2019年6月22日土曜日

ロンドン ハムステッドグローヴ28番地 / ニューグローヴハウス(28 Hampstead Grove / New Grove House)–その2

フランス生まれの英国の風刺漫画家で、小説家でもあった
ジョージ・デュ・モーリエが住んでいた
ハムステッドグローヴ28番地のニューグローヴハウスを
ハムステッドグローヴ通りの北側から見たところ

ジョージ・ルイ・パルメラ・ビュッソン・デュ・モーリエ(George Louis Palmella Busson du Maurier:1834年ー1896年)は、1865年に英国の週刊風刺漫画雑誌「パンチ(Punch)」のスタッフとなり、一週間に2枚の風刺漫画を描くようになった。彼は、当時のヴィクトリア朝社会、特に、資本家階級や英国内で存在感を増していた中産階級を風刺の対象として、漫画にすることが多かった。

ハムステッドグローヴ28番地のニューグローヴハウスを
正面から見上げたところ

ジョージ・デュ・モーリエは、雑誌「パンチ」用に白黒風刺漫画を描く他に、「ハーパーズ(Harper’s)」、「ザ・グラフィック(The Graphic)」、「ジ・イラストレイテッド・タイムズ(The Illstrated Times)」や「ザ・コーンヒル・マガジン(The Cornhill Magazine)」等の定期刊行物にも、イラストを描いたりした。
また、彼は、英語での出版物として、初めて出版された探偵小説と考えられているチャールズ・ウォーレン・アダムズ(Charles Warren Adams:1833年ー1903年)による連載小説「ノッティングヒルの謎(The Notting Hill Mystery)」の挿絵等も担当した。

ジョージ・デュ・モーリエが挿絵を担当した
チャールズ・ウォーレン・アダムズ作「ノッティングヒルの謎」の一場面

視力の衰えのため、ジョージ・デュ・モーリエは、1891年に雑誌「パンチ」での仕事を減らして、ハムステッドの自宅での仕事へと生活様式を変える。そして、彼は、小説を3作執筆している。

第1作目の「ピーター・イベットスン(Peter Ibbetson)」は、程々の成功を納めて、後に舞台劇や映画等になっている。

ハムステッドグローヴ28番地のニューグローヴハウスの入口

第2作目の「トリルビー(Trilby)」は、1894年に出版されたゴシックホラー小説で、絵のモデルをしている貧しいトリルビー・オウ・ファレル(Trilby O’Ferrall)が、邪悪な音楽の天才であるスヴェンガリ(Svengali)の呪いによって、歌姫に変身する物語は、当時大評判になり、石鹸、歌、踊り、歯磨き粉、そして、米国フロリダ州のトリルビーに至るまで、同作の主人公であるトリルビーに因んで名付けられたのである。
フランスの小説家で、新聞記者でもあったガストン・ルイス・アルフレッド・ルルー(Gaston Louis Alfred Leroux:1868年ー1927年→2017年9月10日付ブログで紹介済)は、ジョージ・デュ・モーリエ作「トリルビー」に着想を得て、1909年から1910年にかけて、小説「オペラ座の怪人(The Phantom of the Opera)」を執筆している。ガストン・ルルーが小説「オペラ座の怪人」を執筆したのは、ジョージ・デュ・モーリエの死後であったが、それ以前にも、小説「トリルビー」は、数え切れない程、多くの作品にヒントを与え、その人気は衰えなかったため、ジョージ・デュ・モーリエは、世間からの注目を次第に嫌うようになっていったそうである。

ジョージ・デュ・モーリエは、
ハムステッドグローヴ28番地の建物に1874年から1895年まで住んでいた

第3作目は、「火星人(The Martian)」という題名の自伝的な内容の長編で、ジョージ・デュ・モーリエの死後である1898年に出版された。

2019年6月16日日曜日

カーター・ディクスン作「かくして殺人へ」(And So to Murder by Carter Dickson)–その1

東京創元社が発行する創元推理文庫「かくして殺人へ」の表紙−
    カバーイラスト:ヤマモト マサアキ氏
カバーデザイン:折原 若緒氏
  カバーフォーマット:本山 木犀氏

「かくして殺人へ(And So to Murder)」は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が、カーター・ディクスン(Carter Dickson)という別名義で1940年に発表した推理小説で、ヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)シリーズの長編第10作目に該る。

