米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1939年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第11作目に該る「テニスコートの殺人」(The Problem of the Wire Cage→2018年8月12日 / 8月19日付ブログで紹介済)において、フランク・ドランス(Frank Dorrance)の絞殺死体が発見されたテニスコートがあるニコラス・ヤング邸は、ロンドン北西部郊外の高級住宅街ハムステッド地区(Hampstead→2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるという設定になっているが、ハムステッド地区内には、フランス生まれの英国の風刺漫画家で、小説家でもあったジョージ・ルイ・パルメラ・ビュッソン・デュ・モーリエ(George Louis Palmella Busson du Maurier:1834年ー1896年)が住んでいた家が所在している。
ノーザンライン(Northern Line)が停まる地下鉄ハムステッド駅(Hampstead Tube Station)の改札口を出ると、ジュビリーライン(Jubilee Line)が停まるスイスコテージ駅(Swiss Cottage Tube Station)からハムステッドヒース(Hampstead Heath→2015年4月25日付ブログで紹介済)へと北上してきたヒースストリート(Heath Street)が、目の前を通過している。
このヒースストリートを横切り、フログナルライズ(Frognal Rise)の登り坂を上がって行くと、進行方向右手にハムステッドグローヴ(Hampstead Grove)が見えてくるので、そこで右折し、そして、少し進むと、進行方向左手に、フェントンハウス(Fenton House→2019年6月8日 / 6月9日付ブログで紹介済)が建っている。そして、フェントンハウスの反対側のハムステッドグローヴ28番地(28 Hampstead Grove)に、ニューグローヴハウス(New Grove House)という名の家があり、ジョージ・デュ・モーリエは、1874年から1895年までの間、ここに住んでいたのである。
ジョージ・デュ・モーリエは、1834年3月6日、ルイ・マスリン・ビュッソン・デュ・モーリエ(Louis-Mathurin Busson du Maurier)を父に、そして、エレン・クラーク(Ellen Clarke)を母にして、パリに出生。
ジョージ・デュ・モーリエは、当初、パリで美術を学んでいたが、その後、ベルギーのアントワープへ移った。不幸なことに、アントワープ時代に、彼は左眼の視力を失ってしまう。そのため、ドイツのデュッセルドルフの眼科医に掛かっていたところ、そこで彼は将来の妻であるエマ・ワイトウィック(Emma Wightwick)に出会う。
エマ・ワイトウィックの家族がロンドンに居住していたため、ジョージ・デュ・モーリエもロンドンへと居住を移す。1851年に、ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン(University College London→2015年8月16日付ブログで紹介済)において、彼は化学を専攻していたことが記録されている。
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