2020年7月27日月曜日

アンドリュー・ガーヴ作「ヒルダのために、涙は要らない」(No Tears for Hilda by Andrew Garve)

英国の Arcturus Publishing Limited から
 Crime Classics シリーズの一つとして出版されている
アンドリュー・ガーヴ作「ヒルダのために、涙は要らない」の表紙−
本作品で探偵役を務めるマックス・イースターブルックの友人である
ジョージ・ランバートが、ロンドン北部フィンチリーの自宅へと帰り、
台所のガスオーブンの傍で、
妻のヒルダがガス中毒で死亡しているのを発見するシーンが描かれている

作者の本名は、ポール・ウィンタートン(Paul Winterton:1908年ー2001年)で、英国レスターシャー州(Leichestersire)のレスター(Leichester)生まれ。
彼は、生涯を通じて、いくつかの名義を使い分けて、40を超える作品を世に送り出している。彼の活躍時期は、1938年から1978年にかけてで、アガサ・クリスティーの活躍時期(1920年ー1976年)にほぼ重なっている。
本作品の「ヒルダのために、涙は要らない(No Tears for Hilda)」(1950年)は、アンドリュー・ガーヴ(Andrew Garve)名義での第1作で、他には、ロジャー・バックス(Roger Bax)名義で「殺人計画書(Blueprint for Murder→2020年7月18日付ブログで紹介済)」(1948年)等を世に送り出している。

11月のある夜、ジョージ・ランバート(George Lambert)は、ロンドン北部フィンチリー(Finchley)の自宅に帰ったところ、台所のガスオーブンの傍で、妻のヒルダ(Hilda)がガス中毒で死亡しているのを発見。
当初は、自殺、あるいは、事故かと思われたが、現場に駆け付けた警察による検死の結果、ヒルダが舌を噛んでいる上、首の後ろに殴られたような痣があることが判明。そのため、ヒルダの死は、自殺や事故ではなく、殺人の様相を呈してきた。
警察にアリバイを尋ねられたジョージは、ロンドンのレスタースクエア(Leichester Square)で映画を観ていたと答えるが、実際には、娘が入院している精神科病棟の看護婦と不倫関係にあり、事件当夜も一緒に居たことが判ったため、ヒルダ殺害の動機が充分という理由で、警察に逮捕されてしまう。

ドイツからロンドンに旅行でやって来たマックス・イースターブルック(Max Easterbrook)は、早速、長年の友人であるジョージの事務所に電話をかけ、ひさしぶりの旧交を暖めようとした。ところが、その願いも虚しく、ジョージが妻ヒルダの殺害容疑で警察に逮捕されたことを、マックスは知る。
即、マックスは、ジョージの弁護士経由、ジョージとの面会約束を取り付け、彼が拘留されているブリクストン刑務所(Brixton Jail)へと赴く。ジョージと面会したマックスは、友人ジョージが無罪であることを信じ、警察とは別個に、自分独自で事件を調査することを誓う。そして、マックスは、事件の鍵を見つけるため、関係者達を次々と訪問していく。

(1)ジョージと不倫関係にあった看護婦ルーシー・グラント(Lucy Grant)
(2)ジョージの弁護士パーキンス(Mr. Perkins)
(3)ランバート家の家政婦ビッグス夫人(Mrs. Biggs)
(4)ジョージとヒルダの娘が入院しているスワンパーク精神病院のチャロナー医師(Dr. Challoner)
(5)精神病棟に入院しているジョージとヒルダの娘ジェーン・ランバート(Jane Lambert)
(6)ヒルダの弟アンドリュー・ホワイト(Andrew White)とその妻ローズ・ホワイト(Rose White)
(7)昔ヒルダに求婚したことがある建築業者ランブル氏(Mr. Rumble)
(8)ヒルダの知り合いで、出版社に勤めるステファニー・フランクス(Stephanie Franks)
(9)ステファニーの恋人で、画家のアレック・フォーベス(Alec Forbes)

この中に、ヒルダ・ランバートを殺害した真犯人は居るのか?それとも、警察が言う通り、逮捕されたジョージ・ランバートが、妻ヒルダを殺害したのか?
マックスは、ある場所であるものを偶然発見して、ヒルダを殺害した真犯人が誰なのかを遂に突き止め、その人物のアリバイを切り崩していくのである。

当初、ヒルダ・ランバートは平凡な主婦で、警察の捜査では、彼女を殺害する動機を持つ関係者は居ないかに思われたが、マックスの地道な調査により、実は、ヒルダは見かけとは違って、昔から人間性 / 正確に難ありということが、次第に明らかになってくる。実際、ヒルダは、夫であるジョージや娘であるジェーンを心理的に抑圧していたことが判明する。
その辺りの調査の過程が丹念に書かれていて、好感が持てる。

