2015年2月28日土曜日

ロンドン ハノーヴァースクエア / セントジョージズ教会(Hanover Square / St. George's Church)

ハノーヴァースクエア内にある広場

サー・アーサー・コナン・ドイル作「独身の貴族(The Noble Bachelor)」(出版社によっては、「花婿失踪事件(A Case of Identity)」との対比から「花嫁失踪事件」と訳しているケースあり)において、1887年10月、ロバート・ウォルシンガム・ド・ヴェア・セント・サイモン卿(Lord Robert Walsingham de Vere St Simon)との結婚式の後、花嫁であるハティー・ドラン(Hatty Doran)が披露宴の席上、気分がすぐれないと言って自室に引き下がり、そのまま姿を消してしまったのである。セント・サイモン卿がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れ、ドラン嬢の行方を捜してほしいと依頼する。


セント・サイモン卿の来訪に先立ち、ホームズの指示に基づいて、ジョン・ワトスンは新聞の山の中から本件に関する記事を探して、ホームズに読んで聞かせるのであった。ワトスンはモーニングポスト(Morning Post)他の記事を読み上げた。

ハノーヴァースクエア側から見たセントジョージズ教会

「他にもあるかい?」と、ホームズは欠伸をしながら尋ねた。
「あるよ、大層ね。モーニングポストに別の記事が載っている。結婚は完全に内輪で行われる予定で、結婚式の場所はハノーヴァースクエアのセントジョージズ教会となっている。結婚式に招待されたのは、親しい友人が6名だけで、結婚式後、一行はアロイシウス・ドラン氏が購入したランカスターゲートにある家具付きの家へ戻る予定だったようだ。2日後ーつまり、この前の水曜日だが、結婚式が執り行われ、ハネムーンはピーターズフィールドの近くにあるバックウォーター卿の邸宅で過ごす予定という簡単な告知が出ている。これで、花嫁が失踪する前に載った記事は全部だ。」

ハノーヴァースクエア内にあるウィリアム・ピット(小ピット)
(William Pitt (the Younger):1759年ー1806年)のブロンズ像
ー彼は、1783年ー1801年と1804年ー1806年の2回、
英国首相を務めている

'Anything else ?' asked Holmes, yawning.
'Oh, yes ; plenty. Then there is another note in the Morning Post to say that the marriage would be an absolutely quiet one, that it would be at St George's, Hanover Square, that only half a dozen intimate friends would be invited, and that the party would return to the furnished house at Lancaster Gate which has been taken by Mr Aloysius Doran. Two days later - that is, on Wednesday last - there is a curt announcement that the wedding had taken place, and that the honeymoon would be passed at Lord Backwater's place, near Petersfield. These are all the notices which appeared before the disappearance of he bride.'

ハノーヴァースクエア内でも、
ロンドンの東部と西部を結ぶ地下トンネルを建設する
クロスレール工事が行われている

セント・サイモン卿とハティー・ドランの結婚式が執り行われたセントジョージ教会(St. George's)が所在するハノーヴァースクエア(Hanover Square)は、ロンドンのメイフェア地区(Mayfair)内にある。具体的に言うと、マーブルアーチ(Marble Arch)から東に延びるオックスフォードストリート(Oxford Street)とピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)から北へ延びるリージェントストリート(Regent Street)が交差するオックスフォードサーカス(Oxford Circus)の南西にあり、徒歩数分圏内である。

ハノーヴァースクエアの南東の角にあるヴォーグハウス(Vogue House)
ー画面右奥の角を回ったところに、雑誌「ヴォーグ(Vogue)」等を販売する店がある

初代スカボロー伯爵(1st Earl of Scarbrough)で、名誉革命(Glorious Revolution:1688年)時の政治家として名を馳せたリチャード・ルムレイ(Richard Lumley)により、1713年にハノーヴァースクエアは住宅街として開発された。1714年に英国王がステュアート朝からハノーヴァー朝に替わったことに伴い、当広場はハノーヴァースクエアと名付けられた。それ以降、約300年の間にハノーヴァースクエアを取り囲む建物の大部分は建替えられてしまい、18世紀当時の建物はほとんど残っていない。

