2019年6月30日日曜日

シャーロック・ホームズ最後の事件(The Last Sherlock Holmes Story)–その2

シャーロック・ホームズ最後の事件
(The Last Sherlock Holmes Story)

著者: Michael Dibdin 1978年
出版: Faber and Faber Limited 1990年

1888年9月28日、ロンドンのホワイトチャペル地区(Whitechapel)では、「切り裂きジャック(Jack the Ripper)」が、残虐な方法で、既に2人の娼婦を殺害して、ロンドン中を恐怖のどん底に落としれていた。

シャーロック・ホームズがロンドンでの諮問探偵業を始めて以降、ロンドン市内の主要な犯罪者が逮捕されてしまった結果、自分の優れた頭脳に対抗できるだけの知力を持った犯罪者が居ないことを嘆いていた。
そこに現れたのが、あのジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)である。
当初、モリアーティー教授は、自分が直接犯罪に手を下す訳ではなく、ロンドン市内の犯罪者達を背後から操るだけであったが、ホームズ曰く、それだけでは飽き足らなくなったモリアーティー教授は、遂に自ら犯罪に手を染める方向へ舵を切ったのである。つまり、モリアーティー教授は、「切り裂きジャック」として、ロンドンのホワイトチャペル地区内で殺人を遂行し始めたのだと、ホームズはJ・H・ワトスンに対して告げる。

その日、ベーカーストリート221Bにスコットランドヤードのレストレード警部(Inspector Lestrade)が訪ねて来て、ホームズに切り裂きジャック逮捕の助力を求める。そんなレストレード警部に対して、ホームズは驚くべきことを宣告する。「今夜、切り裂きジャックは、2人の娼婦を血祭りに上げるだろう。」と。

ホームズとワトスンの協力を得て、ホワイトチャペル地区内にできる限り多くの警官を配置し、切り裂きジャックを逮捕しようとするレストレード警部であったが、スコットランドヤードを嘲笑うかのように、彼らの隙を突いて、切り裂きジャックは、残忍な方法で2人の娼婦を殺害した。
ここから、ホームズとモリアーティー教授 / 切り裂きジャックの追跡劇が開始される。

1888年11月9日、スコットランドヤードによる警戒の穴を埋めるべく、ワトスンと二人でホワイトチャペル地区内を探索するホームズは、ある通りにおいて、モリアーティー教授 / 切り裂きジャックを遂に発見する。ホームズは、ワトスンに対して、レストレード警部を見つけて、警官隊を直ぐに連れて来るよう、指示を下す。
ワトスンは、一旦、ホームズの元を離れるが、ホームズの指示に従わないで、モリアーティー教授 / 切り裂きジャックを追跡するホームズの後をつけることにした。

ホームズの後をつけたワトスンであったが、その後、到底信じられない光景を目撃するのであった。

2019年6月29日土曜日

ロンドン ハムステッドグローヴ28番地 / ニューグローヴハウス(28 Hampstead Grove / New Grove House)–その3

ジョージ・デュ・モーリエが眠る墓がある
ハムステッド・聖ジョン教区教会

フランス生まれの英国の風刺漫画家で、小説家でもあったジョージ・ルイ・パルメラ・ビュッソン・デュ・モーリエ(George Louis Palmella Busson du Maurier:1834年ー1896年)は、1896年10月8日に死去し、ロンドン北西部郊外の高級住宅街ハムステッド地区(Hampstead2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるハムステッド・聖ジョン教区教会(The Parish Church of St. John at Hampstead→2018年11月3日付ブログで紹介済)に埋葬された。
なお、同教会の墓地には、19世紀の英国を代表する風景画家であるジョン・コンスタブル(John Constable:1776年ー1837年)も、妻のマリア、彼の長男のジョン・チャールズと次男のチャールズ・ゴールディングと一緒に眠っている。

