暗闇の中、捜索に出かけたアリステアとゼリーの二人は、 この断崖の下にマーガレットが倒れているのを発見する |
アガサ・クリスティー作「象は忘れない(Elephants can remember)」は1972年に発表された作品であるが、1975年に刊行されたエルキュール・ポワロ最後の事件となる「カーテン(Curtain)」が第二次世界大戦(1939年ー1945年)中の1943年に予め執筆されていることを考えると、執筆順では、本作品が最後のポワロ譚と言える。
推理作家のアリアドニ・オリヴァー(Ariadne Oliver)は、文学者昼食会において、バートン=コックス夫人(Mrs Burton-Cox)と名乗る婦人から奇妙なことを尋ねられる。それは、オリヴァー夫人が名付け親となったシーリア・レイヴンズクロフト(Celia Ravenscroft)という娘の両親が十数年前に起こした心中事件のことだった。バートン=コックス夫人がオリヴァー夫人に発した問いは、「あの娘の母親が父親を殺したんでしょうか?それとも、父親が母親を殺したんでしょうか?」だった。自分の名付け子すら満足に思い出せないオリヴァー夫人にとって、謎めいた心中事件のことなど、何も覚えていなかったのである。
バートン=コックス夫人から尋ねられたことが非常に気になったオリヴァー夫人は、名付け子であるシーリアに連絡をとり、ひさしぶりに再会する。シーリアによると、彼女はバートン=コックス夫人の息子デズモンド(Desmond)と婚約中で、バートン=コックス夫人としては、シーリアの両親のどちらが相手を殺したのかが、シーリアとデズモンドが結婚した場合、遺伝的に好ましいのかどうかという問題に関わってくるらしい。
シーリアの説明によると、亡くなる数年前にインドで退役したアリステア・レイヴンズクロフト将軍(General Alistair Ravenscroft)は、妻のマーガレット(Margaret Ravenscroft)と一緒に、英国南西部のコンウォール州(Cornwall)にある海辺の家へと移って、静かな生活を送っていた。ある日、いつも通り、レイヴンズクロフト夫妻は飼い犬を連れて散歩に出かけたが、その後、レイヴンズクロフト将軍が保有する銃で二人とも撃たれて死亡しているのが発見された。
警察はレイヴンズクロフト夫妻の死を心中と見做したが、心中に至る動機は遂に見つからなかった。夫妻が経済的に困っていた様子はない上に、夫婦仲もよく、彼らを殺害しようと考える敵等は居なかったからである。
当時、シーリアは12歳で、スイスの学校へ行っていて、コンウォール州にある海辺の家には住んでいなかった。その頃、海辺の家に居たのは、家政婦、シーリアの元家庭教師、それにシーリアの伯母ドロシア・ジャロー(Dorothea Jarrow)だけであった。彼らにも、夫妻を殺すような動機は見当たらなかったである。
オリヴァー夫人から相談を受けたポワロは、レイヴンズクロフト夫妻と関わりがあった人達を訪ねて、心中事件の前後のことを象のように詳細に記憶している人を捜すよう、彼女にアドバイスを送る。
一方で、ポワロは独自に真相の究明に乗り出し、旧友のスペンス元警視(ex Superintendent Spence)に依頼して、当時の事件担当者だったギャロウェイ元警視(ex Superintendent Garroway)を紹介してもらい、事件の調査内容を尋ねるのであった。
ビーチー岬は、白亜系チョーク岩から成る崖である |
英国のTV会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「象は忘れない」(2013年)の回では、物語の終盤、ポワロに頼まれて、十数年ぶりにパリから英国へと戻ったシーリアの元家庭教師ゼリー・ルーゼル(Zelie Rouxelleーアガサ・クリスティーの原作では、シーリアの家庭教師はゼリー・モーウラ(Zelie Meauhourat)とマディ・ルーセル(Maddy Rouzelle)の二人居たが、TV版では、過去の事件の他に、原作にはない現代に発生する殺人事件を追加した関係上、物語を整理するため、一人の人物に集約されている)の口から、シーリアとデズモンドの二人に対して、十数年前の心中事件の真相が語られる。
