2016年2月28日日曜日

ロンドン ケンジントンルーフガーデンズ(Kensington Roof Gardens)

ケンジントンルーフガーデンズでは、4羽のフラミンゴが飼われている

アガサ・クリスティー作「イタリア貴族殺害事件(The Adventure of the Italian Noble Man)」(「ポワロ登場(Poirot Investigates)」(1924年)に収録)は、エルキュール・ポワロとアーサー・ヘイスティングス大尉が、自分達のフラットで隣人のホーカー医師(Dr Hawker)と話をしているところから始まる。そこにホーカー医師の家政婦が飛び込んで来る。彼女によると、患者であるフォスカティーニ伯爵(Count Foscatini)から助けを求める変な電話があったと言う。そこで、ポワロ、ヘイスティングス大尉とホーカー医師の3人は、リージェンツコート(Regent's Court)にあるフォスカティーニ伯爵のフラットへと駆け付ける。

ケンジントンハイストリートから
ケンジントンルーフガーデンズを見上げたところ

フォスカティーニ伯爵のフラットのドアが施錠されていたため、彼らはフラットの管理人に事情を説明して、フラットのドアを開けてもらう。そして、彼らがフラット内に入ると、フォスカティーニ伯爵が大理石の像で頭を撲られて殺されているのを発見する。テーブルの上には、3人分の食事の席が整えられていたが、既に食事は終わった後のようである。

ケンジントンルーフガーデンズの入口(その1)

ケンジントンルーフガーデンズの入口(その2)

警察が到着する最中、フォスカティーニ伯爵の従者グレーヴス(Graves)が戻って来る。グレーヴスによると、前日、アスカニオ伯爵(Count Ascanio)ともう1人の男性が夕食に招待された際、フォスカティーニ伯爵と彼らの間に何か脅迫めいた会話が交わされたのを耳にしたと言う。今夜も、フォスカティーニ伯爵は同じ2人を夕食に招待し、食事が終わると、グレーヴスは急に休みを与えられたと彼は証言した。警察は、フォスカティーニ伯爵の殺害犯として、アスカニオ伯爵を逮捕する。

エレベーター内にあるフラミンゴの写真

ケンジントンルーフガーデンズがある階のエレベーターホール(その1)

ケンジントンルーフガーデンズがある階のエレベーターホール(その2)

ポワロが建物のキッチンスタッフに確認すると、メインコースのサラは3人分ともきれいになくなっていたが、サイドメニューは少ししか手がつけられておらず、更にデザートに至っては全く手がつけられていなかったことが判る。そこにポワロは違和感を抱く。ポートワインに加えて、食後のコーヒーが出されているが、撲殺されたフォスカティーニ伯爵の歯は全く汚れておらず、真っ白だった。その上、ホーカー医師に電話で助けを求めた際に撲殺されたにもかかわらず、フォスカティーニ伯爵は普通に受話器を元に戻しているのである。果たして、警察が疑う通り、脅迫行為が嵩じて、フォスカティーニ伯爵はアスカニオ伯爵に撲殺されたのか?そして、ポワロの灰色の脳細胞が真実を導き出すのであった。

スペイン式庭園(その1)

スペイン式庭園(その2)

スペイン式庭園(その3)

スペイン式庭園(その4)

英国の TV 会社 ITV1 が製作し、英国内での人気があるポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「イタリア貴族殺害事件」(1993年)の回では、ホーカー医師と一緒に、(原作とは異なる)アディスランドコート(Addisland Courtー2016年2月7日付ブログを御参照)のフラットにおいて、フォスカティーニ伯爵が殺されているのをポワロとヘイスティングス大尉は発見する。ヘイスティングス大尉は、昼間訪れたイタリア車販売店「エリスコ・フレッチア(Elisco Freccia)」のオフィスで、フォスカティーニ伯爵がその経営者との間で口論になっていたことを思い出す。そこで、ポワロとヘイスティングス大尉は、ある結婚式に出席していたイタリア車販売店の経営者ブルーノ・ヴィッツーニ(Bruno Vizzini)の元を訪ね、フォスカティーニ伯爵との関係について尋ねる。この場面は、ケンジントンルーフガーデンズ(Kensington Roof Gardens)を使用して撮影されている。

スペイン式庭園(その5)

スペイン式庭園(その6)

スペイン式庭園(その7)

