2019年1月7日月曜日

ロンドン タワーブリッジ(Tower Bridge)-その2

タワーブリッジから見たテムズ河の下流方面–
ジェイコブソン修理ドックから物凄い速度で飛び出してきたオーロラ号を追って、
ホームズ、ワトスンやジョーンズ警部達を乗せた巡視艇は、画面奥へと向かった

19世紀後半、シティー・オブ・ロンドン(City of London→2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)の東側に位置するイースト・オブ・ロンドン(East of London)における商業発展のために、ロンドン橋(London Bridge)の下流に、新たな橋を建設する必要性が生じた。その一方で、ロンドン橋とロンドン塔(Tower of London→2018年4月8日 / 4月15日 / 4月22日付ブログで紹介済)の間には、プール・オブ・ロンドン(Pool of London)と呼ばれる港湾施設があり、通常の固定橋を建設すると、同港湾施設への入港の障害となるリスクがあった。

上記の問題を解決するため、1877年にサー・アルバート・ジョーゼフ・オルトマン(Sir Albert Joseph Altman:1839年ー1912年)を議長とする委員会が設立され、デザイン案の公募を行なった。その結果、50以上のデザイン案が集まったが、それらに対する評価作業がかなり長引き、1884年になって、やっと、英国の建築家であるサー・ホーレス・ジョーンズ(Sir Horace Jones:1819年ー1887年)が設計した跳開橋案が、委員会によって承認され、サー・ジョン・ウルフェ・バリー(Sir John Wolfe Barry:1836年ー1918年)が技師として任命された。そして、1885年に跳開橋の建設法案が、英国議会を通過したのである。

タワーブリッジから見たロンドン塔(テムズ河北岸)

翌年の1886年に、跳開橋の建設に着工。同年、設計者のサー・ホーレス・ジョーンズが亡くなったため、ジョージ・D・スティーヴンソン(George D. Stevenson)がその後を引き継いだ。サー・ホーレス・ジョーンズによる当初の設計案では、跳開橋を支える主塔の外観を煉瓦で覆うことになっていたが、(1)鉄塔を腐食から守るため、かつ、(2)近くにあって、タワーブリッジの名前の由来となったロンドン塔の景観への配慮のため、コーンウォール花崗岩とポートランド石で覆い、ゴシック系への転換を行なっている。

跳開橋の建設には、8年間を要して、1894年にやっと竣工し、同年6月30日に、当時の王太子夫妻(後のサクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝の初代国王となるエドワード7世(Edward VII:1841年ー1910年 在位期間:1901年ー1910年)とアレクサンドラ・オブ・デンマーク(Alexandra of Denmark:1844年ー1925年))の出席の下、正式に開通を迎えたのである。

タワーブリッジから見たシャードビル(テムズ河南岸)

タワーブリッジは、現在のロンドン・タワーハムレッツ区(London Borough of Tower Hamlets)とロンドン・サザーク区(London Borough of Southwark)を結んでいる。

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