2026年1月20日火曜日

綾辻行人作「時計館の殺人」<小説版>(The Clock House Murders by Yukito Ayatsuji ) - その2

英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2025年に刊行されている

Pushkin Vertigo シリーズの一つである
綾辻行人作「時計館の殺人」の英訳版の裏表紙
(Cover design by Jo Walker /
Cover image by Getty + imagenavi)


1989年7月半ば頃、大分県(Oita Prefecture)O市のK大学推理小説研究会の元会員である江南孝明(Takaaki Kawaminami - 24歳)は、友人である島田潔(Kiyoshi Shimada - 40歳)の元を訪れる。

2人は、「十角館の殺人(The Decagon House Murders → 2023年2月21日 / 2月25日 / 3月9日 / 3月18日付ブログで紹介済)」を通じて、知り合いになっていた。


英国のプーシキン出版から2020年に刊行されている
Pushkin Vertigo シリーズの一つである
綾辻行人作「十角館の殺人」の英訳版の表紙
(Cover design & illustration by Jo Walker)


「十角館の殺人」

*事件発生時期:1985年9月 / 1986年3月

*事件発生場所:K大学の推理小説研究会(Mystery Club)の一行が合宿に訪れたS半島のJ岬の沖合いに浮かぶ角島(Tsunojima)と呼ばれる無人の孤島に建つ十角館(Decagon House)- 建築家の中村青司(Seiji Nakamura)が設計した十角形という奇妙なデザインの建物


上記の事件から2年以上が経過しており、江南孝明は、大手出版社である稀譚社(Kitansha)に入り、新米の編集者となっていた。一方、島田潔は、鹿谷門実(Kadomi Shishiya)と言うペンネームで「迷路館の殺人(The Labyrinth House Murders → 2024年12月19日 / 2025年1月9日 / 1月18日 / 3月18日付ブログで紹介済)」を出版して、駆け出しの推理作家としてデビューを飾っていた。


英国のプーシキン出版から2024年に刊行されている
Pushkin Vertigo シリーズの一つである
綾辻行人作「迷路館の殺人」の英訳版の表紙
(Cover design by Jo Walker /
Cover image by Shutterstock)


江南孝明が島田潔に対して語った内容は、以下の通り。


(1)稀譚社において、江南孝明は、現在、超常現象を取り扱うオカルト雑誌「CHAOS」(月刊紙)を担当。

(2)7月末に、2人と因縁がある中村青司が設計した「時計館(Clock House)」(神奈川県(Kanagawa Prefecture)鎌倉市(Kamakura City))へ取材に出かける予定。

(3)「時計館」には、「10年前に亡くなった少女の霊が出没するのを見た。」と言う目撃証言が複数ある。

(4)江南孝明達は、7月30日から8月2日までの3泊4日間の日程で、「時計館」に泊まり込んで、少女の霊との交信を行うことを計画。


江南孝明によると、「時計館」に泊まり込むメンバーは、以下の通り。


*小早川 茂郎(Shigeo Kobayakawa - 44歳 / 「CHAOS」の副編集長(Deputy editor-in-chief)で、W大学のOB)

*江南 孝明(24歳)

*内海 篤志(Atsushi Utsumi - 29歳 / 稀譚社写真部のカメラマン)


*光明寺 美琴(Mikoto Komyoji - 32歳 / 霊能者(Spirit medium)で、島田潔が住んでいるマンションの隣人)


*瓜生 民佐男(Misao Uryu - 20歳 / W大学3年生で、超常現象研究会会長)

*樫 早希子(Sakiko Katagi - 20歳 / W大学3年生で、超常現象研究会の会員)

*河原崎 潤一(Junichi Kawarazaki - 21歳 / W大学3年生で、超常現象研究会の会員)

*福西 涼太(Ryota Fukunishi - 21歳 / W大学3年生で、超常現象研究会の会員)

*渡辺 涼介(Ryosuke Watanabe - 20歳 / W大学2年生で、超常現象研究会の会員)


なお、今回の泊まり込み企画は、渡辺 涼介が大学のサークルである超常現象研究会に持ち込んだものだった。

また、瓜生 民佐男、樫 早希子、河原崎 潤一および福西 涼太の4人は、W大学付属中学を受験した時からの幼馴染と言う関係だった。


江南孝明が島田潔に対して、2人と因縁がある中村青司が設計した「時計館」への同行を依頼する。

島田潔は、「時計館」への泊まり込み取材の話について、不穏な影を感じてはいたが、そこで凄惨な殺人事件が幕を開けようとは、この時点で、2人は全く考えていなかった。


2026年1月19日月曜日

コナン・ドイル作「シャーロック・ホームズの冒険」<グラフィックノベル版>(The Adventures of Sherlock Holmes by Conan Doyle )- その3