ケンジントンルーフガーデンズは、ケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のケンジントン区(Kensington)内に位置しており、ケンジントンハイストリート(Kensington High Street)沿いに建つビルの屋上にある。当ビルには、以前、「デリー&トムス(Derry & Toms)」(1862年にジョーゼフ・トムス(Joseph Toms)が義兄のチャールズ・デリー(Charles Derry)と一緒に創業)というデパートが入居していた。地上から見上げても、ビルの屋上に庭園が存在しているとはまず判らない。

テューダー朝様式庭園(その1)

テューダー朝様式庭園(その2)

テューダー朝様式庭園(その3

テューダー朝様式庭園(その4)

1933年、ケンジントンハイストリート99番地(99 Kensington High Street)に建つビル内に、「デリー&トムス」デパートがオープンした後、1936年から1938年にかけて、屋上にルーフガーデンが造園された。
造園を担当したのは、ウェールズ(Wales)の首都カーディフ(Cardiff)出身のラルフ・ハンコック(Ralph Hancock:1893年ー1950年)で、彼に造園を依頼したのは、上記デパートを保有するジョン・バーカー会社(John Barker & Co., Ltd.)の副社長(当時)だったトレヴァー・ボーウェン(Trevor Bowen)であった。トレヴァー・ボーウェンは、ニューヨークにあるロックフェラーセンター(Rockefeller Centre)のルーフガーデンに非常に感銘を受けて、同ガーデンを造園したラルフ・ハンコックに依頼を行った、とのこと。当時の金額で約 25,000 ポンドがかかったと言われている。

英国森林庭園(その1)

英国森林庭園(その2)

英国森林庭園(その3)

ケンジントンルーフガーデンズは、以下の3つの庭園に分かれている。
(1)スペイン式庭園(Spanish garden)
(2)テューダー朝様式庭園(Tudor style garden)
(3)英国森林庭園(English woodland garden)→同庭園内には、4羽のフラミンゴが飼われている。

英国森林庭園(その4)

英国森林庭園(その5)

英国森林庭園(その6

英国森林庭園(その7)

同ビルに入居していた「デリー&トムス」デパートは1973年に他社に買収されたが、買収先が1975年にはデパート営業を止めたため、同年、英国の不動産開発業者大手の一つであるブリティッシュランド(British Land)がビルを大改装し、現在は、オフィスや商業店舗(Marks & Spencer、H&M や GAP 等)が入居している。

また、ケンジントンルーフガーデンズは、1981年、ヴァージングループ(Virgin Group)を統括するサー・リチャード・チャールズ・ニコラス・ブランソン(Sir Richard Charles Nicholas Branson:1950年ー)がビル家主から賃借して、現在に至っている。ケンジントンルーフガーデンズは1978年に、また、ビルは1981年に、グレードⅡ(Grade Ⅱ)の指定を受けている。

2016年2月27日土曜日

ロンドン リヴァプールストリート駅(Liverpool Street Station)

リヴァプールストリート駅の入口

サー・アーサー・コナン・ドイル作「隠居絵具屋(The Retired Colourman)」では、ジョサイア・アンバリー(Josiah Amberley)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を相談に訪れる。
彼は画材製造業ブリックホール&アンバリー(Brickhall & Amberley)の経営者の一人であったが、1896年に61歳になった時に引退し、ルイシャム(Lewisham)に家を購入した。そして、翌年の1897年初め、自分より20歳も年下の女性と結婚して、落ち着いた生活を送るはずだった。ところが、近所に住む彼のチェス仲間である若い医師レイ・アーネスト(Dr Ray Ernest)が自分の妻と親密になり、先週、二人は自分の財産を持って逃げ出した、と言うのだ。ジョサイア・アンバリーは、「二人の行方を見つけ出してほしい。」と、ホームズのところへ依頼に来たのであった。
生憎と、別の事件に謀殺されていたホームズは、ジョン・ワトスンに自分の代わりに事件の調査をするよう、頼むのあった。ルイシャムに出向いて調査を始めたワトスンであったが、ジョサイア・アンバリーの家の荒れ果てた様子に驚く。一方で、ジョサイア・アンバリーは古い家の修繕を始めたようで、廊下のペンキ塗りをしていた。
それを聞いたホームズは「こんな時にペンキ塗りとは妙だ。」と感じたが、ワトスンは「辛い気持ちは何かをして晴らすしかない。」と言うジョサイア・アンバリーの言葉通りに信じるのであった。
そして、翌朝、事件は進展する。ワトスンが起きると、ホームズは既に出かけていた。午後3時頃、ホームズが戻って来ると、「ジョサイア・アンバリーもここに来るはずだ。」と、ワトスンに告げる。


