2024年12月20日金曜日

ロンドン 地下鉄ゴルダースグリーン駅(Golders Green Tube Station)

地下鉄ゴルダースグリーン駅の駅舎(その1)


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1932年に発表したミス・ジェイン・マープル(Miss Jane Marple)シリーズ作品の短編集「ミス・マープルと13の謎(The Thirteen Problems)<米題:火曜クラブ( The Tuesday Club Murders)>」の第7話「青いゼラニウム / 青いジェラニウム(The Blue Geranium)」(1929年)において、物語の語り手を務めるアーサー・バントリー大佐(Colonel Arthur Bantry → 2024年8月14日付ブログで紹介済)の友人であるジョージ・プリチャード(George Pritchard)の妻プリチャード夫人(Mrs. Pritchard)は、気難しい半病人で、彼女を担当する看護師を次から次へと変えていた。ところが、コプリング看護師(Nurse Copling)は、他の看護師とは異なり、プリチャード夫人にうまく対処していた。


地下鉄ゴルダースグリーン駅の駅舎(その2)

物語上、コプリング看護婦の妹が住むと記述されているゴルダースグリーン地区(Golders Green → 2024年12月15日 / 12月18日付ブログで紹介済)は、ロンドン特別区の一つであるバーネット区(London Borough of Barnet)内に属しており、ロンドンの北西部に所在している。

ゴルダースグリーン地区内には、ロンドン地下鉄(London Underground)のゴルダースグリーン駅(Golders Green Tube Station)がある。


ノースエンドロード沿いに建つ Golders Green Hippodrome は、
以前、BBC コンサートオーケストラ(BBC Concert Orchestra)の本拠地だった。

地下鉄ゴルダースグリーン駅は、ノーザンライン(Northern Line)のエッジウェア支線の駅で、ハムステッド駅(Hampstead Tube Station)とブレントクロス駅(Brent Cross Tube Station)の間に所在している。なお、エッジウェア支線における北側の終点駅は、エッジウェア駅(Edgware Tube Station)である。


地下鉄ゴルダースグリーン駅(左側)の横を通り、
南北に延びるフィンチリーロード。

地下鉄ゴルダースグリーン駅は、1907年6月22日に、チャリングクロス・ユーストン&ハムステッド鉄道(Charing Cross, Euston & Hampstead Railway)の駅として開業。開業時点において、2つある北側の終点駅の一つで、車両基地が設置された。

地下鉄ゴルダースグリーン駅が開業した当初、駅周辺には、数軒の家があるだけだったが、開業後、駅周辺が急速に発展して、人口が増加。


地下鉄ゴルダースグリーン駅(右側)の前を通り、
東西に延びるノースエンドロード。
画面奥に見えるのが、ゴルダースグリーンロードで、
画面を左右に横切るのが、フィンチリーロード。

チャリングクロス・ユーストン&ハムステッド鉄道は、利用客の増加策として、エッジウェア支線の延伸を計画していたが、第一次世界大戦(1914年ー1918年)勃発により工事着工が遅延。1922年6月12日に路線延伸工事が開始され、延伸したエッジウェア支線が1923年11月19日に開業して、地下鉄ゴルダースグリーン駅は、エッジウェア支線の途中駅となった。


地下鉄ゴルダースグリーン駅の前にある
ゴルダースグリーンバスターミナル

現在、5つのホームを抱える橋上駅である地下鉄ゴルダースグリーン駅は、南北に延びるフィンチリーロード(Finchley Road)と東西に延びるゴルダースグリーンロード(Golders Green Road - 西側)/ ノースエンドロード(North End Road - 東側)の交差点に位置しており、駅舎の前には、ゴルダースグリーン地区と東西南北を結ぶゴルダースグリーンバスターミナル(Golders Green Bus Terminal)が、広い場所を占めている。


