2015年3月21日土曜日

ロンドン ゴードンスクエア226番地(226 Gordon Square)


サー・アーサー・コナン・ドイル作「独身の貴族(The Noble Bachelor)」(出版社によっては、「花婿失踪事件(A Case of Identity)」との対比から「花嫁失踪事件」と訳しているケースあり)において、1887年10月、ロバート・ウォルシンガム・ド・ヴェア・セント・サイモン卿(Lord Robert Walsingham de Vere St Simon)との結婚式の後、花嫁であるハティー・ドラン(Hatty Doran)が披露宴の席上、気分がすぐれないと言って自室に引き下がり、そのまま姿を消してしまったのである。セント・サイモン卿がベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)のシャーロック・ホームズの元を訪れ、ドラン嬢の行方を捜してほしいと依頼する。

ゴードンスクエアの南西の角に建つ
クライスト・ザ・キング教会(Church of Christ the King)

セント・サイモン卿の説明を一通り聞いただけで、ホームズは直ぐに事件の真相を解き明かしてしまう。そして、ホームズはジョン・ワトスンをベイカーストリート221B に残したまま外出する。その間に、ホームズとワトスンを含めて、5人分の夕食が用意される。ホームズによると、3人の来客があると言う。その一人はセント・サイモン卿、あとの二人はフランシス・ヘイ・モールトン夫妻(Mr and Mrs Francis Hay Moulton)で、なんと、モールトン夫人は行方不明になっていたドラン嬢だったのである。そして、彼女の口から事の顛末が語られるのであった。

ゴードンスクエア内にある中庭入口から撮った中庭内

「私が朝食のテーブルの席について10分も経過しないうちに、道路の反対側にフランク(フランシス・ヘイ・モールトンのこと)が居るのが窓越しに見えました。彼は私に手招きして、それからハイドパーク内へ歩いて行きました。っ私は席を中座し、コート等を着て、彼の後を追いました。知らない女性が、セント・サイモン卿のことについて何か話しながら、私へ近づいて来ました。彼女の話によると、セント・サイモン卿には結婚前にちょっとした秘密があるとのことでしたが、私はなんとか彼女を振り切って、直ぐにフランクに追い付きました。私達は馬車に一緒に乗って、フランクがゴードンスクエアに用意していた家へ向かいました。そして、これが私が何年も待ち望んでいた真の結婚式でした。フランクはアパッチインディアンに捕えられていましたが、なんとか脱出し、サンフランシスコまで来ました。私が彼を死んだものと諦めて、英国へ行ったことを彼はそこで知り、ここまで私の後を追って来たのです。そして、私の2度目の結婚式のまさにその朝、遂に彼は私と再会した訳です。」
「新聞で読んだんです。」と、米国人(フランク)は説明した。「新聞に名前と教会は載っていましたが、彼女(ハティー・ドラン)がどこに住んでいるのかは判りませんでした。」

「ゴードンスクエアガーデン(Gordon Square Garden)」の沿革を示す
中庭内の立て看板

中庭内からゴードンスクエアの西側に建つ
王立哲学協会(The Royal Institute of Philosophy)の建物を望む

'I hadn't been at the table ten minutes before I saw Frank out of the window at the other side of the road. He beckoned to me and then began walking into the park. I slipped out, put on my things, and followed him. Some woman came talking something or other about Lord St Simon to me - seemed to me from the little I heard as if he had a little secret of his own before marriage also - but I managed to get away from her and soon overtook Frank. We got into a cab together, and away we drove to some lodgings he had taken in Gordon Square, and that was my true wedding after all those years of waiting. Frank had been a prisoner among the Apaches, had escaped, came on to 'Frisco, found that I had given him up for dead and had gone to England, followed me there, and had come upon me at last on the very morning of my second wedding.' 
'I saw it in a paper,' explained the American. 'It gave the name and the church but not where the lady lived.'

