する。一晩かけて、同氏失踪の謎を解き明かしたホームズは、急ぎ馬車を用立てて、ジョン・ワトスンと一緒に、ケント州(Kent)のリー(Lee)にある同氏宅を出発し、一路ロンドンに向かう。ホームズ達が向かう先は、ネヴィル・セントクレア殺害の容疑で、物乞いのヒュー・ブーン(Hugh Boone)が拘留されているボウストリート(Bow Street)の警察署であった。

テムズ河に架かるワーテルロー ブリッジ ロード

ボウストリートへと続くウェリントンストリート

「我々がサリー州の通りを駆け抜ける頃、街では一番早起きの住民達が家の窓からまだ眠そうに外を眺め始めたところだった。ワーテルロー ブリッジ ロードを過ぎて、我々はテムズ河を越えた。続いて、ウェリントンストリートを駆け上がり、右側に鋭く曲がると、ボウストリートに到着した。シャーロック・ホームズは警察関係者によく知られていたので、警察署の玄関に居た二人の巡査は彼に敬礼した。巡査の一人が馬の頭を押さえている間、もう一人が我々を警察署の中に招き入れた。(In town the earliest risers were just beginning to look sleepily from their windows as we drove through the streets of the Surrey side. Passing down the Waterloo Bridge Road we crossed over the river, and dashing up Wellington Street wheeled sharply to the right and found ourselves in Bow Street. Sherlock Holmes was well known to the force, and two constables at the door saluted him. One of them held the horse's head while the other led us in.)」

旧ボウストリート警察署の玄関口(その1)

旧ボウストリート警察署の玄関口(その2)

ボウストリート界隈は、1630年代に第4代ベッドフォード伯爵のフランシス・ラッセル(Francis Russel, 4th Earl of Bedford)により開発された。有名なところでは、清教徒革命(Puritan Revolution:1599年ー1658年)が1645年にこの通り沿いに移って来ている。
ボウストリート警察署は、1881年にボウストリート沿いの現在の地に建てられている。ホームズとワトスンがネヴィル・セントクレア殺害容疑で拘留されている物乞いのヒュー・ブーンに会いにボウストリート警察署に来たのは、1889年6月なので、警察署が設置されてからそれ程経っていない頃である。残念ながら、ボウストリート警察署は2006年に閉鎖されてしまった。この建物はホテルに改装されるという噂ではあるが、今のところ、幸いにして、ホームズとワトスンが活躍した当時のままである。

ロイヤル・オペラ・ハウスの白い外壁が際立っている

ボウストリート警察署だった建物の反対側には、ロイヤル・オペラ・ハウス(Royal Opera House)が建っている。
1732年に設立された英国オペラの殿堂で、通称「コヴェント・ガーデン(Covent Garden)」と呼ばれている。ロイヤル・オペラ(Royal Opera)とロイヤル・バレエ団(Royal Ballet)がここを本拠地にしていて、オペラとバレエが交互に公演されている。
現在の建物は1858年に再建されたもので、1997年秋からの大改装を経て、1999年の暮れから再開され、現在に至っている。
ちなみに、多くの日本人ダンサー達が今もロイヤル・バレエ団に在籍している。


2014年10月30日木曜日

ロンドン スレッドニードルストリート(Threadneedle Street)

イングランド銀行の建物の壁に貼られている「スレッドニードルストリート」の表示
この表示の下は、地下鉄バンク駅へつながっている。

サー・アーサー・コナン・ドイル作「唇のねじれた男(The Man with the Twisted Lips)」では、ネヴィル・セントクレア(Neville St Clair)の失踪事件が主題となる。
1889年6月のある月曜日の朝、ケント州(Kent)のリー(Lee)に住むネヴィル・セントクレアは、いつもよりも早めにロンドンに出かけた。彼が出かけたすぐ後に電報を受け取ったセントクレア夫人(Mrs St Clair)は、長らく待っていた船便の小包を受け取るべく、昼食後、シティー(City)近くのアバディーン船会社(Aberdeen Shipping Company)の事務所へ出かけたのである。
その日の夕方(午後4時35分)、船会社の事務所で小包を受け取ったセントクレア夫人はキャノンストリート駅(Cannon Street Station)へ戻る途中、アヘン窟等がある好ましくない通りに入り込んでしまった。その時、彼女はアヘン窟の三階の窓に夫の姿を見かけたのであった。
非常に驚いたセントクレア夫人は、通りで出会った警部と二人の巡査を連れて、そのアヘン窟に戻ってみると、そこに夫の姿はなく、赤茶けた髪で唇のねじれた物乞いのヒュー・ブーン(Hugh Boone)一人しか居なかった。夫がこのアヘン窟に居たことを示すものは、夫が着ていた衣類と(夫が買って帰ると約束していた)子供へのお土産の積み木の箱だけだった。このアヘン窟には、波止場とテムズ河(River Thames)を見下ろすことができる窓が一つあり、その窓枠からネヴィル・セントクレアのものと思われる血痕が発見されたのだ。果たして、ネヴィル・セントクレアは物乞いのヒュー・ブーンに殺されて、アヘン窟の窓からテムズ河に投げ込まれたのだろうか?ヒュー・ブーンはその場で逮捕されたが、ネヴィル・セントクレアの遺体はテムズ河から発見されず、依然として行方不明のままだった。