19世紀の英国を代表する風景画家であるジョン・コンスタブルが
妻、長男や次男と一緒に眠る墓が、
ハムステッド地区内にあるハムステッド・聖ジョン教区教会内の墓地にある

ジョージ・モーリエと妻のエマの間には、
(1)ベアトリス(Beatrix)→トリクシー(Trixy)として知られている
(2)ガイ(Guy)
(3)シルヴィア(Sylvia)
(4)マリー・ルイーズ(Marie Louise)→メイ(May)として知られている
(5)ジェラルド(Gerald)
の5人の子供が生まれている。

ケンジントンガーデンズ内に設置されているピーターパンの像

3番目の子供であるシルヴィア・ルウェリン(Sylvia Llewelyn:1866年ー1910年)は、アーサー・ディヴィス(Arthur Davies)と結婚。
英国の小説家であるサー・ジェイムズ・マシュー・バリー(Sir James Matthew Barrie:1860年ー1937年)は、彼がよく散歩していたケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens→2015年7月25日付ブログで紹介済)において、1897年にディヴィス夫妻やその息子達(5人兄弟)と知り合いになった。彼らのうち、ディヴィス夫人のシルヴィアと彼女の長男のジョージ・ディヴィス(George Davies:1893年ー1915年)から、J・M・バリーは、「ピーターパン(Peter Pan)」の着想を得たと言われている。

画面中央の女性の写真が、
俳優兼劇場経営者であったサー・ジェラルド・デュ・モーリエの次女で、
作家のダフニ・デュ・モーリエ

5番目の子供であるサー・ジェラルド・フバート・エドワード・ビュッソン・デュ・モーリエ(Sir Gerald Hubert Edward Busson du Maurier:1873年ー1934年)は、俳優兼劇場経営者となっている。1902年に、彼は女優のミュリエル・ビューモント(Muriel Beaumont)と結婚。彼らの間には、
(1)作家のアンジェラ・デュ・モーリエ(Angela du Maurier:1904年ー2002年)
(2)作家のダフニ・デュ・モーリエ(Daphne du Maurier:1907年ー1989年)
(3)画家のジャン・デュ・モーリエ(Jeanne du Maurier:1911年ー1996年)
の三姉妹が生まれている。

2019年6月26日水曜日

カーター・ディクスン作「かくして殺人へ」(And So to Murder by Carter Dickson)–その2

東京創元社が発行する創元推理文庫「かくして殺人へ」の表紙−
    カバーイラスト:ヤマモト マサアキ氏
カバーデザイン:折原 若緒氏
  カバーフォーマット:本山 木犀氏

嬉しさのあまり、有頂天となるモニカ・スタントンであったが、アルビオンフィルム社の敏腕プロデューサーであるトマス・ハケットが発した次の言葉を聞いて、それまでの喜びが一気に吹き飛んで、愕然としてしまった。
彼女は、自分が執筆した処女作「欲望」の脚本を書くのではなく、探偵小説家であるウィリアム・カートライトによる最新作「かくして殺人へ」の映画脚本を書くよう、指示されたのである。逆に、ウィリアム・カートライトが、彼女作「欲望」の映画脚本を書く段取りとなっていた。その上、モニカ・スタントンは、ウィリアム・カートライトから映画脚本のイロハをいろいろと教えてもらうことにもなっていたのである。

ちょうどその時、トマス・ハケットのオフィスのドアが乱暴に開くと、男性が入って来た。彼は、部屋を横切って、トマス・ハケットのデスクの横までやって来ると、小脇に抱えていた本をデスクの上に叩きつけた。それは、モニカ・スタントンが情熱を込めて自分のあらゆる夢を綴ったベストセラー小説の「欲望」だった。男性は、トマス・ハケットに対して、「欲望」の内容を酷評し、「この映画脚本は絶対にやらない!」と宣言する。その男性こそ、探偵小説家のウィリアム・カートライトだったのである。
モニカ・スタントンとウィリアム・カートライトの最初の出会いは、このように最悪だった。