一方で、ヒルダを殺害した真犯人に、マックスが論理的な思考で辿り着く訳ではなく、彼がある場所を訪問した際、そこにあったあるものを見て、疑問を感じ、真犯人と断定する流れとなっている。そういった意味では、本格推理小説ファンが好む論理的な思考によって、真犯人を突き止めるという一種のカタルシスを得ることは、難しいかと思う。

どちらかと言えば、マックスは、ヒルダの関係者を訪問して、会話をすることにより、その人のひととなり、そして、ヒルダの過去、人間性や性格等を解き明かしていく作業が、淡々と繰り返される。
そのため、本格推理小説ファンが、やや過大な期待を持って、本作品を読み進めていくと、若干肩すかしをくらったような気分になるかもしれない。そう考えると、本作品の場合、所謂、推理小説的なバロメーターは低いのであろう。

そうは言っても、本作品の点数をつけるとすると、それ程には悪い点をつけようという気持ちにはならないので、不思議である。マックスによる調査のプロセスが非常に丁寧に書かれていることが、好印象なのかもしれない。
また、マックスやジョージに限らず、その他の登場人物が生き生きとというか、人間としてしっかり描かれているため、ドラマとして成功しているからであろう。

他に読んだ作品のように、初めから途中までは、かなりワクワクさせておきながら、物語の終盤から最後にかけて、大きく失速し、幻滅するのに比べれば、全体として、本作品はまあまあまうまくまとまっている。

2020年7月26日日曜日

ロンドン マレットストリート(Malet Street)−その1

正面玄関に該るマレットストリート側から見た
ロンドン大学(University of London)内に建つセナトハウス(Senate House)

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1935年に発表した長編で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)が登場するシリーズ第6作目に該る「三つの棺(The Three Coffins 英題: The Hollow Man→2020年5月3日 / 5月16日 / 5月23日 / 6月13日 / 6月20日付ブログで紹介済)」では、2月9日(土)の午後10時10分頃、シャルル・ヴェルネ・グリモー教授(Professor Charles Vernet Grimaud)邸の最上階(3階)にある書斎内において、教授が拳銃で胸を撃たれて、瀕死の状態で倒れているのが発見される。書斎は密室状態で、教授と一緒に書斎内に居た仮面を付けた謎の男の姿は、完全に消え失せていた。また、グリモー邸の周囲には、午後9時半頃に降り止んだ雪が積もっていたが、雪の上には、謎の男が逃げた足跡は、全くなかったのである。

最上階の書斎内でシャルル・グリモー教授が瀕死の状態で見つかったグリモー邸は、一体、どこに所在しているのか?

サヴォイテラス(Savoy Terrace)から見上げた
アデルフィテラス(Adelphi Terrace)

ジョン・ディクスン・カーの原作によると、「He (=シャルル・グリモー教授) lived, in fact, just round the corner at a solid old house on the west side of Russell Square.」という記述があるので、グリモー邸は、大英博物館(British Museum→2014年5月26日付ブログで紹介済)が所在するロンドンのブルームズベリー地区(Bloomsbury)内にあるラッセルスクエア(Russell Square)の西側に建っていることが、まず判る。

ストランド通り沿いに所在する
ローストビーフが有名なシンプソンズ(Simpson's)
(→サー・アーサー・コナン・ドイル作
シャーロック・ホームズシリーズの
「瀕死の探偵(The Dying Detectice)」(1913年)や
「高名な依頼人(The Illustrious Cilent)」(1924年)に登場)

テッド・ランポール(Ted Rampole)経由、彼の友人で、新聞記者のボイド・マンガン(Boyd Mangan)の話を聞いて、何か事件が起きるのではないかと予感したギディオン・フェル博士は、その場に居合わせたテッド・ランポールとスコットランドヤード犯罪捜査課(CID)のハドリー警視(Superintendent Hardley)を伴って、ハドリー警視の車で、グリモー邸へと向かった。

ストランド通り近くに建つライシアム劇場(Lyceum Theartre)
(→サー・アーサー・コナン・ドイル作
シャーロック・ホームズシリーズの
「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)に登場)

ジョン・ディクスン・カーの原作によると、ギディオン・フェル博士達が乗ったハドリー警視の車は、ギディオン・フェル博士邸があるアデルフィテラス1番地(1 Adelphi Terrace→2018年11月25日付ブログで紹介済)を出発し、

ストランド通りの中州に建つ
セントメアリー・ル・ストランド教会(St. Mary le Strand)

(1)ストランド通り(Strand→2015年3月29日付ブログで紹介済)
(2)オルドウィッチ通り(Aldwych)
(3)キングスウェイ(Kingsway)
(4)サザンプトンロウ(Southampton Row)

