ゲーテの名声を聞いて、1774年12月、パリへの旅行の途上、フランクフルトのゲーテを訪問したヴァイマル公国のカール・アウグスト公からの招聘を受けて、翌年の1775年11月、ゲーテはヴァイマル公国へ移住した。当時のヴァイマル公国は人口6千人程度の小国で、国の復興に力を注ぎ、多くの優れた人材を集めていたのである。
ヴァイマル公国へ移住した半年後、ゲーテは同国の閣僚となったため、政務に没頭することになり、その後の約10年間は、文学的な空白期間に該る。その間、ゲーテは着実にヴァイマル公国の政務を遂行して、その功績により、1782年に神聖ローマ帝国皇帝のヨーゼフ2世から貴族に叙せられ、ヴァイマル公国の宰相に就任した。以後、貴族を表す「フォン」が姓に付いて、「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ」と呼ばれる。
ヴァイマル公国の宰相となったゲーテは、1788年に詩人 / 劇作家のヨハン・クリストウ・シラー(Johann Christoph Schiller:1759年ー1805年)をイエーナ大学の歴史大学教授として招聘したが、当初はお互いの誤解もあって打ち解けた仲ではなかった。1794年に開催されたイエーナ大学の植物学会での会話が切っ掛けとなり、二人は急速に距離を縮め、ドイツ文学史における古典主義時代を確立していく。ところが、1805年5月9日、肺病のため、シラーは若くして死去してしまい、一般に、古典主義時代は、シラーの死を以って終わったとされている。
1808年、フランスの皇帝ナポレオン・ボナパルトの号令に基づいて、ヨーロッパ中の諸侯が集められた際、ゲーテもカール・アウグスト公と一緒に赴き、彼はナポレオンとの歴史的な対面を果たしている。「若きウェルテルの悩み」を愛読していたナポレオンは、ゲーテと会った際、感動のあまり、「ここに人有り!(Volia un homme!)」と叫んだと言われている。
晩年のゲーテは腎臓を病むが、頻繁に湯治に出かけ、1806年、「ファウスト悲劇第一部(Faust, der Tragodie erster Theil)」を漸く完成させた。
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