まだわだかまりが残っていて、お互いにぎこちないながらも、ウィリアム・カートライトは、アルビオンフィルム社のスタジオへと、モニカ・スタントンを案内した。
スタジオ内では、現在、女優のフランシス・フルーアと俳優のディック・コンヤーズが主演する映画「海のスパイ」の撮影が、ハワード・フィスク監督の下、進められていた。フランシス・フルーアの2番目の夫であるクルト・フォン・ガーゲルンが助監督を務めている。

モニカ・スタントンとウィリアム・カートライトがやって来たスタジオでは、ちょうど問題が発生していた。
ベッド脇のテーブルの上に、小道具の水差しが置かれており、リハーサル中、監督のハワード・フィスクが出演者に演技指導をしていた際、誤ってテーブルにぶつかって、水差しをひっくり返してしまった。水差しはベッドの上に落ちて、シューシューという嫌な音をたて、ベッドカバー、シーツやマットレス等に、虫に食われたリンゴのように、大きな穴が開いたのである。水差しの中に入っていたのは、水ではなく、硫酸だったのである。ハワード・フィスクは、スタジオ内に、この映画製作を妨害しようとする破壊工作者が居ると断言した。

そんな不穏な空気が流れるスタジオ内の仕事場で、映画脚本の執筆を始めるモニカ・スタントンだが、何故か、何度も危険な目に遭うことになる。
映画用セット内において、送話管から顔に硫酸を浴びかけたり、銃撃を受けたりした上に、予告状も舞い込み、命の危険を感じるようになった。

義憤にかられたウィリアム・カートライトは、モニカ・スタントンの命をつけ狙う謎の人物から彼女を守るべく、知り合いの英国陸軍省情報部長であるヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)に助けを求めるのであった。

2019年6月23日日曜日

シャーロック・ホームズ最後の事件(The Last Sherlock Holmes Story)–その1

シャーロック・ホームズ最後の事件
(The Last Sherlock Holmes Story)

著者: Michael Dibdin 1978年
出版: Faber and Faber Limited 1990年

1926年2月16日、ジョン・H・ワトスンは、ハンプシャー州リンドハーストの自宅において、階段からの転落による怪我による死去。享年73歳。
ワトスンの遺言書には、「銀行の金庫内に預けてある書類については、自分の死後50年を経過するまで、これを公表してはならない。」という条件が付されていた。(これは、エドワード・B・ハナ(Edward B. Hanna)が1992年に執筆した「ホワイトチャペルの恐怖(The Whitechapel Horrors→2014年4月20日付ブログで紹介済)」と似た展開である。)
そして、1976年夏に開封されたワトスンが残した書類には、驚くべき内容が記されていたのである。

話は、1888年9月28日まで遡る。ロンドンのホワイトチャペル地区(Whitechapel)では、「切り裂きジャック(Jack the Ripper)」が、残虐な方法で、既に2人の娼婦を殺害して、ロンドン中を恐怖のどん底に落としれていた。

本作品において、シャーロック・ホームズとワトスンは、サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)が執筆する物語の登場人物ではなく、ドイルと同じ世界に生きている人物として描かれている。
本作品の開始時点で、ワトスンが記録したメモに基づいて、ドイルが「緋色の研究(A Study in Scarlet→2016年7月30日付ブログで紹介済)」(事件発生年月:1881年3月)を執筆の上、世間に発表している。
また、ワトスンは、「四つの署名(The Sign of the Four→2017年8月12日付ブログで紹介済)」(事件発生年月:1888年9月)を通じて、将来結婚する相手のメアリー・モースタン(Mary Morstan)に既に出会っている。

ホームズがロンドンでの諮問探偵業を始めて以降、ロンドン市内の主要な犯罪者が逮捕されてしまった結果、自分の優れた頭脳に対抗できるだけの知力を持った犯罪者が居ないことを嘆いていた。
そこに現れたのが、あのジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)である。