ストランド通りの中州に建つ
セントクレメントデインズ教会(St. Clement Danes Church)

を通って、ラッセルスクエアへと到達している。

2020年7月19日日曜日

<第600回> フランクフルト ゲーテ像(Goethe Denkmal)−その2

フランクフルト 市内のゲーテ広場内に建つゲーテ像

ドイツを代表する文豪であるヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe:1749年ー1832年)は、1749年8月28日、ドイツ中部フランクフルト・アム・マイン(Frankfurt am Main)の裕福な家庭の長男として出生する。ゲーテが出生したフランクフルト市内には、ゲーテ像(Goethe Denlmal)が建っている。

ゲーテ像の台座(その1)
ゲーテ像の台座(その2)

なお、ゲーテの生涯については、2017年11月4日 / 11月11日付ブログで紹介済。また、彼の生家で、現在、「ゲーテハウス(Goethe Haus)」と呼ばれるゲーテ博物館(Goethe Museum)に関しては、2017年11月18日 / 11月25日付ブログで紹介済。

ゲーテ像の台座(その3)
ゲーテ像の台座(その4)

フランクフルト市内を走る地下鉄Uバーン(U Bahn)のヴィリー・ブラント・プラッツ駅(Willy-Brandt-Platz)で下車すると、駅近くには、広大な公園がある。
以前、ゲーテ像は、この公園内に、具体的には、南北に延びるガルスアンラーゲ通り(Gallusanlage)と東西に延びるカイザー通り(Kaiserstrasse)が交差する角に建っていた。

その後、ゲーテ像は、カイザー通りを東へ進んだところにあるゲーテ広場(Goetheplatz)へと移動している。現在、ゲーテ像は、南方面を向いて、ゲーテ広場を見おろすように、堂々と聳えている。

2020年7月18日土曜日

ロジャー・バックス作「殺人計画書」(Blueprint for Murder by Rogar Bax)

英国の Arcturus Publishing Limited から
 Crime Classics シリーズの一つとして出版されている
ロジャー・バックス作「殺人計画書」の表紙−
アーサー・クロスが、スパナを手にして、
叔父チャールズ・ホリソンの殺害へと向かうシーンが描かれている

作者の本名は、ポール・ウィンタートン(Paul Winterton:1908年ー2001年)で、英国レスターシャー州(Leichestersire)のレスター(Leichester)生まれ。
彼は、生涯を通じて、ロジャー・バックス(Roger Bax)以外にも、アンドリュー・ガーヴ(Andrew Garve)やポール・サマーズ(Paul Somers)の名義を使い分け、40を超える作品を世に送り出している。彼の活躍時期は、1938年から1978年にかけてで、アガサ・クリスティーの活躍時期(1920年ー1976年)にほぼ重なっている。
本作品の「殺人計画書(Blueprint for Murder)」は、ロジャー・バックス名義では、4つ目の作品に該る。

物語は、第二次世界大戦(1939年ー1945年)下、ドイツとソ連(ソビエト連邦)の国境から始まる。
英国からそこに従軍していたアーサー・クロス(Arthur Cross)のストーリーが語られる。彼は、あることがキッカケで、自分を助けてくれたポーランド人の農夫父娘を殺害してしまう。

そして、物語は、1945年10月のある日の午後、テムズ河沿いのテディントンロック(Teddington Lock)に移る。
裕福な実業家のチャールズ・ホリソン(Charles Hollison)は、彼の一人息子であるジェフリー(Geoffrey)と彼の甥であるアーサー・クロスが第二次世界大戦従軍から無事に帰還したことを喜んでいた。次の誕生日で66歳になるチャールズは、ジェフリーとアーサーの2人に対して、自分のビジネスを譲る意図を表明し、ジェフリーとアーサーの2人は、チャールズの提案を喜んで受け入れ、彼の会社で働くことを約束する。

ところが、第二次世界大戦下、人の生き死にを多く見てきたアーサーの中では、死に対する恐怖が非常に強く、できる限り長生きして、その間に享受できるものは全て手に入れたいという欲望が、大きく芽生えてきた。そのためには、まだまだ元気で、長生きしそうな叔父のチャールズに対して、アーサーは何ら愛情を感じることができず、彼の殺害を計画していたのである。そして、アーサーは、ある殺害計画を練り上げて、リハーサルを何回も重ね、天候が変わるのを待った。