セントジョージズ教会の入口の屋根は、コリント式の柱で支えられている

セント・サイモン卿とハティー・ドランの結婚式が行われたセントジョージズ教会は実在しているが、ハノーヴァースクエア内には所在していない。実際には、ハノーヴァースクエアから南へ少し下ったところ、セントジョージストリート(St. George Street)とマドックスストリート(Maddox Street)が交差する南東の角に、セントジョージズ教会は建っている。
1721年にウィリアム・ステュアート将軍(General William Stuart)が寄贈した土地をベースにして、ジョン・ジェイムズ(John James)が設計し、1721年から1725年にかけて、セントジョージズ教会は建設された。教会の入口の屋根はコリント式の柱で支えられている。
メイフェア地区内にあるというロケーション上、ここで上流階級の結婚式が頻繁に執り行われているそうで、有名なところでは、米国第25代副大統領で、かつ、第26代大統領のセオドア・ルーズヴェルト(Theodore Roosevelt:1858年ー1919年)が1886年12月2日ここで妻エディス・キャロー(Edith Carow)との結婚式を行っている。

2015年2月22日日曜日

ロンドン グローヴナースクエア(Grosvenor Square)


サー・アーサー・コナン・ドイル作「独身の貴族(The Noble Bachelor)」(出版社によっては、「花婿失踪事件(A Case of Identity)」との対比から「花嫁失踪事件」と訳しているケースあり)において、1887年10月、ロバート・ウォルシンガム・ド・ヴェア・セント・サイモン卿(Lord Robert Walsingham de Vere St Simon)との結婚式の後、花嫁であるハティー・ドラン(Hatty Doran)が披露宴の席上、気分がすぐれないと言って自室に引き下がり、そのまま姿を消してしまったのである。セント・サイモン卿がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れ、ドラン嬢の行方を捜してほしいと依頼する。
この事件は、次のようにして幕を開ける。ホームズはある手紙を手にして、ジョン・ワトスンに向かって話を始めるのであった。

米国大使館側から見たグローヴナースクエアの広場

「僕が手に持っている手紙は、セント・サイモン卿から受け取ったものだ。ワトスン、君に読んで聞かせるから、これらの新聞の山の中から、この件に関する記事であれば、どんなものでもいいので、僕に見せてくれないか。」その手紙で、セント・サイモン卿は次のように告げていた。

「シャーロック・ホームズ殿 ー バックウォーター卿から貴殿の判断と思慮には絶対の信頼を寄せられるという話を聞きました。それ故、私は貴殿を訪問の上、私の結婚に関連して発生した非常に沈痛な出来事を相談したいと思っております。スコットランドヤードのレストレード警部が本件に関する調査に着手していますが、私が貴殿に御協力を仰ぐことに彼は反対せず、何らかの手助けになるかもしれないと考えています。そこで、私は午後4時に貴殿の元を御伺いするつもりです。本件は非常に重要なので、もしその時間貴殿に他の約束がある場合には、そちらを延期していただきたい。
敬具
               セント・サイモン

「この手紙はグローヴナー邸から出されている。羽ペンで書かれているよ。惜しむらくは、セント・サイモン卿の右手小指の外側がインクで汚れているはずだ。」と、ホームズは手紙をたたみながら言った。

広場内から見たグローヴナースクエアの北側

'The letter which I hold in my hand is from Lord St Simon. I will read it to you, and in return you must turn over these papers and let me have whatever bears upon the matter.' This is what he says:

'MY DEAR MR SHERLOCK HOLMES - Lord Backwater tells me that I may place implicit reliance upon your judgement and discretion. I have determined, therefore, to call upon you and to consult you in reference to the very painful event which has occurred in connection with my wedding. Mr Lestrade, of Scotland Yard, is acting already in the matter, but he assures me that he sees no objection to your co-operation. I will call at four o'clock in the afternoon, and should you have any other engagement at that time, I hope that you will postpone it, as this matter is of paramount importance.
Yours faithfully,
               ST SIMON

'It is dated from Grosvenor Mansions, written with a quill pen, and the noble lord has had the misfortune to get a smear of ink upon the outer side of his right little finger,' remarked Holmes as he folded up the epistle.