当初、モリアーティー教授は、自分が直接犯罪に手を下す訳ではなく、ロンドン市内の犯罪者達を背後から操るだけであったが、ホームズ曰く、それだけでは飽き足らなくなったモリアーティー教授は、遂に自ら犯罪に手を染める方向へ舵を切ったのである。つまり、モリアーティー教授は、「切り裂きジャック」として、ロンドンのホワイトチャペル地区内で殺人を遂行し始めたのだと、ホームズはワトスンに対して告げる。

2019年6月22日土曜日

ロンドン ハムステッドグローヴ28番地 / ニューグローヴハウス(28 Hampstead Grove / New Grove House)–その2

フランス生まれの英国の風刺漫画家で、小説家でもあった
ジョージ・デュ・モーリエが住んでいた
ハムステッドグローヴ28番地のニューグローヴハウスを
ハムステッドグローヴ通りの北側から見たところ

ジョージ・ルイ・パルメラ・ビュッソン・デュ・モーリエ(George Louis Palmella Busson du Maurier:1834年ー1896年)は、1865年に英国の週刊風刺漫画雑誌「パンチ(Punch)」のスタッフとなり、一週間に2枚の風刺漫画を描くようになった。彼は、当時のヴィクトリア朝社会、特に、資本家階級や英国内で存在感を増していた中産階級を風刺の対象として、漫画にすることが多かった。

ハムステッドグローヴ28番地のニューグローヴハウスを
正面から見上げたところ

ジョージ・デュ・モーリエは、雑誌「パンチ」用に白黒風刺漫画を描く他に、「ハーパーズ(Harper’s)」、「ザ・グラフィック(The Graphic)」、「ジ・イラストレイテッド・タイムズ(The Illstrated Times)」や「ザ・コーンヒル・マガジン(The Cornhill Magazine)」等の定期刊行物にも、イラストを描いたりした。
また、彼は、英語での出版物として、初めて出版された探偵小説と考えられているチャールズ・ウォーレン・アダムズ(Charles Warren Adams:1833年ー1903年)による連載小説「ノッティングヒルの謎(The Notting Hill Mystery)」の挿絵等も担当した。

ジョージ・デュ・モーリエが挿絵を担当した
チャールズ・ウォーレン・アダムズ作「ノッティングヒルの謎」の一場面

視力の衰えのため、ジョージ・デュ・モーリエは、1891年に雑誌「パンチ」での仕事を減らして、ハムステッドの自宅での仕事へと生活様式を変える。そして、彼は、小説を3作執筆している。

第1作目の「ピーター・イベットスン(Peter Ibbetson)」は、程々の成功を納めて、後に舞台劇や映画等になっている。

ハムステッドグローヴ28番地のニューグローヴハウスの入口

第2作目の「トリルビー(Trilby)」は、1894年に出版されたゴシックホラー小説で、絵のモデルをしている貧しいトリルビー・オウ・ファレル(Trilby O’Ferrall)が、邪悪な音楽の天才であるスヴェンガリ(Svengali)の呪いによって、歌姫に変身する物語は、当時大評判になり、石鹸、歌、踊り、歯磨き粉、そして、米国フロリダ州のトリルビーに至るまで、同作の主人公であるトリルビーに因んで名付けられたのである。
フランスの小説家で、新聞記者でもあったガストン・ルイス・アルフレッド・ルルー(Gaston Louis Alfred Leroux:1868年ー1927年→2017年9月10日付ブログで紹介済)は、ジョージ・デュ・モーリエ作「トリルビー」に着想を得て、1909年から1910年にかけて、小説「オペラ座の怪人(The Phantom of the Opera)」を執筆している。ガストン・ルルーが小説「オペラ座の怪人」を執筆したのは、ジョージ・デュ・モーリエの死後であったが、それ以前にも、小説「トリルビー」は、数え切れない程、多くの作品にヒントを与え、その人気は衰えなかったため、ジョージ・デュ・モーリエは、世間からの注目を次第に嫌うようになっていったそうである。

