2019年1月19日土曜日

ロンドン テンプルバー(Temple Bar)ーその3

パタノスタースクエア内に設置されている
「テンプルバーゲートのシティー・オブ・ロンドンへの帰還」を示す看板

1666年に発生したロンドン大火(Great Fire of London→2018年9月8日 / 9月15日 / 9月22日 / 9月29日付ブログで紹介済)により大被害を蒙ったシティー・オブ・ロンドン(City of London→2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)の再生計画の一環として、王政復古期ステュアート朝の国王チャールズ2世(Charles II:1630年ー1685年 在位期間:1660年ー1685年)による指示の下、サー・クリストファー・マイケル・レン(Sir Christopher Michael Wren:1632年ー1723年)による設計に基づき、新しいテンプルバーゲート(Temple Bar Gate)が、1669年から1672年にかけて建設された。
1874年に入ると、各所に老朽化部分が見つかり、1878年、シティー・オブ・ロンドン自治体(City of London Corporation)は、増大する交通量に対処するため、テンプルバーゲートの取り壊しを決定した。
そこに、ビールの醸造業者である Henry Meux が登場し、1880年にテンプルバーゲートを購入の上、ハートフォードシャー州(Hertfordshire)にある彼の邸宅セオバルズパーク(Theobalds Park)の庭園の門として移設したのである。

テンプルバーゲートの跡地に建つテンプルバーメモリアル(その1)
テンプルバーゲートの跡地に建つテンプルバーメモリアル(その2)

その後、20世紀前半にセオバルズパークがミドルセックス区議会(Middlesex County Council)へ売却されたことに伴い、テンプルバーゲートをシティー・オブ・ロンドン内へと戻す気運が高まった。
2003年にテンプルバーゲートの解体が始まり、セントポール大聖堂(St. Paul’s Cathedral→2018年8月18日 / 8月25日 / 9月1日付ブログで紹介済)の北側に三菱地所が再開発したパタノスタースクエア(Paternoster Square)への入口の門として再建され、2004年11月10日に一般公開の運びとなった。テンプルバーゲートの解体 / 運搬 / 再建費用として、当時の金額で3百万ポンド以上がかかったそうで、その費用の大部分をシティー・オブ・ロンドンが負担した。

テンプルバーメモリアルの上部に設置されている
グリフィン像(その1)

サー・クリストファー・マイケル・レン設計のテンプルバーゲートがあった場所には、英国の建築家である Horace Jones(1819年ー1887年)が設計したテンプルバーメモリアル(Temple Bar Memorial)が建てられ、1880年に一般公開された。

テンプルバーメモリアルの上部に設置されている
グリフィン像(その2)

テンプルバーメモリアルの上部には、一般にグリフィン(Griffin)と呼ばれるブロンズ像が、英国の彫刻家である Charles Bell Borch(1832年ー1893年)によって制作された。厳密に言うと、グリフィンは、鷲の頭 / 翼とライオンの胴体を持ち、黄金の宝を守る怪獣なので、ドラゴンと呼ぶのが正確である。

テンプルバーメモリアルの台座部分に設置されている
ヴィクトリア女王像

テンプルバーメモリアルの台座部分に設置されている
後のエドワード7世像(当時は王太子)

また、テンプルバーメモリアルの台座部分には、ウィーン生まれで、ハンガリー系の彫刻家である Joseph Edgar Boehm(1834年ー1890年)が製作した(1)ハノーヴァー朝第6代女王のヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年)と(2)当時の王太子(Prince of Wales)で、後のサクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝初代国王のエドワード7世(Edward VII:1841年ー1910年 在位期間:1901年ー1910年)の像が設置されている。

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