スレッドニードルストリートで信号待ちをしている車やバス

セントクレア夫人から事件の調査を依頼されたシャーロック・ホームズは、ジョン・ワトスンに対して、ヒュー・ブーンのことを次のように語る。
「彼の名前はヒュー・ブーンで、彼の恐ろしい顔は、シティによく出かける者ならば、誰にでもお馴染みだ。彼は物乞いを生業にしているのさ。警察の規制を逃れるために、彼は蝋マッチを売っているふりをしているんだ。ワトスン、組も気付いたことがあるかもしれないが、スレッドニードルストリートから少し離れた左手の壁に、やや奥まった場所がある。彼はそこに腰を降ろして足を組み、マッチをほんの少しだけ膝の上に置くのさ。そうやって、彼が可哀想な見世物になっていると、すぐ脇の舗道の上に置いてある脂ぎった革の帽子の中に、慈悲の雨が降るんだ。(His name is Hugh Boone, and his hideous face is one which is familiar to every man who goes much to the City. He is a professional beggar, though in order to avoid the police regulations he pretends to a small trade in wax vests. Some little distance down Threadneedle Street, upon the left-hand side, there is, as you may have remarked, a small angle in the wall. Here it is that this creature takes his daily seat, cross-legged with his tiny stock of matches on his lap, and as he is a piteous spectacle a small rain of charity descends into the greasy leather cap which lies upon the pavement beside him. …)」

ヒュー・ブーンが物乞いをしていたスレッドニードルストリート(Threadneedle Street)はロンドンの金融街シティー・オブ・ロンドン(City of Londonー別名:1マイル四方(Square Mile))の中心部にあり、地下鉄バンク駅(Bank Station)から北東方面へのびている通りである。

英国の金融関係で非常に重要な役割を果たす建物がこの通り沿いに建っている。
(1)イングランド銀行(Bank of England)ー1734年に現在の地に建設され、1939年に再建。

奥に見える建物がイングランド銀行

(2)王立取引所(Royal Exchange)ー1571年に現在の地に建設されたが、1666年のロンドン大火(Great Fire)で焼失の憂き目に会った。その後再建されたものの、1838年に再び焼失し、現在は3代目の建物。

夕日に映える王立取引所

王立取引所の正面入口前に立つのは、1815年のワーテルローの戦い(Battle of Waterloo)でフランス皇帝ナポレオンが率いるフランス軍を破った英国のアーサー・ウェルズリー初代ウェリントン公爵(Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington:1769年ー1852年)のブロンズ像である。アイルランドのダブリンに生まれた彼の軍人としての最終階級は元帥であった。また、彼は保守党の政治家としても活躍し、ジョージ4世(George IV)とウィリアム4世(William IV)の治世中、二度にわたって首相を務めている。

夕日の中に沈むウェリントン公爵のブロンズ像

(3)ロンドン証券取引所(London Stock Exchange)ー2004年までこの通り沿いにあったが、現在は、セントポール大聖堂(St. Paul's Cathedral)近くに三菱地所が再開発したパタノスタースクエア(Paternoster Square)へ移転済。

1598年まではブロードストリート(Broad Street:現オールドブロードストリート(Old Broad Street)ーバンクとリヴァプールストリート駅(Liverpool Street Station)を結ぶ通り)の一部であったスレッドニードルストリートの「スレッドニードル」とは、「縫い針」のことを指すが、この通りの名前の由来は、以下のように諸説存在している。
(1)「(事業等が)繁栄する」ことを意味するアングロ・サクソン語の「Threadn」に由来するという説
(2)「三本の針通り(Three Needle Street)」がスレッドニードルストリートに変わったとする説(この通り沿いにあった針製造業者の看板として、「三本の針」が使用されていたのではないかと考えられている。)
(3)当時一般に親しまれていた子供のゲーム「糸と針(Thread and Needle)」に由来するという説

「緑柱石の宝冠(The Beryl Coronet)」において、ホームズの元を相談に訪れたアレクサンダー・ホールダー(Alexander Holder)が頭取をしているホールダー&スティーヴンソン銀行(banking firm of Holder & Stevensonーシティー内では2番目に大きな民間銀行)も、スレッドニードルストリートに所在している。なお、ホールダー&スティーヴンソン銀行は実在していない。

2014年10月26日日曜日

ロンドン キャノンストリート駅(Cannon Street Station)

キャノンストリート駅の入口

サー・アーサー・コナン・ドイル作「唇のねじれた男(The Man with the Twisted Lips)」では、ネヴィル・セントクレア(Neville St Clair)が謎の失踪を遂げる。
1884年5月、ネヴィル・セントクレアはケント州(Kent)のリー(Lee)にやって来て、大きな邸宅を購入する。1887年に、彼は地元の醸造業者の娘と結婚し、二人の子供を設けた。
彼には定職はなかったが、いくつかの会社との取引があり、朝になるとロンドンに出かけ、毎晩キャノンストリート駅発5時14分の列車で帰って来ることを日課にしていた。(He had no occupation, but was interested in several companies and went into town as a rule in the morning, returning by the 5.14 from Cannon Street every night.)
そして、1889年6月のある月曜日、事件は発生したのである。

アッパーテムズストリート(Upper Thames Street)から
キャノンストリート駅を見上げる

ネヴィル・セントクレアが毎日利用していたキャノンストリート駅(Cannon Street Station)は、ロンドンの金融街シティー・オブ・ロンドン(City of Londonー別名:1マイル四方(Square Mile))内にあるナショナルレールとロンドン地下鉄の複合駅で、駅の正面はキャノンストリート(Cannon Street)に、また、駅の裏面はテムズ河(River Thames)に架かるキャノンストリート鉄道橋(Cannon Street Railway Bridge)に面している。キャノンストリート鉄道橋を経て、テムズ河南岸に渡ると、東西にあるロンドンブリッジ駅(London Bridge Station)とウォータールー イースト駅(Waterloo East Station)の二方向に分岐する。

