東京創元社が発行する創元推理文庫「かくして殺人へ」の表紙− カバーイラスト:ヤマモト マサアキ氏 カバーデザイン:折原 若緒氏 カバーフォーマット:本山 木犀氏 |
「かくして殺人へ(And So to Murder)」は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が、カーター・ディクスン(Carter Dickson)という別名義で1940年に発表した推理小説で、ヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)シリーズの長編第10作目に該る。
英国ハートフォードシャー州イーストロイステッドにある聖ユダ牧師館において教区牧師を務めるジェイムズ・スタントンの一人娘である22歳のモニカ・スタントンは、涙が出る程に退屈な日常から抜け出すべく、父親や同居する伯母のフロッシー・スタントンには一切内緒で、小説の執筆を始め、その小説に情熱を込めて、彼女のあらゆる夢を綴った。
彼女がその小説を持ち込んだ出版社から採用通知と本物の小切手が送付されてきた時、「イヴ・ドーブリー」という当たり障りのないタイトルの小説の内容を全く知らない父親は驚くのみで、伯母に至っては、大得意で、誰彼構わず自慢することになった。
ところが、半年後の1939年7月に、モニカ・スタントンが書いた小説が「欲望」というタイトルで出版されると、期せずして大当たりをとり、大ベストセラーとなるが、そのセンセーショナルな内容のため、聖ユダ牧師館を大混乱に陥れるのだった。
そして、家庭争議において、伯母にやいのやいの言われたモニカ・スタントンは、遂に我慢の限界に達して、同年8月の半ば、荷造りをすると、生まれ育った村を飛び出して、ロンドンへと向かった。
ロンドンにやって来たモニカ・スタントンは、「暗い太陽」や「愛しき人の結婚」を製作した敏腕プロデューサーのトマス・ハケットに呼ばれて、ロンドン近郊にあるアルビオンフィルム社の映画スタジオへと赴いた。
映画スタジオでトマス・ハケットと面談したモニカ・スタントンは、即決で映画の脚本家として採用されることになった。彼女は、喜びで言葉がもつれそうになった。そして、熱に浮かされたように、嬉しさで全身の血が騒ぎ、少し酔ったような気分にもなった。
自分が執筆した処女作「欲望」が映画化され、スクリーン上で、自分が作り出した登場人物に、命が吹き込まれるのだ。しかも、その映画の脚本を作者である自分が書くのだ。つまり、映画のクレジットに、自分の名前が、原作者と脚本家の両方で流れるのである。
有頂天になるモニカ・スタントンであったが、残念ながら、彼女は大きな勘違いをしていた。それに加えて、映画スタジオで働き始めた彼女は、これから何度も命を狙われる羽目になるとは、この時点において、全く予想もしていなかったのである。
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