中庭の北東の角にある Noor Inayat Khan(1914年ー1944年)のメモリアル像 -
第二次世界大戦中、彼女は英国軍に入隊して、
パリでのスパイ活動中にナチス・ドイツ軍に逮捕され、1944年に処刑された。
彼女の死後(1949年)、彼女にはジョージクロス勲章が授与されている。
幼少期、彼女はブルームズベリー地区に住んでいたため、
ここにメモリアル像が設置されたものと思われる。

中庭の西側にあるラビンドラナート・タゴール
(Rabindranath Tagore:1861年―1941年)のメモリアル像 -
インドの詩人・思想家で、1913年にノーベル文学賞を受賞(アジア人初のノーベル賞)。
すぐ近くに王立哲学協会が入居している建物があるため、ここに設置されたものと思われる。

フランシス・ヘイ・モールトンがハティー・ドランを連れて馬車で向かったゴードンスクエア(Gordon Square)は、ロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内にあり、ロンドン大学(University of London)の北側に位置している。ブルームズベリー地区は、19世紀から20世紀にかけて、多くの芸術家や学者等が住む文教地区として発展してきた街である。
ゴードンスクエアは1820年代に開発され、第6代ベッドフォード公爵(6th Duke of Bedford)の2番目の夫人であるレディー・ジョージアーナ・ゴードン(Lady Georgiana Gordon)の名前を採って名付けられた。
ロンドン市内の他のスクエアと同様に、ゴードンスクエアの真ん中にある中庭は、当初、スクエアを囲む建物の住民のみが使用可能であったが、現在はロンドン大学の所有下にあり、一般に開放されている。また、スクエアを囲む建物の多くが、2005年にロンドン大学の所有下に入っている。

広場の東側に建つ建物―ロンドン大学が使用している

フランシス・ヘイ・モールトンが用意した家はゴードンスクエア226番地(物語の終盤、ホームズからワトスンへの説明の中で、番地が特定される)であるが、残念ながら、これは架空の番地で、ゴードンスクエア内には3桁の番地は存在していない。

2015年3月15日日曜日

ロンドン サーペンタイン湖(The Serpentine)


サー・アーサー・コナン・ドイル作「独身の貴族(The Noble Bachelor)」(出版社によっては、「花婿失踪事件(A Case of Identity)」との対比から「花嫁失踪事件」と訳しているケースあり)において、1887年10月、ロバート・ウォルシンガム・ド・ヴェア・セント・サイモン卿(Lord Robert Walsingham de Vere St Simon)との結婚式の後、花嫁であるハティー・ドラン(Hatty Doran)が披露宴の席上、気分がすぐれないと言って自室に引き下がり、そのまま姿を消してしまったのである。セント・サイモン卿がベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)のシャーロック・ホームズの元を訪れ、ドラン嬢の行方を捜してほしいと依頼する。


セント・サイモン卿の説明を一通り聞いただけで、ホームズは直ぐに事件の真相を見抜いてしまう。セント・サイモン卿が帰って、ホームズとジョン・ワトスンが話をしていると、そこにスコットランドヤードのレストレイド警部(Inspector Lestrade)がやって来た。彼の服装は船員風で、手には黒いキャンパスバッグを携えていた。



「それで、どうしたんだい?」と、ホームズは目を輝かせながら尋ねた。「不満気な顔をしているね。」
「本当に困っているんですよ。例のいまいましいセント・サイモン卿の結婚事件のことです。この件は全て手も足も出ないんです。」
「そうなんだ!そりゃ驚いたね。」
「今までに、こんなに難しい事件があったでしょうか?あらゆる手掛かりが私の指の間からこぼれ落ちていくようです。私は一日中この事件にかかりっきりの状態ですよ。」
「君がびしょ濡れになっているのは、そのためかい?」と、ホームズはピーコート(厚地の短い外套)の腕のところに手を置きながら言った。
「ええ、私はずーっとサーペンタイン湖を浚っていたんです。」
「それは一体何のためにだい?」
「もちろん、それはセント・サイモン卿夫人の遺体を捜索するためですよ。」
シャーロック・ホームズは椅子にもたれかかって、心から快活に笑った。
「君はトラファルガースクエアの噴水の水盤をもうさらったのかい?」と、彼は尋ねた。
「何故ですか?どういうことですか?」
「君がセント・サイモン卿夫人の遺体を見つけ出す可能性は、どちらも同じ位ないからさ。」
レストレイド警部は怒りに満ちた視線をホームズに向けた。「思うに、ホームズさん、あなたは全てが判っているみたいですね。」と、彼はうなった。
「セント・サイモン卿から事実関係を聞いたばかりだが、何もかも判ったよ。」
「本当ですか?それで、サーペンタイン湖はこの事件に全く関係ないと、あなたは考えているのですか?」
「関係ないと思っているさ。」