韓国(South Korea)のイラストレーターである Noh Yi-jeong により制作の上、2022年に韓国の Blue Rabbit Publishing Co, Ltd. から Manga Classic Literature シリーズの1冊として出版された後、2024年に英国の Guild of Master Craftsman Publishing Ltd. から Button Books シリーズの1冊として、英訳版が刊行されているサー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)作「シャーロック・ホームズの冒険(The Adventures of Sherlock Holmes)」のグラフィックノベル版に収録されている短編5作のうち、最初の作品は、「ボヘミアの醜聞(A Scandal in Bohemia → 2022年12月18日 / 2023年8月6日 / 8月9日 / 8月19付ブログで紹介済)」である。


「ボヘミアの醜聞」は、シャーロック・ホームズシリーズの短編小説56作のうち、最初(1番目)に発表された作品で、英国の「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1891年7月号に掲載された後、ホームズシリーズの第1短編集「シャーロック・ホームズの冒険(The Adventures of Sherlock Holmes)」(1892年)に収録されている。


「ボヘミアの醜聞」は、次の一文から始まる。


「シャーロック・ホームズには、いつでも「あの女性(ひと)」と呼ぶ女性が居る。(To Sherlock Holmes she is always the woman.)」


1888年3月20日の夜、ジョン・H・ワトスンは、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済) のシャーロック・ホームズの元を訪れた。

結婚したワトスンは、ホームズと共同生活を送っていたベイカーストリート221B の部屋を出て、開業医へと戻っていたが、往診の帰り道に、ベイカーストリート221B の前を通りかかり、懐かしさからホームズの部屋を訪ねたのであった。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1891年7月号に掲載された挿絵(その1) -

結婚して、開業医に戻ったジョン・H・ワトスンは、
1888年3月20日の夜、往診の帰り道、久し振りに
ベイカーストリート221B のホームズの元を訪ねた。
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット
(Sidney Edward Paget:1860年 - 1908年)


久し振りに再会したホームズは、ワトスンに対して、先程郵便で届いた分厚く、ピンクがかった便箋を投げて寄越した。その手紙には、日付がない上に、名前も住所も書かれていなかったが、ホームズは、ワトスンに、手紙を書いた人物を推論するよう、促した。

そして、ホームズは、ワトスンに、「間も無く、依頼人がやって来る。」と話した。



英国で出版された「ストランドマガジン」
1891年7月号に掲載された挿絵(その3) -

1888年3月20日の夜、
ボヘミア国王の代理人である
フォン・クラム伯爵と名乗る人物が、
ベイカーストリート221B の
シャーロック・ホームズの元を訪れる。
彼は、仮装用のマスクで顔を隠しており、
その正体は窺い知れなかった。
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット
(1860年 - 1908年)


ホームズの言葉通り、暫くすると、立派な馬車がベイカーストリート221Bの前に乗り付け、やがて、仮装用のマスクで顔を隠した身長 2m 近くの大男が、部屋へと通されて来た。

顔に仮装用のマスクを付けた男性は、フォン・クラム伯爵(Count von Kramm)と名乗り、「ボヘミア国王の代理人として、ボヘミア王家の問題について、相談に訪れた。」と話したが、ホームズは、フォン・クラム伯爵の正体が、ボヘミア国王(King of Bohemia)のカッセル・フェルシュタイン大公ウィルヘルム・ゴッツライヒ・ジギスモント・フォン・オルムシュタイン(Wilhelm Gottsreich Sigismond von Ormstein, Grand Duke of Cassel-Felstein)本人であることを、即座に見抜く。

ホームズに正体を見破られたフォン・クラム伯爵は、自分がボヘミア国王であることを認め、顔から仮装用のマスクを外すと、ホームズに対して、依頼の内容を語り出した。


ボヘミア国王によると、5年前、王太子だった彼は、アイリーン・アドラー(Irene Adler)と秘密裡に交際していた。


アイリーン・アドラーはオペラ歌手で、その経歴は、以下の通り。


・1858年、米国のニュージャージー州生まれ。

・コントラルト(Contralto - 女性の最低音域 / アルト(Alto)とも言う)歌手

・ワルシャワ帝国オペラ座(Imperial Opera of Warsaw)のプリマドンナ(Prima donna)