テムズ河南岸からキャノンストリート駅の裏面と
キャノンストリート鉄道橋を望む

テムズ河を間にして、キャノンストリート駅の対岸には
「シャード(Shard)」ビルが聳えている

キャノンストリート駅は、チャリングクロス駅(Charing Cross Station)と同じように、ジョン・ホークショー卿(Sir John Hawkshaw:1811年ー1891年)により設計され、サウスイースタン鉄道(South Eastern Railway)が1866年9月1日に開業。
駅舎に遅れること1年、1867年にエドワード・ミドルトン・バリー(Edward Middleton Barry:1830年ー1880年)が設計したホテルや前庭が新たに付け加わった。バリーはチャリングクロスホテル(Charing Cross Hotel)も設計しており、その際、駅正面にはフランス・ルネッサンス様式が採用されたが、今回はイタリア様式に基づいている。バリーが設計した5階建てのホテルは、当初「シティー ターミナス ホテル(City Terminus Hotel)」と呼ばれていたが、名前を二回変更している。一回目は「キャノンストリートホテル(Cannon Street Hotel)」に、二回目はオフィスビルとして「ザザンハウス(Southern House)」と名前を変えている。
ネヴィル・セントクレアがキャノンストリート駅を利用していたのは、駅が開業して約20年後の初期の頃である。

第二次世界大戦(1939年ー1945年)中、キャノンストリート駅はドイツ軍の爆撃の被害を大きく蒙った。
1950年代に入り、不動産ブームが起きると、戦争の被害を受けたキャノンストリート駅は、不動産開発業者から大きな注目を浴びることになった。駅の上に多層階のオフィスビルを建設する計画が持ち上がり、当時の英国国鉄総裁グラハム・タンブリッジ(Graham Tunbridge)は、親友の建築家ジョン・ポウルスン(John Poulson:1910年ー1993年)に設計を依頼した。ナショナルレールの各ターミナル駅を再開発するために、この友情を利用して、グラハム・タンブリッジに金品を送っていたジョン・ポウルスンは、1974年の裁判において、贈賄の罪状で有罪宣告を受ける。また、彼が設計したオフィスビルは、英国内の全ての駅舎の中で最も醜いものの一つに見做され、非常に評判が悪かった。

米国のハインズ社が開発したオフィス複合ビル
「キャノンプレイス(Cannon Place)」

2007年3月、非常に評判が悪いオフィスビルを取り壊して、駅上の空中利用権を活用したオフィス複合ビルを建設する計画が進められることになり、米国の不動産開発業者であるハインズ社(Hines)がこの大規模なプロジェクトを推進して、現在に至っている。
なお、キャノンストリート駅の左斜め前で、大規模なオフィスビル再開発計画が進行中であるが、地面の削岩中にローマ時代の遺跡品等が多数発見されたため、発掘調査の関係上、プロジェクトがやや遅れ気味になっている模様。

地面の削岩中に発見されたローマ時代の遺跡品の数々が
オフィスビル再開発工事現場を囲む壁に表示されている

話は変わるが、物語の冒頭でジョン・ワトスンの妻(「四つの署名(The Sign of the Four)」事件(発生年月:1888年9月)に依頼人で登場したメアリー・モースタン(Mary Morstan)と思われる)は、何故か自分の夫のことを「ジェイムズ(James)」と呼んでいる。ワトスンのフルネームは「ジョン・H・ワトスン」であるが、彼のミドルネームが、スコットランド名でジェイムズに該当する「ヘイミッシュ(Hamish)」で、「H」はその頭文字ではなかと識者の間では考えられている。

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1953年に発表したミス・ジェイン・マープルシリーズの長編第6作目「ポケットにライ麦を(A Pocket Full of Rye)」の場合、ロンドンにある投資信託会社の社長であるレックス・フォーテスキュー(Rex Fortescue)が、オフィスにおいて、朝の紅茶を飲んだ後、急逝するところから、物語が始まる。


検死解剖の結果、レックス・フォーテスキューの体内から、イチイの木(yew tree)から抽出される毒性のアルカロイド(toxic alkaloid)であるタキシン(taxine)が見つかり、死因は、タキシンによる中毒であることが判明した。レックス・フォーテスキューは、朝食でとったマーマレードと一緒に、タキシンを摂取したものと思われた。

更に、レックス・フォーテスキューの着衣を調べたところ、不思議なことに、上着のポケットから、大量のライ麦(rye)が出てきたのである。


当然のことながら、スコットランドヤードによって、レックス・フォーテスキューの後妻であるアディール・フォーテスキュー(Adele  Fortescue)が、第一容疑者と見做された。

ケニア(Kenya)において結婚したばかりの次男のランスロット・ フォーテスキュー(Lancelot Fortescue - 愛称:ランス(Lance))と妻のパトリシア・フィーテスキュー(Patricia Fortescue - 愛称:パット(Pat))の二人は、レックス・フォーテスキューの招待に応じて、丁度、ケニアからロンドンへと向かっている最中で、「翌日、英国に帰国する。」という電報がパリから入ったので、警察が空港まで彼らを出迎えに行った。


ランスロットが、妻のパトリシアをロンドンに残して、フォーテスキュー家の邸宅であるイチイ荘(Yewtree Lodge)に到着した正にその日、義理の母親アディールが、青酸カリ(cyanide)が混入された紅茶を飲んで、死亡した。

更に、その数時間後、メイドのグラディス・マーティン(Gladys Martin)が、イチイ荘の庭において、絞殺死体で発見された。しかも、彼女の鼻には、洗濯バサミが付けられていたのである。


