アガサ・クリスティー作「厩舎街(ミューズ)の殺人(Murder in the Mews)」(1937年)は、ガイ・フォークス ナイト(Guy Fawkes Night)に該る11月5日、打ち上げられる花火がロンドンの夜空を照らす中、物語が始まる。
「厩舎街の殺人」は、1937年に出版された中編集「厩舎街の殺人」(英国版)/「死人の鏡(Dead Man's Mirror)」(米国版)に収められている。
夕食を終えて、静かな脇道のバーズリーガーデンミューズ(Bardsley Garden Mews)を歩くスコットランドヤードのジャップ主任警部(Chief Inspector Japp)は、隣りを歩くエルキュール・ポワロに次のように話しかける。「殺人を行うには、うってつけの晩だ。今夜なら、たとえピストルを撃ったとしても、誰にも聞こえやしない。」と...
全くの偶然ではあるが、彼らが歩いていたバーズリーガーデンミューズにおいて、事件が発生する。若い未亡人であるバーバラ・アレン夫人(Mrs. Barbara Allen)が拳銃自殺をしたのである。しかし、彼女には自殺する理由が見当たらない上に、現場には自殺と断定するには疑わしい点が多かった。何故ならば、ピストルは彼女の右手の中にあったものの、握られていた訳ではなかった。不自然なことに、ピストルの弾丸は、彼女の頭の右側からではなく、左側から入っていたのである。つまり、何者かが彼女を殺害した後で、自殺に見せかけようとしたのだ!これを他殺と考えたジャップ主任警部は、ポワロに事件の捜査協力を依頼する。
「厩舎街(ミューズ)」とは、厩舎(うまや)から表通りまでの路地のことを指している。ロンドン市内では、厩舎だった建物が後にフラット等の住居に改装され、人が住むようになったが、「ミューズ」という名は市内各所にそのまま残り、以前、厩舎が建ち並ぶ路地であったことを今に伝えている。
英国のTV会社 ITV1 で放映された「Agatha Christie's Poirot」シリーズの「厩舎街の殺人」(1989年)の回では、物語はロンドンの夜空に打ち上げられるガイ・フォークス ナイトの花火から始まる。このシーンはチェスターゲート通り(Chester Gate)で撮影されており、花火はチェスターゲート通りの西側にあるリージェンツパーク(Regent's Park)から打ち上げられているようである。
リージェンツパークはロンドン市内にある王立公園(Royal Park)の一つで、ロンドンの北西部に位置しており、シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)とロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)に跨がっている。
リージェンツパーク内の南の方には、公園の核となるクイーン・メアリーズ・ガーデンズ(Queen Mary's Gardens)と呼ばれる薔薇園が位置しており、この薔薇園の外側を周回する内周道路(Inner Circle)と公園の外側を周回する外周道路(Outer Circle)の二つがあり、内周道路、外周道路とこれらを繫ぐ道路のみ車の通行が可能であるが、それら以外は全て歩行者専用となっている。
リージェンツパーク内には、クイーン・メアリーズ・ガーデンズ以外にも、英国式庭園やイタリア式庭園等の庭園、野外劇場(Open Air Theatre → 夏になると、シェイクスピアの演劇等が上演される)、サギや水鳥の繁殖地となる湖(→夏にはボート遊びが可能)、スポーツ施設(テニスコート等)、リージェンツ運河(Canal Regent'sーカムデンロック(Camden Rock)とリトルヴェニス(Little Venice)を水上バスが繫いでいる)、学校(ロンドン・リージェンツ大学(Regent's University London)等)やロンドン動物園(London Zoo)等があり、ロンドン市民の憩いの場になっている。
現在、リージェンツパークがある土地は、元々、バーキング修道院(Barking Abbey)が所有していた。
テューダー朝第2代イングランド王ヘンリー8世(Henry VIII:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年)は、男の世継ぎ(嫡子)が生まれていない王妃キャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon:1487年ー1536年)との離婚を画策して、ローマのカトリック教会と対立し、1534年に国王至上法(首長令)を発布の上、自らをイングランド国教会(Church of England)の長とするとともに、カトリック教会からイングランド国教会の分離を行った。その際、キャサリン・オブ・アラゴンと離婚したヘンリー8世が再婚した(2番目の)王妃が、後のテューダー朝第5代かつ最後の君主であるエリザベス1世(Elizabeth I:1533年ー1603年 在位期間:1558年ー1603年)を生むアン・ブーリン(Anne Boleyn:1507年ー1536年)である。ヘンリー8世は宗教改革(Reformation)を押し進め、イングランド、ウェールズおよびアイルランド内にありながら、ローマのカトリック教会の支配下にあった修道院について、解散令(Dissolution of the Monasteries)に基づき、1536年(小修道院)と1539年(大修道院)に解体してしまう。これにより、バーキング修道院が所有していたリージェンツパークがある土地は、英国王室の所有に帰属する。
リージェンツパークがある土地は「マリルボーンパーク(Marylebone Park)」と呼ばれ、英国王室によって狩猟場として使用され、女王エリザベス1世や国王ジェイムズ1世(James I:1566年ー1625年 在位期間:1603年ー1625年)が各国の大使達を招いて、狩りを楽しんだと言われている。
その後、清教徒革命(Puritan Revolution:1641年ー1649年)や王政復古(Restoration:1660年)等を経て、所有者や使用者が激しく変遷するが、ポートランド公爵が保持するリース契約が1811年に期限を迎えると、当時摂政(Regent)だった後の国王ジョージ4世(George IV:1762年ー1830年 在位期間:1820年ー1830年)が、英国の建築家でかつ都市計画家でもあったジョン・ナッシュ(John Nash:1752年ー1835年)を彼の顧問に招き入れ、マリルボーンパークを含むロンドン北部の整備計画に取り掛った。
ジョン・ナッシュの他に、ロンドンの文教区ブルームズベリー地区(Bloomsbury)の整備に尽力したジェイムズ・バートン(James Burton:1761年ー1837年)や彼の息子であるデシマス・バートン(Decimus Buton:1800年ー1881年)等も計画に加わり、1818年に整備計画が実際に実行段階へ移行する。
27年後の1845年に公園は完成し、ジョージ4世の当時のタイトルである摂政の名を冠して、「リージェンツパーク」と呼ばれるようになった。当初は、週に2日間だけ一般に公開されていたそうである。
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