アイルランド人の小説家であるブラム・ストーカー(Bram Stoker)こと、エイブラハム・ストーカー(Abraham Stoker:1847年ー1912年)がゴシック小説 / ホラー小説の「吸血鬼ドラキュラ」を出版した1897年、新聞の劇評が縁で知り合ったシェイクスピア俳優のサー・ヘンリー・アーヴィング(Sir Henry Irving:1838年ー1905年)の依頼に応じて、ブラム・ストーカーは、アーヴィング劇団の世話人兼同劇団が拠点としていたライシアム劇場(Lyceum Theatreー2014年7月12日付ブログで紹介済)の支配人を、1879年から1898年にかけて務めていた。
アイルランドのダブリンに出生したブラム・ストーカーは、ダブリンにあるトリニティー・カレッジ(Trinity College)を卒業した後、次第に演劇に興味を抱き、劇評を書き始め、大学の先輩が発行する新聞「ダブリン・イーブニング・メール(Dublin Evening Mail)」に寄稿する。この大学の先輩がジョーゼフ・シェリダン・レ・ファニュ(Joseph Sheridan Le Fanu:1814年ー1873年)で、1871年には女吸血鬼小説「カーミラ(Carmilla)」を発表しており、ブラム・ストーカーは、まず最初に、本作品の影響を受けたものと思われる。
ダブリンからロンドンへ移り住んだ後、ブラム・ストーカーは、欧州内に残る吸血鬼の伝説や伝承の調査に数年を費やす。そして、1890年に英国北東部ノースヨークシャー州(North Yorksire)東部のエスク川(River Esk)河口にある漁港ウィットビー(Whitby)を訪れた際、彼は「吸血鬼ドラキュラ」の構想を得たと言われている。そのため、彼が発表した「吸血鬼ドラキュラ」において、トランシルヴァニア(Transylvania)からやって来たドラキュラ伯爵(Count Dracula)が上陸する英国最初の場所として、ウィットビーが選ばれたのである。
その後、図書館で、「串刺し公ヴラド・ツェペシュ(Vlad Tepes the Impaler)」と呼ばれたワラキア公ヴラド3世(Vlad III Dracula of Wallachia:1431年ー1476年)の記述を見つけたブラム・ストーカーは、自分の構想をまとめて、1897年に「吸血鬼ドラキュラ」を出版した。
ブラム・ストーカーが住んでいた
セントレオナルズテラス18番地(18 St. Leonard's Terrace)の全景
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その後、図書館で、「串刺し公ヴラド・ツェペシュ(Vlad Tepes the Impaler)」と呼ばれたワラキア公ヴラド3世(Vlad III Dracula of Wallachia:1431年ー1476年)の記述を見つけたブラム・ストーカーは、自分の構想をまとめて、1897年に「吸血鬼ドラキュラ」を出版した。
サー・ヘンリー・アーヴィングが直ちに同作品を演劇化したため、ブラム・ストーカーの小説は非常に大きな反響を得たとのこと。
なお、一般に、吸血鬼ドラキュラのモデルは、ワラキア公ヴラド3世とされているが、実際のモデルは、サー・ヘンリー・アーヴィングだったという説も存在している。
ワラキア公ヴラド3世は、領地内の統制のため、裏切りを行った貴族階級の家臣達に対して、見せしめとして、本来は平民への刑罰であって貴族階級には行わない串刺し刑を実施したことから、「串刺し公」と呼ばれているが、彼にまつわる吸血鬼関係の記録や伝説・伝承は存在していない。まあ、ヴラド家の居城があったトランシルヴァニアにも、吸血鬼関係の伝説・伝承は残っていない。
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