英国ハートフォードシャー州イーストロイステッドにある聖ユダ牧師館において教区牧師を務めるジェイムズ・スタントンの一人娘である22歳のモニカ・スタントンは、涙が出る程に退屈な日常から抜け出すべく、父親や同居する伯母のフロッシー・スタントンには一切内緒で、小説の執筆を始め、その小説に情熱を込めて、彼女のあらゆる夢を綴った。
彼女がその小説を持ち込んだ出版社から採用通知と本物の小切手が送付されてきた時、「イヴ・ドーブリー」という当たり障りのないタイトルの小説の内容を全く知らない父親は驚くのみで、伯母に至っては、大得意で、誰彼構わず自慢することになった。
ところが、半年後の1939年7月に、モニカ・スタントンが書いた小説が「欲望」というタイトルで出版されると、期せずして大当たりをとり、大ベストセラーとなるが、そのセンセーショナルな内容のため、聖ユダ牧師館を大混乱に陥れるのだった。
そして、家庭争議において、伯母にやいのやいの言われたモニカ・スタントンは、遂に我慢の限界に達して、同年8月の半ば、荷造りをすると、生まれ育った村を飛び出して、ロンドンへと向かった。

ロンドンにやって来たモニカ・スタントンは、「暗い太陽」や「愛しき人の結婚」を製作した敏腕プロデューサーのトマス・ハケットに呼ばれて、ロンドン近郊にあるアルビオンフィルム社の映画スタジオへと赴いた。
映画スタジオでトマス・ハケットと面談したモニカ・スタントンは、即決で映画の脚本家として採用されることになった。彼女は、喜びで言葉がもつれそうになった。そして、熱に浮かされたように、嬉しさで全身の血が騒ぎ、少し酔ったような気分にもなった。
自分が執筆した処女作「欲望」が映画化され、スクリーン上で、自分が作り出した登場人物に、命が吹き込まれるのだ。しかも、その映画の脚本を作者である自分が書くのだ。つまり、映画のクレジットに、自分の名前が、原作者と脚本家の両方で流れるのである。

有頂天になるモニカ・スタントンであったが、残念ながら、彼女は大きな勘違いをしていた。それに加えて、映画スタジオで働き始めた彼女は、これから何度も命を狙われる羽目になるとは、この時点において、全く予想もしていなかったのである。

2019年6月15日土曜日

ロンドン ハムステッドグローヴ28番地 / ニューグローヴハウス(28 Hampstead Grove / New Grove House)–その1

右側が白い外壁で、左側が煉瓦の建物がハムステッドグローヴ28番地で、
フランス生まれの英国の風刺漫画家で。小説家でもあったジョージ・デュ・モーリエは、
ここに住んでいた

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1939年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第11作目に該る「テニスコートの殺人」(The Problem of the Wire Cage2018年8月12日 / 8月19日付ブログで紹介済)において、フランク・ドランス(Frank Dorrance)の絞殺死体が発見されたテニスコートがあるニコラス・ヤング邸は、ロンドン北西部郊外の高級住宅街ハムステッド地区(Hampstead2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるという設定になっているが、ハムステッド地区内には、フランス生まれの英国の風刺漫画家で、小説家でもあったジョージ・ルイ・パルメラ・ビュッソン・デュ・モーリエ(George Louis Palmella Busson du Maurier:1834年ー1896年)が住んでいた家が所在している。


ノーザンライン(Northern Line)が停まる地下鉄ハムステッド駅(Hampstead Tube Station)の改札口を出ると、ジュビリーライン(Jubilee Line)が停まるスイスコテージ駅(Swiss Cottage Tube Station)からハムステッドヒース(Hampstead Heath→2015年4月25日付ブログで紹介済)へと北上してきたヒースストリート(Heath Street)が、目の前を通過している。

ハムステッドグローヴ通りの南側から北方面を見たところ–
右手奥にある白い外壁の建物がハムステッドグローブ28番地

このヒースストリートを横切り、フログナルライズ(Frognal Rise)の登り坂を上がって行くと、進行方向右手にハムステッドグローヴ(Hampstead Grove)が見えてくるので、そこで右折し、そして、少し進むと、進行方向左手に、フェントンハウス(Fenton House→2019年6月8日 / 6月9日付ブログで紹介済)が建っている。そして、フェントンハウスの反対側のハムステッドグローヴ28番地(28 Hampstead Grove)に、ニューグローヴハウス(New Grove House)という名の家があり、ジョージ・デュ・モーリエは、1874年から1895年までの間、ここに住んでいたのである。

