エルキュール・ポワロとヴェラ・ロサコフ伯爵夫人の二人が訪れた 美術館として、ロンドン大学のセナトハウスが撮影に使用されている |
アガサ・クリスティー作「二重の手がかり(The Double Clue)」は、短編集「ポワロ初期の事件(Poirot's Early Cases)」(1974年)に収録されている作品である。
ある日、エルキュール・ポワロは、宝石コレクターとして非常に有名なマルカス・ハードマン(Marcus Hardman)から事件の調査依頼を受ける。マルカス・ハードマンは自宅でお茶会(ティーパーティー)を開催したが、その後、金庫がこじ開けられ、中に保管してあった宝石が盗まれていることを発見したのである。マルカス・ハードマンが開催したお茶会には、以下の4人が招待されていた。
(1)ジョンストン氏(Mr Johnston)ー南アフリカの実業家
(2)ヴェラ・ロサコフ伯爵夫人(Countess Vera Rossakoff)ーロシアからの亡命貴族
(3)バーナード・パーカー(Bernard Parker)ーマルカス・ハードマンの仕事のパートナー
(4)レディー・ランコーン(Lady Runcorn)ー中年の社交家
マルカス・ハードマンの依頼に応じて、宝石が盗まれた現場をポワロが調べた結果、金庫を開けるのに使用されたと思われる男性用手袋と「BP」というイニシャルが刻まれたシガレットケースが残されているのを発見する。シガレットケースに刻まれたイニシャル「BP」とは、バーナード・パーカーのことを指しているのだろうか?
ポワロの訪問を受けたバーナード・パーカーは、手袋が自分の物であることを認めるが、シガレットケースについては、自分の物ではないと強く否定する。
その後、ロサコフ伯爵夫人の訪問を受けたポワロが、その日の夜、ロシア語文法に関する本を読みふける姿をアーサー・ヘイスティングス大尉は見かける。その翌日、マルカス・ハードマン宅を訪れたポワロは、「宝石を盗んだ犯人が判明しました。」と告げる。マルカス・ハードマンの自宅金庫から宝石を盗んだ真犯人は、お茶会の招待客4人のうち、一体、誰なのか?
正面玄関に該るマレットストリート側から見たセナトハウス |
英国の TV 会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「二重の手がかり」(1991年)の回では、宝石コレクターであるマルカス・ハードマンより彼の自宅から盗難された宝石の捜索依頼を受けたものの、何故か、ポワロは気乗りしない様子を見せる。そこで、アーサー・ヘイスティングス大尉とミス・フェリシティ・レモンの二人が、ポワロに代わって、マーカス・ハードマンがパーティーに招待した客の中から、宝石を盗んだ犯人を見つけ出そうと、独自に捜査を開始する。一方、ポワロはパーティーの招待客の一人であるヴェラ・ロサコフ伯爵夫人と一緒に美術館でマルク・シャガール(Marc Chagall:1887年ー1985年)の絵画等を鑑賞していた。ポワロとヴェラ・ロサコフ伯爵夫人が居た美術館として、ロンドン大学(University of London)内に建つセナトハウス(Senate House)のクラッシュホール(Crush Hall)が撮影に使用されている。
セナトハウスを含むロンドン大学は、ロンドンの中心部ロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内にあり、大英博物館(British Museum)の北側に位置している。
セナトハウスの真下に設置されている大学内表示板 |
当時、ケンジントン地区(Kensington)をベースとしていたロンドン大学は、第一次世界大戦(1914年ー1918年)後、拡張余地を見つけることが急務であった。1921年に英国政府がロンドン大学のためにブルームズベリー地区をベッドフォード公爵(Duke of Bedford)から購入したが、ロンドン大学内の多くはケンジントン地区からブルームズベリー地区への移転には否定的だった。ところが、1926年に英国の経済学者のウィリアム・ヘンリー・ベヴァリッジ(William Henry Beveriege:1879年ー1963年)が副学長(Vice President)に選出されたことにより、大きな転機をを迎えた。彼が大学の移転を支持したため、ブルームズベリー地区への移転へと大きく舵がきられることとなった。英国では、学長(President)は名誉職なので、副学長が事実上の学長の役割を果たしている。なお、ウィリアム・ヘンリー・ベヴァリッジは、1946年に初代ベヴァリッジ男爵(1st Baron of Beveriege)に叙せられている。
マレットストリートから見上げたセナトハウス |
1931年に新ロンドン大学の設計責任者に任命された英国の建築家であるチャールズ・ヘンリー・ホールデン(Charles Henry Holden:1875年ー1960年)は、アールデコ様式の設計案を提示した。
1932年に建設工事が始まり、大学職員の移転の第一陣が1936年に行われた。
1936年11月28日に学長を含む大学上層部が工事の進捗状況を確認するために建設現場を視察した際、廃物を運ぶ大型金属容器が建設作業員によるミスで頭上から落下し、その時の負傷が原因で、2日後に学長が病院で亡くなるという不幸な事故が発生している。
その後、資金不足のため、チャールズ・ヘンリー・ホールデンによる当初の設計案は縮小される中、1937年にセナトハウスが竣工する。当初の設計案では、構内の南側に高層塔(=セナトハウス)を、そして、北側に低層塔の建設が計画されていたが、第二次世界大戦(1939年ー1945年)の勃発もあり、北側の低層塔が建設されることはなかった。
大学の構内(北側)からセナトハウスを望む |
セナトハウスは19階建てで、高さは約64mを誇り、ブルームズベリー地区のどこからも見ることができる。同ビルの正面玄関は西側のマレットストリート(Marlet Street)に、そして、裏玄関はラッセルスクエア(Russel Square)に面している。同ビル内には、副学長のオフィスやセナトハウス図書館等が入っている。
セナトハウスは、1969年に「グレードⅡ(Grade II)」の指定を受ける。2006年の大改修を経て、同ビルは大学の施設としてだけではなく、会議場やイベント会場等としても使われるようになり、ロンドン ファッションウィーク(London Fashion Week)の会場として使用された。
大学の外(北側)からセナトハウスを望む |
TV 版のポワロシリーズでは、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に流行ったアールデコ関係の建物や内装等が画面上多く使用されている。セナトハウスについても、チャールズ・ヘンリー・ホールデンによるアールデコ設計案に基づいて建設されているため、今回、美術館として使用されたのであろう。
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