テムズ河(River Thames)に架かる ブラックフライアーズ橋(Blackfriars Bridge)の北岸に設置されている ヴィクトリア女王のブロンズ像 |
サー・アーサー・コナン・ドイル作「ブルース・パーティントン型設計図(The Bruce-Partington Plans)」の最後で、シャーロック・ホームズがジョン・H・ワトスンに対して、「ある慈悲深い女性(a certain gracious lady)」と曖昧に言及しているヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年)の治世中、首相自身は重複するものの、全部で20の内閣が彼女に仕えた。「ブルース・パーティントン型設計図」事件が発生した1895年11月の少し前に該る1895年6月28日、保守党の第3代ソールズベリー侯爵ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシル(Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of Salisbury:1830年ー1903年)が自由党と連立して、第3代ソールズベリー侯爵内閣(1895年ー1902年)を組閣し、以降、ヴィクトリア女王の崩御まで、彼が首相を務めた。
第3代ソールズベリー侯爵は、民主主義を嫌う貴族主義的な人物ではあったが、斬新的な内政改革を行った。一方、外交面では、社会主義と帝国主義を統合させた「社会帝国主義者」として知られるジョーゼフ・チェンバレン(Joseph Chamberlain:1836年ー1914年)を植民相にして、第3代ソールズベリー公爵は積極的な帝国主義政策を推敲して、大英帝国の更なる拡張を果たした。ヴィクトリア女王は、第3代ソールズベリー侯爵内閣による国政に安心 / 満足して、彼女が政治に口を出すことが次第になくなっていき、立憲君主化が一層進展したのである。晩年、ヴィクトリア女王は身の回りのことや趣味に没頭するようになっていった。
ヴィクトリア女王のブロンズ像の後ろには、 テムズリンク(Thameslink)の ブラックフライアーズ駅(Blackfriars Station)と 高層ビルの「ザ・シャード(The Shard)」が見える |
「ブルース・パーティントン型設計図」事件が発生した1895年11月当時、第3代ソールズベリー侯爵内閣の植民相(在任期間: 1895年ー1903年)だったジョーゼフ・チェンバレンは、帝国主義の次の標的を南アフリカに定めていた。
ケーブ植民地(Cape Colony)の首相で、かつ、勅許会社南アフリカ会社(British South Africa Company)の社長でもあったセシル・ジョン・ローズ(Cecil John Rose:1853年ー1902年)の首席補佐官(ローデシア行政官)を務めていたレアンダー・スター・ジェームソン(Leander Star Jameson:1853年ー1917年)は、1895年12月末から1896年初頭にかけて、500名程の南アフリカ会社所属の騎馬警察隊を率いて、反英的なボーア人(オランダ系移民の子孫)国家であるトランスヴァール共和国(Republic of Transvaal → 正式名: South African Republic)へと侵入した。北アフリカのカイロと南アフリカのケープ植民地を鉄道で繋いで、アフリカ大陸を縦断する大英帝国通商路を建設するという壮大な計画があり、その進路上に存在するトランスヴァール共和国が邪魔だったのである。
また、トランスヴァール共和国では、金鉱が発掘されて、ヨハネスブルグの町が建設され、国が潤い始めていた。そのため、セシル・ジョン・ローズとレアンダー・スター・ジェームソン達は、トランスヴァール共和国の金鉱を奪おうとしていたのである。彼らの計画があまりにも杜撰だったので、ジェームソン軍はトランスヴァール共和国軍に包囲されて、直ぐに降伏した。この戦闘が、ジェームソン事件(Jameson Raid)である。
第一次ボーア戦争(1st Anglo - Boer War:1880年12月16日 - 1881年3月23日)とジェームソン事件(1895年12月29日 - 1896年1月2日)において、トランスヴァール共和国に惨敗したため、大英帝国側には大きな火種が残り、数年後、ヴィクトリア女王の晩年に、第2次ボーア戦争(Second Anglo-Boer War:1899年10月12日 - 1902年5月31日)を引き起こすのである。
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