その年の11月末が近付くにつれ、寒波が到来し、天気予報は霧の発生を告げた。アーサーは、これを待っていたのである。
霧が発生した夜、アーサーは、車(Vauxhall)で叔父の家へと出かけ、付近にあるウェルフォードアベニュー(Welford Avenue)に到着し、ハムリーアベニュー(Hamley Avenue)という偽の標識を、その上から貼り付ける。ハムリーアベニューというのは、叔父の家から相当離れたところにある通りの名前である。
霧の中、ちょうどうまい具合に通りかかった二人組の男性(近くにある労働組合の打ち合わせに来たものの、この近辺には不案内な二人)を、アーサーは車に乗せて、彼らを証人として利用しようとした。ところが、実際には、彼らは強盗で、アーサーは二人組の男性に銃を向けられて、車を奪われてしまう。
よって、アーサーの殺害計画は、一旦、延期となる。アーサーは、叔父の援助を受けて、新しい車(Rover)を購入する。

年が変わり、2月中旬になると、霜が溶け始め、霧が発生しやすい状況になってきた。そして、霧が発生した夜、アーサーは、再度、殺害計画を実行に移すのであった。
今回は、霧のため、道に迷った若い男女をアーサーは車に乗せ、ワザと近辺を車でぐるぐる回り、ウェルフォードアベニューに貼り付けた偽の標識であるハムリーアベニューを、彼らに印象付けることに成功。
そして、道を尋ねるフリをして、叔父の家へと入って行き、出迎えた叔父を、アーサーはスパナで殺害。車の中で待っていた若い男女に対して、アーサーは、「第二次世界大戦下、ドイツ空軍の爆撃で破壊された家を訪ねてしまい、道を尋ねることができなかった。」と、嘘をつくのであった。
今度は、アーサーは正しい道順を辿り、若い男女を目的地へ無事送り届ける。彼らは、アーサーとの別れ際に、「新しい仕事に就くため、明日、南アメリカへ出発する。」と告げるのであった。
こうして、今回、アーサーは殺害計画を無事遂行したのである。

その後、叔父チャールズの殺害現場に、ジェイムズ警部(Inspector James)が到着し、捜査を開始する。チャールズの殺害によって、利益を享受できるのは、息子のジェフリーと甥のアーサーの二人のみ。従って、犯人は、二人のどちらかに間違いないと、ジェイムズ警部は考えた。

という訳で、本作品は、推理小説の倒叙物に該り、アーサーによる殺害計画と実行、ジェイムズ警部による捜査、そして、アーサーとジェイムズ警部との攻防という流れになる。

アーサーが叔父のチャールズを殺害するのは、物語が 1/3 程進んだ辺り。それまでの約50ページに渡って、アーサーによる叔父チャールズの殺害計画、失敗した1回目の実行、そして、成功した2回目の実行が詳細に語られ、なかなか面白い。普通の推理小説だと、1回目だけで成功するが、本作品では、1回目の場合、アーサーは、自分の証人として利用しようとした二人組の男性に、逆にホールドアップに会い、車を奪われてしまうという展開で、なかなか一筋縄には行かず、興味深い。

叔父チャールズの殺害に成功した後、アーサーとジェイムズ警部との間で攻防があり、犯人がアーサーであることは既に判ってはいるものの、これからどういった展開になるのか、また、ジェイムズ警部はどうやってアーサーが犯人であることの証拠をつかむのかと、なかなか良い筋運びだった。
また、物語が 2/3 程まで進んだ段階で、アーサーは、自分の不利になる証言を行う人物に脅迫され、その人物を殺害することになる。
この辺りまでは、まだ良かったが、物語の終盤にかけて、本作品の筋運びが、少しずつほころび始める。

終盤に、アーサーは、チャールズを殺害した罪をかぶせようとしていたジェフリーまで、自分の手にかけて殺害しようとするが、これはやや脈絡に欠ける展開で、終盤までは面白かっただけに、非常に惜しい。
また、結局のところ、アーサーは自滅してしまい、最終的には、ジェイムズ警部は何の活躍もしないまま終わり、とても残念である。

2020年7月12日日曜日

メイヴィス・ドリエル・ヘイ作「地下鉄の殺人」(Murder Underground by Mavis Doriel Hay)

大英図書館(British Library)が発行する
British Library Crime Classics の一つに加えられている
メイヴィス・ドリエル・ヘイ作「地下鉄の殺人」の表紙

「地下鉄の殺人(Murder Underground)」は、英国の推理作家で、ノンフィクション作家でもあるメイヴィス・ドリエル・ヘイ(Mavis Doriel Hay:1894年ー1979年)が1935年に発表した推理小説である。

「地下鉄の殺人」の舞台となるハムステッド地区の地図

ロンドンの北西部ハムステッド地区(Hampstead)内に建つ「ザ・フランプトン・ホテル(The Frampton Hotel)」というフラットでは、いつも通りの朝を迎えていた。
住民の多くは、出勤や通学等のため、フラットを出て北上し、ロスリンヒル通り(Rosslyn Hill)に出ると、左折して、ハムステッドハイストリート(Hampstead High Street)を上がり、ノーザンライン(Northern Line)が通る地下鉄ハムステッド駅(Hampstead Tube Station)へと向かった。