物語の中盤、スコットランドヤードのニール警部(Inspector Neele)から、レックス・フォーテスキューの長男で、夫のパーシヴァル・フォーテスキュー(Percival Fortescue)の当日のアリバイを尋ねられた妻のジェニファー・フォーテスキュー(Jennifer Fortescue)は、「義理の父(であるレックス・フォーテスキュー)が経営する投資信託会社で働いてる夫は、いつも、午後6時半か、または、午後7時でないと、戻りません。あの時分は、まだロンドンだったと思います。うちの会社の場合、自動車を駐車させるのが不便なので、時々ですが、夫はキャノンストリート駅から汽車で帰ってきます。当日も、そうでした。」と答えている。


2014年10月24日金曜日

ロンドン ウォータールー橋(Waterloo Bridge)

ヴィクトリア エンバンクメント通り(Victoria Embankment)の歩道から
テムズ河に架かるウォータールー橋を遠くに望む

サー・アーサー・コナン・ドイル作「五つのオレンジの種(The Five Orange Pips)」では、ある嵐の激しい夜に、ホーシャム(Horsham)に住むジョン・オープンショー(John Openshaw)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を事件の相談に訪れる。
彼の伯父のイライアス(Elias Openshaw)と彼の父のジョーゼフ(Joseph Openshaw)は、表に「KKK」と書かれ、中に五つのオレンジの種が入った謎の封筒を受け取った後、不審な死を遂げる。ジョン・オープンショーによると、昨日の朝、同じ封筒がついに彼の元にも届いたのである。
ホームズに事件の調査を依頼した後、ジョン・オープンショーは「ウォータールー駅(Waterloo Station)から列車でホーシャムに帰る。」と告げて、ホームズの元を辞した。
天候が回復した翌朝、ジョン・ワトスンが起床すると、ホームズは既に朝食に向かっていた。メイドがコーヒーを運んで来るのを待つ間、ワトスンはまだ開かれていない新聞をテーブルから取り上げて、ざっと目を通すと、そこにジョン・オープンショーの名前を見つける。新聞の見出しは、「ウォータールー橋近くの悲劇(Tragedy Near Waterloo Bridge)」となっていた。

ヴィクトリア エンバンクメント通りの歩道からウォータールー橋を見上げる

新聞によると、「昨夜の9時から10時までの間、ウォータールー橋の近くで任務についていたH分署のクック巡査は、助けを求める声と水に落ちる音を聞いた。しかし、非常に暗かった上に嵐も強かったため、通行人達の手助けはあったものの、救出することはできなかった。水上警察の助けにより遺体が回収され、遺体のポケットに入っていた封筒から、ホーシャムに住むジョン・オープンショーという青年であることが判明。彼はウォータールー駅発の最終列車に乗るために急いでいたものと思われる。急いでいた上に辺りが非常に暗かったため、彼は道を外れ、テムズ河汽船用の小さな桟橋の角で足を踏み外して、河に転落したのではないかと推測されている。遺体には暴行の跡はなく、彼は不幸な事故の犠牲になったに違いない。この事故に基づき、当局に対して、河岸にある桟橋の状態改善を求めるべきである。(Between nine and ten last night Police-Constable Cook, of the H Division, on duty near Waterloo Bridge, Heard a cry for help and a splash in the water. The night, however, was extremely dark and stormy, so that, in spite of the help of several passers-by, it was quite impossible to effect a rescue. The alarm, however, was given, and, by the aid of the water-police, the body was eventually recovered. It proved to be that of a young gentleman, whose name, as it appears from an envelope which was found in his pocket, was John Openshaw, and whose residence is near Horsham. It is conjectured that he may have been hurrying down to catch the last train from Waterloo Station and that in his haste and the extreme darkness he missed his patch and walked over the edge of one of the small landing-places for river steamboats. The body exhibited no traces of violence, and there can be no doubt that the decreased had been the victim of an unfortunate accident, which should have the effect of calling the attention of the authorities to the condition of the riverside landing-stages.)」と報道されていた。

ウォータールー橋の袂にあるヴィクトリア エンバンクメント通り
―車の往来が激しい

ウォータールー橋(Waterloo Bridge)は、テムズ河(River Thames)に架かる橋の一つで、ハンガーフォード橋(Hungerford Bridgeーチャリングクロス駅(Charing Cross Station)に発着する列車が通る橋)とブラックフライアーズ橋(Blackfriars Bridgeーブラックフライアーズ駅(Blackfriars Station)に発着する列車が通る橋)の間に位置している。
橋の名前は、イギリス・オランダ連合軍およびプロイセン軍がフランス皇帝ナポレオン1世率いるフランス軍を破った「ワーテルローの戦い(Battle of Waterloo)」に由来している。

ウォータールー橋は、当初、ストランド橋会社(Strand Bridge Company)のために、スコットランドの技術者ジョン・レニー(John Rennie:1761年ー1821年)により1809年から1810年にかけて設計された。橋自体は1811年から1817年にかけて施工され、1817年6月に開通。開通するまでの間、一般に「ストランド橋(Strand Bridge)」として知られていた。

1840年代に入ると、ウォータールー橋は自殺の名所として有名になるという不名誉な評判を呼んでしまう。一方で、印象派を代表するフランスの画家クロード・モネ(Claude Monet:1840年ー1926年)や英国の風景画家ジョン・コンスタブル(John Constable:1776年ー1837年)により描かれるという名誉も受けている。
1884年に橋脚に問題が見つかり、旧ロンドン橋(Old London Bridge)が撤去され、テムズ河の勢いが増したため、土台へのダメージが増加。「五つのオレンジの種」事件において、ジョン・オープンショーがウォータールー橋から転落したのは「1887年9月」なので、橋脚の土台へのダメージがひどくなりつつあった頃である。