いつものように、夕方、散歩に出かけたマーガレットとドロシアの双子姉妹だったが、何故か、ドロシア一人だけが帰宅した。アリステアとゼリーの二人は、ドロシアに対して、何があったのかを問うが、ドロシアの返事が今一つはっきりしない。ドロシアは「いつものルートで散歩へ行った。」と答えるのみだった。暗闇の中、アリステアとゼリーの二人は、マーガレットの捜索へと出かけた。必死の捜索を続ける二人は、断崖絶壁の下にマーガレットが倒れているのを遂に発見する。既に虫の息になっていたマーガレットは、二人の問いに対して、「散歩の途中、ドロシアに崖の上から突き落とされた。」と告げるのであった。アリステアとゼリーの二人が断崖絶壁の上からマーガレットを捜索した際、画面右手奥に突き出した断崖の先の海中に、灯台が建っているのが見える。多分、映像的には、TV版用に加工したものだと思われるが、英国南岸にあるビーチー岬(Beachy Head)をモデルにしていると考えられる。
ビーチー岬は景勝地/観光名所ではあるが、 世界で最も有名な自殺の名所の一つでもある |
ビーチー岬は、イーストサセックス州(East Sussex)のイーストボーン(Eastbourneー英国南岸の都市)の近く(西側)にある岬で、セブンシスターズ(Seven Sistersー2017年4月9日付ブログで紹介済)の東隣に位置している。
ビーチー岬は白亜系チョーク岩から成る崖で、海に面したチョーク岩の崖としては、英国内で最も高く、150mを超えている。ビーチー岬のチョーク岩は、中生代の白亜紀後期(約1億年前~約6600万年前)に形成された、と言われている。ただし、その段階では、まだ海面下にあったが、新生代(約6600万年前~現代)に入ると、チョーク岩が隆起して、陸地になった。そして、最後の氷河期(約7万年前~約1万年前)が終わったことに伴い、海面が上昇し、英国海峡が形成され、同海峡から陸地へと押し寄せる波がチョーク岩を次第に削り取っていき、今のような断崖絶壁の海岸線をつくり上げたのである。
ビーチー岬は、13世紀後半に「Beauchef」という名で、14世紀前半に「Beaucheif」という名で呼ばれていたが、18世紀前半には「Beachy Head」という名前に定着する。この地名は「浜(beach)」を意味するのではなく、「美しい岬」を意味するフランス語の「beau chef」が英国側で訛った結果、とのこと。
ビーチー岬は航海上危険な場所であり、ビーチー岬の西側(セブンシスターズ側)に灯台を建設する工事が始まったものの、深く立ち込める霧と低く垂れ込める雲により、灯台の明かりを遮ってしまうことが判明し、そのため、ビーチー岬の下の海上に、ビーチー岬灯台が建設されたのである。
1929年、土地開発の手から守るため、イーストボーン市がビーチー岬周辺の土地を購入し、ビーチー岬の西側にあるセブンシスターズとともに、現在、ビーチー岬は景勝地/観光名所となっているが、その高所ゆえに、世界で最も有名な自殺の名所の一つという不名誉な場所でもある。
イーストボーンから西へとビーチー岬を回り込むと、 断崖絶壁の先の海中に、ビーチー岬灯台が建っているのが見えてくる |
マーガレットとドロシアの双子姉妹が、夕方、いつも散歩するルートについて、TV版では明確にされていないが、彼女達二人が散歩に出かけた際、セブンシスターズを背にして、オーバークリフ荘(Overcliffeー「崖の上の家」の意)を後にしているので、断崖を西側へと向かったことになる。その途中、ドロシアはマーガレットを断崖から下へ突き落としたことになるが、TV版において、マーガレットが転落したのは、陸地から見てビーチー岬が右手にある辺りである。位置関係的には、東側からイーストボーン、ビーチー岬、セブンシスターズ、そして、シーフォード(Seafordーイーストボーンと同じく、英国南岸の都市)の順番となる。つまり、マーガレットとドロシアの二人は、セブンシスターズよりも更に西へ向かっているにもかかわらず、マーガレットがドロシアによって断崖から突き落とされたのは、ビーチー岬よりも東側で、イーストボーン寄りの場所であり、厳密に言うと、辻褄が合わないことになってしまう。
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