英国では、「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1893年4月号に、また、米国では、「ハーパーズ ウィークリー(Harper’s Weekly)」の1893年4月15日号に掲載された短編「グロリア・スコット号事件(The Gloria Scott)」(シャーロック・ホームズシリーズの56ある短編小説のうち、17番目に発表)において、作者であるサー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)は、(1)事件が発生した年月と(2)ホームズがジョン・H・ワトスンに対して、事件のことを話した年月について、明確には記述していない。
(1)事件が発生した年月
事件自体は、ホームズが大学に在籍していた際に起きているが、識者の間では、1872年から1876年までの諸説が存在している。
英国国教会の牧師、考古学者、民俗学者で、聖書学者でもあったセイバイン・ベアリング=グールド(Sabine Baring-Gould:1834年ー1924年)の孫で、有名なシャーロキアンのウィリアム・ステュアート・ベアリング=グールド(William Stuart Baring-Gould:1913年ー1967年)が1955年に発表した「詳注版 シャーロック・ホームズ全集(The Chronological Holmes)」では、聖典60編(長編4作+短編56作)の事件が発生年月順に並べられている。その中で、ホームズがノーフォーク州(Norfolk)にあるトレヴァー氏(Mr. Trevor)の屋敷に滞在したのは、「1874年7月12日(日)ー同年8月4日(火)」の間で、一旦、ロンドンへと戻ったホームズが、友人のヴィクター・トレヴァー(Victor Trevor)からの電報を受け取って、ノーフォーク州に駆け付けたのは、「1874年9月22日(火)」と言う説を唱えている。日本等で出版されているホームズ関連のハンドブックや読本は、概ね、グールド氏の説に倣っている。
(2)ホームズがワトスンに対して、事件のことを話した年月
コナン・ドイル自身は、原作において、「ある冬の夜(one winter’s night)」と言及しているだけであるが、これについて、ウィリアム・ステュアート・ベアリング=グールドは、「1887年から1888年にかけての冬」という説を唱えている。
また、ホームズがワトスンに事件のことを話すことになった理由に関しても、コナン・ドイル自身は、原作において、全く言及していないが、ウィリアム・ステュアート・ベアリング=グールドは、「ホームズが、最初の妻を亡くして落ち込んでいるワトスンを慰めるため」と推測している。
「ストランドマガジン」の1893年4月号 に掲載された コナン・ドイル作「グロリア・スコット号事件」の挿絵(その6) <シドニー・エドワード・パジェット(Sidney Edward Paget:1860年 - 1908年)によるイラスト> - 沈没したグロリア・スコット号から脱出した水夫のハドスンを ジェイムズ・アーミティジ(後のトレヴァー氏)達が救助する場面が描かれている。 |
これについては、トレヴァー氏は息子のヴィクターに宛てた告白文の中で、「クリミア戦争が一番激しかった1855年(It was the year 1855, when the Crimean war was at its height)」と明記されている。
一方で、トレヴァー氏(本当の名前は、ジェイムズ・アーミティジ(James Armitage))が、賭け事での負けが込んで、勤め先の銀行のお金を横領して、逮捕されたのが、「今から30年前(the laws were more harshly administered thirty years ago than now, and on my twenty-third birthday I found myself chained as a felon with thirty-seven other convicts in the ’tween-decks of the bark Gloria Scott, bound for Australia.)」とも言及している。
また、ホームズがノーフォーク州にあるトレヴァー氏の屋敷に滞在していた際に、トレヴァー氏の元を訪れた水夫のハドスン(Hudson)が、トレヴァー氏に対して、「30年ぶり(it’s thirty ear and more since I saw you last.)」とも言っている。
単純に考えると、事件が発生したのは、1855年から30年後の1885年となるが、1881年3月の時点で、ホームズとワトスンは既に知り合って、「緋色の研究(A Study in Scarlt)」事件を解決しているので、整合性が合わないことになる。
そのため、ウィリアム・ステュアート・ベアリング=グールドは、1855年当時、オーストラリアへの流刑が既に廃止されているという指摘等を紹介した上で、「1845年」という説を唱えている。
英国の囚人は、当初、米国大陸へと送られていたが、米国の独立(1776年)に伴い、1788年からオーストラリア大陸へと送られるようになった。
資料によると、オーストラリア大陸への流刑が終了したのが、
・ニューサウスウェールズ(New South Wales):1851年
・タスマニア島(Tasmania):1853年
・西オーストラリア(West Australia):1868年
となっているので、ウィリアム・ステュアート・ベアリング=グールドの説は、必ずしも、完全ではないと言える。
グロリア・スコット号内で起きた囚人の反乱にかかる記述について、英国版と米国版では、以下のような違いがある。
具体的に言うと、グロリア・スコット号内で囚人の反乱を主導したジャック・プレンダーガスト(Jack Prendergast)の相棒であるウィルスン偽牧師(Wilson, the sham chaplain)が、船長室で船長を殺害した場面である。
<英国版>
He lay with his head on the chart of the Atlantic which was pinned upon the table.
(船長は、テーブルにピンで留められた大西洋の地図の上に、頭をうずめて、倒れていた。)
「ストランドマガジン」の1893年4月号 に掲載された コナン・ドイル作「グロリア・スコット号事件」の挿絵(その7) <シドニー・エドワード・パジェット(Sidney Edward Paget:1860年 - 1908年)によるイラスト> - グロリア・スコット号内で囚人の反乱が発生し、 ジャック・アーミティジの相棒であるウィルスン偽牧師が、船長室で船長を殺害した場面が描かれている。 |
He lay with his brains smeared over the chart of the Atlantic which was pinned upon the table.
(船長は、テーブルにピンで留められた大西洋の地図の上に、脳味噌をぶちまけて、倒れていた。)
「ハーパーズ ウィークリー」の1893年4月15日号 に掲載された コナン・ドイル作「グロリア・スコット号事件」の挿絵 - グロリア・スコット号内で囚人の反乱が発生し、 ジャック・アーミティジの相棒であるウィルスン偽牧師が、 船長室で船長を殺害した場面が描かれている。 挿絵では、船長が床の上に倒れており、 原作の文章とは合致していないと言える。 |
識者の間では、英国版と米国版のどちらが、作者のコナン・ドイルによるオリジナルなのか、未だに論争中である。
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