2019年1月27日日曜日

ロンドン テンプル教会(Temple Church)–その2

チャーチコート(Church Court)から見たテンプル教会

テューダー朝第2代国王のヘンリー8世(Henry VIII:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年)による宗教改革により、国王管理下へと戻ったテンプル教会(Temple Church)であったが、1608年、ステュアート朝初代国王のジェイムズ1世(James I:1566年ー1625年 在位期間:1603年ー1625年)との合意を経て、後の「インナーテンプル(Inner Temple)」と「ミドルテンプル(Middle Temple)」となる2つの法曹院に、テンプル教会の維持運営を条件に、同教会を礼拝堂として利用できる永久的な権利が認められた。

テムズ河沿いに延びるヴィクトリアエンバンクメント通り(Victoria Embankment)から
「インナーテンプル」と「ミドルテンプル」へ至る入口(その1)

テンプル教会は、地理的な関係で、1666年に発生して、シティー・オブ・ロンドン(City of London→2018年6月4日 / 6月11日付ブログで紹介済)の大部分を焼き払ったロンドン大火(Great Fire of London→2018年9月8日 / 9月15日 / 9月22日 / 9月29日付ブログで紹介済)による被害を蒙ることはなかったが、英国の建築家で、天文学者や数学者としての顔も有していたサー・クリストファー・マイケル・レン(Sir Christopher Michael Wren:1632年ー1723年)による改修工事が行われて、祭壇上スクリーンが追加され、また、同教会に初めてオルガンが導入された。その後、ハノーヴァー朝第6代女王のヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年)の統治中にも、2回(1841年+1862年)の改修工事が実施されている。

テムズ河沿いに延びるヴィクトリアエンバンクメント通りから
「インナーテンプル」と「ミドルテンプル」へ至る入口(その2)
テムズ河沿いに延びるヴィクトリアエンバンクメント通りから
「インナーテンプル」と「ミドルテンプル」へ至る入口(その3)

第二次世界大戦(1939年ー1945年)中の1941年5月10日、ドイツ軍による大空襲を受けて、テンプル教会は甚大な被害を蒙ったが、その後、複製品等を使って、大規模な修復が行われた。

テンプルの全体図ー
左側の「赤色」で表示した部分が「ミドルテンプル」で、
右側の「水色」で表示した部分が「インナーテンプル」を示している

現在、テンプル教会は、英国教会の教会として残り、「インナーテンプル」と「ミドルテンプル」が同教会を引き続き礼拝堂として使用している。
テンプル教会は、1950年に「一級建築文化財(Grade I listed building)」に指定されている。

左側の羊が「ミドルテンプル」を、
右側のパがさすが「インナーテンプル」を表している

米国の小説家であるダン・ブラウン(Dan Brown:1964年ー)作の推理小説「ダ・ヴィンチ・コード(The Da Vinch Code)」(2003年)や小説の映画版である「ダ・ヴィンチ・コード」(2006年)において、テンプル教会は物語の舞台の一つとして取り上げられている。

「ミドルテンプル」を表す羊
「インナーテンプル」を表すペガサス

テンプル教会の周辺は、「テンプル(Temple)」という名で呼ばれ、テンプル教会とテムズ河(River Thames)の間には、サークルライン(Circle Line)とディストリクトライン(District Line)が乗り入れる地下鉄テンプル駅(Temple Tube Station)がある。

2019年1月26日土曜日

カーター・ディクスン作「殺人者と恐喝者」(Seeing is Believing by Carter Dickson)ーその1

東京創元社が発行する創元推理文庫「殺人者と恐喝者」の表紙−
    カバーイラスト:ヤマモト マサアキ氏
カバーデザイン:折原 若緒氏
  カバーフォーマット:本山 木犀氏

「殺人者と恐喝者(Seeing is Believing)」は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が、カーター・ディクスン(Carter Dickson)名義で1941年に発表した推理小説で、ヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)シリーズの長編第12作目に該る。

グロスター州チェルトナムのフィッツハーバードアベニュー沿いに住む美貌の若妻ヴィクトリア・フェイン(Victoria Faneー通称:ヴィッキー)は、外地から帰って来て、逗留を始めた叔父であるヒューバート・フェインから、次のような話を聞く。

