凱旋門(その1) |
サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)の冒頭、1878年にジョン・H・ワトスンはロンドン大学(University of Londonー2016年8月6日付ブログで紹介済)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospitalー2016年8月13日付ブログで紹介済)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍する。戦場において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負い、英国へと送還される。
凱旋門(その2) |
英国に戻ったワトスンは、親類縁者が居ないため、ロンドンのストランド通り(Strandー2015年3月29日付ブログで紹介済)にあるホテルに滞在して、無意味な生活を送っていた。そんな最中、ワトスンは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)にあるクライテリオンバー(Criterion Barー2014年6月8日付ブログで紹介済)において、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospitalー2014年6月14日付ブログで紹介済)勤務時に外科助手をしていたスタンフォード(Stamford)青年に出会う。ワトスンがスタンフォード青年に「そこそこの家賃で住むことができる部屋を捜している。」という話をすると、同病院の化学実験室で働いているシャーロック・ホームズという一風変わった人物を紹介される。初対面にもかかわらず、ワトスンが負傷してアフガニスタンから帰って来たことを、ホームズは一目で言い当てて、ワトスンを驚かせた。
オペラ座ガルニエ宮(その1) |
こうして、ベーカーストリート221B(221B Baker Streetー2014年6月22日/6月29日付ブログで紹介済)において、ホームズとワトスンの共同生活が始まるのであった。彼らが共同生活を始めて間もなく、ホームズの元にスコットランドヤードのグレッグスン警部(Inspector Gregson)から事件発生を告げる手紙が届く。ホームズに誘われたワトスンは、ホームズと一緒に、ブリクストンロード(Brixton Roadー2017年5月20日付ブログで紹介済)近くの現場ローリストンガーデンズ3番地(3 Lauriston Gardensー2017年3月4日付ブログで紹介済)へと向かった。ホームズ達が到着した現場には、グレッグスン警部とレストレード警部(Inspector Lestrade)が二人を待っていた。現場で死亡していたのは、イーノック・J・ドレッバー(Enoch J. Drebber)の名刺を持つ、立派な服装をした中年の男性だった。
オペラ座ガルニエ宮(その2) |
イーノック・J・ドレッバーの死体を発見したのは、ジョン・ランス巡査(Constable John Rance)であるという話をレストレード警部から聞くと、ホームズとワトスンの二人は、早速、彼が住むケニントンパークゲート(Kennington Park Gate)のオードリーコート46番地(46 Audley Courtー2017年3月25日付ブログで紹介済)へと向かう。そこで、ジョン・ランス巡査から死体発見の経緯を聞いたホームズは、ワトスンに対して、「彼は犯人を捕まえられる絶好のチャンスをみすみすとふいにしたのさ。」と嘆くのであった。
ルーヴル美術館(その1) |
イーノック・J・ドレッバーの死体を持ち上げた際、床に落ちた女性の結婚指輪に気付いたホームズは、この指輪が犯人に繋がるものだと考え、朝刊全紙に広告を掲載して、
(1)金の結婚指輪がブリクストンロード近くのパブ「ホワイトハート(White Hart)」とホーランドグローヴ通り(Holland Grove)の間の道路で見つかったこと
(2)落とし主は、今晩8時から9時までの間に、ベーカーストリート221Bのワトスン博士を訪ねること
と告げるのであった。
ルーヴル美術館(その2) |
そして、ホームズの予想通り、午後8時を過ぎた頃、彼らの部屋を訪ねて来た人が居たが、ホームズの予想に反して、指輪を引き取りにやって来たのは、はハウンズディッチ(Houndsditchー2017年6月3日付ブログで紹介済)のダンカンストリート13番地(13 Duncan Street)に住むソーヤー(Sawyer)と名乗る老婆だった。犯人に頼まれて、老婆が代わりに指輪を引き取りに来たと考えたホームズは、ワトスンを部屋に残して、彼女の後を尾行すべく、出かけて行った。
オルセー美術館(その1) |
It was close upon nine when he set out. I had no idea how long he might be, but I sat stolidly puffing at my pipe and skipping over the pages of Henri Murger’s “Vie de Boheme.” Ten o’clock passed, and I heard the footsteps of the maid as they pattered off to bed. Eleven, and the more stately tread of the landlady passed my door, bound for the same destination. It was close upon twelve before I heard the sharp sound of his latch-key. The instant he entered I saw by his face that he had not been successful. Amusement and chagrin seemed to be struggling for the mastery, until the former suddenly carried the day, and he burst into a hearty laugh.
“I wouldn’t have the Scotland Yarders know it for the world,” he cried, dropping into his chair; “I have chaffed them so much that they would never have let me hear the end of it. I can afford to laugh, because I know that I will be even with them in the long run.”
オルセー美術館(その2) |
彼(ホームズ)が出かけたのは、午後9時近かった。時間がどの位長くかかるのか、全く判らなかったが、私は座ってパイプをぼんやりとふかしながら、アンリ・ミュルジェールの「ボヘミアン生活の情景」を拾い読みした。午後10時を過ぎ、メイドがシーツを叩いて、ベッドを整えて廻る足音が聞こえた。午後11時になると、家主のハドスン夫人のもっと堂々とした足音が、私の扉の前を同じ方向へ通り過ぎっていった。ホームズが扉の掛け金の鍵を回す鋭い音が聞こえたのは、午後12時に近かった。彼が部屋に入って来た瞬間、彼の顔を見て、老婆の鼻腔がうまくいかなかったことが判った。彼の心の内では、愉快さと悔しさがせめぎ合っているようで、突然前者が勝ると、彼は腹の底から笑い出したのである。
「どんなことがあっても、スコットランドヤードにこのことを知られる訳にはいかないな。」と、彼は椅子に倒れこみながら叫んだ。「僕は彼らを随分とイライラさせたから、このことを知られたら、ずーっと言われるだろう。最終的には、五分にできると分かっているから、僕には笑う余裕があるけどね。」
マドレーヌ寺院 |
老婆ソーヤーの尾行に出かけたホームズをベーカーストリート221Bで待つ間、ワトスンが拾い読みした「ボヘミアン生活の情景(Scenes de la Vie de Boheme)」の作者アンリ・ミュルジェール(Henri Murger:1822年ー1861年)は、フランスの詩人・小説家である。
1847年から1849年にかけて執筆された小説「ボヘミアン生活の情景」は、パリの屋根裏部屋で暮らす貧しいボヘミアン作家、画家、音楽家や哲学者らとその恋人達の生活情景を描いたもので、後のオペラ「ラ・ボエーム(La Boheme)」の原作となっている。
ヴァンドーム広場 |
アンリ・ミュルジェール作「ボヘミアン生活の情景」が「The Bohemians of the Latin Quarter」という題名で英訳されたのが1888年である一方、「ビートンのクリスマス年鑑(Beeton’s Christmas Annual)」に「緋色の研究」が掲載されたのが1887年11月(事件発生年月:1881年3月)であることを考えると、ワトスンは「ボヘミアン生活の情景」をフランス語の原文のまま拾い読みしていたことになる。
ノートルダム寺院 |
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