'What's up, then ?' asked Holmes with a twinkle in his eyes. 'You look dissatisfied.'
'And I feel dissatisfied. It is this infernal St Simon marriage case. I can make neither head nor tail of the business.'
'Really ! You surprise me.'
'Who ever heard of such a mixed affair ? Every clue seems to slip through my fingers. I have been at work upon it all day.'
'And very wet it seems to have made you,' said Holmes laying his hand upon the arm of the pea-jacket.
'Yes, I have been dragging the Serpentine.'
'In heaven's name, what for ?'
'In search of the body of Lady St Simon.'
Sherlock Holmes leaned back in his chair and laughed heartily.
'Have you dragged the basin of Trafalgar Square fountain ?' he asked.
'Why ? What do you mean ?'
'Because you have just as good a chance of finding this lady in the one as in the other.'
Lestrade shot an angry glance at my companion. 'I suppose you know all about it,' he snarled.
'Well, I have only just heard the facts, but my mind is made up.'
'Oh, indeed ! Then you think that the Serpentine plays no part in the matter ?'
'I think it very unlikely.'



レストレイド警部がセント・サイモン卿夫人の遺体を捜索するためにさらっていたサーペンタイン湖(The Serpentine)は、ハイドパーク(Hyde Park)とケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens)を二つに分けている湖である。
ハノーヴァー朝のジョージ2世(George Ⅱ:1683年ー1760年)の妃であるキャロライン王妃(Queen Caroline:1683年ー1717年)は、学問や芸術に加え、造園にも造詣が深く、彼女の指示でハイドパーク内にサーペンタイン湖が設けられた。1730年に工事が始まり、湖が完成したのは、1733年である。
サーペンタイン湖ができるまでは、公園内一帯をハイドパークと呼んでいたが、湖が設けられたことに伴い、公園の東側をハイドパークに、そして、公園の西側をケンジントンガーデンズとして正式に分けるようになった。また、1826年に湖の途中にサーペンタイン橋(Serpentine Bridge)が架けられたことに伴い、北側の湖をロングウォーター(Long Water)、そして、南側の湖をサーペンタイン湖として分けて呼ぶようになった。


2012年に開催されたロンドンオリンピックにおいて、サーペンタイン湖は男女トライアスロン(水泳)の会場として使用された。
夏になると、サーペンタイン湖上には多くのボートがくり出して、ロンドンの夏の風物詩の一つとなっている。
1864年に発足したサーペンタイン水泳クラブ(Serpentine Swimming Club)があり、毎年クリスマス(12月25日)の早朝、寒中水泳大会が行われている。この大会は、「ピーターパンカップ(Peter Pan Cup)」と呼ばれている。

2015年3月14日土曜日

ロンドン ハイドパーク(Hyde Park)

ヴィクトリアゲート近くにあるハイドパーク内の案内板ー
案内板の左上にみえる赤い丸が現在位置を示している

サー・アーサー・コナン・ドイル作「独身の貴族(The Noble Bachelor)」(出版社によっては、「花婿失踪事件(A Case of Identity)」との対比から「花嫁失踪事件」と訳しているケースあり)において、1887年10月、ロバート・ウォルシンガム・ド・ヴェア・セント・サイモン卿(Lord Robert Walsingham de Vere St Simon)との結婚式の後、花嫁であるハティー・ドラン(Hatty Doran)が披露宴の席上、気分がすぐれないと言って自室に引き下がり、そのまま姿を消してしまったのである。セント・サイモン卿がベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)のシャーロック・ホームズの元を訪れ、ドラン嬢の行方を捜してほしいと依頼する。

奥にみえるのが、サーペンタイン湖

緑が芽吹き始め、春の到来を告げる

そして、セント・サイモン卿からドラン嬢の失踪直前の様子が語られる。また、ドラン嬢の父であるアロイシウス・ドラン氏(Mr Aloysius Doran)の家に突然訪ねて来て、執事と従僕に押し返されたフローラ・ミラー(Flora Millar:バレエダンサー)と恋愛関係にあったことを、セント・サイモン卿は認める。

