2017年6月17日土曜日

ロンドン キャンバーウェル地区 / トーキーテラス(Camberwell / Torquay Terrace)

キャンバーウェル地区内を斜めに横切るキャンバーウェル ニューロード

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)の冒頭、1878年にジョン・H・ワトスンはロンドン大学(University of Londonー2016年8月6日付ブログで紹介済)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospitalー2016年8月13日付ブログで紹介済)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍する。戦場において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負い、英国へと送還される。


英国に戻ったワトスンは、親類縁者が居ないため、ロンドンのストランド通り(Strandー2015年3月29日付ブログで紹介済)にあるホテルに滞在して、無意味な生活を送っていた。そんな最中、ワトスンは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)にあるクライテリオンバー(Criterion Barー2014年6月8日付ブログで紹介済)において、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospitalー2014年6月14日付ブログで紹介済)勤務時に外科助手をしていたスタンフォード(Stamford)青年に出会う。ワトスンがスタンフォード青年に「そこそこの家賃で住むことができる部屋を捜している。」という話をすると、同病院の化学実験室で働いているシャーロック・ホームズという一風変わった人物を紹介される。初対面にもかかわらず、ワトスンが負傷してアフガニスタンから帰って来たことを、ホームズは一目で言い当てて、ワトスンを驚かせた。


こうして、ベーカーストリート221B(221B Baker Streetー2014年6月22日/6月29日付ブログで紹介済)において、ホームズとワトスンの共同生活が始まるのであった。彼らが共同生活を始めて間もなく、ホームズの元にスコットランドヤードのグレッグスン警部(Inspector Gregson)から事件発生を告げる手紙が届く。ホームズに誘われたワトスンは、ホームズと一緒に、ブリクストンロード(Brixton Roadー2017年5月20日付ブログで紹介済)近くの現場ローリストンガーデンズ3番地(3 Lauriston Gardensー2017年3月4日付ブログで紹介済)へと向かった。ホームズ達が到着した現場には、グレッグスン警部とレストレード警部(Inspector Lestrade)が二人を待っていた。現場で死亡していたのは、イーノック・J・ドレッバー(Enoch J. Drebber)の名刺を持つ、立派な服装をした中年の男性だった。


イーノック・J・ドレッバーの死体を発見したのは、ジョン・ランス巡査(Constable John Rance)であるという話をレストレード警部から聞くと、ホームズとワトスンの二人は、早速、彼が住むケニントンパークゲート(Kennington Park Gate)のオードリーコート46番地(46 Audley Courtー2017年3月25日付ブログで紹介済)へと向かう。そこで、ジョン・ランス巡査から死体発見の経緯を聞いたホームズは、ワトスンに対して、「彼は犯人を捕まえられる絶好のチャンスをみすみすとふいにしたのさ。」と嘆くのであった。


イーノック・J・ドレッバーの死体を持ち上げた際、床に落ちた女性の結婚指輪に気付いたホームズは、この指輪が犯人に繋がるものだと考え、朝刊全紙に広告を掲載して、
(1)金の結婚指輪がブリクストンロード近くのパブ「ホワイトハート(White Hart)」とホーランドグローヴ通り(Holland Grove)の間の道路で見つかったこと
(2)落とし主は、今晩8時から9時までの間に、ベーカーストリート221Bのワトスン博士を訪ねること
と告げるのであった。


そして、ホームズの予想通り、午後8時を過ぎた頃、彼らの部屋を訪ねて来た人が居たが、ホームズの予想に反して、指輪を引き取りにやって来たのは、はハウンズディッチ(Houndsditchー2017年6月3日付ブログで紹介済)のダンカンストリート13番地(13 Duncan Street)に住むソーヤー(Sawyer)と名乗る老婆だった。犯人に頼まれて、老婆が代わりに指輪を引き取りに来たと考えたホームズは、ワトスンを部屋に残して、彼女の後を尾行すべく、出かけて行った。ところが、敵側の方が一枚上手で、残念ながら、ホームズは尾行をまかれてしまった。そして、翌朝の新聞には、「ブリクストンの謎」という記事であふれていた。