彼(ホームズ)の当ては外れなかった。と言うのも、老人(ジョサイア・アンバリー)が厳しい顔つきに心配と当惑の表情を浮かべて現れたからだ。
「ホームズさん、電報を受け取りました。何の事やら全く訳が判りません。」と、彼が電報を渡すと、ホームズはその内容を声に出して読み上げた。「必ず直ぐに来訪願います。貴殿の直近の損失に関する情報あり。エルマン 牧師館」
「リトルパーリントンから午後2時10分に発信されている。」と、ホームズは言った。「リトルパーリントンと言うと、エセックス州だな。フリントンからあまり遠くない。さあ、もちろん、あなたは直ぐに出発して下さい。この電報は、その教区牧師という信頼するに足る人物から送られて来たようです。クロックフォード名鑑はどこにある?ああ、ここだな。『J.C.エルマン、文学修士、モスムーアとリトルパーリントンの聖職禄』とある。ワトスン、列車の時刻表を調べてくれ。」
「リヴァプールストリート駅から午後5時20分初の列車がある。」
「結構。ワトスン、君も彼と一緒に現地へ行ってくれ。彼は手助けと助言が必要になるかもしれないからね。明らかに、僕達はこの件の重要な局面を迎えたんだ。」
しかしながら、私達の依頼人は、全く出発したくなさそうに見えた。

リヴァプールストリート駅の構内(その1)

He was not disappointed, for presently the old fellow arrived with a very worried and puzzled expression upon his austere face.
'I've had a telegram, Mr Holmes. i can make nothing of it.' He handed it over, and Holmes read it aloud. 'Come at once without fail. Can give you information as to your recent loss. Elman. The Vicarage.'
'Dispatched at two-ten from Little Purlington,' said Holmes. 'Little Purlington is in Essex, I believe, not far from Frinton. Well, of course you will start at once. This is evidently from a responsible person, the vicar of the place. Where is my Crockford? Yes, here we have him. J. C. Elman, ma, Living of Moss moor cum Little Purlington. Look up the trains, Watson.'
'There is one at five-twenty from Liverpool Street.'
'Excellent. You had best go with him, Watson. He may need help or advice. Clearly we have come to a crisis in this affair.'
But our client seemed by no means eager to start.

リヴァプールストリート駅の構内(その2)

ワトスンがジョサイア・アンバリーと一緒にリトルパーリントン(Little Purlingtonー架空の場所)  へ向かうために利用したリヴァプールストリート駅(Liverpool Street Station)は、ロンドンの経済活動の中心地であるシティー(City)内の北東の端に位置していて、セントパンクラス駅(St. Pancras Station)やキングスクロス駅(King's Cross Station)等と同じく、ロンドン市内の主要なターミナル駅の一つである。
リヴァプールストリート駅からは、ケンブリッジ(Cambridge)等へ向かうウェストアングリア メインライン(West Anglia Main Line)やノーウィチ(Norwich)やキングスリン(King's Lynn)等へ向かうグレートイースタン メインライン(Great Eastern Main Line)等が発着する他に、ロンドン東部経由、エセックス州(Essex)等の東イングランドを結ぶ通勤列車やロンドン・スタンステッド空港(London Stansted Airport)を結ぶスタンステッドエクスプレス(Stansted Express)等も発着している。

リヴァプールストリート駅の構内(その3)

1862年に、いくつかの鉄道会社が合併して、グレートイースタン鉄道(Great Eastern Railway = GER)が設立され、当時、ショーディッチ地区(Shoreditch)内にあったビショップスゲート駅(Bishopsgate Station)を継承したものの、シティーから離れていたため、ロンドン市内へのアクセスの利便性向上の観点から、現在の地に新たなターミナル駅を建設する計画が持ち上がった。
設計はグレートイースタン鉄道の主任技師であるエドワード・ウィルソン(Edward Wilson:1820年ー1877年)が担当し、施工については、ロイヤルアルバートホール(Royal Albert Hall)等の建設を行ったルーカスブラザース(Lucas Brothers)が請け負った。