2024年12月19日木曜日

綾辻行人作「迷路館の殺人」<小説版>(The Labyrinth House Murders by Yukito Ayatsuji ) - その1

英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2024年に刊行されている
Pushkin Vertigo シリーズの一つである
綾辻行人作「迷路館の殺人」の英訳版の表紙
(Cover design by Jo Walker /
Cover image by Shutterstock)


「迷路館の殺人(The Labyrinth House Murders)」は、日本の小説家 / 推理作家である綾辻行人(Yukito Ayatsuji:1960年ー)が発表した長編推理小説で、作家デビュー作の「十角館の殺人(The Decagon House Murders → 2023年2月21日 / 2月25日 / 3月9日 / 3月18日付ブログで紹介済)」と第2作目の「水車館の殺人(The Mill House Murders → 2023年4月30日 / 5月3日 / 5月13日付ブログで紹介済)」に続く「館シリーズ」の第3作目に該る。


「迷路館の殺人」は、1988年9月5日、講談社の講談社ノベルスとして出版された後、1992年9月15日に文庫化(講談社文庫)され、そして、2009年11月13日に、文庫の新装改訂版が出ている。


英国では、プーシキン出版(Pushkin Press)から、2024年に英訳版が出版されている。


1988年の夏に、大手出版社である「稀譚社(Kitansha)」から、鹿谷門実(Kadomi Shishiya)のデビュー作となる「迷路館の殺人(The Labyrinth House Murders)」が出版される。

当作品は、作者自身が巻き込まれた現実の連続殺人事件(1987年4月に発生)をベースにした推理小説だった。


鹿谷門実作「迷路館の殺人」は、次のようにして始まる。


稀譚社の編集者である宇多山英幸(Hideyuki Utayama:40歳)は、妊娠中の妻を伴って、実家がある京都府宮津市へと帰省したついでに、推理作家界の巨匠である宮垣葉太郎(Yotaro Miyagaki:60歳)の元を訪れる。

宮垣葉太郎は、太平洋大戦(1941年ー1945年)後間もない1948年に、21歳の若さで推理作家としてデビューし、それ以降、推理小説界を席巻、推理作家界の重鎮へと登りつめた。特に、彼が50歳の時に発表した「For a Magnificent Downfall」は、日本における推理小説の三大奇書と言われる


(1)小栗虫太郎(Mushitaro Oguri:1901年ー1946年)作「黒死館殺人事件(The Black Death Murder Case)」(1934年)

(2)夢野久作(Kyusaku Yumeno:1889年ー1936年)作「ドグラ・マグラ(Dogra Magra)」(1935年)

(3)中井英夫(Hideo Nakai:1922年ー1993年)作「虚無への供物(Offerings to the Void)」(1964年)


と並び評された。

「For a Magnificent Downfall」の発表後、弟子である若手推理作家達の後進育成に注力していたが、昨年の4月、宮垣葉太郎は、突然、それまでの推理小説の執筆活動を全て取り止め、東京都の成城にあった邸宅を売り払うと、父方の出身地である京都府の丹後地方へと引っ込んでしまった。そこには、10年前に建てられた「迷路館(The Labyrinth House)」と呼ばれる彼の別宅があった。建設当初、夏の間だけ、彼は「迷路館」に滞在していた。


稀譚社の編集者で、宮垣葉太郎の担当でもある宇多山英幸は、彼に対して、新作の執筆を依頼するが、宮垣葉太郎には、その気は全く無いようだった。

また、宮垣葉太郎の体調は、どうやら、あまり優れないようだった。彼は、元々、医者嫌いで、周囲の勧めにも反して、健康診断を全く受けていなかったのである。

意図的に話を逸らした宮垣葉太郎は、宇多山英幸に対して、「4月1日の誕生日に、還暦(60歳)の祝賀パーティーを、この迷路館において、ささやかに行う予定」であること、また、「この祝賀パーティーには、宇多山英幸を含めて、数名を招待する予定」であることを告げる。