・イタリアのミラノにあるスカラ座(La Scala)に出演したことあり。

・現在は、オペラの舞台から引退して、ロンドンに在住。


コナン・ドイル作「ボヘミアの醜聞」には、

ボヘミア国王と秘密裡に交際していたアイリーン・アドラーは、オペラ歌手で、

イタリアのミラノにある歌劇場「スカラ座」に出演したことがあると記述されている。

(2015年に Dorling Kindersley Limited から出版された

「The Sherlock Holmes Book」<筆者が所有>から抜粋)


今回、ボヘミア国王は、スカンディナヴィアの王女と結婚することになったが、それを知ったアイリーン・アドラーが、「二人で撮影した写真を、スカンディナヴィアの王女宛に送り付ける。」と脅迫してきたのである。アイリーン・アドラーと一緒に撮った写真を、スカンディナヴィアの王女宛に送り付けられた場合、ボヘミア国王とスカンディナヴィアの王女の結婚が破談になることを必至であった。


ボヘミア国王は、二人で撮影した写真を取り戻すべく、人を雇って、アイリーン・アドラーの家捜しさせたり、また、彼女への強盗まがいの真似をさせたりしたが、残念ながら、問題の写真を見つけ出すことは、できなかった。

アイリーン・アドラーがスカンディナヴィアの王女宛に写真を送り付けると通告したボヘミア国王とスカンディナヴィアの王女の婚約発表の日付が迫って来たものの、期待する結果を得られず、非常に困ったボヘミア国王は、自らホームズの元へ依頼にやって来たのである。


Noh Yi-jeong によるグラフィックノベル版「ボヘミアの醜聞」は、全部で36ページで、以下の2部構成になっている。


(1)「仮装用マスクの男(The Masked Man)」(20ページ)


結婚後、ホームズとは別生活を送るワトスンが、往診の帰り道、久し振りにホームズの元を訪れるところから、ボヘミア国王の依頼を受けたホームズが、馬丁に変装して、アイリーン・アドラーが住むブライオニーロッジ(Briony Lodge)へと出かけ、ブライオニーロッジから出て来たゴドフリー・ノートン(Godfrey Norton - インナーテンプル(Inner Temple → 2014年8月25日付ブログで紹介済)の弁護士)とアイリーン・アドラーの後を追った結果、到着したエッジウェアロード(Edgware Road → 2016年1月30日付ブログで紹介済)にあるセントモニカ教会(Church of St. Monica → 2014年8月24日付ブログで紹介済)で、ホームズには想定外なことに、2人が結婚する立会人をさせられるところまでが描かれている。


(2)「秘匿された写真(The Hidden Photograph)」(16ページ)



英国で出版された「ストランドマガジン」
1891年7月号に掲載された挿絵(その7) -

「王太子だったボヘミア国王が
アイリーン・アドラーと一緒に撮影された
問題の写真は、
ブライオニーロッジ内に保管されている筈だ。」と
考えたシャーロック・ホームズは、
写真を取り戻す計画を直ぐに実行に移すことに決めて、
ジョン・H・ワトスンに対して、助力を頼んだ。
馬丁の変装を解き、牧師に変装し直したホームズは、
ワトスンを伴い、ベイカーストリート221B を出ると、
ブライオニーロッジへと向かった。
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット
(1860年 - 1908年)


「王太子だったボヘミア国王がアイリーン・アドラーと一緒に撮影された問題の写真は、ブライオニーロッジ内に保管されている筈だ。」と考えたホームズが、写真を取り戻す計画を直ぐに実行に移すことに決め、ワトスンに助力を頼み、馬丁の変装を解き、牧師に変装し直して、すブライオニーロッジへと向かうところから、物語の最後までが描かれている。



英国で出版された「ストランドマガジン」
1891年7月号に掲載された挿絵(その9) -

ボヘミア国王と一緒に撮影した写真の隠し場所を突き止めて、
セントジョンズウッド地区サーペンタインアベニューにある
ブライオニーロッジからベイカーストリート221B へと戻って来た
シャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンであったが、
「おやすみなさい、ホームズさん。」と声をかけて、
その2人の横を通り過ぎた人物が居た。
それは、男装して、2人の後を追って来た
アイリーン・アドラーその人だったのである。
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット
(1860年 - 1908年)

イケメンのホームズ / ワトスンや彼らの年齢設定等については、読者によって好みが分かれると思われるが、欧米のイラストレーター達とは異なり、コマ割りは日本のイラストレーター達に近く、絵柄にも動きがある。また、36ページの中に、物語がうまくまとめられている。