スタンダード紙は、この事件を次のように論評していた。この種の不法な暴力は、通常、自由党の政権下で発生する。不法な暴力は、大衆の不安定な精神から発生し、権威の弱体化という結果に繋がる。殺された男性は米国人で、ロンドンに数週間滞在していた。彼はキャンバーウェル地区のトーキーテラスにあるシャーペンティエ夫人の下宿屋に泊まっていた。彼には、私設秘書のジョーゼフ・スタンガーソン氏が同伴していた。今月4日の火曜日に、彼ら二人は女主人に別れを告げ、「リヴァプール行きの特急に乗るつもりだ。」と言い残して、ユーストン駅へ向かった。その後、彼らはユーストン駅のプラットフォームに一緒に居るのを目撃されている。ドレッバー氏の死体がユーストン駅から何マイルも離れたブリクストンロードにある空き家において発見されるまで、二人の消息は全く不明である。何故、彼はブリクストンロードの空き家へ行ったのか、そして、どうして、彼がそこで殺されることになったのかについては、依然として謎のままである。スタンガーソン氏の消息に関しても、全く不明である。スコットランドヤードのレストレード氏とグレッグスン氏の二人がこの事件を担当して居ることは、非常に喜ばしい。著名な警部二人がこの事件を迅速に糾明するものと、大きな期待が寄せられている。


The Standard commented upon the fact that lawless outrages of the sort usually occurred under a Liberal Administration. They arose from the unsettling of the minds of the masses, and the consequent weakening of all authority. The decreased was an American gentleman who had been residing for some weeks in the Metropolis. He had stayed at the boarding-house of Madame Charpentier, in Torquay Terrace, Camberwell. He was accompanied in his travels by his private secretary, Mr. Joseph Stangerson. The two bade adieu to their landlady upon Tuesday, the 4th inst., and departed to Euston Station with the avowed intention of catching the Liverpool express. They were afterwards seen together upon the platform. Nothing more is known of them until Mr. Drebber’s body was, as recorded, discovered in an empty house in the Brixton Road, many miles from Euston Station. How he came there, or how he met his fate, are questions which are still involved in mystery. Nothing is known of the whereabouts of Stangerson. We are glad to learn that Mr. Lestrade and Mr. Gregson, of Scotland Yard, are both engaged upon the case, and it is confidently anticipated that these well-known officers will speedily throw light upon the matter.


ブリクストンロードの空き家で死体となって発見されたイーノック・J・ドレッバーが私設秘書のジョーゼフ・スタンガーソンと一緒に滞在していたシャーペンティエ夫人(Madame Charpentier)が経営する下宿屋があったキャンバーウェル地区(Camberwell)は、テムズ河(River Thames)の南岸にあり、大部分はロンドン・サザーク区(London Borough of Southwark)に属しているが、一部がロンドン・ランベス区(London Borough of Lambeth)内に入っている。
ちなみに、キャンバーウェル地区は、ブリクストンロードの東側に位置している。


地下鉄ベーカールーライン(Bakerloo Line)の南側の終着駅である地下鉄エレファント&キャッスル駅(Elephant & Castle Tube Station)の辺りからウォルワースロード(Walworth Road)がほぼ南へと延びているが、キャンバーウェル地区内に入ると、キャンバーウェルロード(Camberwell Road)へと名前を変える。このキャンバーウェルロードがキャンバーウェル地区のほぼ中央を南北に縦断して、地区を東側と西側に分けている。そして、キャンバーウェルグリーン(Camberwell Green)と呼ばれる緑地帯の角で、東西に延びるキャンバーウェル ニューロード / 西側(Camberwell New Road)とペッカムロード / 東側(Peckam Road)に交差すると、デンマークヒル通り(Denmark Hill)へと再度名前が変わる。


ホームズとワトスンが活躍したヴィクトリア朝時代、特に1850年代以降、キャンバーウェルロード沿いにはミュージックホールが数多く建ち並び、非常に栄えたが、映画館やTVの登場により、次第に数が減っていき、最後のミュージックホールも1956年にその姿を消してしまった。


現在の住所表記上、シャーペンティエ夫人の下宿屋があったトーキーテラス(Torquay Terrace)は、キャンバーウェル地区内に存在しておらず、架空の住所である。

1 件のコメント:

  1. こんにちは。私は2013年の2月から3月、ちょうど今ぐらいにロンドンに滞在していました。場所はキャンバーウェルニューロードの近くのハルスミアロードでした。
    検索していたら貴ブログにたどり着き、見覚えのある風景にとても懐かしさを感じました。 またロンドンの空気を感じに行きたいですね!

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