ジョージ・デュ・モーリエは、
ハムステッドグローヴ28番地の建物に1874年から1895年まで住んでいた

第3作目は、「火星人(The Martian)」という題名の自伝的な内容の長編で、ジョージ・デュ・モーリエの死後である1898年に出版された。

2019年6月16日日曜日

カーター・ディクスン作「かくして殺人へ」(And So to Murder by Carter Dickson)–その1

東京創元社が発行する創元推理文庫「かくして殺人へ」の表紙−
    カバーイラスト:ヤマモト マサアキ氏
カバーデザイン:折原 若緒氏
  カバーフォーマット:本山 木犀氏

「かくして殺人へ(And So to Murder)」は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が、カーター・ディクスン(Carter Dickson)という別名義で1940年に発表した推理小説で、ヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)シリーズの長編第10作目に該る。

英国ハートフォードシャー州イーストロイステッドにある聖ユダ牧師館において教区牧師を務めるジェイムズ・スタントンの一人娘である22歳のモニカ・スタントンは、涙が出る程に退屈な日常から抜け出すべく、父親や同居する伯母のフロッシー・スタントンには一切内緒で、小説の執筆を始め、その小説に情熱を込めて、彼女のあらゆる夢を綴った。
彼女がその小説を持ち込んだ出版社から採用通知と本物の小切手が送付されてきた時、「イヴ・ドーブリー」という当たり障りのないタイトルの小説の内容を全く知らない父親は驚くのみで、伯母に至っては、大得意で、誰彼構わず自慢することになった。
ところが、半年後の1939年7月に、モニカ・スタントンが書いた小説が「欲望」というタイトルで出版されると、期せずして大当たりをとり、大ベストセラーとなるが、そのセンセーショナルな内容のため、聖ユダ牧師館を大混乱に陥れるのだった。
そして、家庭争議において、伯母にやいのやいの言われたモニカ・スタントンは、遂に我慢の限界に達して、同年8月の半ば、荷造りをすると、生まれ育った村を飛び出して、ロンドンへと向かった。

ロンドンにやって来たモニカ・スタントンは、「暗い太陽」や「愛しき人の結婚」を製作した敏腕プロデューサーのトマス・ハケットに呼ばれて、ロンドン近郊にあるアルビオンフィルム社の映画スタジオへと赴いた。
映画スタジオでトマス・ハケットと面談したモニカ・スタントンは、即決で映画の脚本家として採用されることになった。彼女は、喜びで言葉がもつれそうになった。そして、熱に浮かされたように、嬉しさで全身の血が騒ぎ、少し酔ったような気分にもなった。
自分が執筆した処女作「欲望」が映画化され、スクリーン上で、自分が作り出した登場人物に、命が吹き込まれるのだ。しかも、その映画の脚本を作者である自分が書くのだ。つまり、映画のクレジットに、自分の名前が、原作者と脚本家の両方で流れるのである。

有頂天になるモニカ・スタントンであったが、残念ながら、彼女は大きな勘違いをしていた。それに加えて、映画スタジオで働き始めた彼女は、これから何度も命を狙われる羽目になるとは、この時点において、全く予想もしていなかったのである。

2019年6月15日土曜日

ロンドン ハムステッドグローヴ28番地 / ニューグローヴハウス(28 Hampstead Grove / New Grove House)–その1

右側が白い外壁で、左側が煉瓦の建物がハムステッドグローヴ28番地で、
フランス生まれの英国の風刺漫画家で。小説家でもあったジョージ・デュ・モーリエは、
ここに住んでいた