          

2026年1月18日日曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その20B

英国の HarperCollinsPublishers 社から現在出版されている
アガサ・クリスティー作「三幕の悲劇」の
ペーパーバック版の表紙 -
壁紙と思われるものが、
スティーヴン・バビントン牧師が飲んで急死した
マティーニのカクテルシェイカーの形に切り取られている。


引退して隠遁生活を送る有名な舞台俳優であるサー・チャールズ・カートライト(Sir Charles Cartwight)が住むコーンウォール州(Cornwall)ルーマスの豪邸「カラスの巣」において開催された晩餐会の席上、飲みつけないカクテルを口にした地元のスティーヴン・バビントン牧師(Reverend Stephen Babbington)が急死する。

サー・チャールズ・カートライトの友人で、ハーリーストリート(Harley Street → 2015年4月11日付ブログで紹介済)で開業する有名な精神科医であるサー・バーソロミュー・ストレンジ(Sir Bartholomew Strange)が「バビントン牧師が口にしたカクテルのグラスを分析したが、毒は検出されなかった。」と告げたため、バビントン牧師の死因は、ある種の発作だと考えられたが、サー・チャールズ・カートライトは、殺人を疑い、調査を主張。ところが、調査の結果、何の証拠も出てこなかった。


英国の The Orion Publishing Group Ltd. より2023年に発行された
アガサ・クリスティーをテーマにしたトランプのうち、
2♠️「サタースウェイト氏」


数ヶ月後、モンテカルロに滞在していたサタースウェイト氏(Mr. Satterthwaite - サー・チャールズ・カートライトの芝居に投資したことが縁で、彼と友人関係にあり)は、ある記事を目にして、大変驚いた。

サー・バーソロミュー・ストレンジが、ヨークシャー州(Yorkshire)の自宅において、友人達をもてなしていた際、ポートワインを飲んで死亡したと言う記事だった。数ヶ月前にサー・チャールズ・カートライトの自宅において、地元のスティーヴン・バビントン牧師がカクテルを飲んで死亡したのと、非常に似通った状況である。


サー・バーソロミュー・ストレンジが開催したパーティーに出席していたのは、


(A)ハーマイオニー・リットン・ゴア(Hermione Lytton Gore - 魅力的な美しい女性 / 愛称:エッグ(Egg))

(B)レディー・メアリー・リットン・ゴア(Lady Mary Lytton Gore - 上流階級の未亡人で、ハーマイオニー・リットン・ゴアの母親)

(C)アンジェラ・サトクリフ(Angela Sutcliffe - 有名な美人舞台女優)

(D)フレディー・ダクレス大尉(Captain Freddie Dacres - 元騎手)

(E)シンシア・ダクレス(Cynthia Dacres - ダクレス大尉の妻で、婦人服業界の有名ブランドのオーナー)

(F)ミュリエル・ウィルズ(Muriel Wills - アンソニー・アスター(Anthony Astor)と言う名前で知られる女流劇作家)

(G)オリヴァー・マンダース(Oliver Manders - ジャーナリストで、ハーマイオニー・リットン・ゴアの友人)


と、数ヶ月前にサー・チャールズ・カートライトの自宅において開催された晩餐会に出席した顔ぶれとほぼ同じで、参加していなかったのは、サー・チャールズ・カートライト、サタースウェイト氏とエルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)の3人だけだった。


今度も、サー・バーソロミュー・ストレンジが飲んだポートワインが入ったグラスからは、何ら疑わしいものは検出されなかったが、毒物学者は、彼の死因を「ニコチン中毒」だと特定する。つまり、サー・バーソロミュー・ストレンジの死は、殺人だったことになるのだ。


エルキュール・ポワロは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立っている。
<筆者撮影>


同じく、モンテカルロに滞在中のポワロは、同地に居合わせたサー・チャールズ・カートライトとサタースウェイト氏から、サー・バーソロミュー・ストレンジの急死の知らせを受けた。

サー・チャールズ・カートライトとサタースウェイト氏の2人は、サー・バーソロミュー・ストレンジの死を調査するために、急遽、モンテカルロから英国へと帰国する。


英国に戻ったサー・チャールズ・カートライトとサタースウェイト氏の2人は、調査の結果、奇妙なことを知る。

サー・バーソロミュー・ストレンジは、パーティーの直前に、7年前から奉公していた執事に対して、2ヶ月間の休暇を与えていたのである。何処からともなく現れたジョン・エリス(John Ellis)が、彼の代わりに、臨時の執事として雇われたのだが、サー・バーソロミュー・ストレンジの急死後、このジョン・エリスは、行方をくらましていた。更に、姿を消したジョン・エリスの部屋から、脅迫状の下書きが発見される。

サー・バーソロミュー・ストレンジの死は、臨時の執事として雇われたジョン・エリスと言う人物による仕業なのか?