ランドル法律事務所を営む彼女の夫であるアーサー・フェイン(Arthur Fane)は、一時の気の迷いにより、19歳のポリー・アレンとの情事を始めてしまった。アーサー・フェインにとっては、一時の火遊びに過ぎなかったが、ポリー・アレンの方が彼にのぼせ上がってしまい、彼に妻のヴィッキーと離婚して、自分と結婚するようにと、匂わせるようになった。
立場上、体面を重んじ、人に後ろ指を指されない生活を送る必要があったアーサー・フェインは、1938年の真夏の夜、妻のヴィッキー、春先から居候をしている叔父のヒューバートと二人の使用人の全員が揃って留守になった自宅へポリー・アレンを誰にも知られないように招き、彼女が首に巻いていたスカーフを使って、彼女を絞め殺した。そして、アーサー・フェインは、夜陰に乗じて、ポリー・アレンの死体を車に押し込み、閉鎖された石切場の近くに死体を埋めたのである。
ポリー・アレンは、町から町へと渡り歩いていた素性不明の娘で、家族や親しい友人等は居なかった。従って、素性のはっきりしない娘一人が急に姿を消したとしても、彼女の安否を気にかける人は、チェルトナムに居るはずもなく、アーサー・フェインがポリー・アレンを殺害したことに気付く人物は、実際、誰も居なかった。

ところが、それに気付いた人物が、二人居たのである。
一人は、アーサー・フェインの妻であるヴィッキーであり、もう一人は、叔父のヒューバートであった。
妻のヴィッキーは、38歳のアーサーに比べると、25歳という若さで、結婚してから2年が経っていた。アーサーがポリー・アレンを殺害したと、叔父のヒューバートが言う日の翌日、ヴィッキーは、客間にある安楽椅子のクッションの後ろに、「ポリー」と縫い取りのあるハンカチが押し込まれているのを見つけた。その上、真夏の寝苦しい夜が続く中、アーサーの寝言が始まり、それを聞いたヴィッキーは、夫のアーサーがポリーという娘を殺したのだと覚り、なんとか真相を究明したいと考えていた。
また、叔父のヒューバートは、外地から戻って来た4月から、アーサーとヴィッキーの家に居候を始めたが、5月末になっても居座ったままで、自分の住まいを見つけようという様子は、全くなかった。挙げ句の果てには、アーサーへの少額の借金を重ねるようになった。7月に入り、アーサーは、ヒューバートに対して、最後通牒を突き付ける寸前であったが、7月15日の夜を境にして、アーサーによるヒューバートの扱いが、180度変わったのである。ヒューバートの寝室が、正面の芝生を見下ろす日当たりのいい部屋へ移された上、ヒューバートによるアーサーへの金の無心は、一層頻繁になった。

夫のアーサーが叔父のヒューバートの我儘に唯々諾々と従うようになった訳が、これでヴィッキーの腑に落ちた。殺人者である夫のアーサーを叔父のヒューバートが恐喝しているのだと。しかしながら、このことを警察に通報することは、彼女には決してできないことだった。

2019年1月20日日曜日

ロンドン テンプル教会(Temple Church)–その1


「皇帝のかぎ煙草入れ(The Emperor’s snuff-Box)」は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が発表した推理小説で、1942年に米国のハーパー&ブラザーズ社(Harper & Brothers)から、そして、1943年に英国のヘイミッシュ・ハミルトン社(Hamish Hamilton)から刊行された。本作品は、ジョン・ディクスン・カー名義の長編23作目に該り、(1)アンリ・バンコラン(Henri Bencolin)シリーズ、(2)ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズ、(3)ヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)シリーズや(4)歴史ミステリーものに属さないノン・シリーズの作品である。本作品では、精神科医のダーモット・キンロス博士が探偵役を務める。


フランスの避暑地であるラ・バンドレットのアンジェ街のミラマール荘に住むイヴ・ニールは、有名なテニス選手との不倫を理由に、夫のネッド・アトウッドと離婚した後、向かいのボヌール荘に住むトビイ・ローズと親しくなる。フックソン銀行ラ・バンドレット支店の管理職を務めるトビイ・ローズは、品行方正さを揶揄う母ヘレナや妹ジャニスに対して、次のように話す。