住民の多くがフラットから出払った後、年輩の独身女性であるユーフェミア・ポングルトン(Euphemia Pongleton)は、犬を連れ、フラットからロスリンヒル通りへと出ると、右折して、地下鉄ハムステッド駅ではなく、地下鉄ベルサイズパーク駅(Belsize Park Tube Station)方面へと向かった。
彼女は、1921年に亡くなった兄のジェフリー・ポングルトン(Geoffret Pongleton)から遺産を相続して、悠々自適の生活を送っていた。ただ、彼女は、短気な性格だったため、フラット内の住民には、あまり快く思われてはいなかった。

ユーフェミア・ポングルトンが考察された
地下鉄ベルサイズパーク駅の構内図

その数時間後、ユーフェミア・ポングルトンは、地下鉄ベルサイズパーク駅の構内において、殺害されているのが見つかった。駅の改札口からホームへと降りる階段の途中で、犬のリード紐を使って、絞殺されていたのである。

彼女には、甥のべジル(Basil)と従姪のベイル(Beryl)がおり、彼らには、彼女の遺産を相続できる資格があったため、彼らは容疑者として疑われることとなった。

一方、フラットの住民達は、彼女を好いてはいなかったが、事件の連絡を受けて、彼女の殺害犯を見つけるべく、彼ら独自の捜査を始めるのであった。


作者のメイヴィス・ドリエル・ヘイは、1913年から1916年にかけて、オックスフォード(Oxford)内にあるセント・ヒルダ・カレッジ(St. Hilda’s College)で学んだ。
英国の地方の産業や工芸品に興味を抱いた彼女は、カレッジ卒業後、カナダ系の裕福な家系出身であるヘレン・エリザベス・フィッツランドルフ(Helen Elizabeth Fitzrandolph)と一緒に、オックスフォード大学のサポートを受けて、様々な共同研究や合作を行った。
これが縁となり、メイヴィス・ドリエル・兵は、1929年、ヘレン・エリザベス・フィッツランドルフの弟であるアーチボルド・メンジス・フィッツランドルフ(Archibald Menzies Fitzrandolph:1896年ー1943年)と結婚した。
結婚後、メイヴィス・ドリエル・ヘイは、以下の推理小説3作を発表。
(1)「地下鉄の殺人(Murder Underground)」(1935年)
(2)「チャーウェル川の死(Death on the Cherwell)」(1935年)
(3)「サンタクロースの殺人(The Santa Klaus Murder)」(1936年)
彼女の処女作である「地下鉄の殺人」は、アガサ・クリスティーと並ぶ英国の女性推理作家で、貴族探偵のピーター・デス・ブリードン・ウィムジー卿(Lord Peter Death Bredon Wimsey)シリーズ等で知られるドロシー・L・セイヤーズ(Dorothy Leigh Sayers:1893年ー1957年)によって、高く評価されている。
第二次世界大戦(1939年ー1945年)が勃発すると、夫のアーチボルドは英国空軍に入隊するも、1943年11月11日、飛行中の事故により死亡。不幸なことに、メイヴィス・ドリエル・ヘイは、兄弟の一人を第一次世界大戦(1914年ー1918年)中の1916年に、また、別の兄弟を第二次世界大戦中の1940年に、既に亡くしていた。
そのためか、第二次世界大戦後、彼女は、殺人等を扱う推理小説の世界から離れて、元々興味を抱いていた工芸品、特にキルティングにかかる執筆の世界へと戻り、1979年8月26日、85歳の生涯を閉じたのである。

2020年7月11日土曜日

フランクフルト ゲーテ像(Goethe Denkmal)–その1

フランクフルトのゲーテ広場(Goetheplatz)内に建つゲーテ像
 
サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)において、物語の終盤、シャーロック・ホームズ、ジョン・H・ワトスンとスコットランドヤードのアセルニー・ジョーンズ警部(Inspector Athelney Jones)達が乗った巡視艇は、夜のテムズ河(River Thames)を舞台に、バーソロミュー・ショルト(Bartholomew Sholto)を殺害した犯人達が乗ったオーロラ号(Aurora)の追跡劇を展開した。
犯人達の一人で、毒矢の使い手であるアンダマン諸島のトンガ(Tonga)は、追跡劇の最中に射殺される。そして、逃走するオーロラ号は、テムズ河岸の湿地帯に突っ込んで、身動きがとれなくなり、もう一人の犯人である義足の男ジョナサン・スモール(Jonathan Small)は、ホームズ達に取り押さえられる。
ホームズの依頼に基づき、ベーカーストリート221B(221B Baker Street)へと連れてこられたジョナサン・スモールは、ホームズ達に対して、事件の全貌を物語った後、ジョーンズ警部によって、スコットランドヤードへと連行されていった。