ハイドパーク内の樹々はまだ葉をつけておらず、
冬の状態が続いている

「それでは、あなたの奥様は、結婚式に行く前よりも楽しくなさそうな御様子で、式から戻って来たということですね。奥様の父上の家かに戻って来た時、奥様は何をされましたか?」
「妻がメイドと話をしているのを見ました。」
(中略)
「メイドとの話が終わった後、奥様はどうされましたか?」
「妻は朝食が用意されている部屋へ歩いて行きました。」
「あなたの腕につかまってですか?」
「いいえ、一人です。そういうちょっとしたことに関して、妻は独立心が強いのです。それから。私達が席についてから10分程経った後、妻は急に立ち上がり、謝罪の言葉をつぶやいて、部屋を出て行きました。その後、妻は戻って来ませんでした。」
「しかし、メイドのアリスによると、奥様は部屋に戻った後、結婚式の衣装の上に長いアルスターコートを羽織り、そして帽子をかぶって外へ出て行かれたそうですね。」
「その通りです。そして、その後、妻はフローラ・ミラーと一緒に、ハイドパークへ歩いて入って行くのを目撃されています。フローラ・ミラーは現在拘留中で、その朝ドラン氏の家で既に一悶着を起こしていました。」

ハイドパーク内では、乗馬の練習が行われている

'Lady St Simon, then returned from the wedding in a less cheerful frame of mind than she had gone to it. What did she do on re-entering her father's house ?'
'I saw her in conversation with her maid.'
(中略)
'And what did your wife do when she finished speaking to her maid ?'
'She walked into the breakfast-room.'
'On your arm ?'
'No, alone. She was a very independent in little matters like that. Then, after we had sat down for ten minutes or so, she rose hurriedly, muttered sone words of apology, and left the room. She never came back.'
'But this maid, Alice, as I understand, deposes that she went to her room, covered her bride's dress with a long ulster, put on a bonnet, and went out.'
'Quite so. And she was afterwards seen walking into Hyde Park in company with Flora Millar, a woman who is now in custody, and who had already made a disturbance at Mr Doran's house that morning.'

冬の太陽のまだ弱い光の中に立つ樹々

セント・サイモン卿と結婚したハティー・ドランが、彼と恋愛関係にあったフローラ・ミラーと連れ立って入って行ったハイドパーク(Hyde Park)は、ロンドン西部のマーブルアーチ(Marble Arch)とノッティングヒル(Notting Hill)を結ぶベイズウォーターロード(Bayswater Road)の南側に広がる広大な公園である。厳密には、別の公園で隣にあるケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens)を含めると、ハイドパークは全体で約2.5㎢(ハイドパーク:約1.4㎢+ケンジントンガーデンズ:約1.1㎢)の広さを誇る。

冬の寒空の下、地面は蒼々としつつある

ハイドパーク一帯は、11世紀頃からウェストミンスター修道院(Westminster Abbey:現ウェストミンスター寺院)が所有していたが、1536年にチューダー朝のヘンリー8世(Henry Ⅷ:1491年ー1547年)が修道院解散令でこの土地を召し上げた以降、英国王家の狩猟場として使用された。公園として一般に開放されるようになったのは、ステュアート朝のチャールズ1世(Charles Ⅰ:1600年ー1649年)治世の1637年のことである。隣接するケンジントンガーデンズは、当時はまだハイドパークの一部であった。
ハノーヴァー朝のジョージ2世(George Ⅱ:1683年ー1760年)の妃のキャロライン王妃(Queen Caroline:1683年ー1737年)は、国情に疎く、思慮にも欠けると言われた国王の助言役となり、当時の首相ロバート・ウォルポール(Robert Walpole:1676年ー1745年)と連携して、国王に代わり、安定した統治を行ったことで知られている。彼女は、学問や芸術に加えて、造園にも造詣が深く、彼女の指示で公園内にサーペンタイン湖(The Serpentine)が設けられた。サーペンタイン湖が完成したのは、1733年である。サーペンタイン湖が設けられたことに伴い、公園の東側はハイドパークに、そして、公園の西側はケンジントンガーデンズとして、正式に分けられることとなった。また、1826年に湖の途中に橋が架けられたことに伴い、北側の湖をロングウォーター(The Long Water)に、そして、南側の湖をサーペンタイン湖として分けて呼ばれるようになった。
1851年にハイドパークは万国博覧会(The Great Exhibition)の会場となり、公園の南側にジョーゼフ・パクストン(Joseph Paxton)の設計によるクリスタルパレス(Crystal Palace)が建設された。万国博覧会終了後、クリスタルパレスが公園内に残ることを一般大衆が望まなかったため、パクストンは資金を募り、パレスをロンドン南部へ移設するという憂き目をみた。