「フックソン銀行はイギリスでも指折りの、由緒ある格式高い銀行だよ。金細工商だった時代からテンプル・バーのそばにあるんだから」トビイはそう言ったあとイヴの方を向いた。「父の骨董品コレクションにはね、かつてそこの紋章として使われていた金細工が含まれているんだ」(創元推理文庫「皇帝のかぎ煙草入れ」<駒月雅子氏訳>)

テンプル教会前の広場チャーチコート(Church Court)に建つ
テンプル騎士団の記念柱(その1)

トビイ・ローズの話に出てきたテンプルバー(Temple Bar→2019年1月6日 / 1月12日 / 1月19日付ブログで紹介済)は、その南側に建つテンプル教会(Temple Church)に因んで名付けられている。

テンプル教会前の広場チャーチコートに建つ
テンプル騎士団の記念柱(その2)

テンプル教会は、12世紀後半に、テンプル騎士団(Knights Templarー中世ヨーロッパで活躍した騎士修道会の一つ)によって、現在のフリートストリート(Fleet Street→2014年9月21日付ブログで紹介済)とテムズ河(River Thames)の間の地に、同イングランド本部として建設された。建物が、円形教会となっているという特徴がある。なお、テンプル騎士団の正式名称は、「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友達」である。1185年2月10日に、教会の献堂式が行われ、プランタジネット朝初代国王のヘンリー2世(Henry II:1133年ー1189年 在位期間:1154年ー1189年)も出席したと言われている。


1307年にテンプル騎士団が廃止された後、プランタジネット朝第6代国王のエドワード2世(Edward II:1284年ー1327年 在位期間:1307年ー1327年)がテンプル教会を国王管理下に置いた。その後、テンプル教会は、聖ヨハネ騎士団(Knights Hospitallerー11世紀に起源を持つ宗教騎士団)に与えられ、同騎士団は教会を弁護士の法学校2校へ貸し出した。この法学校2校が、現在、ロンドンに4つある法曹院(Inns of Court)のうちの2つに該る「インナーテンプル(Inner Temple)」と「ミドルテンプル(Middle Temple)」へと発展していく。


テューダー朝第2代国王のヘンリー8世(Henry VIII:1471年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年)は、1540年にイングランドをカトリックの国から英国国教会の国へと変貌させる宗教改革を開始して、その関係で、聖ヨハネ騎士団が廃止され、テンプル教会は再び国王管理下へと戻った。

2019年1月19日土曜日

ロンドン テンプルバー(Temple Bar)ーその3

パタノスタースクエア内に設置されている
「テンプルバーゲートのシティー・オブ・ロンドンへの帰還」を示す看板

1666年に発生したロンドン大火(Great Fire of London→2018年9月8日 / 9月15日 / 9月22日 / 9月29日付ブログで紹介済)により大被害を蒙ったシティー・オブ・ロンドン(City of London→2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)の再生計画の一環として、王政復古期ステュアート朝の国王チャールズ2世(Charles II:1630年ー1685年 在位期間:1660年ー1685年)による指示の下、サー・クリストファー・マイケル・レン(Sir Christopher Michael Wren:1632年ー1723年)による設計に基づき、新しいテンプルバーゲート(Temple Bar Gate)が、1669年から1672年にかけて建設された。
1874年に入ると、各所に老朽化部分が見つかり、1878年、シティー・オブ・ロンドン自治体(City of London Corporation)は、増大する交通量に対処するため、テンプルバーゲートの取り壊しを決定した。
そこに、ビールの醸造業者である Henry Meux が登場し、1880年にテンプルバーゲートを購入の上、ハートフォードシャー州(Hertfordshire)にある彼の邸宅セオバルズパーク(Theobalds Park)の庭園の門として移設したのである。

テンプルバーゲートの跡地に建つテンプルバーメモリアル(その1)
テンプルバーゲートの跡地に建つテンプルバーメモリアル(その2)

その後、20世紀前半にセオバルズパークがミドルセックス区議会(Middlesex County Council)へ売却されたことに伴い、テンプルバーゲートをシティー・オブ・ロンドン内へと戻す気運が高まった。
2003年にテンプルバーゲートの解体が始まり、セントポール大聖堂(St. Paul’s Cathedral→2018年8月18日 / 8月25日 / 9月1日付ブログで紹介済)の北側に三菱地所が再開発したパタノスタースクエア(Paternoster Square)への入口の門として再建され、2004年11月10日に一般公開の運びとなった。テンプルバーゲートの解体 / 運搬 / 再建費用として、当時の金額で3百万ポンド以上がかかったそうで、その費用の大部分をシティー・オブ・ロンドンが負担した。