グローヴナースクエアの広場内にある立て看板

セント・サイモン卿の邸宅があるグローヴナースクエア(Grosvenor Square)は、ロンドンのメイフェア地区(Mayfair)内にある広場で、ウェストミンスター公爵(Duke of Westminster)が所有する不動産の中心部にある。なお、広場の名前は、公爵の名字である「グローヴナー(Grosvenor)」から採られている。
1710年にリチャード・グローヴナー卿(Sir Richard Grosvenor)が(グローヴナー)スクエアと広場を囲む通り一帯を開発する許可を得て、1721年頃に開発が始まったと言われている。その後、第二次世界大戦(1939年ー1945年)時までロンドン有数の人気がある住宅街の一つで、数多くの貴族階級が住んでいた、とのこと。

グローヴナースクエアの東側ー
右側の建物をカナダ領事館が使用している

米国政府がグローヴナースクエア内の建物を使用し始めたのは、1785年まで遡る。
1960年にグローヴナースクエアの西側に米国大使館(United States Embassy)が建設された。米国大使館が1938年からそれまでの間使用していた建物(グローヴナースクエアの東側)は、カナダ政府によって購入され、マクドナルドハウス(Macdonald House)と名前を変えて、以後、カナダ領事館(Canada High Commission)が入居している。

以前は、グローヴナースクエアを周回する道路は全て一般に開放されていたが、2001年9月11日に米国内で発生した同時多発テロ事件以降、米国外に所在する大使館や領事館等へのテロ行為のリスクが飛躍的に高まったことに伴い、米国大使館前を通るグローヴナースクエア周回道路の一部が封鎖されて、現在に至っている。

グローヴナースクエアの西側ー米国大使館

2008年に入り、米国政府は、同大使館をグローヴナースクエアからテムズ河(River Thames)南岸のワンズワース区(London Borough of Wandsworth)にあるナインエルムス(Nine Elms)エリアへ移転させる方針を発表、2016年、あるいは、2017年までの移転が計画されている。
一方、2009年10月に、イングランド内にある城や邸宅等の保存を目的とするイングリッシュ・ヘリテージ(English Heritage)の推奨を受けて、現在、米国大使館が入居している建物は「グレードⅡ(Grade Ⅱ)」という認定を受けたことに伴い、法令上、建物の所有者は建物の外観を変更することが許されなくなった。現在の建物を建て替える場合、外観についてはそのまま残して、建物の内部のみが建替え可能となる。現在の建物の正面屋上に鷲の像が設置されているが、建替えの際には、これも撤去できないことになる。
2009年11月に、米国大使館が入居している建物は、カタール系投資グループに売却され、米国大使館の移転後にはホテルに改装されるという噂である。

グローヴナースクエアの広場内に建つ
フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトのブロンズ像

グローヴナースクエアの広場には、民主党出身の第32代米国大統領フランクリン・デラノ・ルーズヴェルト(Franklin Delano Roosevelt:1882年ー1945年)のブロンズ像があり、広場一帯を見守っている。

2015年2月21日土曜日

ロンドン モンタギュープレイス(Montague Place)


サー・アーサー・コナン・ドイル作「ぶな屋敷(The Copper Beeches)」では、ジェフロ・ルーカッスル(Jephro Rucastle)がハンプシャー州(Hampshire)に所有する’ぶな屋敷(Copper Beeches)’と呼ばれる邸宅で住み込みの家庭教師の職に就くことになった若い女性ヴァイオレット・ハンター(Violet Hunter)が、ベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を依頼人として訪れる。ハンター嬢としては、
・ルーカッスル氏から住み込みの家庭教師としては高額の年棒(100ポンド→のちに120ポンドに変更)のオファーがあったこと
・また、雇用条件として、長い金髪を切って、ショートカットにしてほしいという奇妙な指示があったこと
等から不安を感じ、ホームズに頼った次第である。ハンター嬢は訪問に先立って、ホームズ宛に手紙を送った。ホームズはその手紙をジョン・ワトスンに見せる。

モンタギュープレイス越しに大英博物館を望む

それは、昨晩モンタギュープレイスから出されたもので、次のように書かれていた。

ホームズ様
私に家庭教師になってほしいという依頼を受けるべきか否かについて、是非ともあなたに御相談させていただきたいと思います。もし不都合がなければ、明日の午前10時半に御伺い致します。
敬具          ヴァイオレット・ハンター