宇多山英幸は予期していなかったが、これが、彼が生きた宮垣葉太郎と言葉を交わした最後の時となったのである。


2024年12月18日水曜日

ロンドン ゴルダースグリーン地区(Golders Green)- その2

ノースエンドロード(North End Road)沿いに建つ
Golders Green Parish Church(その1)


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1932年に発表したミス・ジェイン・マープル(Miss Jane Marple)シリーズ作品の短編集「ミス・マープルと13の謎(The Thirteen Problems)<米題:火曜クラブ( The Tuesday Club Murders)>」の第7話「青いゼラニウム / 青いジェラニウム(The Blue Geranium)」(1929年)において、物語の語り手を務めるアーサー・バントリー大佐(Colonel Arthur Bantry → 2024年8月14日付ブログで紹介済)の友人であるジョージ・プリチャード(George Pritchard)の妻プリチャード夫人(Mrs. Pritchard)は、気難しい半病人で、彼女を担当する看護師を次から次へと変えていた。ところが、コプリング看護師(Nurse Copling)は、他の看護師とは異なり、プリチャード夫人にうまく対処していた。


地下鉄ゴルダースグリーン駅からハムステッドヒースへと向かう
ノースエンドロード(その1)

物語上、コプリング看護婦の妹が住むと記述されているゴルダースグリーン地区(Golders Green)は、ロンドン特別区の一つであるバーネット区(London Borough of Barnet)内に属しており、ロンドンの北西部に所在している。

ゴルダースグリーン地区の北側と東側には、広大なハムステッドヒース(Hampstead Heath → 2015年4月25日付ブログで紹介済)が拡がっている。


地下鉄ゴルダースグリーン駅からハムステッドヒースへと向かう
ノースエンドロード(その2)

ゴルダースグリーン地区は、中世の郊外地域として始まる。

ゴルダースグリーン地区の「ゴルダース(Golders)」は、当該地区に住んでいた Godyere 家に因んでおり、また、「グリーン(Green)」は、当該地区内にあった荘園に因んでいる。


ノースエンドロードからウェストヒースドライヴ(West Heath Drive)へと曲がったところ

1827年頃、ゴルダースグリーン地区内を通り、ロンドン市内からロンドンの北西部のフィンチリー地区(Finchley)へと延びるフィンチリーロード(Finchley Road)が建設されたことに伴い、ゴルダースグリーン地区は発展していく。


同じく、ノースエンドロード沿いに建つ Golders Green Hippodrome は、
以前、BBC コンサートオーケストラの本拠地だった。

1895年に Golders Green Jewish Cemetery(墓地)が、また、1902年に Golders Green Crematorium(火葬場)が開かれた。

1907年6月22日に、ロンドン地下鉄(London Underground)のノーザンライン(Northern Line)の駅として、ゴルダースグリーン駅(Golders Green Tube Station)がオープン。

また、1913年、地下鉄ゴルダースグリーン駅に隣接する場所に、Golders Green Hippodrome(馬術演技場)が建設され、長期間にわたって、BBC コンサートオーケストラ(BBC Concert Orchestra)の本拠地となった。


ノースエンドロード沿いに建つ
Golders Green Parish Church(その2)

ゴルダースグリーン地区の場合、現在、ユダヤ人コミュニティー、日本人コミュニティーや東アジアコミュニティー等が顕著である。

ゴルダースグリーン地区には、英国の小説家 / 脚本家であるサー・カズオ・イシグロ(Sir Kazuo Ishiguro / 日本名 - 石黒一雄:1954年ー)が住んでいる、とのこと。彼は、1954年11月8日に長崎県長崎市に生まれ、1960年に両親と一緒に英国へ移住。1989年に発表した長編小説「日の名残り(The Remains of the Day)」により、同年、英国最高の文学賞とされるブッカー賞(Booker Prize)を受賞し、2017年にはノーベル文学賞も受賞している。