近代的なオフィスビルを背にして、ゲーテ広場内に建つゲーテ像

「さて、僕達にとってのささいな事件も、これで幕切れだな。」ホームズと私(ワトスン)は、暫くの間、黙って座り、タバコを吸っていたが、私がこう切り出した。「私が君の捜査方法を研究する機会は、残念ながら、この事件が最後になるかもしれないな。光栄にも、モースタン嬢が私を将来の夫として受け入れてくれたんだ。」
ホームズは、憂鬱な不満の声を漏らした。「そうなると思っていたよ。」と、彼は言った。「君を祝福する気にはあ、とてもなれないな。」
ホームズの発言を聞いて、私は感情を少し害した。「君は、私の将来の妻に対して不満な理由が、何かあるのかい?」と、私は尋ねた。「そんなものは、全く何もないよ。僕が思うに、彼女は、僕が今までに会った中で、最も魅力的な女性の一人だし、僕達がやってきたような仕事には、非常に有能かもしれない。彼女には、疑いようのない才能がある。彼女の父親が残した他の書類の中から、アグラの見取り図をキチンと保管していたことからも判るよ。しかし、愛は感情的なものだ。そして、感情的なものは、どんなものであっても、僕が全てのことに優先している純粋で、かつ、冷静な思考力とは、相容れないんだ。だから、僕は結婚したりしない。僕の判断にバイアスがかかるからね。」
「きっと」と。私は笑いながら言った。「私は、これからの厳しい試練を乗り越えていけると思うよ。しかし、君は随分と疲れ切っているようだな。」
「そうだな。今回の捜査の反動が、既にきているよ。多分、僕は、1週間、ボロ切れのようになって、参っているだろうな。」
「奇妙な話だ。」と、私は言った。「他の人間の場合、怠惰と言う他にない期間と素晴らしい活力と気力の期間が、交互にやってくるとはね。」
「そうなんだ。」と、彼は答えた。「僕の中には、非常に怠け者の要素ととても活動的な人間の要素があるんだ。だから、僕は、しばしば、ゲーテのこの詩を思い出すのさ。

「自然が汝を一人の人間としてつくったことは、なんと悲しきことだろう。なぜならば、汝は、善人にも、悪人にも、なれたのだから。」と。

ゲーテ広場の地下は、駐車場となっている

‘Well. And there is the end of our little drama,’ I remarked, after we had sat some time smoking in silence. ‘I fear that it may be the last investigation in which I shall have the chance of studying your methods. Miss Morstan has done me the honour to acceptance as a husband in protective.’
Holmes gave a most dismal groan. ‘I feared as much,’ said he. ‘I really cannot congratulateyou.’
I was a little hurt. ‘Have you any reason to be dissatisfied with my choice?’ I asked.
‘Not at all. I think she is one of the most charming young ladies I ever met, and might have been most useful in such work as we have been doing. She had a decided genius that way; witness the way in which she preserved that Agra plan from all the other papers of her father. But love is an emotional thing, and whatever is emotional is opposed to that true, cold reason which I place above all things. I should never marry myself, lest I bias my judgement.’
‘I trust,’ said I, laughing, ‘that my judgement may survive the ordeal. But you look weary.’
‘Yes, the reaction is already upon me. I shall be as lump as a rag for a week.’
‘Strange,’ said I, ‘how terms of what in another man I should call laziness alternate with your fits of splendid energy and vigour.’
‘Yes,’ he answered, ‘there are in me the makings of a very time loafer, and also of a pretty spry sort of a fellow. I often think of those lives of old Goethe:

Schade dass die Natur nur einen Mensch aus dir schuf, 
Denn zum wurdigen Mann war und zum Schelmen der Stoff.

2020年7月6日月曜日

ヘレン・マクロイ作「暗い鏡の中に」(Through A Glass, Darkly by Helen McCloy)

英国の Arcturus Publishing Limited から
 Crime Classics シリーズの一つとして出版されている
ヘレン・マクロイ作「暗い鏡の中に」の表紙–
物語の終盤におけるフォスティーナの非常に重要なシーンが描かれているが、
なにかアメコミ(アメリカン・コミック)調の絵柄のため、
若干いただけない感じがする、
できれば、もっと幻想的な描写の表紙にしてもらいたかった。