「君はこの若い女性のことを知っているのかい?」と、私は尋ねた。
「いいや。」
「ちょうど今午前10時半だな。」
「そうだな。あのベルの音はきっと彼女だ。」
「君が思っている以上に面白い事件になるかもしれない。青いガーネット事件のことを覚えているだろう。最初は単なる気まぐれで始めたようだが、最終的には重大な捜査に発展したじゃないか。今回もそうなるかもしれないよ。」
「そうだね。そうなることを期待したいね。しかし、それはすぐにハッキリするさ。僕が間違えていなければ、ほら、その依頼人が来たようだ。」

モンタギュープレイスとマレットストリート(Malet Street)が交差する角にあるプライベートガーデン

It was dated from Montague Place upon the preceding evening, and ran thus:

DEAR MR HOLMES - I am very anxious to consult you as to whether I should or should not accept a situation which has been offered to me as governess. I shall call at half-past ten tomorrow if I do not inconvenience you.
Yours faithfully,          VIOLET HUNTER

'Do you know the young lady ?' I asked.
'Nor I.'
'It is half-past ten now.'
'Yes, and I have no doubt that is her ring.'
'It may turn out to be of more interest than you think. You remember that the affair of the blue carbuncle, which appeared to be a more whim at first, developed into a serious investigation. It may be so in this case, also.'
'Well, let us hope so. But our doubts will very soon be solved, for here, unless I am much mistaken, is the person in question.'

左側がロンドン大学で、右側が大英博物館

今回の事件の依頼人であるヴァイオレット・ハンターが住むモンタギュー・プレイス(Montague Place)は、ロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内にある。ブルームズベリー地区は、19世紀から20世紀にかけて、多くの芸術家や学者等が住む文教地区として発展してきた街である。
モンタギュープレイスは、東側のラッセルスクエア(Russell Square)から始まり、西側のベッドフォードスクエア(Bedford Square)で終わる約500mの通りである。また、通りの北側にはロンドン大学(University of London)が、そして、南側には大英博物館(British Museum)があり、現在、通りの両側で住居になっているところは少ない。

ベッドフォードスクエア側からモンタギュープレイスを望む
上記の写真の左の建物には、
哲学者のヘンリー・キャベンディッシュ(1731年ー1810年)が
住んでいた

仮にヴァイオレット・ハンターが部屋を間借りしていた家がラッセルスクエアの近くだった場合、ベーカーストリート221Bに住む前に、ホームズが間借りしていたモンタギューストリート(Montague Street)とはすぐ目と鼻の先だったことになる。

2015年2月15日日曜日

ロンドン ヴィクトリアストリート16A番地(16A Victoria Street)


サー・アーサー・コナン・ドイル作「技師の親指(The Eingeer's Thumb)」では、1889年の夏の朝午前7時前、今回の事件の依頼人である水力工学技師のヴィクター・ハザリー(Victor Hatherley)が手を負傷して、「四つの署名(The Sign of the Four)」事件で知り合ったメアリー・モースタン(Mary Morstan)と結婚し、パディントン駅(Paddington Station)の近くに開業していたジョン・ワトスンの医院へ運び込まれるところから、物語が幕を開ける。通常は、事件の依頼人がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を相談に訪れるところから話が始まるが、今回は一風変わった展開となっている。

今回の事件の依頼人であるヴィクター・ハザリーの事務所
(ヴィクトリアストリート16A番地)があったと思われる建物

私が診察室に入ると、テーブルの側に一人の紳士が座っていた。彼は灰色がかった紫のツイード服を着ており、私の本の上に柔らかい布製の帽子が置かれていた。彼は片手にハンカチを巻いていたが、ハンカチ全体に血が滲んでいた。25歳を超えていないくらいの若さで、たくましい男性的な顔つきをしていた。しかしながら、今は彼の顔色は真っ青で、何か強い精神的な動揺を受けたのを、気力を振り絞って耐えているような印象を受けた。
「先生、こんなに朝早くから起こしてしまい、申し訳ありません。」と彼は言った。「しかし、昨夜、酷い災難に遭ったのです。今朝、列車でパディントン駅に着き、どこかにお医者さんは居ないかとそこで尋ねたところ、親切な方が私をここまで連れて来てくれました。私は女中さんに名刺を渡したのですが、彼女はサイドテーブルの上に置き忘れて行ったようですね。」
私はその名刺を手に取ってみた。「ヴィクター・ハザリー、水力工学技師、ヴィクトリアストリート16A番地(4階)」と書かれていた。これが、今朝の患者の氏名、肩書きと住所だ。「大変お待たせしてすみません。」と、私は診察椅子に腰を下ろしながら言った。「あなたは夜行列車で着かれたばかりですね。道中はさぞかし退屈なさったでしょう。」