サー・バーソロミュー・ストレンジの急死を受けて、警察がスティーヴン・バビントン牧師の死体を掘り起こして調べたところ、彼もニコチン中毒で死亡したことが判明したのだった。


(40)マティーニのグラスが載ったトレイ(tray of martinis)



サー・チャールズ・カートライトの自宅において、地元のスティーヴン・バビントン牧師が急死たした際、マティーニのカクテルだった。


(41)実験器具 (laboratory equipment)



スティーヴン・バビントン牧師やサー・バーソロミュー・ストレンジ等の毒殺には、犯人が蒸留装置を使って、薔薇に噴霧するための殺虫剤から抽出(蒸留)したニコチンが使用された。


なお、英語版と米国版では、犯人の犯行動機と結末が異なっている。


<犯行動機>

(英語版)英国における当時の離婚法が影響。

(米国版)犯人の精神疾患による病的な誇大妄想


<結末>

(英語版)犯人は逃亡するが、ポワロは「逮捕と自殺のいずれかを選ぶしかないから、急いで追う必要はない。」と告げる。

(米国版)犯人は「自分は法律を超越した偉大な存在であり、逮捕される筈がない。」と豪語するが、結局のところ、その場で警察に逮捕される。


2026年1月17日土曜日

ウィリアム・ホガース(William Hogarth)- その1

ナショナルギャラリー(National Gallery)において所蔵 / 展示されている
ウィリアム・ホガース作「自画像」(1745年) 
(Portrait of the Painter and his Pug)
<筆者撮影>

英国の TV 会社 ITV 社による制作の下、「Agatha Christie’s Poirot」の第20話(第2シリーズ)かつアガサ・クリスティー生誕100周年記念スペシャルとして、1990年9月16日に放映されたアガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)作「スタイルズ荘の怪事件The Mysterious Affair at Styles → 2023年12月3日 / 12月6日付ブログで紹介済)」(1920年)の TV ドラマ版において、物語の冒頭、第一次世界大戦(1914年ー1918年)中に負傷したアーサー・ヘイスティングス中尉(Lieutenant Arthur Hastings - アガサ・クリスティーの原作では、大尉(Captain)となっている)が彼の旧友であるジョン・キャヴェンディッシュ(John Cavendish)と再会する場面が、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital → 2014年6月14日付ブログで紹介済)の北翼(North Wing → 2025年12月15日 / 12月19日 / 12月21日 / 12月22日付ブログで紹介済)にある「ホガースの階段(Hogarth Staircase → 2025年12月15日付ブログで紹介済)」と呼ばれる吹き抜け階段において撮影されている。


下から「ホガースの階段」と呼ばれる吹き抜け階段を見上げたところ -
アーサー・ヘイスティングス中尉と旧友のジョン・キャヴェンティッシュの2人が
上から降りて来る場面が、この角度で撮影されている。
<筆者撮影>


(1)右側の壁:「善きサマリア人(The Good Samaritan)」(1737年)

サマリア人善意で救命行為を行なっている場面が描かれている。


吹き抜け階段の上から見たウィリアム・ホガース作「善きサマリア人」
<筆者撮影>


(2)左側の壁:「ベテスダの池(The Pool of Bethesda)」(1736年)

万病を治す聖なる池において、病人が傷を癒している場面が描かれている。


吹き抜け階段の上から見たウィリアム・ホガース作「ベテスダの池」
<筆者撮影>


これらの壁画を描いたのは、18世紀の英国画壇を代表する国民的画家のウィリアム・ホガース(William Hogarth:1697年ー1764年)である。


ウィリアム・ホガースは、1697年11月10日、ラテン語学校の教師であるリチャード・ホガース(Richard Hogarth)と母アン・ギボンズ(Anne Gibbons)の長男として、ロンドンのセントバーソロミュー病院の直ぐ近くのバーソロミュークローズ(Bartholomew Close)に出生。

彼の下には、1699年生まれのメアリー(Mary)と1701年生まれのアン(Ann)の妹2人が 居る。


ナショナルギャラリーにおいて所蔵 / 展示されている
ウィリアム・ホガース作「エビ売りの少女 (The Shrimp Girl)
」(1740年ー1745年頃) と
「自画像」(1745年)
<筆者撮影>