2024年12月16日月曜日

木原敏江作「それは常世のレクイエム~夢みるゴシック~(Gothicism - dreaming by Toshie Kihara)」- その1

日本の出版社である株式会社秋田書店から
2012年にプリンセスコミックスの1冊として出版された
木原敏江作「それは常世のレクイエム〜夢みるゴシック〜」の表紙 -
主人公のポーリーン・レミントン(右側の人物)と
案内役を務めるバイロン卿(左側の人物)が描かれている。


今回は、日本の漫画家 / イラストレーターである木原敏江(Toshie Kihara:1948年ー)が、2012年に株式会社秋田書店からプリンセスコミックス(Princess Comics)として出版した漫画「それは常世のレクイエム~夢みるゴシック~(Gothicism - dreaming)」について、紹介したい。


日本の出版社である株式会社秋田書店から
2012年にプリンセスコミックスの1冊として出版された
木原敏江作「それは常世のレクイエム〜夢みるゴシック〜」の裏表紙


本作品において、案内役を務めるのは、第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron, 6th Baron Byron:1788年ー1824年 → 2021年5月9日および2024年8月24日 / 8月30日付ブログで紹介済)である。


第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンは、英国のロマン派詩人で、SF の先駆者と見做される英国の小説家メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン・シェリー(Mary Wollstonecraft Godwin Shelley:1797年ー1851年 → 2021年3月9日 / 3月16日付ブログで紹介済)がゴシック小説「フランケンシュタイン、或いは、現代のプロメテウス(Frankenstein; or, the Modern Prometheus. → 2021年3月24日付ブログで紹介済)」(1818年)に登場する「フランケンシュタインの怪物」を着想する場面に立ち会った人物である。

英国において、第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンは、一般に、「バイロン卿(Lord Byron)」として知られている。


一方、主人公を務めるのは、ポーリーン・レミントン(架空の人物)である。

彼女は、地主階級出身の名門の末娘であるヘレン・レミントンが、親の反対を押し切り、ジャンブラーであるブライアン・フィールズと駆け落ち結婚をして生まれた一人娘で、12歳の時、事故に巻き込まれて、建物の下敷きになった。その際、彼女の両親が自分達の身体の下に彼女をかばった。両親のおかげで、彼女は無事に建物の瓦礫の中から無事に生還したが、それと引き換えに、両親を失ってしまう。その後、彼女は、孤児院へと入れられた。

ヘレン・レミントンの父で、ポーリーン・レミントンの祖父に該る当主はには、3人の子供が居たが、2人の息子は、結婚前に軍に入隊し、ナポレオン戦争で戦死。また、末娘であったヘレンも既に亡くなっていたため、レミントン家の跡取りとなる孫娘のポーリーンの行方を捜索していた。

孤児院に引き取られ、3年が経過して、14歳になっていたポーリーン・レミントンは、祖父の依頼に基づき、彼女を探していた弁護士により、孤児院で発見され、レミントン家へと戻ることになる。

祖父より「全力でレミントン家を守り立てていく務めがある。」と連日言われ続けたポーリーン・レミントンが18歳になったところから、本作品の物語が始まるのである。


日本の出版社である株式会社秋田書店から
2012年にプリンセスコミックスの1冊として出版された
木原敏江作「それは常世のレクイエム〜夢みるゴシック〜」の内扉 -
主人公のポーリーン・レミントン(画面手前の人物)と
案内役を務めるバイロン卿(画面奥の人物)が描かれている。

本作品には、以下の物語が収録されている。


(1)「それは怪奇なセレナーデ(前編)」(2012年プリンセス GOLD 2月号掲載)

(2)「それは怪奇なセレナーデ(後編)」(2012年プリンセス GOLD 3月号掲載)

(3)「それは常世のレクイエム(前編)」(2012年プリンセス GOLD 8月号掲載)

(4)「それは常世のレクイエム(後編)」(2012年プリンセス GOLD 10月号掲載)