I entered my consulting-room and found a gentleman seated by the table. He was quietly dressed in a suit of heather tweed with a soft cloth cap which he had laid down upon my books. Round one of his hands he had a handkerchief wrapped, which was mottled all over with blood stains. He was young, not more than five-and-twenty, I should say, with a strong, masculine face; but he was exceedingly pale and gave me the impression of a man who was suffering from some strong agitation, which it took all his strength of mid to control.
'I am sorry to knock you up so early, doctor,' said he, 'but I have had a very serious accident during the night. I came in by train this morning, and on inquiring at Paddington Station as to where I might find a doctor, a worthy fellow very kindly escorted me here. I gave the maid a card, but I see that she has left it upon the side-table.'
I took it up and glanced at it. 'Mr Victor Hatherley, hydraulic engineer, 16a Victoria Street (3rd floor)' That was the name, style, and abde of my morning visitor. 'I regret that I have kept you waiting,' said I, sitting down in my library-chair. 'You are fresh from a night journey, I understand, which is in itself a monotonous occupation.'

ヴィクトリアストリートとブロードウェイ通り(Broadway)が交差する角の広場にあるブロンズ彫刻像
ヴィクトリアストリート沿いにある
メトロポリタン警察の本部ビル

ヴィクトリアストリート(Victoria Street)は、ヴィクトリア駅(Victoria Station)から東方面へ延びている通りで、ウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)の手前でブロードサンクチュアリ通り(Broad Sanctuary)という名前に変わる。
ヴィクトリアストリートは、元々、1850年代に スラム街を取り壊して施設された、とのこと。
ヴィクトリア駅近辺のヴィクトリアストリートの両側には、銀行、商業用店舗やレストラン等が入居しているのに加えて、近年、再開発が行われ、近代的なビルがいくつか建っている。また、ヴィクトリアストリートがウェストミンスター寺院方面へと向かう途中には、
・ウェストミンスターシティーホール(Westminster City Hall)
・ロンドンの地下鉄やバスの運行を管理するトランスポート・フォー・ロンドン(Transport for London)の本部
・ニュースコットランドヤード(New Scotland Yard)
・メトロポリタン警察(Metropolitan Police Station)の本部
等の公的機関が入居するビルが並んでいる。ウェストミンスター寺院を過ぎると、国会議事堂(House of Parliament)として現在使用されているウェストミンスター宮殿(Palace of Westminster)が、更にその北側には首相官邸(10 Downing Street)等が所在するホワイトホール通り(Whitehall)があることが、その理由である。

ヴィクトリアストリート20番地のビルー
右手にあるのが、ヴィクトリアストリート10番地のビル
写真の通り、ヴィクトリアストリート10番地と20番地のビルは存在するが、
現在、16番地に相当するビルは存在していない

なお、今回の事件の依頼人であるハザリー氏の事務所があったヴィクトリアストリート16番地は実在している。ただ、実際には、ヴィクトリアストリート10番地とヴィクトリアストリート20番地のビルは存在するものの、ヴィクトリアストリート16番地に相当するビルは存在していない。ヴィクトリアストリート10番地のビルは横に長い建物のため、区画上、ヴィクトリアストリート16番地は10番地のビルの中に含まれているというのが正確かと思う。

2015年2月14日土曜日

ロンドン シェフィールドテラス58番地(58 Sheffield Terrace)

アガサ・クリスティーが住んでいたシェフィールドテラス58番地の全景

最初の夫アーチボルド・クリスティー(Archibald Christie:1889年ー1962年)の浮気が原因で、1928年に彼と離婚したアガサ・クリスティーは、中東旅行の際に知り合った考古学者サー・マックス・エドガー・ルシアン・マローワン(Sir Max Edgar Lucien Mallowan:1904年ー1978年)と1930年に再婚する。その後、1934年に二人は地下鉄ノッティングヒルゲート駅(Notting Hill Gate Tube Station)の近くにあるシェフィールドテラス58番地(58 Sheffield Terrace)の家を購入した。