成長したウィリアム・ホガースは、当初、レスターフィールズ(Leicester Fields)の銀細工師(engraver)を営むエリス・ガンブル(Ellis Gamble)の弟子として働き始めたが、ロンドン市内の通りにおける人々の生活に興味を持ち、その世相のスケッチも続けた。

同じ頃、父親のリチャード・ホガースは、セントジョンズゲイト(St. John’s Gate)にコーヒーハウス(coffee house)をオープンしたが、経営がうまくいかず、多額の借金を背負った末に、5年間投獄される。これを恥じた息子のウィリアム・ホガースは、父親の投獄のことを決して口ににしなかった。

その後、父親のリチャード・ホガースは1718年に亡くなるが、その前後に、ウィリアム・ホガースは、版画家となる。


ウィリアム・ホガースは、1720年にピーターコート(Peter Court)にあった絵画学校セントマーティンズレーンアカデミー(St. Martin’s Lane Academy)に入学し、1725年にはコヴェントガーデン(Covent Garden)にある別の絵画学校に入り、絵画を学ぶ。


なお、コヴェントガーデンの絵画学校は、英国の画家であるサー・ジェイムズ・ソーンヒル(Sir James Thornhill:1675年ー1734年)が1724年に開いたもので、ジェイムズ・ソーンヒルは、1718年に宮廷画家に選ばれ、1720年にはハノーヴァー朝(House of Hanover)の初代国王であるジョージ1世(George I:1660年-1727年 在位期間:1714年-1727年)からサーの称号を受けている。

サー・ジェイムズ・ソーンヒルが開いた絵画学校に1725年に入学してきたウィリアム・ホガースは、彼の娘であるジェーン・ソーンヒル(Jane Thornhill:1709年頃ー1789年)と駆け落ちをして、サー・ジェイムズ・ソーンヒルの反対にもかかわらず、1729年3月23日に正式に結婚すると言うことが起きている。


その後、ウィリアム・ホガースは、芸術家、美術品コレクターや美術品鑑定家のクラブであるローズ&クラウンクラブ(Rose and Crown Club)のメンバーとなった。


2026年1月16日金曜日

アガサ・クリスティー 2026年オフィシャルカレンダー(Agatha Christie Official Calendar 2026)- その5

2025年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
「アガサ・クリスティー 2026年オフィシャルカレンダー」のうち、
2026年3月のカレンダーに描かれている
エルキュール・ポワロシリーズの長編第2作目「ゴルフ場の殺人」(1923年)-

フランス、南ランスのメルランヴィルにあるジュネヴィエーヴ荘に住む

ポール・ルノーの死体が発見されたゴルフ場が、画面に描かれている


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)の作品を出版している英国の HarperCollinsPublishers 社から、2026年オフィシャルカレンダーが出ているので、前回に引き続き、順番に紹介したい。


2026年カレンダーの場合、カレンダー用に新たに描き起こされたエルキュール・ポワロシリーズのイラストが使用されており、デザインについては、Diahann Sturge-Cambell が、また、イラストに関しては、Mr. Stephen Millership / Central Illustration Agency が担当している。


4番目は、2026年3月のカレンダーに該る「ゴルフ場の殺人(The Murder on the Links)」(1923年)である。


アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第3作目に該り、エルキュール・ポワロシリーズの長編のうち、第2作目に該っている。


1923年のある日、エルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)は、朝食の席で郵便物に目を通していたが、名探偵としての彼の興味を引くものは皆無で、残念ながら、取るに足らない陳腐な依頼ばかりであった。その結果、次から次へと、届いた手紙は、彼によって放り投げられることとなった。


エルキュール・ポワロは、
英国の Orion Publishing Group Ltd. から2023年に発行されている
「エルキュール・ポワロの世界」と言うジグソーパズルの中央に立っている。
<筆者撮影>


その時、ある手紙に、ポワロは手をとめた。それは、フランス、南ランスのメルランヴィル(Merlinville-sur-Mer)にあるジュネヴィエーヴ荘(Villa Genevieve)に住むポール・ルノー(Paul Renauld)からで、「急ぎのお越しを請う!」という内容だった。手紙によると、彼には、命の危険が迫っているようだったが、絶対に明らかにはできない重大な秘密があるため、フランスの地元警察へは行けず、「ベルギー警察に、その人あり。」と言われたポワロに対して、助けを求めてきたのである。