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1939年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第11作目に該る「テニスコートの殺人」(The Problem of the Wire Cage2018年8月12日 / 8月19日付ブログで紹介済)において、フランク・ドランス(Frank Dorrance)の絞殺死体が発見されたテニスコートがあるニコラス・ヤング邸は、ロンドン北西部郊外の高級住宅街ハムステッド地区(Hampstead2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるという設定になっているが、ハムステッド地区内には、フランス生まれの英国の風刺漫画家で、小説家でもあったジョージ・ルイ・パルメラ・ビュッソン・デュ・モーリエ(George Louis Palmella Busson du Maurier:1834年ー1896年)が住んでいた家が所在している。


ノーザンライン(Northern Line)が停まる地下鉄ハムステッド駅(Hampstead Tube Station)の改札口を出ると、ジュビリーライン(Jubilee Line)が停まるスイスコテージ駅(Swiss Cottage Tube Station)からハムステッドヒース(Hampstead Heath→2015年4月25日付ブログで紹介済)へと北上してきたヒースストリート(Heath Street)が、目の前を通過している。

ハムステッドグローヴ通りの南側から北方面を見たところ–
右手奥にある白い外壁の建物がハムステッドグローブ28番地

このヒースストリートを横切り、フログナルライズ(Frognal Rise)の登り坂を上がって行くと、進行方向右手にハムステッドグローヴ(Hampstead Grove)が見えてくるので、そこで右折し、そして、少し進むと、進行方向左手に、フェントンハウス(Fenton House→2019年6月8日 / 6月9日付ブログで紹介済)が建っている。そして、フェントンハウスの反対側のハムステッドグローヴ28番地(28 Hampstead Grove)に、ニューグローヴハウス(New Grove House)という名の家があり、ジョージ・デュ・モーリエは、1874年から1895年までの間、ここに住んでいたのである。

ハムステッドグローヴ通りの北側から南方面を見たところ–
左手前にある白い外壁の建物がハムステッドグローブ28番地

ジョージ・デュ・モーリエは、1834年3月6日、ルイ・マスリン・ビュッソン・デュ・モーリエ(Louis-Mathurin Busson du Maurier)を父に、そして、エレン・クラーク(Ellen Clarke)を母にして、パリに出生。

ハムステッドグローヴ28番地の入口

ジョージ・デュ・モーリエは、当初、パリで美術を学んでいたが、その後、ベルギーのアントワープへ移った。不幸なことに、アントワープ時代に、彼は左眼の視力を失ってしまう。そのため、ドイツのデュッセルドルフの眼科医に掛かっていたところ、そこで彼は将来の妻であるエマ・ワイトウィック(Emma Wightwick)に出会う。

ハムステッドグローヴ28番地の入口の左側の外壁には、
ジョージ・デュ・モーリエがここに住んでいたことを
記すプラークが掲げられている

エマ・ワイトウィックの家族がロンドンに居住していたため、ジョージ・デュ・モーリエもロンドンへと居住を移す。1851年に、ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン(University College London→2015年8月16日付ブログで紹介済)において、彼は化学を専攻していたことが記録されている。

そして、ジョージ・デュ・モーリエは、1863年にエマ・ワイトウィックと結婚した。

2019年6月9日日曜日

ロンドン フェントンハウス(Fenton House)–その2

フェントンハウスの建物正面全景

イングランド北部のヨークシャー州(Yorkshire)出身で、バルト海を中心に取引を行っていた商人のフィリップ・フェントン(Philip Fenton)が、1793年に建物を買い取った後、かなりの改装工事を実施した。

ハムステッドグローヴの北側から南方面を見たところ–
フェントンハウスは、右側に建っている

フィリップ・フェントンは、現在のラトビア(Latvia)の首都であるリガ(Raga)に商売のベースを置き、甥のジェイムズ・フェントン(James Fenton)と一緒に、主にリガでの暮らしを送り、ロンドンで暮らすということは少なかったが、1834年に亡くなるまでの約40年間、邸宅を所有し続けた。フィリップ・フェントンの死後、甥のジェイムズ・フェントンが邸宅を相続した。