ハムステッドグローヴ通りの北側から南方面を見たところ–
左手前にある白い外壁の建物がハムステッドグローブ28番地

ジョージ・デュ・モーリエは、1834年3月6日、ルイ・マスリン・ビュッソン・デュ・モーリエ(Louis-Mathurin Busson du Maurier)を父に、そして、エレン・クラーク(Ellen Clarke)を母にして、パリに出生。

ハムステッドグローヴ28番地の入口

ジョージ・デュ・モーリエは、当初、パリで美術を学んでいたが、その後、ベルギーのアントワープへ移った。不幸なことに、アントワープ時代に、彼は左眼の視力を失ってしまう。そのため、ドイツのデュッセルドルフの眼科医に掛かっていたところ、そこで彼は将来の妻であるエマ・ワイトウィック(Emma Wightwick)に出会う。

ハムステッドグローヴ28番地の入口の左側の外壁には、
ジョージ・デュ・モーリエがここに住んでいたことを
記すプラークが掲げられている

エマ・ワイトウィックの家族がロンドンに居住していたため、ジョージ・デュ・モーリエもロンドンへと居住を移す。1851年に、ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン(University College London→2015年8月16日付ブログで紹介済)において、彼は化学を専攻していたことが記録されている。

そして、ジョージ・デュ・モーリエは、1863年にエマ・ワイトウィックと結婚した。

2019年6月9日日曜日

ロンドン フェントンハウス(Fenton House)–その2

フェントンハウスの建物正面全景

イングランド北部のヨークシャー州(Yorkshire)出身で、バルト海を中心に取引を行っていた商人のフィリップ・フェントン(Philip Fenton)が、1793年に建物を買い取った後、かなりの改装工事を実施した。

ハムステッドグローヴの北側から南方面を見たところ–
フェントンハウスは、右側に建っている

フィリップ・フェントンは、現在のラトビア(Latvia)の首都であるリガ(Raga)に商売のベースを置き、甥のジェイムズ・フェントン(James Fenton)と一緒に、主にリガでの暮らしを送り、ロンドンで暮らすということは少なかったが、1834年に亡くなるまでの約40年間、邸宅を所有し続けた。フィリップ・フェントンの死後、甥のジェイムズ・フェントンが邸宅を相続した。

フェントンハウスの反対側にある歩道から、
ハムステッドグローヴの北方面を望む–
閑静な住宅街内にあり、週末でも人通りが少ない

フィリップ・フェントンが約40年間にわたって所有していたことから、建物は「フェントンハウス」と呼ばれるように変わったのである。

フェントンハウスの反対側にある建物の外壁一面には、
薔薇が生い茂っている

その後、フェントンハウスは所有者を転々とするが、最後の所有者となったのは、レディー・キャサリン・ビニング(Lady Katherine Binning:1871年ー1952年)である。

ハムステッドグローヴから見たフェントンハウス(その1)

彼女は、第11代ハディントン伯爵(11th Earl of Haddington)の第二子で、長男のビニング卿ジョージ・ベイリー=ハミルトン(George Baillie-Hamilton Lord Binning)と結婚。英国陸軍将校だった夫は、1917年に父親より先に亡くなったため、爵位を継承することにはなかった。

ハムステッドグローヴから見たフェントンハウス(その2)

夫の死後、レディー・キャサリン・ビニングは、1936年にフェントンハウスを購入して、亡くなる1952年まで住み続けた。

フェントンハウス内の庭園への入口

1952年にレディー・キャサリン・ビニングが亡くなった後、フェントンハウスは、ナショナルトラスト(National Trust)に管理され、1953年に一般公開の上、現在に至っている。

ハムステッドグローヴから見たフェントンハウス(その3)

なお、フェントンハウスは、現在、グレード I(Grade I listed building)の指定を受けている。

2019年6月8日土曜日

ロンドン フェントンハウス(Fenton House)–その1

フェントンハウスの建物正面全景–
以前、建物の外壁に時計が設置されていたことに因んで、「クロックハウス」と呼ばれていたが、
現在、時計は取り外されている。
写真の白い丸の部分に、以前、時計が設置されていた。

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1939年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第11作目に該る「テニスコートの殺人」(The Problem of the Wire Cage2018年8月12日 / 8月19日付ブログで紹介済)において、フランク・ドランス(Frank Dorrance)の絞殺死体が発見されたテニスコートがあるニコラス・ヤング邸は、ロンドン北西部郊外の高級住宅街ハムステッド地区(Hampstead2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるという設定になっているが、ハムステッド地区内には、「フェントンハウス(Fenton House)」と呼ばれる建物がある。