画面右手奥にグレートイースタンホテルが建っている

1874年10月2日にリヴァプールストリート駅は部分的に開業し、全面的に開業したのは1875年11月1日である。リヴァプールストリート駅の全面的開業に伴い、1881年に古いビショップスゲート駅は貨物列車用の駅へと変わり、1964年に火災で焼失するまで使用された。1875年に全面的に開業した時点では、リヴァプールストリート駅は「ビショップスゲート駅」と呼ばれていたが、1909年に現在の名前に改名された。
また、リヴァプールストリート駅前、すなわち、ビショップスゲート通り(Bishopsgate)沿いにグレートイースタンホテル(Great Eastern Hotel)が開業した。

リヴァプールストリート駅の構内にある
第一次世界大戦中に亡くなった
グレートイースタン鉄道の職員のメモリアル(その1)
リヴァプールストリート駅の構内にある
第一次世界大戦中に亡くなった
グレートイースタン鉄道の職員のメモリアル(その2)

第一次世界大戦(1914年ー1918年)中の1917年6月13日、ロンドン市内の各地が同盟軍の爆撃を受けた。リヴァプールストリート駅には3発の爆弾が投下され、そのうちの2発が爆発して、駅全体がかなりの被害を蒙った。162人が亡くなり、432人が負傷した。第一次世界大戦中に亡くなったグレートイースタン鉄道の職員は1千人を超え、彼らのためのメモリアル(大理石)が1922年6月22日に除幕され、今もリヴァプールストリート駅の構内に掲げられている。

地下鉄リヴァプールストリート駅(Liverpool Street Station)の入口―
トム・クルーズ(Tom Cruise)主演の
「ミッション・インポシブル(Mission Impossible)」の撮影にも使用されている

現在、リヴァプールストリート駅近辺では、ロンドン東部とロンドン西部の鉄道網をロンドン市内の地下で接続するクロスレールプロジェクト(Crossrail Project)工事が進行中で、正式開業は、今のところ、2018年と言われている。リヴァプールストリート駅の地下でも、クロスレール用の駅の建設工事が進んでいる。今週、施工中のボンドストリート駅へエリザベス2世女王が招待され、その際、クロスレールラインは「エリザベスライン(Elizabeth Line)」と正式に命名された。

2016年2月21日日曜日

ロンドン デベナムハウス(Debenham House)

デベナムハウス外観ー青色や緑色のレンガが鮮やかに輝いている

アガサ・クリスティー作「ひらいたトランプ(Cards on the Table)」(1936年)は、エルキュール・ポワロが謎多き裕福な蒐集家であるシャイタナ氏(Mr Shaitana)からブリッジパーティーへの招待を受けるところから、物語が始まる。「まだ告発されていない殺人犯を招いた上でのパーティーだ。」と言うシャイタナ氏の趣旨に興味を覚えたポワロは、パーティーへの参加を決める。


シャイタナ氏の自宅で行われたパーティーに招待されたのは、以下の8人だった。
(1)探偵組
*エルキュール・ポワロ
*バトル警視(Superintendent Battle)ースコットランドヤードの警察官
*レイス大佐(Colonel Race)ー秘密情報局の情報部員
*アリアドニ・オリヴァー夫人(Mrs Ariadne Oliver)ー女流推理作家
(2)容疑者組
*ロバーツ医師(Dr Roberts)ー成功をおさめた中年の医師
*ロリマー夫人(Mrs Lorrimer)ーブリッジ好きな初老の女性
*デスパード少佐(Major Despard)ー未開地を探索する探検家
*アン・メレディス(Anne Meredith)ー内気で若く麗しい女性


食事の最中、シャイタナ氏はパーティーの出席者に対して、謎めいた告発を行う。そして、食事が済むと、容疑者組の4人はメインルーム(客間)で、また、探偵組の4人は別の部屋でブリッジを始めることとなった。シャイタナ氏はメインルームの暖炉の側に置かれた椅子を自分の居場所として、ブリッジへの参加を辞退する。
ブリッジが終わり、ポワロとレイス大佐がシャイタナ氏に暇を告げようとした際、彼らはシャイタナ氏が彼の蒐集品であるナイフで胸を刺されて死んでいるのを発見する。


果たして、シャイタナ氏が謎めいた告発をした対象の人物は誰だったのか?そして、その人物がシャイタナ氏を刺殺したのだろうか?
名探偵、警察官や情報部員等が同席しているパーティーの最中、大胆にも行われた犯行を解き明かすべく、ポワロの灰色の脳細胞が、ブリッジの点数表の内容にその糸口を見いだすのであった。