フェントンハウスの反対側にある歩道から、
ハムステッドグローヴの北方面を望む–
閑静な住宅街内にあり、週末でも人通りが少ない

フィリップ・フェントンが約40年間にわたって所有していたことから、建物は「フェントンハウス」と呼ばれるように変わったのである。

フェントンハウスの反対側にある建物の外壁一面には、
薔薇が生い茂っている

その後、フェントンハウスは所有者を転々とするが、最後の所有者となったのは、レディー・キャサリン・ビニング(Lady Katherine Binning:1871年ー1952年)である。

ハムステッドグローヴから見たフェントンハウス(その1)

彼女は、第11代ハディントン伯爵(11th Earl of Haddington)の第二子で、長男のビニング卿ジョージ・ベイリー=ハミルトン(George Baillie-Hamilton Lord Binning)と結婚。英国陸軍将校だった夫は、1917年に父親より先に亡くなったため、爵位を継承することにはなかった。

ハムステッドグローヴから見たフェントンハウス(その2)

夫の死後、レディー・キャサリン・ビニングは、1936年にフェントンハウスを購入して、亡くなる1952年まで住み続けた。

フェントンハウス内の庭園への入口

1952年にレディー・キャサリン・ビニングが亡くなった後、フェントンハウスは、ナショナルトラスト(National Trust)に管理され、1953年に一般公開の上、現在に至っている。

ハムステッドグローヴから見たフェントンハウス(その3)

なお、フェントンハウスは、現在、グレード I(Grade I listed building)の指定を受けている。

2019年6月8日土曜日

ロンドン フェントンハウス(Fenton House)–その1

フェントンハウスの建物正面全景–
以前、建物の外壁に時計が設置されていたことに因んで、「クロックハウス」と呼ばれていたが、
現在、時計は取り外されている。
写真の白い丸の部分に、以前、時計が設置されていた。

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1939年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第11作目に該る「テニスコートの殺人」(The Problem of the Wire Cage2018年8月12日 / 8月19日付ブログで紹介済)において、フランク・ドランス(Frank Dorrance)の絞殺死体が発見されたテニスコートがあるニコラス・ヤング邸は、ロンドン北西部郊外の高級住宅街ハムステッド地区(Hampstead2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるという設定になっているが、ハムステッド地区内には、「フェントンハウス(Fenton House)」と呼ばれる建物がある。


ノーザンライン(Northern Line)が停まる地下鉄ハムステッド駅(Hampstead Tube Station)の改札口を出ると、ジュビリーライン(Jubilee Line)が停まるスイスコテージ駅(Swiss Cottage Tube Station)からハムステッドヒース(Hampstead Heath→2015年4月25日付ブログで紹介済)へと北上してきたヒースストリート(Heath Street)が、目の前を通過している。

フェントンハウスの庭園への入口

このヒースストリートを横切り、フログナルライズ(Frognal Rise)の登り坂を上がって行くと、進行方向右手にハムステッドグローヴ(Hampstead Grove)が見えてくるので、そこで右折し、そして、少し進むと、進行方向左手に、フェントンハウス(Fenton House)が建っている。

庭園越しにフェントンハウス(横側)を望む

フェントンハウスは、1686年から1683年にかけて、ウィリアム・イーデス(William Eades)によって建設された。

フェントンハウスの庭園(その1)
フェントンハウスの庭園(その2)

フェントンハウスは、18世紀初め頃、オステンドハウス(Ostend House)と呼ばれており、その後、建物正面の外壁に時計が設置されたことに因んで、クロックハウス(Clock House)と呼ばれるようになった。

2019年6月3日月曜日

ロンドン ウォーリントン クレッセント2番地 / ザ・コロネードホテル(2 Warrington Crescent / The Colonnade Hotel)

地下鉄ウォーリックアベニュー駅方面から見た
「ザ・コロネードホテル」の全景(その1)