ウォータールー橋の下を船が頻繁に行き来する

1920年代に入ると、土台へのダメージが無視できない程になり、ついに橋の架け替え工事が行われることになった。英国の建築家ガイルズ・ギルバート・スコット卿(Sir Giles Gilbert Scott:1880年ー1960年)が1937年から1940年にかけて設計し、新しいウォータールー橋は1942年の一部開通を経て、1945年に全面的な開通を迎えた。なお、ギルバート・スコット卿は、世界的に有名な赤い電話ボックスをデザインした人としても知られている。

ウォータールー橋は、テムズ河に架かる橋の中で唯一、第二次世界大戦(1939年ー1945年)中にドイツ軍の爆撃を受けて被害を蒙っている。その際、修復工事は主に女性の作業に頼ったため、「The Ladies' Bridge」とも時々呼ばれているとのこと。

2014年10月19日日曜日

ロンドン ウォータールー駅(Waterloo Station)

ウォータールー駅の正面玄関

サー・アーサー・コナン・ドイル作「五つのオレンジの種(The Five Orange Pips)」では、1887年9月のある嵐の激しい夜、ホーシャム(Horsham)に住むジョン・オープンショー(John Openshaw)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を事件の相談に訪れる。
ジョン・オープンショーによると、米国で一財産を築いて英国に帰って来た伯父のイライアス・オープンショー(Elias Openshaw)は、1883年3月にある封筒を受け取る。その封筒には「KKK」と書かれ、その中には五つのオレンジの種が入っていた。その7週間後、つまり、1883年5月のある夜、アオミドロが浮いた池で彼が死んでいるのが発見された。
ジョンの父のジョーゼフ・オープンショー(Joseph Openshaw)も、1885年1月に同じ封筒を受け取った。そして、その3日後、彼は友人宅を訪問するために外出したが、近くにある白亜坑に転落して死亡しているのが判った。
それから2年8ヶ月の間、何事もなく経過したが、同じ封筒がついにジョン・オープンショーの元にも届いたのである。封筒の消印はロンドン東地区(London-eastern division)となっており、封筒の中には、五つのオレンジの種の他に、「書類を日時計の上に置け!(Put the papers on the sundial.)」と書かれた紙が入っていた。
事態を重くみたホームズは彼に注意を促すとともに、彼の伯父が残した謎めいた記述(1869年3月という見出し付き)について、「他の書類は全て伯父が燃やしてしまい、これが唯一残っている紙である。」と書いたものを一緒に真鍮の箱に入れて、指示通り日時計の上に置くよう指示する。そして、ホームズはジョン・オープンショーにどのようにホーシャムに戻るのか尋ねると、彼は「ウォータールー駅から列車で帰ります。(By train from Waterloo.)」と答えた。

ウォータールー駅のメインコンコース
—天井から吊り下げられている構内表示板

ウォータールー駅(London Waterloo Station)は、テムズ河(River Thames)南岸のランベス・ロンドン特別区(London Borough of Lambeth)にある主要な複合ターミナル駅である。
ウォータールー駅の名前は、1815年にイギリス・オランダ連合軍およびプロイセン軍がフランス皇帝ナポレオン1世率いるフランス軍を破った「ワーテルローの戦い(Battle of Waterloo)」に由来している。
当駅は、(1)イングランド南西部方面へ運行するサウスウェスタン本線(South Western Main Line)等が発着するウォータールー・メインライン駅(Waterloo Mainline Station)を中心として、(2)ベーカールーライン/ジュビリーライン/ノーザンライン/ウォータールー&シティラインが通るウォータールー地下鉄駅(Waterloo Tube Station)や(3)ウォータールー・イースト駅(Waterloo East Station)が隣接している。上記3つに加えて、(4)ウォータールー国際駅(Waterloo International Station)がフランス/パリやベルギー/ブリュッセルへ向かうユーロスターの英国側ターミナル駅となっていたが、英国内におけるユーロスター高速運転対応のため、英国側ターミナル駅がセントパンクラス駅(St. Pancras Station)に移った関係上、現在は閉鎖されている。現時点では、英国側ターミナル駅移転後の旧ウォータールー国際駅の利用策に関しては未定である。

ウォータールー駅の構内—当時の壁が保存されている。

ウォータールー・メインライン駅は、1848年7月に「ウォータールー橋駅」として開業。当初は、通過式駅として意図されていたが、実際には、シティまでの乗り入れは行われていない。19世紀後半になると、駅構内は散らかり、崩壊の危険性があった。
そのため、駅全体を取り壊して、新たに建設することが決定。新駅の建設は1900年に開始し、1922年まで続いた。「五つのオレンジの種」事件は1887年9月に発生しているので、時期的には、ウォータールー・メインライン駅の取り壊しが始まる少し前だったと言える。
再建された新駅は、21のプラットフォームと244mのコンコースを誇っていたが、第二次世界大戦(1939年ー1945年)中、ドイツからの爆撃により甚大な損害を被り、その後、かなりの期間と費用を要して再建されたのである。
再建されたメインコンコースの中央上部には、4面の大時計が吊り下げられており、伝統的に集合場所として使用されている。

ウォータールー駅のメインコンコース中央上部から
吊り下げられている4面の大時計

本作品では、事件の発生時期に矛盾がみられる。
ジョン・オープンショーがベーカーストリート221Bを辞した後、ホームズとジョン・ワトスンが「四つの署名(The Sign of the Four)」事件に言及する場面がある。「五つのオレンジの種」事件は1887年9月に発生しているが、「四つの署名」事件は1年先の1888年9月に発生している。つまり、「五つのオレンジの種」事件の際に、まだ発生していない「四つの署名」事件が言及されているのである。

「まだらの紐(The Speckled Band)」において、ヘレン・ストーナー(Helen Stonor)が、姉ジュリア・ストーナー(Julia Stonor)が遂げた謎の死、そして、自分に現在降りかかっている不安と恐怖について相談するため、サリー州(Surrey)にあるストークモラン屋敷(Stoke Moran Manor)を早朝に出て、レザーヘッド(Leatherhead)から一番列車に乗り、ウォータールー駅に到着、ベーカーストリート221Bのホームズの元を訪れている。

「バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskervilles)」では、ヘンリー・バスカヴィル卿(Sir Henry Baskervilles)はウォータールー駅に着いた後、テムズ河の対岸にあるノーサンバーランド ホテル(Northumberland Hotel:ノーサンバーランド アヴェニュー(Northumberland Avenue)とノーサンバーランド ストリート(Northumberland Street)が出会うところにあり、現在は、シャーロック・ホームズ パブ(Sherlock Holmes Pub)として営業している。)に宿泊している。

2014年10月17日金曜日

ロンドン フェンチャーチ ストリート(Fenchurch Street)

ロンバードストリート(Lombard Street)から
フェンチャーチストリートを望む。

サー・アーサー・コナン・ドイル作「花婿失踪事件(A Case of Identity)」において、メアリー・サザーランド(Mary Sutherland)はベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪ね、結婚式のため、教会の前に着いた馬車の中から忽然と姿を消した婚約者ホズマー・エンジェル(Hosmer Angel)の行方を捜してほしいと依頼する。ホームズはメアリーに、ホズマーの職場に加え、彼女の義理の父親であるジェイムズ・ウィンディバンク氏(James Windibank)の職場についても尋ねる。ホームズの質問に対して、メアリーは「義理の父は、フェンチャーチストリートにある大きな赤ワイン輸入業者ウェストハウス&マーバンクで、外交員をしています。(He travels for Westhouse & Marbank, the great claret importers of Fenchurch Street.)」と答える。なお、「クラレット」とは、フランスのボルドー(Bordeaux)地方産の赤ワインを指す。


フェンチャーチストリートは、ロンドンの金融街シティー・オブ・ロンドン(City of Londonー別名:1マイル四方(Square Mile))内の東方面にある通りで、メアリーの婚約者ホズマーが出納係として働いている事務所があるレドンホールストリート(Leadenhall Street)と南北に隣り合っていて、最終的には、東の方で一本の通りに合流する。実は、2つの通りが近接していることに、この事件を解くためのヒントがあり、物語の終盤、ホームズは鮮やかに紐解いてみせる。

「20 フェンチャーチストリート」ビルの玄関口

フェンチャーチストリートには、「20 フェンチャーチストリート(20 Fenchurch Streetー別名:The Walkie Talkie)」というビルが最近竣工し、シティー・オブ・ロンドン内の新たなランドマークになっている。このビルは、下層階から上層階にいくに従って、湾曲して大きくなっており、所謂、携帯型の双方向無線機の形に似ていることから、上記のような別名で呼ばれているのである。
このビルの設計者は、建築家のラファエル・ヴィノリー(Rafael Vinoly)で、米国のロサンジェルスでも、似たような形のビルを設計している。

「20 フェンチャーチストリート」ビルを真下から見上げると、
下層階から上層階にいくに従って、歪曲していることが判る。

また、ビル自体は、英国の不動産開発会社最大手のランドセキュリティーズ(Land Securities)とカナリーワーフグループ(Canary Wharf Group:ロンドン東部にあるカナリーワーフ地区一帯の再開発を行っている不動産開発会社)がジョイントベンチャーで建設。
レドンホールストリートに建つロイズ保険(Lloyd's of London)の本社ビルとは異なり、外観自体はオーソドックスではあるが、「20 フェンチャーチストリート」ビルは、周囲のビルを遥か下に見下ろすくらいの高さでそびえ立っており、そういった意味では、異彩を放っている。

2014年10月12日日曜日

ロンドン セントパンクラスホテル(St. Pancras Hotel)


サー・アーサー・コナン・ドイル作「花婿失踪事件(A Case of Identity)」において、セントサヴィオール教会(St. Saviour's Church)での結婚式が予定通り行われていれば、その後、メアリー・サザーランド(Mary Sutherland)とホズマー・エンジェル(Hosmer Angel)はセントパンクラスホテル(St. Pancras Hotel)に移動して、そこで結婚披露朝食会を開催する予定であった。

セントパンクラスホテルのモデルとなった建物の現在の正式名は「セントパンクラス・ルネッサンス・ホテル・ロンドン(St. Pancras Renaissance Hotel London)」で、ロンドン中心部にある鉄道ターミナルの一つであるセントパンクラス駅(St. Pancras Station)の正面に建つ五つ星ホテルである。
チャリングクロス駅(Charing Cross Station)の正面に建つチャリングクロスホテル(Charing Cross Hotel)の外壁はフランス・ルネッサンス様式であるが、セントパンクラス・ルネッサンス・ホテル・ロンドンの外壁にはゴシック様式が採用されている。セントパンクラス駅の隣りに建つ大英図書館(British Library)の場合、同駅外壁のゴシック様式との調和を狙って、レンガ色で全館統一されている。


正確には、シャーロック・ホームズとジョン・ワトスンが活躍したヴィクトリア朝当時、このホテルは「ミッドランド・グランド・ホテル(Midland Grand Hotel)」と呼ばれていたので、そういった意味では、コナン・ドイルが「花婿失踪事件」を「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」に発表した時点(1891年9月)では、セントパンクラスホテルという名前のホテルは存在していなかった訳で、架空のホテルだったと言える。

ホテル自体はしばらく閉鎖されていたが、数年にわたる修復および改装作業を経て、「セントパンクラス・ルネッサンス・ホテル・ロンドン」として新しく生まれ変わったのである。ただし、建築家ジョージ・ギルバート・スコット卿(Sir George Gilbert Scott:1811年ー1878年)が設計したヴィクトリア朝当時の壮麗な外観はそのまま残されている。館内には、修復・改装を終えたスイート38室を含む客室全245室が滞在客を待っている。
また、セントパンクラス駅に隣接する旧チケットホールはバー&レストランに改装され、「ザ・ブッキング・オフィス・バー&レストラン(The Booking Office Bar & Restaurant)」として現在営業している。

