1年強の学業を終えて、1771年8月、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe:1749年ー1832年)は故郷に戻ったものの、フランクフルト市の役所の仕事に就けなかったので、弁護士の資格を取り、弁護士事務所を開設。ただ、彼は次第に仕事への興味を失って、文学活動に没頭するようになった。そのため、息子を心配した父親によって、彼は最高裁判所があったヴェッツラーへと送られ、法学を再習得することになった。これが、彼が生家を離れる4回目となる。
1772年4月にヴェッツラーに到着したヨハンであったが、法学の再習得ではなく、父親の目が届かない遠隔地で、文学にまた熱中するようになる。そして、同年6月、ヴェッツラー郊外で開催された舞踏会において、彼は19歳のシャルロッテ・ブッツに出会い、恋に落ちるが、友人のヨハン・クリスティアン・ケストナーの婚約者であることを知る。報われぬ恋に絶望したヨハンは、同年9月、ヴェッツラーを去るのであった。
故郷に戻ったヨハンは、弁護士事務所を再開するも、シャルロッテのことを忘れられず、ヴェッツラーでの体験をベースにした書簡体小説「若きウェルテルの悩み(Die Leiden des jungen Werthers)」を1774年9月に出版すると、若者を中心にして熱狂的な読者を集め、一躍ドイツだけではなく、ヨーロッパ中に彼の名前が知れ渡るようになった。同年12月、後に彼を自国のヴァイマル公国に招くことになるカール・アウグスト公が、パリへの旅行の途上、フランクフルトの彼を訪問している。
そして、1775年11月、ヨハンはカール・アウグスト公の招きを受けて、故郷フランクフルトを離れ、ヴァイマル公国へと移り、その後永住することになる。こうして、この生家は、ヨハンが生まれた1749年から1775年までの青春時代をやや断続的ではあるが、ずーっと見つめてきたのである。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの生家は、第二次世界大戦(1939年ー1945年)中に全壊するが、その後、完全に復元されて、そこで彼の肖像画、直筆の原稿や彼が愛用した所縁の品々等を見ることができる。
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