テンプルバーメモリアルの上部に設置されている
グリフィン像(その1)

サー・クリストファー・マイケル・レン設計のテンプルバーゲートがあった場所には、英国の建築家である Horace Jones(1819年ー1887年)が設計したテンプルバーメモリアル(Temple Bar Memorial)が建てられ、1880年に一般公開された。

テンプルバーメモリアルの上部に設置されている
グリフィン像(その2)

テンプルバーメモリアルの上部には、一般にグリフィン(Griffin)と呼ばれるブロンズ像が、英国の彫刻家である Charles Bell Borch(1832年ー1893年)によって制作された。厳密に言うと、グリフィンは、鷲の頭 / 翼とライオンの胴体を持ち、黄金の宝を守る怪獣なので、ドラゴンと呼ぶのが正確である。

テンプルバーメモリアルの台座部分に設置されている
ヴィクトリア女王像

テンプルバーメモリアルの台座部分に設置されている
後のエドワード7世像(当時は王太子)

また、テンプルバーメモリアルの台座部分には、ウィーン生まれで、ハンガリー系の彫刻家である Joseph Edgar Boehm(1834年ー1890年)が製作した(1)ハノーヴァー朝第6代女王のヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年)と(2)当時の王太子(Prince of Wales)で、後のサクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝初代国王のエドワード7世(Edward VII:1841年ー1910年 在位期間:1901年ー1910年)の像が設置されている。

2019年1月13日日曜日

ロンドン タワーブリッジ(Tower Bridge)-その3

タワーブリッジの橋桁が開いていくところ(その1)

1886年から約8年間の歳月を経て竣工し、1894年6月30日に正式な開通を迎えたタワーブリッジ(Tower Bridge)の長さは約240m、左右にあるゴシック様式の主塔の高さは約65mで、主塔間の橋桁の長さは約61mとなっている。

タワーブリッジの橋桁が開いていくところ(その2)

主塔上部(高さ:約44m)には、跳開用の水を流すパイプを通すために、跳開時に利用する歩道橋が設けられた。歩道橋を利用するには、主塔の階段を上がる必要があり、利用者が少なかったことを理由に、1910年に一旦閉鎖されたが、主塔内にエレベーターが導入されたことに伴い、1982年にはタワーブリッジ展示室(Tower Bridge Exhibition)として一般公開された。

タワーブリッジの橋桁が開いていくところ(その3)

跳開橋の可動部分は、竣工当初、蒸気機関により水をパイプに通し、跳開部の端に水圧を掛け、シーソーの原理を利用して、開閉を行なっていたが、1974年に電力による開閉へと切り替えられた。

タワーブリッジの橋桁が開いていくところ(その4)

第二次世界大戦(1939年ー1945年)中、タワーブリッジは、ドイツ空軍による爆撃目標、また、V2ロケット等による攻撃目標とされ、1942年8月2日、V1ロケット1発がタワーブリッジの車道部分に命中し、被災している。

タワーブリッジの橋桁が完全に開いたところ

タワーブリッジは、現在、第1級指定建築物(Grade I listed structure)に指定されている。

2019年1月12日土曜日

ロンドン テンプルバー(Temple Bar)ーその2

セントポール大聖堂側から見たテンプルバーゲート

テンプルバー(Temple Bar)自体は、1666年に発生したロンドン大火(Great Fire of London→2018年9月8日 / 9月15日 / 9月22日 / 9月29日付ブログで紹介済)による被害を免れたが、大被害を蒙ったシティー・オブ・ロンドン(City of London→2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)の再生計画の一環として、建替えが計画され、旧セントポール大聖堂(Old St. Paul’s Cathedral)を現在のセントポール大聖堂(St. Paul’s Cathedral → 2018年8月18日 / 8月25日 / 9月1日付ブログで紹介済)を再建した英国の建築家で、天文学者や数学者としての顔も有していたサー・クリストファー・マイケル・レン(Sir Christopher Michael Wren:1632年ー1723年)が、王政復古期ステュアート朝の国王チャールズ2世(Charles II:1630年ー1685年 在位期間:1660年ー1685年)による指示の下、新しいテンプルバーゲート(Temple Bar Gate)を設計した。

