大英図書館(British Library)が発行する British Library Crime Classics の一つに加えられている メイヴィス・ドリエル・ヘイ作「地下鉄の殺人」の表紙 |
「地下鉄の殺人」の舞台となるハムステッド地区の地図 |
ロンドンの北西部ハムステッド地区(Hampstead)内に建つ「ザ・フランプトン・ホテル(The Frampton Hotel)」というフラットでは、いつも通りの朝を迎えていた。
住民の多くは、出勤や通学等のため、フラットを出て北上し、ロスリンヒル通り(Rosslyn Hill)に出ると、左折して、ハムステッドハイストリート(Hampstead High Street)を上がり、ノーザンライン(Northern Line)が通る地下鉄ハムステッド駅(Hampstead Tube Station)へと向かった。
住民の多くがフラットから出払った後、年輩の独身女性であるユーフェミア・ポングルトン(Euphemia Pongleton)は、犬を連れ、フラットからロスリンヒル通りへと出ると、右折して、地下鉄ハムステッド駅ではなく、地下鉄ベルサイズパーク駅(Belsize Park Tube Station)方面へと向かった。
彼女は、1921年に亡くなった兄のジェフリー・ポングルトン(Geoffret Pongleton)から遺産を相続して、悠々自適の生活を送っていた。ただ、彼女は、短気な性格だったため、フラット内の住民には、あまり快く思われてはいなかった。
ユーフェミア・ポングルトンが考察された 地下鉄ベルサイズパーク駅の構内図 |
その数時間後、ユーフェミア・ポングルトンは、地下鉄ベルサイズパーク駅の構内において、殺害されているのが見つかった。駅の改札口からホームへと降りる階段の途中で、犬のリード紐を使って、絞殺されていたのである。
彼女には、甥のべジル(Basil)と従姪のベイル(Beryl)がおり、彼らには、彼女の遺産を相続できる資格があったため、彼らは容疑者として疑われることとなった。
一方、フラットの住民達は、彼女を好いてはいなかったが、事件の連絡を受けて、彼女の殺害犯を見つけるべく、彼ら独自の捜査を始めるのであった。
作者のメイヴィス・ドリエル・ヘイは、1913年から1916年にかけて、オックスフォード(Oxford)内にあるセント・ヒルダ・カレッジ(St. Hilda’s College)で学んだ。
英国の地方の産業や工芸品に興味を抱いた彼女は、カレッジ卒業後、カナダ系の裕福な家系出身であるヘレン・エリザベス・フィッツランドルフ(Helen Elizabeth Fitzrandolph)と一緒に、オックスフォード大学のサポートを受けて、様々な共同研究や合作を行った。
これが縁となり、メイヴィス・ドリエル・兵は、1929年、ヘレン・エリザベス・フィッツランドルフの弟であるアーチボルド・メンジス・フィッツランドルフ(Archibald Menzies Fitzrandolph:1896年ー1943年)と結婚した。
結婚後、メイヴィス・ドリエル・ヘイは、以下の推理小説3作を発表。
(1)「地下鉄の殺人(Murder Underground)」(1935年)
(2)「チャーウェル川の死(Death on the Cherwell)」(1935年)
(3)「サンタクロースの殺人(The Santa Klaus Murder)」(1936年)
彼女の処女作である「地下鉄の殺人」は、アガサ・クリスティーと並ぶ英国の女性推理作家で、貴族探偵のピーター・デス・ブリードン・ウィムジー卿(Lord Peter Death Bredon Wimsey)シリーズ等で知られるドロシー・L・セイヤーズ(Dorothy Leigh Sayers:1893年ー1957年)によって、高く評価されている。
第二次世界大戦(1939年ー1945年)が勃発すると、夫のアーチボルドは英国空軍に入隊するも、1943年11月11日、飛行中の事故により死亡。不幸なことに、メイヴィス・ドリエル・ヘイは、兄弟の一人を第一次世界大戦(1914年ー1918年)中の1916年に、また、別の兄弟を第二次世界大戦中の1940年に、既に亡くしていた。
そのためか、第二次世界大戦後、彼女は、殺人等を扱う推理小説の世界から離れて、元々興味を抱いていた工芸品、特にキルティングにかかる執筆の世界へと戻り、1979年8月26日、85歳の生涯を閉じたのである。
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