ノーザンライン(Northern Line)が停まる地下鉄ハムステッド駅(Hampstead Tube Station)の改札口を出ると、ジュビリーライン(Jubilee Line)が停まるスイスコテージ駅(Swiss Cottage Tube Station)からハムステッドヒース(Hampstead Heath→2015年4月25日付ブログで紹介済)へと北上してきたヒースストリート(Heath Street)が、目の前を通過している。

フェントンハウスの庭園への入口

このヒースストリートを横切り、フログナルライズ(Frognal Rise)の登り坂を上がって行くと、進行方向右手にハムステッドグローヴ(Hampstead Grove)が見えてくるので、そこで右折し、そして、少し進むと、進行方向左手に、フェントンハウス(Fenton House)が建っている。

庭園越しにフェントンハウス(横側)を望む

フェントンハウスは、1686年から1683年にかけて、ウィリアム・イーデス(William Eades)によって建設された。

フェントンハウスの庭園(その1)
フェントンハウスの庭園(その2)

フェントンハウスは、18世紀初め頃、オステンドハウス(Ostend House)と呼ばれており、その後、建物正面の外壁に時計が設置されたことに因んで、クロックハウス(Clock House)と呼ばれるようになった。

2019年6月3日月曜日

ロンドン ウォーリントン クレッセント2番地 / ザ・コロネードホテル(2 Warrington Crescent / The Colonnade Hotel)

地下鉄ウォーリックアベニュー駅方面から見た
「ザ・コロネードホテル」の全景(その1)

第二次世界大戦(1939年ー1945年)中、ブレッチリーパーク(Bletchley Park)にある英国の暗号解読センターの政府暗号学校において、ドイツ軍が使用したエニグマ暗号機による通信の解読に成功した英国の数学者、論理学者、暗号解読者兼コンピューター科学者であるアラン・マシソン・テューリング(Alan Mathison Turing:1912年ー1954年)が出生した場所が、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のメイダヴェール地区(Maida Vale)内にある。


ベイカールーライン(Bakerloo Line)を使い、地下鉄パディントン駅(Paddington Tube Station)から一駅北上した地下鉄ウォーリックアベニュー駅(Warwick Avenue Tube Station)で下車。そして、地下鉄の出口近くにあるウォーリントン クレッセント(Warrington Crescent)を少し北へ上がったウォーリントン クレッセント2番地(2 Warrington Crescent)の建物である「ザ・コロネードホテル(The Colonnade Hotel)」が、それである。

「ザ・コロネードホテル」の右側正面

アラン・マシソン・テューリングの母親であるエセル・テューリングは、インドの高等文官であった夫のジュリアス・テューリングと一緒に、英国領インド帝国オリッサ州チャトラプルに駐在していた。ジュリアス・テューリングは、妻エセルの妊娠を知ると、子供を英国本国で養育することを考えて、彼女をロンドンへと帰国させた。そして、1912年6月23日、アラン・テューリングは、当時、病院だったウォーリントン クレッセント2番地にて出生したのである。

「ザ・コロネードホテル」の玄関(その1)

「ザ・コロネードホテル」の玄関(その2)

アラン・テューリングが出生した病院があったウォーリントン クレッセント2番地の建物では、現在、「ザ・コロネードホテル」が営業している。「コロネード(Colonnade)」とは、(1)列柱 / 柱廊や(2)並木 / 街路樹を意味する。
ホテルの玄関左横にある建物外壁に、アラン・テューリングがここで出生したことを示すイングリッシュヘリテージ(English Heritage)管理のブループラークが掛けられている。

「ザ・コロネードホテル」の玄関左側の建物外壁に掛けられている
ブループラーク(その1)

「ザ・コロネードホテル」の玄関左側の建物外壁に掛けられている
ブループラーク(その2)

アンドリュー・ホッジスによる伝記「Alan Turing:The Enigma」を基にして、アラン・テューリングを主人公にした歴史ドラマ映画「イミテーションゲーム / エニグマと天才数学者の秘密(The Imitation Game)」が、2014年に公開された。
なお、主人公のアラン・テューリングを、BBC1 で放映された推理ドラマ「シャーロック(Sherlock)」(2010年ー)において、シャーロック・ホームズを演じた英国の俳優であるベネディクト・ティモシー・カールトン・カンバーバッチ(Benedict Timothy Carlton Cumberbatch:1976年ー)が演じている。