2014年10月11日土曜日

ロンドン セントパンクラス オールド教会(St. Pancras Old Church)/ セントサヴィオール教会(St. Saviour's Church)の候補地


サー・アーサー・コナン・ドイル作「花婿失踪事件(A Case of Identity)」において、メアリー・サザーランド(Mary Sutherland)は、ガス管取付業界の舞踏会(gasfitters' ball)で知り合ったホズマー・エンジェル(Hosmer Angel)と結婚するため、別々の馬車で教会に到着した。メアリーと彼女の母親は別の馬車からホズマーが出て来るのを待つが、彼は一向に姿を現さない。そこで、御者が降りて馬車の中をみてみると、ホズマーの姿は忽然と消えていて、それ以降、彼の消息がつかめなくなった。そのため、メアリーはベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズを訪ね、ホズマーの行方を捜してほしいと依頼する。


メアリー・サザーランドとホズマー・エンジェルが結婚式を行う予定だった教会は、メアリーによると、キングスクロスの近くにあるセントサヴィオール教会(St. Saviour's (Church) near King's Cross)であった。確かに、セントサヴィオール教会は実在しているが、それはキングスクロスから北北東の方向にかなり離れたクラウチエンド(Crouch End)という地区内にある。それでは、コナン・ドイルの原作にあるセントサヴィオール教会のモデルとなった教会はどこなのか?


キングスクロス駅(King's Cross Station)のすぐ西側にあるセントパンクラス駅(St. Pancras Station)を南側からみて左手のミッドランドロード(Midland Road)をやや北上したところに、セントパンクラス ガーデンズ(St. Pancras Gardens)がある。この庭園に面して、セントパンクラス オールド教会(St. Pancras Old Church)が建っている。現在の地図上、キングスクロス駅近辺には、このセントパンクラス オールド教会しか、教会は存在していない。ということは、コナン・ドイルの原作で言及されているセントサヴィオール教会は、このセントパンクラス オールド教会をモデルにしたものと思われる。
ドイルの原作によれば、予定通り、教会での結婚式が行われていれば、メアリーとホズマーはセントパンクラスホテル(St. Pancras Hotel)で結婚披露朝食会をする予定であった。セントサヴィオール教会のモデルとなったのが、セントパンクラス オールド教会であれば、セントパンクラスホテルも近かったので、簡単に移動できた筈である。


セントパンクラス オールド教会の起源は11世紀頃まで遡るようである。14世紀に入ると、近くを流れるフリート川(River Fleet)からの洪水が頻発したので、付近の住民はもう少し北にあるケンティッシュタウン(Kentish Town)地区に移住。そのため、教会はやや打ち捨てられた形になり、荒廃した。
フリート川の治水が行われ、教会付近の住民が増えてきたことに伴い、19世紀中頃、建築家アレキサンダー・ディック・ゴー(Alexander Dick Gough)により教会は再建された。19世紀後半(1888年)と20世紀前半(1925年)にも改修が行われたが、第二次世界大戦(1939年ー1945年)時、ドイツ軍による爆撃によりダメージを受けたため、1948年に更に補修が実施されている。
以前、当教会は「セントパンクラス教会」と呼ばれていたが、半マイル程離れたユーストンロード(Euston Road)に「セントパンクラス ニュー教会(St. Pancras New Church)」が建てられたことに伴い、明確な区別を行うため、「セントパンクラス オールド教会」へ名前が変更されたとのこと。
ちなみに、「セントパンクラス」は、ローマのディオクレティアヌス帝の命により殉教者となったフリージアの若い貴族の名前に由来している。

2014年10月5日日曜日

ロンドン レドンホールストリート(Leadenhall Street)


サー・アーサー・コナン・ドイル作「花婿失踪事件(A Case of Identity)」において、メアリー・サザーランド(Mary Sutherland)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れる。彼女は、ガス管取付業界の舞踏会(gasfitters' ball)でホズマー・エンジェル(Hosmer Angel)という男性と出会い、間もなく婚約する。彼女の義理の父親が留守にしている時に、彼らは結婚することになり、別々の馬車で教会に到着し、メアリーと彼女の母親は別の馬車からホズマーが出てくるのを待つが、彼はその馬車から一向に出てこない。御者が降りて馬車の中を見てみると、そこにホズマーの姿はなく、彼は忽然と消えてしまったのである。メアリーはホームズに、ホズマーの消息を捜してほしいと依頼する。
メアリーによると、行方不明になったホズマーはレドンホールストリートにある事務所で出納係として働いていて(Hosmer - Mr. Angel - was a cashier in an office in Leadenhall Street.)、寝起きもその事務所でしている(He slept on the premises.)と言う。ホームズが驚いたことに、メアリーは、ホズマーが働いている事務所の住所を、レドンホールストリート以外、全く知らなかったのである。

レドンホールストリート沿いに建つロイズ保険の本社ビル「ロイズビル」

ロンドンの金融街シティー・オブ・ロンドン(City of Londonー別名:1マイル四方(Square Mile))内にあるレドンホールストリートに面して、現在、ロイズ保険(Lloyd's of London)の本社ビル「ロイズビル(Lloyd's Buildingー別名: Inside-Out Building)」が建っている。ロイズ保険は、17世紀創業のコーヒーハウスから始まった世界最大の保険会社である。
1688年、創業者のエドワード・ロイド(Edward Lloyd:1648年ー1713年)が始めたコーヒーハウスは、次第に銀行家、保険業者、商人や荷主等が集まる場となった。そして、港の船荷情報を載せた日刊「ロイズリスト(Lloyd's List)」を発行したことが、今日のロイズ保険の前身となっている。