アーサー・ヘイスティングス大尉は、
英国の Orion Publishing Group Ltd. から2023年に発行されている
「エルキュール・ポワロの世界」と言うジグソーパズルの中央に立つ
エルキュール・ポワロの左斜め後ろに居る。

<筆者撮影>


ポール・ルノーからの手紙に興味を覚えたポワロは、急いで出発の準備を整えると、友人で、かつ、相棒でもあるアーサー・ヘイスティングス大尉(Captain Arthur Hastings → 2025年10月12日付ブログで紹介済)を伴い、英仏海峡を渡り、英国(ドーヴァー(Dover))からフランス(カレー(Calais))へと向かった。


翌日、ポワロとヘイスティングス大尉の二人は、メルランヴィルのジュヌヴィエーヴ荘に到着するが、別荘の門のところで、地元警察の巡査によって、行く手を遮られる。

驚いたことに、ジュヌヴィエーヴ荘の主人で、南米で富を築いた富豪であるポール・ルノーは、今朝、既に殺害されていたのである。残念なことに、ポワロは間に合わなかったのだ。


2007年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出ている
アガサ・クリスティー作「ゴルフ場の殺人」のグラフィックノベル版
(→ 2022年11月4日付ブログで紹介済)の表紙

(Cover Design and Illustration by Ms. Nina Tara)-
ポール・ルノーの死体が発見されたゴルフ場に因んで、
ゴルフクラブとゴルフボールがメインに描かれている。
また、右上には、エルキュール・ポワロに対して助けを求める
ポール・ルノーの手紙が加えられている。


ポール・ルノーの妻であるエロイーズ・ルノー(Eloise Renauld)によると、前の晩、二人組の暴漢が夫妻の寝室に侵入して来て、ルノー夫人は、縛り上げられた上に、猿轡(さるぐつわ)をかまされた。そして、彼女の夫(ポール・ルノー)は、下着の上にコートを羽織っただけという格好で、犯人達によって、無理やり戸外へと連れ出された、とのこと。

翌日の早朝、彼女の夫は、短剣で背中を刺されて、ジュネヴィエーヴ荘のすぐ隣りにあるゴルフ場(来月オープン予定)に掘られた墓穴に倒れているのを、ゴルフ場の従業員が発見したのである。二人組の暴漢は、わざわざ、墓穴を掘りながらも、ポール・ルノーの死体を埋めずに、そのまま放置するという非常に不可解な行動をとっていた。


2007年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出ている
アガサ・クリスティー作「ゴルフ場の殺人」のグラフィックノベル版の裏表紙
(Cover Design and Illustration by Ms. Nina Tara)-
ゴルフ場で発見されたポール・ルノーの死体が描かれている。


間に合わなかったものの、英国からフランスまで遥々やって来たポワロは、自らの手で犯人達を見つけ出すことを誓った。幸いなことに、地元警察のリュシアン・ベー署長(Lucien Bex / Commissionary of Police for Merlinville-sur-Mer)は、彼の到着を歓迎してくれたので、早速、ポワロは捜査を開始する。

まもなく、オート予審判事(Monsieur Hautet / Examining Magistrate)による要請に基づき、パリ警察から名刑事としての呼び声が高いジロー刑事(Monsieur Giraud / Detective of the Paris Surete)が現場に派遣されることになり、ポワロとジロー刑事による推理合戦の火蓋が切って落とされることとなった。


2026年1月15日木曜日

ロンドン セントバーソロミュー・ザ・レス教会(The Hospital Church of St. Bartholomew the Less)- その2

セントバーソロミュー・ザ・レス教会内部の礼拝堂(その1)
<筆者撮影>


ロンドンのスミスフィールド(Smithfield)に所在する病院で、ヨーロッパで最も古い歴史を有するセントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital / 正式名:王立セントバーソロミュー病院(The Royal Hospital of St. Bartholomew)/ 略称:バーツ(Barts))の起源は、以下の通り。


セントバーソロミュー病院博物館(St. Bartholomew's Hospital Museum)内にある
病院の歴史に関する説明資料 -
左側が 
セントバーソロミュー修道院(病院)を設立したラヒアで、
右側が彼の夢の中に現れた聖人セントバーソロミュー。
<筆者撮影>


