ドイツを代表する文豪であるヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe:1749年ー1832年)は、1749年8月28日、ドイツ中部フランクフルト・アム・マイン(Frankfurt am Main)の裕福な家庭の長男として出生する。彼の生家は、現在、「ゲーテハウス(Goethe Haus)」と呼ばれ、ゲーテ博物館(Goethe Museum)になっている。
Uバーン(U Bahn)のヴィリー・ブラント・プラッツ駅(Willy-Brandt-Platz)で下車して、少し北上したところにカイザー広場(Kaiserplatz)があり、その広場の少し東側に南北へ延びるグロッサー・ヒルシュグラーベン(Grosser Hirschgraben)の23ー25番地の建物(Grosser Hirschgraben 23 - 25)がそれである。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、1749年8月28日、ヨハン・カスパー・ゲーテを父親に、エリーザベト・ゲーテを母親にして、グロッサー・ヒルシュグラーベン23ー25番地に生まれる。
彼の祖父は、フランスで仕立て職人として修行を積んだ後、フランクフルト市内で旅館の経営と葡萄酒の取引で大成功を納めて、財を成した。次男であった彼の父は、大学を卒業した後、フランクフルト市の要職に就けず、文物の蒐集に没頭していたが、彼の祖父が成した財のため、生活には困らなかった。
また、彼の母親の実家は代々法律家を務め、更に、母方の祖父はフランクフルト市長に就いており、所謂、名門の家系であった。
彼の父親は、彼ヨハンと彼の姉コルネーリアの教育に熱心で、幼少期より彼らの教育に力を入れた。
3歳の時に、彼は私立の幼稚園に入り、読み書きや算数等の初等教育を受ける。そして、5歳から寄宿制の初等学校に通うため、一旦、フランクフルトの生家を離れるが、7歳の時に、天然痘に罹患して生家に戻った。その後、彼の父親が家庭教師を呼び、生家において、語学、図画、カリグラフィー、楽器演奏やダンス等を彼に学ばせた。その結果、英語、フランス語、イタリア語、ラテン語、ギリシア語およびヘブライ語を、彼は少年時代に習得したのである。
その後、16歳になった1765年、父親の意向を受けて、彼は故郷フランクフルトを出て、ライプツィヒ大学法学部に入学。これが、彼が生家を離れる2回目となる。彼は3年程大学に通うものの、病気(結核と思われる)のため、退学を余儀なくされ、故郷へ戻り、1年半程生家で療養する。
そして、1770年、父親の薦めもあって、彼はフランス領のストラスブルグ大学に入学する。これが、彼が生家を離れる3回目となる。
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