ジョージ・ルイ・パルメラ・ビュッソン・デュ・モーリエ(George Louis Palmella Busson du Maurier:1834年ー1896年)は、1865年に英国の週刊風刺漫画雑誌「パンチ(Punch)」のスタッフとなり、一週間に2枚の風刺漫画を描くようになった。彼は、当時のヴィクトリア朝社会、特に、資本家階級や英国内で存在感を増していた中産階級を風刺の対象として、漫画にすることが多かった。
ジョージ・デュ・モーリエは、雑誌「パンチ」用に白黒風刺漫画を描く他に、「ハーパーズ(Harper’s)」、「ザ・グラフィック(The Graphic)」、「ジ・イラストレイテッド・タイムズ(The Illstrated Times)」や「ザ・コーンヒル・マガジン(The Cornhill Magazine)」等の定期刊行物にも、イラストを描いたりした。
また、彼は、英語での出版物として、初めて出版された探偵小説と考えられているチャールズ・ウォーレン・アダムズ(Charles Warren Adams:1833年ー1903年)による連載小説「ノッティングヒルの謎(The Notting Hill Mystery)」の挿絵等も担当した。
ジョージ・デュ・モーリエが挿絵を担当した チャールズ・ウォーレン・アダムズ作「ノッティングヒルの謎」の一場面 |
視力の衰えのため、ジョージ・デュ・モーリエは、1891年に雑誌「パンチ」での仕事を減らして、ハムステッドの自宅での仕事へと生活様式を変える。そして、彼は、小説を3作執筆している。
第1作目の「ピーター・イベットスン(Peter Ibbetson)」は、程々の成功を納めて、後に舞台劇や映画等になっている。
第1作目の「ピーター・イベットスン(Peter Ibbetson)」は、程々の成功を納めて、後に舞台劇や映画等になっている。
第2作目の「トリルビー(Trilby)」は、1894年に出版されたゴシックホラー小説で、絵のモデルをしている貧しいトリルビー・オウ・ファレル(Trilby O’Ferrall)が、邪悪な音楽の天才であるスヴェンガリ(Svengali)の呪いによって、歌姫に変身する物語は、当時大評判になり、石鹸、歌、踊り、歯磨き粉、そして、米国フロリダ州のトリルビーに至るまで、同作の主人公であるトリルビーに因んで名付けられたのである。
フランスの小説家で、新聞記者でもあったガストン・ルイス・アルフレッド・ルルー(Gaston Louis Alfred Leroux:1868年ー1927年→2017年9月10日付ブログで紹介済)は、ジョージ・デュ・モーリエ作「トリルビー」に着想を得て、1909年から1910年にかけて、小説「オペラ座の怪人(The Phantom of the Opera)」を執筆している。ガストン・ルルーが小説「オペラ座の怪人」を執筆したのは、ジョージ・デュ・モーリエの死後であったが、それ以前にも、小説「トリルビー」は、数え切れない程、多くの作品にヒントを与え、その人気は衰えなかったため、ジョージ・デュ・モーリエは、世間からの注目を次第に嫌うようになっていったそうである。
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