チャールズ1世像(左側)とチャールズ2世像(右側)が
セントポール大聖堂を見つめている

サー・クリストファー・マイケル・レンによる設計に従って、1669年から1672年にかけて、新しいテンプルバーゲートが、石工の Thomas Knight や Joshua Marshall 等によって、ポートランド石を使い、建設された。また、ゲートの上部には、英国の彫刻家である John Bushnell(ー1701年)により、(1)新しいテンプルバーゲートの建設を命じたチャールズ2世、(2)彼の父親で、ステュアート朝第2代国王のチャールズ1世(Charles I:1600年ー1649年 在位期間:1625年ー1649年)、そして、(3)彼の祖父で、ステュアート朝初代国王のジェイムズ1世(James I:1566年ー1625年 在位期間:1603年ー1625年)と(4)ジェイムズ1世妃のアン・オブ・デンマーク(Anne of Denmark:1574年ー1619年)の像が制作された。

パタノスタースクエア(Paternoster Square)側から見たテンプルバーゲート

新しいテンプルバーゲートは、3つのアーチから成り、中央の大きなアーチが、馬車等が通るメインで、左右にある2つの小さなアーチが、歩行者専用であった。

テンプルバーゲートを下から見上げたところ

シティー・オブ・ロンドンへと至る他の7つの関所門については、1860年までに取り壊されてしまったが、テンプルバーゲートに関しては、次第に増大する交通量に対処できなくなりつつも、取り壊されないまま、残っていたが、1874年に入ると、各所に老朽化部分が見つかった。1878年、シティー・オブ・ロンドン自治体(City of London Corporation)は、増大する交通量に対処するため、テンプルバーゲートの取り壊しを決定したものの、歴史あるゲートを廃棄することは、本意ではなかった。

ジェイムズ1世像(右側)とアン・オブ・デンマーク(左側)が
パタノスタースクエアを見下ろしている

そこに、ビールの醸造業者である Henry Meux が登場し、1880年にテンプルバーゲートを購入の上、ハートフォードシャー州(Hertfordshire)にある彼の邸宅セオバルズパーク(Theobalds Park)の庭園の門として移設したのである。

2019年1月7日月曜日

ロンドン タワーブリッジ(Tower Bridge)-その2

タワーブリッジから見たテムズ河の下流方面–
ジェイコブソン修理ドックから物凄い速度で飛び出してきたオーロラ号を追って、
ホームズ、ワトスンやジョーンズ警部達を乗せた巡視艇は、画面奥へと向かった

19世紀後半、シティー・オブ・ロンドン(City of London→2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)の東側に位置するイースト・オブ・ロンドン(East of London)における商業発展のために、ロンドン橋(London Bridge)の下流に、新たな橋を建設する必要性が生じた。その一方で、ロンドン橋とロンドン塔(Tower of London→2018年4月8日 / 4月15日 / 4月22日付ブログで紹介済)の間には、プール・オブ・ロンドン(Pool of London)と呼ばれる港湾施設があり、通常の固定橋を建設すると、同港湾施設への入港の障害となるリスクがあった。

上記の問題を解決するため、1877年にサー・アルバート・ジョーゼフ・オルトマン(Sir Albert Joseph Altman:1839年ー1912年)を議長とする委員会が設立され、デザイン案の公募を行なった。その結果、50以上のデザイン案が集まったが、それらに対する評価作業がかなり長引き、1884年になって、やっと、英国の建築家であるサー・ホーレス・ジョーンズ(Sir Horace Jones:1819年ー1887年)が設計した跳開橋案が、委員会によって承認され、サー・ジョン・ウルフェ・バリー(Sir John Wolfe Barry:1836年ー1918年)が技師として任命された。そして、1885年に跳開橋の建設法案が、英国議会を通過したのである。

タワーブリッジから見たロンドン塔(テムズ河北岸)

翌年の1886年に、跳開橋の建設に着工。同年、設計者のサー・ホーレス・ジョーンズが亡くなったため、ジョージ・D・スティーヴンソン(George D. Stevenson)がその後を引き継いだ。サー・ホーレス・ジョーンズによる当初の設計案では、跳開橋を支える主塔の外観を煉瓦で覆うことになっていたが、(1)鉄塔を腐食から守るため、かつ、(2)近くにあって、タワーブリッジの名前の由来となったロンドン塔の景観への配慮のため、コーンウォール花崗岩とポートランド石で覆い、ゴシック系への転換を行なっている。