シェフィールドテラス58番地へ行くには、セントラルライン(Central Line)、サークルライン(Circle Line)およびディストリクトライン(District Line)が交差する地下鉄ノッティングヒルゲート駅を出て、東西に延びるノッティングヒルゲート通り(Notthing Hill Gate)を渡り、ケンジントン チャーチストリート(Kensington Church Street)を南へ下る必要がある。このケンジントン チャーチストリートの両側には、高級な絵画や家具等を販売するアンティークショップが数多く並んでいる。ケンジントン チャーチストリートを数分南へ下ると、進行方向右手にシェフィールドテラス通り(Sheffield Terrace)が見えてくる。シェフィールドテラス通りは、一軒家やフラット等が並ぶ高級住宅街内にある。シェフィールドテラス通り自体は、ケンジントン チャーチストリート側から非常に緩やかな登り坂となっている。この坂道を上がって行くと、キャンプデンヒルロード(Campden Hill Road)に突き当たるが、その数軒手前の右手にある真っ白な3階建ての家が、シェフィールドテラス58番地である。

シェフィールドテラス通り(手前の道路)が
キャンプデンヒルロード(左手奥の道路)に突き当たった角

1939年に第二次世界大戦が勃発すると、ドイツ軍によるロンドン爆撃が激しくなり、1940年10月にはシェフィールドテラス58番地も被弾して、地下室、3階および屋根に大きな被害を受けたとのこと。残念ながら、1941年にアガサとマックスの夫妻はシェフィールドテラス58番地を手放して、ロンドン北部のハムステッド(Hampstead)へ移り住んでしまった。

シェフィールドテラス58番地の玄関を
ライオンとユニコーンが守っている

現在、シェフィールドテラス58番地の家は、白く高い塀と植え込みに囲まれていて、外の通りから(日本で言う)1階部分はあまり見ることができない。家の門には緑のドアがあり、「グリーンロッジ(Green Lodge)」という名前がかろうじて読み取ることができる。また、門のドアの右側には、番地名を示す「58」のプレートが付いている。1階にある玄関のドアの上には、右手にライオン、そして、左手に一角獣(ユニコーン)のプレートが架けられている。

アガサ・クリスティーがシェフィールドテラス58番地に
住んでいたことを示すブループラーク

更に、(日本で言う)2階部分に該る左手の出窓の左側に、「アガサ・クリスティーが1934年から1941年までの間、ここに住んでいた」ことを示すイングリッシュ・ヘリテージ(English Heritage)管理のブループラーク(Blue Plaque)が掲げられている。

2015年2月8日日曜日

トーキー(Torquay) グランドホテル(Grand Hotel)

トアベイロードから撮影したグランドホテルー
空には一雨降らしそうな厚い雲が押し寄せている

トーキー駅(Torquay Station)のすぐ近く、海岸通りのトアベイロード(Torbay Road)沿いに、異国風の白い建物グランドホテル(Grand Hotel)が建っている。ここで、アガサ・クリスティーは夫アーチボルド・クリスティー大尉(Archibald Christie:1889年ー1962年)と新婚の夜を過ごしている。

1914年に第一次世界大戦が勃発したことに伴い、婚約者のアーチボルド(通称:アーチー(Archie))は、ドイツ軍との戦いのため、前線(フランス)に赴いた。1914年12月21日、フランスから英国に一時帰国したアーチは、ロンドンでアガサと再会する。その際、アーチーはアガサにプレゼントとして高価な衣装ケースを渡すが、
・それが金持ち階級がロンドンのリッツホテルへ持って行くようなものだったこと
・アガサとしては、婚約中であることを示す指輪やブレスレットのようなものを期待していたこと
等もあって、プレゼントをめぐって、かなり激しい喧嘩をしたそうである。
それでも、同年12月23日、二人はアーチーの両親が住む英国西部ブリストル(Bristol)郊外のクリフトン(Clifton)へ行き、その夜、アーチーはアガサに「明日、結婚式を挙げよう!」と告げる。そして、アガサは、母親クララの許しを得ないまま、クリスマスイヴの12月24日の午後、アーチーと結婚式を挙げ、クリスティー夫人となった。式を挙げた後、アガサは母親に電話して、結婚をしたことを連絡したが、突然のことに母親はショックを受けてしまい、最初の反応はあまり芳しくなかったようである。その夜、二人は混雑する列車に乗ってブリストルからアガサの母親が住むトーキー(Torquay)へ向かい、夜中にトーキー駅に到着。そして、二人がとりあえず身を落ち着けたのが、このグランドホテルで、トーキー駅の近くにあり、便利だったためと思われる。
翌日の12月25日、急な連絡で受けたショックから立ち直った母親と一緒にクリスマスを過ごしたアガサ達は、12月26日にロンドンへ戻った。そして、夫アーチーは再びフランスへ出征した。二人が再会できるのは約6ヶ月後で、また、二人がちゃんとした結婚生活を始めることができるのは、第一次世界大戦が終結する4年先であった。