12世紀のイングランド王であるヘンリー1世碩学王(Henry I Beauclerc:1068年頃ー1135年 在位期間:1100年ー1135年)の寵臣ラヒア(Rahere:?ー1144年)は、ローマ巡礼中に、重い病に倒れたが、彼の神への強い祈りが届いたかのように、奇跡的に病から回復し、彼の夢の中に現れたイエス・キリストの使徒の一人である聖人セントバーソロミュー(Saint Bartholomew)のお告げに従って、イングランドに戻った後、1123年、スミスフィールドの地にセントバーソロミュー修道院(Priory of St. Bartholomew - 現在のセントバーソロミュー・ザ・グレイト教会(The Priory Church of St. Bartholomew the Great)とセントバーソロミュー病院の両方を含む)を設立。


セントバーソロミュー・ザ・レス教会の入口
<筆者撮影>


その際、現在のセントバーソロミュー・ザ・レス教会(The Hospital Church of St. Bartholomew the Less)も、同年に建てられている。なお、建設当時、The Chapel of the Holy Cross と呼ばれていた。


ケンブリッジ大学(University of Cambridge)創立800周年を記念して、
英国の児童文学作家 / イラストレーターであるクェンティン・ブレイク
(Quentin Blake:1932年ー)が描いた
ヘンリー8世とキングスカレッジ合唱団の絵葉書
<筆者がケンブリッジのフィッツウィリアム博物館(Fitzwilliam Museum
→ 2024年7月20日 / 7月24日付ブログで紹介済)で購入>


テューダー朝(House of Tudor)の第2代イングランド王であるヘンリー8世(Henry VIII:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年 → 2024年7月26日付ブログで紹介済)は、男の世継ぎ(嫡子)が生まれていない王妃キャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon:1487年ー1536年)との離婚とキャサリン王妃の侍女メアリー・ブーリン(Mary Boleyn:1499年 / 1500年頃ー1543年)の妹(諸説あり)であるアン・ブーリン(Anne Boleyn:1501年頃ー1536年)との結婚を画策して、ローマのカトリック教会と対立し、1534年に国王至上法(首長令)を発布の上、自らを英国国教会(Church of England)の長とするとともに、カトリック教会から英国国教会の分離を行う。


ナショナルポートレートギャラリー(National Portrait Gallery)で販売されている
アン・ブーリンの肖像画の葉書
(Unknown artist / 1535 - 1536年頃 / Oil on panel
543 mm x 416 mm) 


ヘンリー8世が宗教改革の一環として実施した修道院解散(Dissolution of the monasteries:1536年ー1539年)政策に基づき、イングランド国内にあった多くの修道院が解散、そして、財産没収の憂き目に遭った。セントバーソロミュー修道院も例外ではなく、同修道院から分離したセントバーソロミュー病院は、貧民救済病院として生き残る。


ヘンリー8世による修道院解散政策に基づき、セントバーソロミュー修道院の敷地は、英国国教会の小教区として再編されて、セントバーソロミュー病院の敷地内にあったセントバーソロミュー・ザ・レス教会が教区教会(parish church)となった。


セントバーソロミュー・ザ・レス教会の塔と西側の外壁は、15世紀に建てられたもので、今も現存する。


セントバーソロミュー・ザ・レス教会の塔を見上げたところ
<筆者撮影>

1793年に、英国の建築家であるジョージ・ダンス(子)(George Dance the Younger:1741年ー1825年)が八角形の天井を有する礼拝堂を建物内部に建設。



ジョージ・ダンス(子)が住んでいた
ガワーストリート91番地(91 Gower Street)
<筆者撮影>


ガワーストリート91番地の建物外壁には、
ジョージ・ダンス(子)がここに住んでいたことを示すブループラークが掛けられている。
<筆者撮影>


この礼拝堂は木製だったため、直ぐに腐蝕が始まったので、英国の建築家であるトマス・ハードウィック(Thomas Hardwick:1752年ー1829年)が石造りの内装に置き換えた。


セントバーソロミュー・ザ・レス教会内部の礼拝堂(その2)
<筆者撮影>


セントバーソロミュー・ザ・レス教会は、第二次世界大戦(1939年ー1945年)中のロンドン大空襲(The Blitz:1940年ー1941年)により被害を蒙ったが、修復工事を経て、1951年に再オープンを迎えた。

同教会は、再オープン前の1950年1月4日に、グレード II(Grde II listed building)の指定を受けている。


セントバーソロミュー・ザ・レス教会内部の礼拝堂(その3)
<筆者撮影>


2015年6月1日に、セントバーソロミュー・ザ・レス教会は、セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会と統合して、セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会が教区教会となった。その結果、セントバーソロミュー・ザ・レス教会は、現在、教区教会内の Chapel of Ease と言う位置付けになっている。