ヴィクトリアゲートの柱

ヴィクトリアゲートの上にある像

手前にみえるのが、ハイドパーク内を南北に縦断している
ウェストキャレッジドライブ

現在、地下鉄のランカスターゲート駅(Lancaster Gate Tube Station)近くにあるヴィクトリアゲート(Victoria Gate)から公園内へ車で乗り入れることが可能で、ウェストキャレッジドライブ(West Carriage Drive)を通って、公園の北側から南側へと公園を縦断することができる。

2015年3月8日日曜日

ロンドン クレスウェルプレイス22番地(22 Cresswell Place)

クレスウェルプレイス22番地の正面全景

最初の夫アーチボルド・クリスティー(Archibald Christie:1889年ー1962年)の浮気が原因で、1928年に彼と離婚したアガサ・クリスティーは、翌年の1929年にサウスケンジントン地区(South Kensington)のクレスウェルプレイス22番地(22 Cresswell Place)の家を購入し、娘のロザリンドと秘書で友人のカーロ・フィッシャーと一緒にそこへ引っ越した。


クレスウェルプレイス22番地の最寄駅は、サークルライン(Circle Line)、ディストリクトライン(District Line)とピカデリーライン(Piccadilly Line)が通る地下鉄のサウスケンジントン駅(South Kensington Tube Station)とグロースターロード駅(Gloucester Road Tube Station)の2駅であるが、サウスケンジントン駅から南西へ延びる大通りオールドブロンプトンロード(Old Brompton Road)を進んで行った方が判り易いかと思う。

プライオリーウォーク側からみたクレスウェルプレイス
―クレスウェルプレイス22番地は、
画面の右手中央辺りに建っている

オールドブロンプトンロードをしばらく行くと、進行方向の左手にクレスウェルガーデンズ(Cresswell Gardens)という細い通りがあるので、この通りに入る。一見行き止まりの路地と思えるが、クレスウェルガーデンズは左へ折れ曲がっていて、更に進むと、クレスウェルプレイスという石畳の直線道路になる。この道をずーっと進んで行くと、クレスウェルプレイスがプライオリーウォーク(Priory Walk)に突き当たる少し手前の左手に、クレスウェルプレイス22番地は建っている。

プライオリーウォーク沿いに建つフラット群
―建物の外壁が薄紫色、ピンク色、水色や黄色等で
カラフルに塗られている
プライオリーウォークと交差した角から
クレスウェルプレイスを望む

車でクレスウェルプレイス22番地へ行くには、サウスケンジントン駅からオールドブロンプトンロードを行ってもよいし、もう一本テムズ河(River Thames)寄りの大通りフルハムロード(Fulham Road)を行って、少し北上してもかまわない。
オールドブロンプトンロードもフルハムロードもバスが通る大通りなので、週末でも賑やかであるが、クレスウェルプレイスは両大通りからかなり奥まったところにあるので、大通りの喧騒はここまで届かず、人通りもほとんどないため、非常に静かでひっそりとしている。

クレスウェルプレイス22番地の1階部分近景
―植栽がうまい具合に配置されている

実際、クレスウェルプレイス22番地は3階建てのこじんまりした家で、アガサ・クリスティーが住んでいたとは思えない感じである。1階部分は白いペンキで塗られた壁で、2階部分は魚の鱗状に赤いスレートが貼られ、3階部分は赤いレンガとなっている。この建物は元々厩舎として使用されており、アガサ・クリスティーはこれを大幅に改装して住居に変えたとのこと。

「アガサ・クリスティーがここに住んでいた」ことを示す
非公認のブループラーク

緑色に塗られた玄関ドアの右上の壁には、「アガサ・クリスティーがここに住んでいた」ことを示すブループラーク(Blue Plague)が掛けられているが、これはイングリッシュヘリテージ(English Heritage)が管理している公認のものではなく、非公認のものである。公認のブループラークは、以前に紹介した「シェフィールドテラス58番地」の家に掛けられている。公認のブループラークは、一人の人物について一箇所だけ架けるという決まりがあるため、クレスウェルプレイス22番地よりも見栄えがよいシェフィールドテラス58番地が、イングリッシュヘリテージによって選ばれたものと思われる。