英国のTV会社ITV1で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「ひらいたトランプ」(2006年)の回では、シャイタナ氏が住む屋敷ピーコックハウス(Peacock House)として、ケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)内にある「デベナムハウス(Debenham House)」が撮影に使用されている。

デベナムハウスの入口
(アディソンロード8番地)

デベナムハウスは、北側は地下鉄ホーランドパーク駅(Holland Park Tube Station)経由、地下鉄ノッティングヒルゲート駅(Notting Hill Gate Tube Station)と地下鉄シェファーズブッシュ駅(Shepherd's Bush Tube Station)を結ぶホーランドパークアベニュー(Holland Park Avenue)に、東側はホーランドパーク(Holland Park)に、南側は地下鉄ハイストリートケンジントン駅(High Street Kensington Tube Station)と地下鉄ハマースミス駅(Hammersmith Tube Station)を結ぶケンジントンハイストリート(Kensington High Street)に、そして、西側はホーランドロード(Holland Road)に囲まれた一帯内に位置しており、ホーランドロードの東側に並行して南北に延びるアディソンロード(Addison Road)沿いに建っている。具体的な住所は、アディソンロード8番地(8 Addison Road)である。

オックスフォードストリート(Oxford Street)沿いに建つ
デベナムデパート

デベナムハウスは、デベナム(Debenham)デパートのオーナーであるサー・アーネスト・リドリー・デベナム(Sir Ernest Ridley Debenham:1865年ー1952年)の依頼に基づいて、英国の建築家ホールジー・リカルド(Halsey Ricardo:1854年ー1928年)により1905年から1907年のかけて建設された。
建物の外観はイタリア式に、そして、内装はウィリアム・モリス(William Morris:1834年ー1896年)が主導したアーツ・アンド・クラフト運動(Arts and Craft Movement:美術工芸運動)式で施工されている。建物の外観を覆う青色や緑色のレンガが鮮やかに輝いており、周辺の住宅の中でも、ひと際目立っている。


サー・アーネスト・リドリー・デベナムの死後、この建物は売却されたが、以前の持ち主に因んで、「デベナムハウス」と呼ばれるようになった。

現在、建物を囲う門や塀等が改装中のため、ポワロシリーズのような写真をお見せできないのが残念である。ただし、外観のレンガは未だに顕在である。

2016年2月20日土曜日

ロンドン ロイヤルアルバートホール(Royal Albert Hall)

ロイヤルアルバートホール全景

サー・アーサー・コナン・ドイル作「隠居絵具屋(The Retired Colourman)」では、ジョサイア・アンバリー(Josiah Amberley)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を相談に訪れる。
彼は画材製造業ブリックホール&アンバリー(Brickhall & Amberley)の経営者の一人であったが、1896年に61歳になった時に引退し、ルイシャム(Lewisham)に家を購入した。そして、翌年の1897年初め、自分より20歳も年下の女性と結婚して、落ち着いた生活を送るはずだった。ところが、近所に住む彼のチェス仲間である若い医師レイ・アーネスト(Dr Ray Ernest)が自分の妻と親密になり、先週、二人は自分の財産を持って逃げ出した、と言うのだ。ジョサイア・アンバリーは、「二人の行方を見つけ出してほしい。」と、ホームズのところへ依頼に来たのであった。
生憎と、別の事件に謀殺されていたホームズは、ジョン・ワトスンに自分の代わりに事件の調査をするよう、頼むのあった。ルイシャムに出向いて調査を始めたワトスンであったが、ジョサイア・アンバリーの家の荒れ果てた様子に驚く。一方で、ジョサイア・アンバリーは古い家の修繕を始めたようで、廊下のペンキ塗りをしていた。
それを聞いたホームズは「こんな時にペンキ塗りとは妙だ。」と感じたが、ワトスンは「辛い気持ちは何かをして晴らすしかない。」と言うジョサイア・アンバリーの言葉通りに信じるのであった。ワトスンの調査報告を聞き終わると、ホームズは次の様に話を始めた。