次回以降、「それは怪奇なセレナーデ」と「それは常世のレクイエム」に関して、個別に紹介していきたい。


2024年12月15日日曜日

ロンドン ゴルダースグリーン地区(Golders Green)- その1

地下鉄ゴルダースグリーン駅(Golders Green Tube Station)の前にある
ゴルダースグリーンバスターミナル(Golders Green Bus Terminal)(その1)


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1932年に発表したミス・マープルシリーズ作品の短編集「ミス・マープルと13の謎(The Thirteen Problems)<米題:火曜クラブ( The Tuesday Club Murders)>」の場合、書籍として出版された順番で言うと、長編第1作目に該る「牧師館の殺人(The Murder at the Vicarage → 2022年10月30日 / 10月31日付ブログで紹介済)」が、ミス・ジェイン・マープル(Miss Jane Marple)の初登場作品である。

ただし、厳密に言うと、「火曜クラブ/ 火曜ナイトクラブ(The Tuesday Night Club)」を皮切りに、1927年12月から雑誌「スケッチ誌」に掲載された短編の方が、ミス・マープルの初登場作品である。「牧師館の殺人」に遅れること、2年後の1932年に、雑誌「スケッチ誌」に連載された短編12作と加筆された1作の合計13作がまとめられて、短編集「ミス・マープルと13の謎<米題:火曜クラブ>」として出版されている。


地下鉄ゴルダースグリーン駅の前にある
ゴルダースグリーンバスターミナル(その2)

短編集「ミス・マープルと13の謎<米題:火曜クラブ>」には、13編が収録されているが、後半に該る「第7話 - 第13話」は、以下の通り。


・第7話:「青いゼラニウム / 青いジェラニウム(The Blue Geranium)」(1929年)

・第8話:「二人の老嬢 / お相手役(The Companion)」(1930年)

・第9話:「四人の容疑者(The Four Suspects)」(1930年)

・第10話:「クリスマスの悲劇(A Christmas Tragedy)」(1930年)

・第11話:「毒草 / 死の草(The Herb of Death)」(1930年)

・第12話:「バンガロー事件(The Affair at the Bungalow)」(1930年)

・第13話:「溺死(Death by Drowning)」 (1931年)


地下鉄ゴルダースグリーン駅の横を通り、
フィンチリーセントラル(Finchley Central)へと向かう道路(その1)

上記の計7話の場合、第7話から第12話については、(第1話ー第6話から)1年後、セントメアリーミード村内にある邸宅ゴシントンホール(Gossington Hall)で開催されたバントリー夫妻の晩餐会が、物語の舞台となる。火曜クラブ(The Tuesday Night Club)のメンバーであるサー・ヘンリー・クリザリング(Sir Henry Clithering → 2024年8月20日付ブログで紹介済)の依頼により、ミス・マープルが客として招かれている。

第13話に関しては、唯一、現在進行形の事件で、当該短編集刊行の際には加えられた作品である。


登場人物は、以下の6名。


*ミス・マープル

*サー・ヘンリー・クリザリング:スコットランドヤード(ロンドン警視庁)の元警視総監

*アーサー・バントリー大佐(Colonel Arthur Bantry → 2024年8月14日付ブログで紹介済):退役軍人で、サー・ヘンリー・クリザリングの友人

*ドリー・バントリー(Mrs. Dolly Bantry → 2024年8月14日付ブログで紹介済)):アーサー・バントリー大佐の妻

*ロイド医師(Dr. Lloyd):セントメアリーミード村で唯一の医者で、ミス・マープルの主治医

*ジェイン・ヘリアー(Jane Helier):人気の舞台女優


上記6名の登場人物が、自分だけが真相を知っている迷宮入り事件、もしくは、それに類するものの内容について、他の5名に対して話をする(第7話:アーサー・バントリー大佐 / 第8話:ロイド医師 / 第9話:サー・ヘンリー・クリザリング / 第10話:ミス・マープル / 第11話:ドリー・バントリー / 第12話:ジェイン・ヘリアー)。そして、話を聞いたメンバーが真相を推理するものの、誰も真相に到達できないが、結局のところ、どの事件に関しても、ミス・マープルだけが、謎を解いてしまうと言う展開になっている。