クレスウェルプレイスは細い道のため、
冬場は快晴の日でも、
陽は1階部分までは届かない

アガサ・クリスティーは、中東旅行の際に知り合った考古学者のサー・マックス・エドガー・ルシアン・マローワン(Sir Max Edgar Lucien Mallowan:1904年ー1978年)と1930年に再婚して、ここクレスウェルプレイス22番地で生活を始めている。ただ、1934年に二人は地下鉄ノッティングヒルゲート駅(Notthinghill Gate Tube Station)の近くにあるシェフィールドテラス58番地を購入して、そちらに生活の居を移してしまったが、これも前に紹介したチェルシー地区(Chelsea)にあるスワンコート(Swan Court)のフラットと同様に、クレスウェルプレイス22番地についても、アガサ・クリスティーは亡くなる1976年まで手放さなかったそうである。

2015年3月7日土曜日

ロンドン ランカスターゲート(Lancaster Gate)

ベイズウォーターロード側から見たランカスターゲート

サー・アーサー・コナン・ドイル作「独身の貴族(The Noble Bachelor)」(出版社によっては、「花婿失踪事件(A Case of Identity)」との対比から「花嫁失踪事件」と訳しているケースあり)において、1887年10月、ロバート・ウォルシンガム・ド・ヴェア・セント・サイモン卿(Lord Robert Walsingham de Vere St Simon)との結婚式の後、花嫁であるハティー・ドラン(Hatty Doran)が披露宴の席上、気分がすぐれないと言って自室に引き下がり、そのまま姿を消してしまったのである。セント・サイモン卿がベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)のシャーロック・ホームズの元を訪れ、ドラン嬢の行方を捜してほしいと依頼する。


セント・サイモン卿の来訪に先立ち、ホームズの指示を受け、新聞の山の中から本件に関する記事を探し出して、ホームズに読んで聞かせるジョン・ワトスンの作業はまだ続いていた。ワトスンは、昨日の朝刊に単独記事として掲載されているものを見つけた。見出しは、「上流階級の結婚式で起こった奇妙な出来事("Singular Occurrence at Fashionable Wedding")」。

ランカスターゲートの広場を囲む高級住宅街

ハノーヴァースクエアのセントジョージ教会で執り行われた結婚式は非常に内輪のもので、式への出席者は以下の通り。花嫁の父であるアロイシウス・ドラン氏、バルモラル公爵夫人、バックウォーター卿、花婿の弟であるユースタス卿と妹であるレディー・クララ・セント・サイモン、そして、レディー・アリシア・ウィッティントンの6名だった。結婚式の後、一行はランカスターゲートにあるアロイシウス・ドラン氏の家へと移動した。そこには朝食が用意されていた。その際、名前は明らかにされていないが、一人の女性によってちょっとしたトラブルが発生したようである。彼女はセント・サイモン卿に話があると主張して、一行に続いて家に無理矢理押し入ろうとしたのだ。長い間の押し問答の末、彼女は執事と従僕によりやっとのことで押し返されたのである。

物語とは異なり、夕闇が迫るランカスターゲート

The ceremony, which was performed at St George's, Hanover Square, was a very quiet one, no one being present save the farther of the bride, Mr Aloysius Doran, the Duchess of Balmoral, Lord Backwater, Lord Eustace and Lady Clara St Simon (the younger brother and sister of the bridegroom) and Lady Alicia Whittington. The whole party proceeded afterwards to the house of Mr Aloysius Doran, at Lancaster Gate, where breakfast had been prepared. IT appears that some little trouble was caused by a woman, whose name has not been ascertained, who endeavoured to force her way into the house after the bridal party, alleging that she had some claim upon Lord St Simon. It was only after a painful and prolonged scene that she was ejected by the butler and the frontman. …