作者のヘレン・マクロイ(Helen McCloy:1904年ー1994年)は、米国ニューヨーク市出身の女性推理作家で、1938年に「死の舞踏(Dance of Death)」でデビュー。精神科医であるベイジル・ウィリング博士(Dr. Basil Willing)シリーズ13作の他に、本格ミステリーから怪奇・ホラー風味のサスペンス等、16作を発表している。本作品「暗い鏡の中に(Through A Glass, Darkly)」(1949年)は、ベイジル・ウィリング博士シリーズでは、第8作目に該る。追加情報であるが、ヘレン・マクロイは、幼少期、シャーロック・ホームズシリーズを愛読したとのこと。

物語は、ある年の11月、ニューヨーク市近郊のブレアトン(Brereton)女子学院において、幕が開く。
同女子学院に勤め始めて、まだ5週間しか経たない女性教師のフォスティーナ・クレイル(Faustina Crayle)は、校長のライトフット夫人(Mrs. Lightfoot)から、理由を一切告げられないまま、突然、解雇を言い渡される。6ヶ月分の給与を支払うことを条件に。確かに、ここのところ、同僚の教師や生徒達に妙に避けられた上、遠回しに見つめられていることを、フォスティーナは感じていた。

フォスティーナから相談を受け、彼女への理由を開示しないままの仕打ちに対して憤慨した同僚の女性教師ギゼラ・フォン・ホーエネムス(Gisela von Hohenems)は、恋人である精神科医のベイジル・ウィリング博士に、関係者に問い質して、フォスティーナの解雇理由を明らかにするよう、求める。ベイジル博士は、日本での長期の仕事から戻ったばかりであることが言及され、なかなか興味深い。

ベイジル博士は、ギゼラの依頼に基づき、まずフォスティーナと面談して、彼女の了解を事前に取り付けた後、翌日、ブレアトン女子学院を訪問する。そして、ライトフット校長や女生徒達から、驚くべきことが、ベイジル博士に語られる。
なんと、フォスティーナがブレアトン女子学院に居た5週間の間に、彼女達は現実にはありえない現象を目撃したのである。つまり、フォスティーナが、彼女達の目の前で、ブレアトン女子学院の異なる場所に同時に出現したのだ。所謂、ドイツ語で言う「ドッペルゲンガー(doppelgänger)現象」である。ライトフット校長達による恐ろしい話が語られるのは、物語のちょうど 1/3 辺り。
フォスティーナは、ブレアトン女子学院に来る前に、メンドストーン(Maidstone)学院で働いていたが、実は、そこでも異なる場所に同時に出現する現象を繰り返したため、それを理由に解雇されていた。
「ドッペルゲンガー現象」を題材にしたオカルトホラー・ミステリーというか、幻想的なミステリーの様相となってきた。

ベイジル博士は、ライトフット校長達が語った「ドッペルゲンガー現象」に困惑しながらも、謎の解明に挑むべく、調査を続行する。が、その矢先、父兄を招いたブレアトン女子学院のティーパーティーにおいて、恐るべき事件が発生する。
当日、フォスティーナやギゼラの同僚で、ある女生徒の父親(離婚済)との婚約を突然発表した女性教師のアリス・アイッチソン(Alice Aitchison)が、庭の階段から転落して、首の骨を折り、死亡。当初は、事故かと思われたが、ある女生徒がフォスティーナがアリスを階段から突き落とす現場を目撃したと証言。ところが、ギゼラは、その直前に、ニューヨーク市内に居るフォスティーナからに電話を受けたばかりだった(本作品の発表時、当然のことながら、固定電話しかない)。
ニューヨーク市内に居たフォスティーナが、ニューヨーク市近郊のブレアトン女子学院まで瞬間移動することは、物理的に不可能である。

本格推理小説ファンにとっては、極めて美しくも不可解な謎と言える。ここまで完全な不可能状況を繰り出して、作者はどのように結末をうまく着地させられるのか、終盤に向けて、期待が高まるばかりであった。

ところが、非常に残念なことに、本格推理小説は、現実の範囲内で着地せざるを得ず、十分予想されたことながら、終盤、「ドッペルゲンガー現象」は、これしかないという結論で解明される。これが、本格推理小説のやや悲しいところである。折角、夢見心地の良い気分だったのに、急に現実の平凡な世界へと引き戻されてしまったような印象を受けてしまう。
そうであれば、本格推理小説として完結しないで、このままオカルトホラー・ミステリー、あるいは、幻想的なミステリーとして完結してもらった方が、逆に良かったのではないかと思えてしまう。
また、ベイジル博士が、恋人のギゼラに頼まれて、フォスティーナを救うべく、調査を開始したものの、「ドッペルゲンガー現象」の謎に困惑するばかりで、あまり目立った活躍がないまま、終盤に至ったことも、マイナスポイントである。

2020年7月5日日曜日

ロンドン プラムステッド湿地(Plumstead Marshes)