跳開橋の建設には、8年間を要して、1894年にやっと竣工し、同年6月30日に、当時の王太子夫妻(後のサクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝の初代国王となるエドワード7世(Edward VII:1841年ー1910年 在位期間:1901年ー1910年)とアレクサンドラ・オブ・デンマーク(Alexandra of Denmark:1844年ー1925年))の出席の下、正式に開通を迎えたのである。

タワーブリッジから見たシャードビル(テムズ河南岸)

タワーブリッジは、現在のロンドン・タワーハムレッツ区(London Borough of Tower Hamlets)とロンドン・サザーク区(London Borough of Southwark)を結んでいる。

2019年1月6日日曜日

ロンドン テンプルバー(Temple Bar)ーその1

1666年のロンドン大火(Great Fire of London)後、セントポール大聖堂を再建した
サー・クリストファー・マイケル・レン(Sir Christopher Michael Wren)が設計した
テンプルバーゲート(Temple Bar Gate)は、現在、
三菱地所が再開発したパタノスタースクエア(Paternoster Square)と
セントポール大聖堂の間に移設されている–
上の写真は、パタノスタースクエア側から見たテンプルバーゲート(その1)

「皇帝のかぎ煙草入れ(The Emperor’s snuff-Box)」は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が発表した推理小説で、1942年に米国のハーパー&ブラザーズ社(Harper & Brothers)から、そして、1943年に英国のヘイミッシュ・ハミルトン社(Hamish Hamilton)から刊行された。本作品は、ジョン・ディクスン・カー名義の長編23作目に該り、(1)アンリ・バンコラン(Henri Bencolin)シリーズ、(2)ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズ、(3)ヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)シリーズや(4)歴史ミステリーものに属さないノン・シリーズの作品である。本作品では、精神科医のダーモット・キンロス博士が探偵役を務める。

パタノスタースクエア側から見たテンプルバーゲート(その2)

フランスの避暑地であるラ・バンドレットのアンジェ街のミラマール荘に住むイヴ・ニールは、有名なテニス選手との不倫を理由に、夫のネッド・アトウッドと離婚した後、向かいのボヌール荘に住むトビイ・ローズと親しくなる。フックソン銀行ラ・バンドレット支店の管理職を務めるトビイ・ローズは、品行方正さを揶揄う母ヘレナや妹ジャニスに対して、次のように話す。

「フックソン銀行はイギリスでも指折りの、由緒ある格式高い銀行だよ。金細工商だった時代からテンプル・バーのそばにあるんだから」トビイはそう言ったあとイヴの方を向いた。「父の骨董品コレクションにはね、かつてそこの紋章として使われていた金細工が含まれているんだ」(創元推理文庫「皇帝のかぎ煙草入れ」<駒月雅子氏訳>)

パタノスタースクエア側から見たテンプルバーゲート(その3)

トビイ・ローズの話に出てきたテンプルバー(Temple Bar)とは、約2千年前のローマ帝国によるロンディニウム(Londinium)創建を起源に、都市として発展してきた現在のシティー・オブ・ロンドン(City of London→2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)に該る地域へ至る通りに設けられた関所があった場所のことである。
ロンディニウムとして始まったロンドンは、都市防衛のため、市街壁を築き、市街壁の要所に関所を設け、都市へ出入りする交易を管理した。関所のうち、一番頻繁に使用されたのが、テンプルバーである。

セントポール大聖堂側から見たテンプルバーゲート(その1)

1066年のヘイスティングスの戦い(Battle of Hastings)を経て、イングランドを征服したノルマンディー公ギョーム2世は、同年ウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)において、イングランド王ウィリアム1世(William I:1027年ー1087年 在位期間:1066年ー1087年)として即位し、ノルマン朝を開き、シティー・オブ・ロンドンの南東部分にホワイトタワー(White Tower→現在のロンドン塔(Tower of London→2018年4月8日 / 4月15日 / 4月22日付ブログで紹介済))を建設して、統治を行った。