パリのポンピドウーセンター(Pompidou Centre)を手がけたリチャード・ロジャーズ(Richard Rogers:1933年ー)が現在の本社ビルの設計を担当し、スチールとガラスに覆われたハイテクなビルが出来上がった。1978年に建設工事が始まり、1986年に竣工。アンテナを含めた高さは 95.1m で、アンテナを除くと 88m になる。
竣工当初は、その斬新奇抜なデザインゆえに、周囲の古風なビル街とは全く合わず、非常に目立っていたが、周囲のビル群が次第に建て替えられ、近代的なビルが増えてくるにつれて、現在はそれ程大きな違和感はなくなっている。

レドンホールストリートは英国の郵便番号「EC3」内にあり、現在、ロイズ保険が所在していることもあって、この近辺には他の保険会社も数多くひしめきあっている。ロイズ保険の本社ビルの撮影に行った日の午後も、ビルの玄関を多くの保険会社スタッフがひっきりなしに出入りしていた。

スチールとガラスに覆われたハイテクな「ロイズビル」

また、ロイズ保険の本社ビルに隣接して、レドンホール・マーケット(Leadenhall Market)がある。通り全体を屋根が覆うアーケード型の市場街で、当初、屋根が鉛板で葺いてあったため、この名前で呼ばれている。
歴史はローマ時代まで遡り、ロンドン大火(1666年)で焼失した後、何度も建替が行われ、現在残っているのは1881年に建てられたものである。元々、肉、魚やワイン等の小売店が立ち並ぶ市場であったが、周辺をオフィスビルに取り囲まれているので、それらのオフィスビルで働くビジネスマン達をあてこんだパブ、カフェやサンドイッチショップ等の方が逆に増えてきているのが現状である。

「ロイズビル」に隣接するレドンホールマーケット

短編第3作目の「花婿失踪事件」には、一つ面白い話がある。
当作品は「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1891年9月号に発表されているが、前月の8月号に掲載された短編第2作目の「赤毛組合(The Red-Headed League)」の冒頭、ジョン・ワトスンとの会話の中で、ホームズがメアリー・サザーランドの名前を出して、「花婿失踪事件」に言及する場面が既にある。実は、ドイルの研究者が彼の原稿や書簡等を調査した結果、「赤毛組合」よりも「花婿失踪事件」の方が先に執筆されたことが判明している。
それでは、何故、「花婿失踪事件」と「赤毛組合」の発表順が前後したのか?
それは、ドイルの著作権代理人である A. P. ワットが「ストランドマガジン」の編集部宛に上記の2作を同時に送付したため、編集部側が2作の順番を間違えて掲載したのが原因ではないかと一般に考えられている。よって、「ストランドマガジン」上、「花婿失踪事件」よりも「赤毛組合」の方が先に掲載されることになり、「赤毛組合」の冒頭で、あたかも「花婿失踪事件」が既に発表済のような表現になっているのである。

2014年10月4日土曜日

ロンドン セントジェイムズホール(St. James's Hall)

夕闇に浮かぶル・メリディアン・ピカデリー・ホテル

サー・アーサー・コナンドイルの「赤毛組合(The Red-Headed League)」の中で、ベーカーストリート221Bに相談に訪れた質屋(pawnbroker)のジェイベス・ウィルスン(Jabez Wilson)が帰った後、シャーロック・ホームズはジョン・ワトスンをセントジェイムズホール(St. James's Hall)に誘う。

昼間のル・メリディアン・ピカデリー・ホテルの建物正面

その日の午後、セントジェイムズホールで、スペイン出身の作曲家兼ヴァイオリン奏者であるパブロ・マルティン・メリトン・デ・サラサーテ・イ・ナバスクエス(Pablo Martin Meliton de Sarasate y Navascuez:1844年ー1908年)の演奏会があると言うのだ。ホームズ曰く、「今日のプログラムは、ドイツの曲が多い。イタリアやフランスの曲よりも、ドイツの曲の方が、僕の趣味に合うんだ。ドイツの曲は内省的で、僕は今、内に向かいたい気分なんだ。(I observe that there is a good deal of German music on the programme, which is rather more to my taste than Italian or French. It is introspective, and I want to introspect.)」とのこと。
ホームズとワトスンは、ジェイベス・ウィルスンの質屋の様子を見に行った後、昼食をとってから、セントジェイムズホールへ向かった。

ピカデリーサーカス方面から見た
ル・メリディアン・ピカデリー・ホテルの正面玄関

残念ながら、セントジェイムズホールは現存しておらず、ホテルに様変わりしている。ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)からハイドパーク(Hyde Park)に向かって西に延びるピカデリー通り(Piccadilly)の北側に建っている、ル・メリディアン・ピカデリー・ホテル(Le Meridien Piccadilly Hotel)がそれである。現在の住所表記では、「21 Piccadilly, Mayfair, London W1J 0BH」である。

夕日に映えるセントジェイムズ教会

また、ピカデリー通りを挟んで、ホテルの右斜め前に、セントジェイムズ教会(St. James's Church)がある。この教会は、セントポール大聖堂(St. Paul's Cathedral)やフリートストリート沿いのセントブライド教会(St. Bride Church)等を設計したクリストファー・レン卿(Chirstopher Wren:1632年ー1723年)が完成させたものである。ロンドン大火(1666年)の際は、被害を免れたものの、第二次世界対戦(1939年−1945年)の最中、1940年にドイツ軍による激しい爆撃を受けたため、その後修復されている。