ケンジントンロードからアルバート公記念碑を望む

「電話とスコットランドヤードの助けのおかげで、僕はベーカーストリートの部屋を離れないで、必要不可欠な情報を入手できるさ。実際、僕の情報はあの男(ジョサイア・アンバリー)の話を裏付けているんだ。彼は、地元では、刺々しく、無理難題を言うのに加えて、ケチで守銭奴だという評判だ。彼が自宅の金庫室に多額のお金を保管していたのは間違いない。そして、未婚の若いアーネスト医師がアンバリーとチェスをしていたことも事実だ。多分、アーネスト医師が彼の妻にちょっかいを出したことも事実だろう。これは裏のない明白な話のように思えるが、それでもだ、まだ全てがしっくりこないのさ!」
「どこが問題なんだ?」
「多分、僕の想像力の中では、まだ全てが明瞭じゃないのさ。ワトスン、まあ、今日はこの位にしておこう。これから音楽の横道へそれて、この退屈な日常世界から逃げ出そうじゃないか?今夜、カリーナがロイヤルアルバートホールで歌うんだ。着替えをして、食事をした後でも、楽しむ時間はまだ充分あるよ。」

ケンジントンロードから見たロイヤルアルバートホール

'Thanks to the telephone and the help of the Yard, I can usually get my essentials without leaving this room. As a matter of fact, my information confirms the man's story. He has the local repute of being a miser as well as a harsh and exacting husband. That he had a large sum of money in that strong-room of his is certain. So also is it that young Dr Ernest, an unmarried man, played chess with Amberley, and probably played the fool with his wife. All this seems plain sailing, and one would think that there was no more to be said - and yet - and yet!'
'Where lies the difficulty?'
'In my imagination, perhaps. Well, leave it there, Watson. Let us escape from this weavy workaday world by the side door of music. Carina sings tonight at the Albert Hall, and we still have time to dress, dine and enjoy.'

ケンジントンガーデンズから見たロイヤルアルバートホール

ロイヤルアルバートホール(Royal Albert Hall)は、ヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年)の夫君であるアルバート公(Albert, Prince Consort:1819年ー1861年)に捧げられた演劇場である。同演劇場は、ロンドン中心部のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)内にあり、地下鉄ハイドパークコーナー駅(Hyde Park Corner Tube Station)から地下鉄ハイストリートケンジントン駅(High Street Kensington Tube Station)へ向かって西に延びるケンジントンロード(Kensington Road)を挟んで、ケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens)の南側に建っている。

アルバート公記念碑に設置されているアルバート公像

1840年にヴィクトリア女王と結婚したアルバート公はドイツ出身だったため、今一つ英国民に受け入れられないでいた。1851年にロンドンのハイドパーク(Hyde Park)で開催された万国博覧会(Great Exhibitionsークリスタルパレス(水晶宮:Crystal Palace)も建設された)を指揮し、大成功に導いたことによって、アルバート公は遂に英国民に認められたが、1861年12月14日、腸チフスが原因で42歳の若さで死去してしまった。
アルバート公に捧げるため、ケンジントンガーデンズ内にアルバート公記念碑(Albert Memorial)を設置する計画が進んでいたが、それとは別に、その反対側の地に演劇場を建設する話が持ち上がった。万国博覧会で得た収益金を主に使用して、必要な土地が収用され、1867年4月、ヴィクトリア女王の承認の下、同年5月に建設工事が開始された。

地下鉄ハイドパークコーナー駅の地下道の壁に描かれている
クリスタルパレス(水晶宮)

設計者は王立兵団(Corps of the Royal Engineers)のフランシス・フォーク大尉(Captain Francis Fowke:1823年ー1865年 ヴィクトリア&アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)やチズックハウス(Chiswick House)等の設計も担当)とヘンリー・ヤング・ダラコット・スコット少将(Major-General Henry Young Darracott Scott:1822年ー1883年)の二人で、建設自体はルーカスブラザーズ(Lucas Brothers)によって施工された。
ヴィクトリア女王出席の下、1871年3月29日に開場した。計画当初は、「Central Hall of Arts and Sciences」という名前であったが、アルバート公に因んで、「Royal Albert Hall of Arts and Sciences」と命名された。

ケンジントンガーデンズからロイヤルアルバートホールを望む

以降、ロイヤルアルバートホールでは、多くの催し物(クラシックコンサート、ポップコンサート、バレエ公演、ボクシング、プロレスリングやテニス等)が開催されている。特に、1941年より毎年夏に開催される「BBCプロムナードコンサート(The Proms)」の会場として、非常に有名である。以前、日本の大相撲が英国公演を行った際、ロイヤルアルバートホールで開催されている。