「ザ・コロネードホテル」の玄関口の大理石に刻まれている
ホテル名

ドイツ軍が使用したエニグマ暗号機による通信の解読に成功したアラン・テューリングであったが、第二次世界大戦後の1952年、当時、英国では違法だった同性間性行為のかどで告発され、その後、不遇の時を過ごした。
そして、1945年6月8日、家政婦が、アラン・テューリングが自宅で死んでいるのを発見した。検死解剖の結果、彼が死亡したのは、前日の同年6月7日で、青酸化合物による中毒死であることが判明。彼のベッドの脇に、齧りかけのリンゴが落ちていたが、そのリンゴに青酸化合物が塗られていたかどうかの分析は行われなかった。ただ、彼の部屋には、青酸化合物の瓶が多数あったため、死因審問において、彼の死は自殺と断定された後、同年6月12日に火葬された。

地下鉄ウォーリックアベニュー駅方面から見た
「ザ・コロネードホテル」の全景(その2)

近年、アラン・テューリングの再評価が進んでおり、それが契機となって、歴史ドラマ映画「イミテーションゲーム / エニグマと天才数学者の秘密」が製作 / 公開されている。

2019年6月2日日曜日

カーター・ディクスン作「九人と死で十人だ」(Nine - and Death makes Ten by Carter Dickson)–その3

東京創元社が発行する創元推理文庫「九人と死で十人だ」の表紙−
    カバーイラスト:ヤマモト マサアキ氏
カバーデザイン:折原 若緒氏
  カバーフォーマット:本山 木犀氏

ジア・ベイ夫人の殺人現場は、ニューヨークから英国の某港へと航行するエドワーディック号(2万7千トン級)の船内、つまり、洋上であり、外部からの侵入はあり得なかった。そうなると、容疑者は限定されて、エドワーディック号の乗組員、あるいは、一般人の乗客8人のうちの誰かが犯人であることは、間違いなかった。その上、殺害現場には、犯人の明瞭な指紋が残されており、犯人の逮捕は時間の問題だと思われた。

エドワーディック号の船長であるフランシス・マシューズ海軍中佐の指示に基づいて、グリズワルド事務長が、彼のオフィス内にあった指紋採取用のインクローラーと小さな座席カードを使って、船内に居る全員の指紋を集めた。そして、ニューヨークの地方検事補であるジョン・E・ラスロップに協力を求め、グリズワルド事務長が集めた船内全員の指紋とジア・ベイ夫人の殺害現場に残されていた犯人の血染めの指紋との照合を依頼したのである。

翌1月21日の日曜日、船長のフランシス・マシューズ海軍中佐と彼の弟であるマックス・マシューズの二人は、C甲板にあるグリズワルド事務長のオフィスへと呼び出された。協力を求めたジョン・E・ラスロップによる指紋照合の結果が、遂に出たのだ。グリズワルド事務長のオフィスへと集まった二人に対して、ジョン・E・ラスロップは、驚くべき事実を告げる。ジア・ベイ夫人の殺害現場に残されていた二つの血染めの指紋は、左右の親指の指紋であったが、前日にグリズワルド事務長が集めた船内に居る全員の指紋を調べた結果、奇妙な事に、該当者は一人も居なかったのである。

信じ難い結果に頭を抱えた船長のフランシス・マシューズ海軍中佐は、陸軍省情報部長だったヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)に、今回の謎の解明を委ねることにした。乗客名簿に記載されていた残りの人物とは、ヘンリー・メリヴェール卿のことで、船長室の隣の船室に秘密裡に居たのである。

「九人と死で十人だ(Nine - and Death makes Ten)」(1940年)は、ジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年) / カーター・ディクスン(Carter Dickson)がメイントリック一つのシンプルなストーリー構成で魅せた1940年代の作品に属しているが、本作品の評価については、「1940年代初期のカーの最上作の一つ」と非常に高く評価する側(ダグラス・G・グリーン→「ジョン・ディクスン・カー 奇跡を解く男」(1995年)の著者)とあまり評価しない側(松田道弘→「新カー問答」(1977年ー1978年)の著者)の二つに大きく分かれている。
個人的には、指紋トリックがそれ程とは思えず、同時期の代表作である「皇帝のかぎ煙草入れ(The Emperor’s Snuff-Box)」(1942年)と比べると、全体的に物足りない印象を受ける。

日本において、「九人と死で十人だ」は、1999年に国書刊行会から出版された以降、そのままになっていたが、2018年7月に創元推理文庫に収録された。