地下鉄ゴルダースグリーン駅の横を通り、
フィンチリーセントラルへと向かう道路(その2)

第7話「青いゼラニウム / 青いジェラニウム」の場合、アーサー・バントリー大佐が語り手を務める。

彼の友人ジョージ・プリチャード(George Pritchard)の妻プリチャード夫人(Mrs. Pritchard)は、気難しい半病人で、彼女を担当する看護師を次から次へと変えていた。ところが、コプリング看護師(Nurse Copling)は、他の看護師とは異なり、プリチャード夫人にうまく対処していた。

プリチャード夫人は占い好きで、夫のジョージ・プリチャードとコプリング看護師の2人がそれぞれの用事で家を空けた際、ザリダ(Zarida)と名乗る占い師を家の中に入れた。占い師のザリダは、プリチャード夫人に対して、「この家には邪気がただよっている。」(中村妙子訳)とか、「青い花はいけない。青い花は不吉だ。あんたにとっては、命取りだ。」(中村妙子訳)と告げた。

その2日後、プリチャード夫人の元に、「わたしは未来を透視した。手おくれでならぬよう、ご用心のこと。満月の晩が危ない。青いサクラソウは警告、青いタチアオイは危険信号、青いゼラニウムは死の象徴…」と言う手紙が届く。

「青いゼラニウムは、この世にありゃしない。」と、夫のジョージ・プリチャードは言い添えたが、プリチャード夫人は、すっかりと怯え上がってしまい、満月の番になると、夫のジョージ・プリチャードとコプリング看護師の2人を自分の部屋へ呼び付けて、壁紙を点検させた。壁紙のタチアオイの花は桃色や赤色で、青色は一輪もなかったが、翌朝になると、プリチャード夫人の枕元の直ぐ上にある壁紙のタチアオイが一輪、青く変色していたのである。

そして、暫くしたある朝、プリチャード夫人が、ベッドの中で亡くなっているのが発見された。何故か、室内には、微かにガスの臭いが漂っている上に、ベッドの上の壁紙の薄赤いゼラニウムの花が一輪、真っ青に変わっていたのだった。


地下鉄ゴルダースグリーン駅の横を通り、
フィンチリーセントラルへと向かう道路(その3)-
上に見えるのは、地下鉄の高架線。

「青いゼラニウム / 青いジェラニウム」中、以下の記述がある。

「ミセス・プリチャードは昼食はいつもとることにしていました。ジョージと看護婦が午後のことについて相談をするのは、たいていこのときでした。原則として、コプリング看護婦は二時から四時までを外出の時間にしていましたが、ジョージが午後家をあけたいと言えば、そこはまあ、融通をつけて、お茶のあとで暇をもらうということもあったのでした。さてたまたまこの日、彼女はゴルダース・グリーンの妹をたずねるから、ちょっとおそくなるかもしれないともうしました。ジョージの顔はさっと曇りました。自分も家をあけてゴルフを一ラウンド楽しんでこようと手はずをととのえていたからでした。コプリング看護婦は、しかし、心配することはないと申しました。」(中村妙子訳)


地下鉄ゴルダースグリーン駅の横を通り、
フィンチリーセントラルへと向かう道路(その4)-
上に見えるのは、地下鉄の高架線。

コプリング看護婦の妹が住むゴルダースグリーン地区(Golders Green)は、ロンドン特別区の一つであるバーネット区(London Borough of Barnet)内に属しており、ロンドンの北西部に所在している。


2024年12月14日土曜日

ロンドン メイデンレーン21番地(21 Miaden Lane)

画面中央が、英国のロマン主義の画家である
ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーが生まれた場所の
メイデンレーン21番地の建物である。


一般的には、「J・M・W・ターナー(J. M. W. Turner)」として知られているジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner:1775年ー1851年 → 2018年7月1日 / 7月8日 / 7月15日付ブログで紹介済)は、英国のロマン主義の画家である。