ウィリアム1世の三男で、ノルマン朝第2代イングランド王であるウィリアム2世(William II:1066年頃ー1100年 在位期間:1087年ー1100年)が、1097年にウェストミンスター寺院に程近い場所に、ウェストミンスター宮殿(Palace of Westminster)の基礎となるウェストミンスターホール(Westminster Hall)を建設した。ウェストミンスターホールの建設によって、それまでは国中を移動する宮廷に同伴していた中央政府の各機関はウェストミンスターホール周辺に固定され、現在のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のウェストミンスター地区(Westminster)が、ロンドンの首都として、政府機能を果たす一方、シティー・オブ・ロンドンは、自治機能を有するイングランド最大の商業都市として発展していった。
こうして、政治活動の中心地であるウェストミンスター地区と経済活動の中心地であるシティー・オブ・ロンドンの中間地点に該るテンプルバーは、双方によって頻繁に使用されたのである。

セントポール大聖堂側から見たテンプルバーゲート(その2)

テンプルバーの名前は、南側に建つテンプル教会(Temple Church)に因んで、名付けられた。

テンプルバーが建つ場所の西側は、現在、シティー・オブ・ウェストミンスター区のストランド地区(Strand)に属して、通りの名前はストランド通り(Strand→→2015年3月29日付ブログで紹介済)となっているが、東側は、シティー・オブ・ロンドンに属して、通りはフリートストリート(Fleet Street→2014年9月21日付ブログで紹介済)へと名前が変わる。

2019年1月1日火曜日

ロンドン タワーブリッジ(Tower Bridge)–その1

タワーブリッジの主塔を下から見上げたところ

サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)では、若い女性メアリー・モースタン(Mary Morstan)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れて、風変わりな事件の調査依頼をする。

元英国陸軍インド派遣軍の大尉だった彼女の父親アーサー・モースタン(Captain Arthur Morstan)は、インドから英国に戻った10年前に、謎の失踪を遂げていた。彼はロンドンのランガムホテル(Langham Hotel→2014年7月6日付ブログで紹介済)に滞在していたが、娘のモースタン嬢が彼を訪ねると、身の回り品や荷物等を残したまま、姿を消しており、その後の消息が判らなかった。そして、6年前から年に1回、「未知の友」を名乗る正体不明の人物から彼女宛に大粒の真珠が送られてくるようになり、今回、その人物から面会を求める手紙が届いたのである。
彼女の依頼に応じて、ホームズとジョン・H・ワトスンの二人は彼女に同行して、待ち合わせ場所のライシアム劇場(Lyceum Theatreー2014年7月12日付ブログで紹介済)へ向かった。そして、ホームズ達一行は、そこで正体不明の人物によって手配された馬車に乗り込むのであった。

ホームズ、ワトスンとモースタン嬢の三人は、ロンドン郊外のある邸宅へと連れて行かれ、そこでサディアス・ショルト(Thaddeus Sholto)という小男に出迎えられる。彼が手紙の差出人で、ホームズ達一行は、彼からモースタン嬢の父親であるアーサー・モースタン大尉と彼の父親であるジョン・ショルト少佐(Major John Sholto)との間に起きたインド駐留時代の因縁話を聞かされるのであった。
サディアス・ショルトによると、父親のジョン・ショルト少佐が亡くなる際、上記の事情を聞いて責任を感じた兄のバーソロミュー・ショルト(Bartholomew Sholto)と彼が、モースタン嬢宛に毎年真珠を送っていたのである。アッパーノーウッド(Upper Norwood)にある屋敷の屋根裏部屋にジョン・ショルト少佐が隠していた財宝を発見した彼ら兄弟は、モースタン嬢に財宝を分配しようと決めた。

しかし、ホームズ一行がサディアス・ショルトに連れられて、バーソロミュー・ショルトの屋敷を訪れると、バーソロミュー・ショルトはインド洋のアンダマン諸島の土着民が使う毒矢によって殺されているのを発見した。そして、問題の財宝は何者かによって奪い去られていたのである。
ホームズの依頼に応じて、ワトスンは、ランベス地区(Lambeth)の水辺近くにあるピンチンレーン3番地(No. 3 Pinchin Lane→2017年10月28日付ブログで紹介済)に住む鳥の剥製屋シャーマン(Sherman)から、犬のトビー(Toby)を借り出す。そして、ホームズとワトスンの二人は、バーソロミュー・ショルトの殺害現場に残っていたクレオソートの臭いを手掛かりにして、トビーと一緒に、現場からロンドン市内を通り、犯人の逃走経路を追跡して行く。