ロンドンのピカデリーサーカスで購入した
シャーロック・ホームズをテーマにしたパブ用のミニチュア看板(その1)

サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)において、独自の捜査により、バーソロミュー・ショルト(Bartholomew Sholto)を殺害した犯人達の居場所を見つけ出したシャーロック・ホームズは、ベーカーストリート221Bへスコットランドヤードのアセルニー・ジョーンズ警部(Inspector Athelney Jones)を呼び出す。ホームズは、呼び出したアセルニー・ジョーンズ警部に対して、バーソロミュー・ショルトの殺害犯人達を捕えるべく、午後7時にウェストミンスター船着き場(Westminster Stairs / Wharf→2018年3月31日 / 4月7日付ブログで紹介済)に巡視艇を手配するよう、依頼するのであった。

巡視艇がウェストミンスター船着き場を離れると、ホームズはアセルニー・ジョーンズ警部に対して、巡視艇をロンドン塔(Tower of London→2018年4月8日 / 4月15日 / 4月22日付ブログで紹介済)方面へと向かわせ、テムズ河(River Thames)の南岸にあるジェイコブソン修理ドック(Jacobson’s Yard)の反対側に船を停泊するよう、指示した。ホームズによると、バーソロミュー・ショルトを殺害した犯人達は、オーロラ号をジェイコブソン修理ドック内に隠している、とのことだった。
ホームズ達を乗せた巡視艇が、ロンドン塔近くのハシケの列に隠れて、ジェイコブソン修理ドックの様子を見張っていると、捜していたオーロラ号が修理ドックの入口を抜けて、物凄い速度でテムズ河の下流へと向かった。そうして、巡視艇によるオーロラ号の追跡が始まったのである。

ロンドンのピカデリーサーカスで購入した
シャーロック・ホームズをテーマにしたパブ用のミニチュア看板(その2)

夜の静寂の中で、オーロラ号の機関室がガチャンガチャンと音を立てるのが聞こえた。船尾の男は、まだデッキに身を屈めており、両腕を忙しそうに動かしていた。その一方で、彼は、時々、ちらっと目を上げて、私達との間の距離を測ろうとしていた。私達との間の距離は、更に縮まっていった。ジョーンズ警部は、オーロラ号に対して、停船するように大声を挙げた。私達の船は、オーロラ号の背後、四艇身もないところまで迫っていて、両方の船とも、恐ろしい勢いで、飛ぶように進んでいた。そこは、片側がバーキング平原で、反対側がプラムステッド湿地になっている河幅が広い区域だった。私たちの呼び掛けに、船尾の男が、甲高いしゃがれた声で罵りながら、跳び上がり、私達に向かって、固く握りしめた両手を振った。彼は、体格がよく、屈強な男だった。そして、彼が両足を開き、バランスを取りながら立ち上がった時、彼の右足の大腿の下に、木製の義足が見えた。

In the silence of the night we could hear the panting and clanking of their machinery. The man in the stern still crouched upon the deck, and his arms were moving as though he were busy, while every now and then he would look up and measure with a glance the distance which still separated us. Nearer we came and nearer. Jones yelled to them to stop. We were not more than four beaf’s-lengths behind them, both boats flying at a tremendous pace. It was a clear reach of the river, with Barking Level upon one side and the melancholy Plamstead Marshes upon the other. At our hail the man in the stern sprang up from the deck and shook his two clenched fists at us, arising the while in a high, cracked voice. He was a good-sized, powerful man, and as he stood poising himself with legs astride, I could see that, from the thigh downwards, there was but a wooden stump upon the right side.

ロンドンのピカデリーサーカスで購入した
シャーロック・ホームズをテーマにしたパブ用のミニチュア看板(その3)

ホームズ達が乗った巡視艇がオーロラ号の背後、四艇身まで迫った辺りのプラムステッド湿地(Plumstead Marshes)があるプラムステッド(Plumstead)は、ロンドンの南東にある特別区の一つであるグリニッジ王立区(Royal Borough of Greenwich)内に所在する地区である。
プラムステッドは、「ブルース・パーティントン型設計図(The Bruce Partington Plans)」において、ロンドンの地下鉄オルドゲート駅(Aldgate Tube Stationー2016年3月5日付ブログで紹介済)の線路脇で死体となって発見されされたカドガン・ウェスト青年が勤める兵器工場があるウーリッチ(Woolwichー2016年3月12日付ブログで紹介済)の東側に位置している。

プラムステッドは、王立兵器工場(Royal Arsenal)が所在するウーリッチの近郊にあることから、1880年代に入ると、当該兵器工場の勤務者がプラムステッド地区内に住むようになり、人口が増え始める。
現在、プラムステッド地区内には、アジア系やカリブ系の住民が多数を占めている。