テイト・ブリテン美術館(Tate Britain
→ 2018年2月18日付ブログで紹介済)内に展示されている
ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーによる「自画像」(1799年)


J・M・W・ターナーは、1775年4月23日、ロンドンの劇場街コヴェントガーデン(Covent Garden)に近いメイデンレーン21番地(21 Maiden Lane)に出生し、同年5月14日に洗礼を受けている。

1770年頃、デヴォン州(Devon)からロンドンに出て来た彼の父親ウィリアム・ターナー(William Turner:1745年ー1829年)は、同じ場所で床屋を営んでおり、母親メアリー・マーシャル(Mary Marshall)は肉屋の出であった。

彼は、曽祖父、祖父と父の名前を全て足して、ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーと名付けられた。



彼の妹メアリー・アン(Mary Ann)は、3年後の1778年9月に生まれたが、1783年8月に幼くして亡くなってしまったため、1785年に母親が精神疾患を発症した。

父親は仕事で忙しく、彼の世話を十分にすることができなかった。そこで、彼は母方の叔父であるジョーゼフ・マロード・ウィリアム・マーシャル(Joseph Mallord William Marshall)に引き取られ、その後も親戚の住まいを転々とする。

なお、母親のメアリーは、1799年に精神病院に入院し、1800年に転院、そして、1804年にその病院で亡くなっている。

温かな家庭とは縁遠い生活を送ることになったJ・M・W・ターナーは、その寂しさを紛らわせるためか、絵に興味を持ち、本格的に絵描きになることを考え始めた。



メイデンレーン21番地は、現在のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のストランド地区(Strand)内に所在している。



テムズ河(River Thames)に沿って、トラファルガースクエア(Trafalgar Square)とシティー・オブ・ロンドン(City of London → 2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)を結ぶストランド通り(Strand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)が東西に延びているが、ストランド通りの北側、また、コヴェントガーデンマーケット(Covent Garden Market → 2016年1月9日付ブログで紹介済)の南側に、メイデンレーン(Maiden Lane)が、ストランド通りに並行して、東西に延びている。



メイデンレーンの一番西に近いエクスチェンジコート(Exchange Court)と言う脇道に接する角地に、メイデンレーン21番地は建っている。



画面右側の通りが、
メイデンレーンからの脇道に該るエクスチェンジコート。


メイデンレーン21番地の建物の1階には、現在、パブが入居しているが、2階を含む上階はフラットで、入居者は、エクスチェンジコートに面した玄関から出入りしている。 



メイデンレーン21番地の建物の外壁には、「ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775年ー1851年)が、この場所で生まれた」旨を記すシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のプラークが架けられている。


        

2024年12月12日木曜日

ケンブリッジ大学創立800周年記念 / ドロシー・ガロッド(800th Anniversary of the University of Cambridge / Dorothy Garrod)

ケンブリッジ大学創立800周年を記念して、
英国の児童文学作家 / イラストレーターであるクェンティン・ブレイクが描いた
旧石器時代を専門とした英国の考古学者である
ドロシー・ガロッド(右側の人物)の絵葉書
<筆者がケンブリッジのフィッツウィリアム博物館(Fitzwilliam Museum
→ 2024年7月20日 / 7月24日付ブログで紹介済)で購入>


2009年にケンブリッジ大学(University of Cambridge)が創立800周年を迎えたことを記念して、英国の児童文学作家 / イラストレーターであるクェンティン・ブレイク(Quentin Blake:1932年ー)が、ケンブリッジ大学に関係する人物を描いて、寄贈した。