1908年にオープンしたグランドホテルは、アガサ・クリスティー作「エンドハウスの怪事件(Peril at End House)」(1932年)の舞台マジェスティックホテル(Majestic Hotel)のモデルとなったインペリアルホテル(Imperial Hotel)と並び、トーキーでは由緒と伝統があるホテルである。ホテルの周囲には、パームツリーが植えられていて、リヴィエラ(Riviera)がある南仏のようなエキゾティックな雰囲気を漂わせている。
当時の宿泊記録が残っていないため、アガサとアーチーのクリスティー夫妻がどの部屋に宿泊したのかは不明である。現在、ホテルは「アガサ・クリスティー スウィート(Agatha Christie Suite)」と呼ばれる海に面した部屋を用意しているが、この部屋にクリスティー夫妻が宿泊したのかどうかは定かではない。

2015年2月7日土曜日

ロンドン ポッターズテラス17番地(17 Potter's Terrace)

ポッターズテラス17番地(架空の住所)があった場所と思われる
ハムステッドウェイ

 サー・アーサー・コナン・ドイル作「株式仲買店員(The Stockbroker's Clerk)」において、シャーロック・ホームズとジョン・ワトスンは、株式仲買店員のホール・パイクロフト(Hall Pycroft)と一緒に、バーミンガム(Birmingham)へ向かう一等車の中に居た。パイクロフト氏から彼らへの説明は、彼の近況からいよいよ事件の核心部分に入ろうとしていた。

ハムステッドウェイ沿いにある
ハムステッドヒースエクステンションの入口
冬の寒空の下のハムステッドヒースエクステンション

「さて、ここから事件の奇妙な部分に入るのです。私はハムステッド近辺のポッターズテラス17番地に下宿しています。私の採用が内定した日の夜、私は煙草を吸いながら、寛いでいました。そこへ下宿のおかみさんが一枚の名刺を持って上がって来たのです。その名刺には、「金融関係人材斡旋業 アーサー・ピンナー」と印刷されていました。私はそんな名前を今までに聞いたことがありませんし、一体私にどんな用があるのか想像もつきませんでしたが、とりあえず、彼を部屋に通してもらうよう、下宿のおかみさんに頼みました。私の部屋へ入って来たピンナー氏は、中肉中背で、髪と目が黒く、真っ黒な顎髭を生やした男で、鼻の辺りにユダヤ人の感じがありました。彼は時間を無駄にするのが嫌いな人のように、きびきびとした物腰で、歯切れよく話を始めたのです。」
'And now I come to the queer part of the business. I was digging out Hampstead way, 17 Potter's Terrace. Well, I was sitting doing a smoke that very evening after I had been promised the appointment, when up came my landlady with a card which had 'Arthur Pinner, Financial Agent', printed upon it. I had never heard the name before and could not imagine why he wanted with me, but, of course, I asked her to show him up. In he walked, a middle-sized, dark-haired, dark-eyed, black-bearded man, with a touch of the Sheeny about his nose. He had a brisk kind of way with him and spoke sharply, like a man who knew the value of time.'