ホームズとワトスンの二人が、犬のトビーと一緒に、ストリーサム地区(Streatham→2017年12月2日付ブログで紹介済)、ブリクストン地区(Brixton→2017年12月3日付ブログで紹介済)、キャンバーウェル地区(Camberwell→2017年12月9日付ブログで紹介済)、オヴァールクリケット場(Oval)を抜けて、ケニントンレーン(Kennington Lane→2017年12月16日付ブログで紹介済)へと達した。そして、彼らは更にボンドストリート(Bond Street→2017年12月23日付ブログで紹介済)、マイルズストリート(Miles Street→2017年12月23日付ブログで紹介済)やナイツプレイス(Knight’s Place→2017年12月23日付ブログで紹介済)を通って、ナインエルムズ地区(Nine Elms→2017年12月30日付ブログと2018年1月6日付ブログで紹介済)までやって来たが、ブロデリック&ネルソンの材木置き場という間違った場所に辿り着いてしまった。どうやら、犬のトビーは、どこかの地点から違うクレオソートの臭いを辿ってしまったようだ。

二人はトビーをクレオソートの臭いの跡が二つの方向に分かれていたナイツプレイスへと戻し、犯人達の跡を再度辿らせた。そして、彼らはベルモントプレイス(Belmon Place→2018年1月13日付ブログで紹介済)とプリンスズストリート(Prince’s Street→2018年1月13日付ブログで紹介済)を抜けて、ブロードストリート(Broad Street→2018年1月13日付ブログで紹介済)の終点で、テムズ河岸に出るが、そこは船着き場で、どうやら犯人達はここで船に乗って、警察の追跡をまこうとしたようだ。

ホームズは、ウィギンズ(Wiggins)を初めとするベーカーストリート不正規隊(Baker Street Irregulars)を使って、バーソロミュー・ショルトを殺害した犯人達が乗った船(オーロラ号)の隠れ場所を捜索させたものの、うまくいかなかった。独自の捜査により、犯人達の居場所を見つけ出したホームズは、ベーカーストリート221Bへスコットランドヤードのアセルニー・ジョーンズ警部(Inspector Athelney Jones)を呼び出す。ホームズは、呼び出したアセルニー・ジョーンズ警部に対して、バーソロミュー・ショルトの殺害犯人達を捕えるべく、午後7時にウェストミンスター船着き場(Westminster Stairs / Wharf→2018年3月31日 / 4月7日付ブログで紹介済)に巡視艇を手配するよう、依頼するのであった。

巡視艇がウェストミンスター船着き場を離れると、ホームズはアセルニー・ジョーンズ警部に対して、巡視艇をロンドン塔(Tower of London→2018年4月8日 / 4月15日 / 4月22日付ブログで紹介済)方面へと向かわせ、テムズ河の南岸にあるジェイコブソン修理ドック(Jacobson’s Yard)の反対側に船を停泊するよう、指示した。ホームズによると、バーソロミュー・ショルトを殺害した犯人達は、オーロラ号をジェイコブソン修理ドック内に隠している、とのことだった。
ホームズ達を乗せた巡視艇が、ロンドン塔近くのハシケの列に隠れて、ジェイコブソン修理ドックの様子を見張っていると、捜していたオーロラ号が修理ドックの入口を抜けて、物凄い速度でテムズ河の下流へと向かった。そうして、巡視艇によるオーロラ号の追跡が始まったのである。

画面左手がテムズ河の上流で、右手が下流–
画面手前が、バーソロミュー・ショルトを殺害した犯人達が
オーロラ号を隠したジェイコブソン修理ドックがあったと思われる場所(テムズ河南岸)で、
ロンドン塔は対岸(テムズ河北岸)に位置している

「四つの署名」事件は、1888年9月に発生したものと考えられており、サー・アーサー・コナン・ドイルの原作上、全く言及されていないものの、ホームズ達を乗せた巡視艇が、ジェイコブソン修理ドックから飛び出してきたオーロラ号の追跡を開始した直後、ロンドン塔よりテムズ河の下流に位置し、跳開橋(bascule and suspension bridge)として当時建設中のタワーブリッジ(Tower Bridge)の下をくぐった筈である。