この間に花嫁であるハティー・ドランは席を中座して、そのまま行方が判らなくなったのであった。

ケンジントンガーデンズの入口ランカスターゲート

花嫁の父のアロイシウス・ドランの家があったランカスターゲート(Lancaster Gate)は、ロンドンのベイズウォーター地区(Bayswater)内にあり、ハイドパーク(Hyde Park)とケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens)の北側に位置している。
真ん中にある大きな広場と教会を囲むように建つ高級住宅街がランカスターゲートの大きな特徴である。当初、周囲の建物はアッパーハイドパークガーデンズ(Upper Hyde Park Gardens)として知られ、ランカスターゲートと呼ばれていたのは、真ん中にある広場のみであった。19世紀中頃にこの一帯が開発された際に、ベイズウォーターロード(Bayswater Road)をはさんで反対側にあるケンジントンガーデンズへの入口ランカスターゲートの名前を採って、この一帯がそう呼ばれるようになった。

尖塔を除いて、教会からフラットに生まれ変わったスパイアーハウス

真ん中の広場内にある教会は「ランカスターゲートのキリスト教会(Christ Church, Lancaster Gate)」として知られ、ロンドンでも有名な教会の一つであったが、屋根に腐食が見つかったため、1997年に尖塔(Spire)を残して取り壊されてしまった。尖塔以外の部分は建替えられて、フラットとして生まれ変わり、現在は「スパイアーハウス(Spire House)」と呼ばれている。

広場に面して建つホテル「コロンビア(Columbia)」

また、広場を取り囲む建物の多くは引き続き高級住宅街のままであるが、その他は大使館(コスタリカ大使館:Embassy of Costa Rica)、オフィスやホテル等として使用されている。

浮き島の上に建つホテル「ランカスター・ロンドン」

地下鉄の最寄駅は、セントラルライン(Central Line)が通るランカスターゲート駅(Lancaster Gate Tube Station)であるが、マーブルアーチ(Marble Arch)方面へ、つまり、東側へ少し戻ったところにある。なお、ランカスターゲート駅の入口は、周回道路で囲まれた浮き島のようなところにあり、その上には「ランカスター・ロンドン(Lancaster London)」というホテルが高い聳え建っている。ここからシティーへ地下鉄一本で行けることもあって、日本からの出張者にもよく使われている。

2015年3月1日日曜日

ロンドン スワンコート(Swan Court)

チェルシーマナーストリートに面したスワンコートの正面入口脇にある白鳥のレリーフ

スワンコート(Swan Court)は、アガサ・クリスティーがロンドンで最後に購入した一室があるチェルシー地区(Chelsea)のフラットである。地下鉄サークルライン(Circle Line)とディストリクトライン(District Line)が通るスローンスクエア駅(Sloane Square Tube Station)から南西へ延びるキングスロード(King's Road)を下り、通りの中間辺りでテムズ河(River Thames)方面、つまり、南側へ曲がって少し行ったところに、スワンコートは建っている。スワンコートは、キングスコートに垂直に交差するフラッドストリート(Flood Street)とチェルシーマナーストリート(Chelsea Manor Street)の2本の通りに挟まれている。建物の正面入口はチェルシーマナーストリートに面している側で、フラッドストリートに面している側は裏口になっていて、建物の住民以外は通り抜け不可となっている。

スワンコートの建物正面

コの字型のスワンコートに囲まれた中庭

スワンコートの一室(483号室)をアガサ・クリスティーが購入したのは、第二次世界大戦(1939年ー1945年)が終わった後の1948年で、彼女が1976年に亡くなるまで所有していた、とのこと。

スワンコートの建物正面(右側)

スワンコートの建物正面(左側)

スワンコートは9階建てで、最上階はペントハウスになっている模様。スワンコートの周囲は普通の住宅街で、これに匹敵する高さを誇る建物がないため、スワンコートは周りを圧倒するように建っている。建物はコの字型で、中央に中庭がある。また、正面入口と裏口の門の両側には、白鳥のレリーフが「スワンコート」という名前と一緒に埋め込まれている。どのレリーフもやや薄汚れていたり、ひびがはいっていたりして、時代の流れを感じる。ただ、もう一方では、メインテナンスが行き届いておらず、残念ながら、スワンコートという建物自体のグレードを下げているという思いもある。スワンコートを訪れたのは、ある土曜日の夕方だったが、スワンコートは中庭を含めてひっそりしており、人が住んでいる雰囲気があまりしない。

フラッドストリートに面した
スワンコートの裏口脇にある白鳥のレリーフ