ケンブリッジ大学の創立800周年を記念して、クェンティン・ブレイクが描いた人物達について、(1)アイザック・ニュートン(Issac Newton:1642年―1727年 → 2024年5月26日 / 5月30日付ブログで紹介済)、(2)チャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin:1809年ー1882年 → 2024年6月9日 / 6月13日付ブログで紹介済)、(3)ヘンリー8世(Henry VIII:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年 → 2024年7月26日付ブログで紹介済)、(4)ジョン・ディー(John Dee:1527年ー1608年、または、1609年 → 2024年7月30日付ブログで紹介済)、(5)オリヴァー・クロムウェル(Oliver Cromwell:1599年ー1658年 → 2024年8月4日付ブログで紹介済)、(6)ジョン・ミルトン(John Milton:1608年ー1674年 → 2024年8月17日付ブログで紹介済)、(7)ウィリアム・ウィルバーフォース(William Wilberforce:1759年ー1833年 → 2024年8月21日付ブログで紹介済)、(8)第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron, 6th Baron Byron:1788年ー1824年 → 2021年5月9日+2024年8月24日 / 8月30日付ブログで紹介済)、(9)ヘンリー・ド・ウィントン + ジョン・チャールズ・シリング(Henry de Winton + John Charles Thring → 2024年9月16日付ブログで紹介済)、(10)ジェイムズ・クラーク・マクスウェル(James Clark Maxwell → 2024年11月30日 / 12月3日付ブログで紹介済)や(11)フランク・ウィットル(Frank Whittle → 2024年12月7日付ブログで紹介済)に続き、順番に紹介していきたい。


12番目に紹介するのは、ドロシー・ガロッド(Dorothy Garrod)である。


(12)ドロシー・ガロッド(1892年ー1968年)


ドロシー・ガロッドは、英国の考古学者(archaeologist)で、特に旧石器時代(Palaeolithic Age)を専門としている。


ドロシー・ガロッドは、1892年5月5日、内科医である父サー・アーチボルド・ガロッド(Sir Archibald Garrod:1857年ー1936年)と母ローラ・エリザベス・スミス(Laura Elizabeth Smith - 外科医である初代準男爵サー・トーマス・スミス(Sir Thomas Smith, 1st Baronet(1833年ー1909年)の娘)の下、ロンドンに出生。

彼女は、家で教育を受け、英国の教育者であるイザベル・フライ(Isabel Fry:1869年ー1958年)等が家庭教師を務めた。


長じたドロシー・ガロッドは、1913年にケンブリッジ大学(University of Cambridge)のニューナムカレッジ(Newnham College)に入学し、1916年に卒業。

第一次世界大戦(1914年ー1918年)中、彼女は、3人の兄弟を戦争で亡くしている。また、婚約者も亡くしたと言われている。


家族と一緒に、オックスフォード(Oxford)に落ち着いたドロシー・ガロッドは、考古学(archaeology)と文化人類学(anthropology)に興味を抱く。

彼女は、英国において、英国の文化人類学者であるロバート・ラヌルフ・マレット(Robert Ranulph Marett:1866年ー1943年)に、また、フランスにおいては、彼からの紹介を経て、フランスの考古学者 / 文化人類学者であるアンリ・エデュアルド・プロスパー・ブレイユ(Henri Edouard Prosper Breuil:1877年ー1961年)から、教えを受ける。アンリ・エデュアルド・プロスパー・ブレイユは、旧石器時代の壁画研究で知られており、その結果、彼女は、旧石器時代の考古学に魅せられていく。


ドロシー・ガロッドは、1926年に最初の論文「The Upper Paleolithic of Britain」を発表して、オックスフォード大学(University of Oxford)から賞を受ける。

その後、様々な発掘に参加した彼女は、1937年に論文「The Stone Age of Mount Carmel」を発表し、1939年にケンブリッジ大学の Disney Professor of Archaeology に就いた。オックスフォード大学とケンブリッジ大学において、教授職に就任した女性は、彼女が初めてで、1952年まで務めた。


1952年にケンブリッジ大学の教授職を退任したドロシー・ガロッドは、フランスに住み、調査と発掘を進めた。

1968年の夏、ケンブリッジの親戚を訪れた際、彼女は脳卒中になり、同年12月18日、同地において亡くなった。76歳だった。