2019年1月26日土曜日

カーター・ディクスン作「殺人者と恐喝者」(Seeing is Believing by Carter Dickson)ーその1

東京創元社が発行する創元推理文庫「殺人者と恐喝者」の表紙−
    カバーイラスト:ヤマモト マサアキ氏
カバーデザイン:折原 若緒氏
  カバーフォーマット:本山 木犀氏

「殺人者と恐喝者(Seeing is Believing)」は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が、カーター・ディクスン(Carter Dickson)名義で1941年に発表した推理小説で、ヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)シリーズの長編第12作目に該る。

グロスター州チェルトナムのフィッツハーバードアベニュー沿いに住む美貌の若妻ヴィクトリア・フェイン(Victoria Faneー通称:ヴィッキー)は、外地から帰って来て、逗留を始めた叔父であるヒューバート・フェインから、次のような話を聞く。

ランドル法律事務所を営む彼女の夫であるアーサー・フェイン(Arthur Fane)は、一時の気の迷いにより、19歳のポリー・アレンとの情事を始めてしまった。アーサー・フェインにとっては、一時の火遊びに過ぎなかったが、ポリー・アレンの方が彼にのぼせ上がってしまい、彼に妻のヴィッキーと離婚して、自分と結婚するようにと、匂わせるようになった。
立場上、体面を重んじ、人に後ろ指を指されない生活を送る必要があったアーサー・フェインは、1938年の真夏の夜、妻のヴィッキー、春先から居候をしている叔父のヒューバートと二人の使用人の全員が揃って留守になった自宅へポリー・アレンを誰にも知られないように招き、彼女が首に巻いていたスカーフを使って、彼女を絞め殺した。そして、アーサー・フェインは、夜陰に乗じて、ポリー・アレンの死体を車に押し込み、閉鎖された石切場の近くに死体を埋めたのである。
ポリー・アレンは、町から町へと渡り歩いていた素性不明の娘で、家族や親しい友人等は居なかった。従って、素性のはっきりしない娘一人が急に姿を消したとしても、彼女の安否を気にかける人は、チェルトナムに居るはずもなく、アーサー・フェインがポリー・アレンを殺害したことに気付く人物は、実際、誰も居なかった。

ところが、それに気付いた人物が、二人居たのである。
一人は、アーサー・フェインの妻であるヴィッキーであり、もう一人は、叔父のヒューバートであった。
妻のヴィッキーは、38歳のアーサーに比べると、25歳という若さで、結婚してから2年が経っていた。アーサーがポリー・アレンを殺害したと、叔父のヒューバートが言う日の翌日、ヴィッキーは、客間にある安楽椅子のクッションの後ろに、「ポリー」と縫い取りのあるハンカチが押し込まれているのを見つけた。その上、真夏の寝苦しい夜が続く中、アーサーの寝言が始まり、それを聞いたヴィッキーは、夫のアーサーがポリーという娘を殺したのだと覚り、なんとか真相を究明したいと考えていた。
また、叔父のヒューバートは、外地から戻って来た4月から、アーサーとヴィッキーの家に居候を始めたが、5月末になっても居座ったままで、自分の住まいを見つけようという様子は、全くなかった。挙げ句の果てには、アーサーへの少額の借金を重ねるようになった。7月に入り、アーサーは、ヒューバートに対して、最後通牒を突き付ける寸前であったが、7月15日の夜を境にして、アーサーによるヒューバートの扱いが、180度変わったのである。ヒューバートの寝室が、正面の芝生を見下ろす日当たりのいい部屋へ移された上、ヒューバートによるアーサーへの金の無心は、一層頻繁になった。

夫のアーサーが叔父のヒューバートの我儘に唯々諾々と従うようになった訳が、これでヴィッキーの腑に落ちた。殺人者である夫のアーサーを叔父のヒューバートが恐喝しているのだと。しかしながら、このことを警察に通報することは、彼女には決してできないことだった。

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