第二次世界大戦(1939年ー1945年)中、ブレッチリーパーク(Bletchley Park)にある英国の暗号解読センターの政府暗号学校において、ドイツ軍が使用したエニグマ暗号機による通信の解読に成功した英国の数学者、論理学者、暗号解読者兼コンピューター科学者であるアラン・マシソン・テューリング(Alan Mathison Turing:1912年ー1954年)が出生した場所が、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のメイダヴェール地区(Maida Vale)内にある。


ベーカールーライン(Bakerloo Line)を使い、地下鉄パディントン駅(Paddington Tube Station)から一駅北上した地下鉄ウォーリックアベニュー駅(Warwick Avenue Tube Station)で下車。そして、地下鉄の出口近くにあるウォーリントン クレッセント(Warrington Crescent)を少し北へ上がったウォーリントン クレッセント2番地(2 Warrington Crescent)の建物である「ザ・コロネードホテル(The Colonnade Hotel)」が、それである。

「ザ・コロネードホテル」の右側正面

アラン・マシソン・テューリングの母親であるエセル・テューリングは、インドの高等文官であった夫のジュリアス・テューリングと一緒に、英国領インド帝国オリッサ州チャトラプルに駐在していた。ジュリアス・テューリングは、妻エセルの妊娠を知ると、子供を英国本国で養育することを考えて、彼女をロンドンへと帰国させた。そして、1912年6月23日、アラン・テューリングは、当時、病院だったウォーリントン クレッセント2番地にて出生したのである。

「ザ・コロネードホテル」の玄関(その1)

「ザ・コロネードホテル」の玄関(その2)

アラン・テューリングが出生した病院があったウォーリントン クレッセント2番地の建物では、現在、「ザ・コロネードホテル」が営業している。「コロネード(Colonnade)」とは、(1)列柱 / 柱廊や(2)並木 / 街路樹を意味する。
ホテルの玄関左横にある建物外壁に、アラン・テューリングがここで出生したことを示すイングリッシュヘリテージ(English Heritage)管理のブループラークが架けられている。

「ザ・コロネードホテル」の玄関左側の建物外壁に架けられている
ブループラーク(その1)

「ザ・コロネードホテル」の玄関左側の建物外壁に架けられている
ブループラーク(その2)

アンドリュー・ホッジスによる伝記「Alan Turing:The Enigma」を基にして、アラン・テューリングを主人公にした歴史ドラマ映画「イミテーションゲーム / エニグマと天才数学者の秘密(The Imitation Game)」が、2014年に公開された。
なお、主人公のアラン・テューリングを、BBC1 で放映された推理ドラマ「シャーロック(Sherlock)」(2010年ー)において、シャーロック・ホームズを演じた英国の俳優であるベネディクト・ティモシー・カールトン・カンバーバッチ(Benedict Timothy Carlton Cumberbatch:1976年ー)が演じている。

「ザ・コロネードホテル」の玄関口の大理石に刻まれている
ホテル名

ドイツ軍が使用したエニグマ暗号機による通信の解読に成功したアラン・テューリングであったが、第二次世界大戦後の1952年、当時、英国では違法だった同性間性行為のかどで告発され、その後、不遇の時を過ごした。
そして、1945年6月8日、家政婦が、アラン・テューリングが自宅で死んでいるのを発見した。検死解剖の結果、彼が死亡したのは、前日の同年6月7日で、青酸化合物による中毒死であることが判明。彼のベッドの脇に、齧りかけのリンゴが落ちていたが、そのリンゴに青酸化合物が塗られていたかどうかの分析は行われなかった。ただ、彼の部屋には、青酸化合物の瓶が多数あったため、死因審問において、彼の死は自殺と断定された後、同年6月12日に火葬された。

地下鉄ウォーリックアベニュー駅方面から見た
「ザ・コロネードホテル」の全景(その2)

近年、アラン・テューリングの再評価が進んでおり、それが契機となって、歴史ドラマ映画「イミテーションゲーム / エニグマと天才数学者の秘密」が製作 / 公開されている。