ハムステッドウェイ沿いに建つ邸宅(その1)
ハムステッドウェイ沿いに建つ邸宅(その2)

アーサー・ピンナーとの面会を経て、パイクロフト氏は、既に採用が内定していた大手株式仲買店モーソン・アンド・ウィリアムズ商会(Mawson & William's)ではなく、フランコーミッドランド金物会社(Franco-Midland Hardware Company, Limited)の社長ハリー・ピンナー(Harry Pinner)にバーミンガムの営業支配人として雇われる運びとなった。ところが、会社とは名ばかりの小さな事務所で、貸オフィスビル内にあり、社員は今のところパイクロフト氏一人だけであった。しかも、彼の仕事はパリの人名録から金物業者の名前と住所を書き写すことだった。更に、パイクロフト氏は、口元の金の詰め物を見て、この職を斡旋した弟アーサー・ピンナー(Arthur Pinner)と社長の兄ハリー・ピンナーは同一人物ではないかと疑い、ホームズにこの件の調査依頼をしに来たのである。

かなりの寒さにもかかわらず、子供や犬等を連れて
散策に訪れている人が多い。

残念ながら、パイクロフト氏が下宿していたポッターズテラス17番地は架空の住所で、現在のハムステッド(Hampstead)近辺には存在していない。「Hampstead way」を「ハムステッドの外れ」と日本語訳しているケースが非常に多いが、厳密には、「ハムステッド方面」、「ハムステッド近辺」、あるいは、「ハムステッドの辺り」と訳すのが正当ではないかと思う。

ハムステッドヒースエクステンション内に生い茂るヒース

この「Hampstead way」の小文字「w」を大文字「W」に変えて「Hampstead Way」とした場合には、実在の通りとなる。地下鉄ノーザンライン(Northern Line)は、ハムステッド駅(Hampstead Tube Station)を出た後、北上してゴルダースグリーン駅(Golders Green Tube Station)に向かうが、地下鉄の路線に並行するように「ノースエンドウェイ(North End Way)」と呼ばれる道路(A502)がある。この道路の北側に、「ハムステッドヒースエクステンション(Hampstead Heath Extension)」という荒れ地があり、この荒れ地の左側に沿うように走っているのが、「ハムステッドウェイ」である。

昼間に見てもやや不気味な樹々

地理的に言っても、「ハムステッド近辺」でもあるし、「ハムステッドの外れ」でもあるので、コナン・ドイルの原作の内容には則していると言える。ただし、それでも、ポッターズテラス17番地という住所は、近くには実在していない。

2015年2月1日日曜日

トーキー(Torquay) アガサ・クリスティー メモリアル胸像(Agatha Christie Memorial Bust)


「エンドハウスの怪事件(Peril at End House)」(1932年)の舞台マジェスティックホテル(Majestic Hotel)のモデルとなったインペリアルホテル(Imperial Hotel)を出て、ロイヤル トアベイ ヨットクラブ(Royal Torbay Yacht Club)を過ぎ、トーキー(Torquay)の街中まで下ってくると、プリンセスガーデンズ(Princess Gardens)と呼ばれる広場がある。
広場の前には、プリンセスピア(Princess Pier)という桟橋に囲まれたヨットハーバーが、そして、広場の背後には、ホテル、ショッピングセンターや商業用店舗等が並ぶトアベイロード(Torbay Road)やストランド通り(Strand)が走っている。

夕暮れが迫り、ひっそりとしたプリンセスガーデンズ内にあるアガサ・クリスティー メモリアル胸像

この広場の一角に、トーキーで生まれたアガサ・クリスティーを記念するブロンズ製の胸像(Agatha Christie Memorial Bust)が設置されている。
アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年9月15日ー1976年1月12日)の生誕100周年を記念して、英国リヴィエラツーリスト委員会(English Riviera Tourist Board)が発案し、オランダ人の彫刻家キャロル・ヴァン・デン・ブームーケアンズ(Carol Van Den Boom-Cairns)が制作。60歳代のアガサ・クリスティーの写真を参考にしたそうである。


そして、生誕100周年に該る1990年9月15日に、彼女の一人娘であるロザリンド・ヒックス夫人(Mrs. Rosalind Hicks)が除幕した。高さは、胸像の台座を含めると、2m程度。
それから四半世紀が経過しているが、アガサ・クリスティーの胸像は今も自分の生誕地であるトーキーの街を見守り続けている。
日中、この辺りを数多くの観光客が行き来するが、何故か、アガサ・クリスティーの胸像にここにあることに気付かずに、通り過ぎてしまう人が多い。