2016年11月6日日曜日

スタニスラス=アンドレ・ステーマン作「殺人者は21番地に住む」('L'Assasin habite au 21' per Stanislas-Andre Steeman)

東京創元社の創元推理文庫から出版されている
スタニスラス=アンドレ・ステーマン作「殺人者は21番地に住む」―
カバー画は、安田忠幸氏によるもの

193X年11月10日の午後11時、霧深いロンドンのウェストボーングリーン地区(Westbourne Green)内にあるタヴィストックロード(Tavistock Road)で、その事件は始まった。


タヴィストックロードにおいて、バーマン氏が何者かによって殺害された以降、ロンドンの深い霧の中で次々に発生する連続殺人。しかも、犯行現場には、「スミス氏」と書かれた名刺が必ず残されていたのである。第二の「切り裂きジャック(Jack the Ripper)事件」(1888年8月31日ー1888年11月9日)と世間が大騒ぎする中、スコットランドヤードとしては決して手をこまねいている訳ではなかった。当連続殺人事件を担当するストリックランド警視は様々な手立てを講じるものの、残念ながら、スミス氏を逮捕するには至っていなかった。スミス氏の場合、切り裂きジャック事件とは異なり、被害者の死体に対して残酷な損傷を加えることはなく、ただひたすら金銭欲だけに駆り立てられた犯行ではあったが、ロンドン市内は恐怖のどん底に陥ったのである。そして、スコットランドヤードによる捜査に大きな進展が見られないまま、7人目の犠牲者を数えるに至った。

スミス氏による最初の殺人が発生したタヴィストックロードを
東端から西側へ向かって見たところ

年が明けた193X年1月28日の午前5時、ヘンリー・ビーチャム巡査は、ロンドンのショーディッチ地区(Shoreditch)のクェーカーストリート(Quaker Street)を巡回していた。そこで彼は椰子の木に登るように街灯によじ登っている酔っ払いを拘束する。酔っ払いは前科者のトビー・マーシュで、ヘンリー・ビーチャム巡査にスコットランドヤードに至急連絡をとるよう、依頼する。トビー・マーシュは、「スミス氏の住所を知っている。」と言うのだ。

タヴィストックロードの東端の角に建つ
パブ「The Metropolitan」―
パブの右側には、地下鉄ウェストボーンパーク駅
(Westbourne Park Tube Station)がある

スコットランドヤードからストリックランド警視が駆け付ける。トビー・マーシュ曰く、一昨日、サットンストリートでスミス氏が犯行を犯した際、犯行現場に偶然居合わせて、深い霧の中、スミス氏の後をつけたと言う。そして、スミス氏はラッセルスクエア21番地(21 Russell Square)の家に入って行ったのである。トビー・マーシュの説明に色めき立つストリックランド警視達であったが、トビー・マーシュが突然げらげら笑い出したため、ストリックランド警視は不気味な不安に襲われた。そして、トビー・マーシュは言い放つのであった。「ラッセルスクエア21番地は、素人下宿なのさ。」と...

スミス氏が住む下宿ヴィクトリア荘として設定されている
ラッセルスクエア21番地

トビー・マーシュが言う通り、ラッセルスクエア21番地は、ヴァレリー・ホブソン夫人が営むヴィクトリア荘という名の下宿であった。ヴィクトリア荘には、

(1)アーネスト・クラブトリ(完全に妻の尻に敷かれている内気そうな小男)
(2)イーニッド・クラブトリ(アーネスト・クラブトリの妻ーずんぐりした体型で、元気がいい)
(3)アンドレエフ氏(自信たっぷりの顔つきで、目が鋭い痩せた長身のロシア人)
(4)ハイド医師(無口で人嫌いの性格で、もう医師をしていない)
(5)フェアチャイルド少佐(インド派遣軍の旧将校)
(6)コリンズ氏(ラジオ器具のセールスマン)
(7)ララ=プール教授(インド人手品師)
(8)ジュリー氏(コレージュ・ド・フランスのエジプト学教授をしているフランス人)
(9)ミス・ポーター(IBC インシュラ放送会社の宣伝部に勤める現代的な若い女性)
(10)ミス・ホーランド(子供向けの新聞にお伽噺を書いて生計を立てている中年女性)

が下宿人として住んでいた。犯行の内容的には、犯人は男性である可能性が高いが、先入観は禁物で、女性の可能性も捨て切れなかった。ストリックランド警視はスコットランドヤード内に指示を出して、警官達にラッセルスクエア21番地のヴィクトリア荘を包囲させ、下宿人達を尾行させるが、何故か、スミス氏の犯行が繰り返されるのであった。果たして、スミス氏は上記の下宿人のうちの誰なのか?

ラッセルスクエア21番地の入口全景

連続殺人犯のスミス氏が住んでいる素人下宿のヴィクトリア荘が建つラッセルスクエア21番地は実在の場所で、ロンドンの中心部ロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内にあり、ラッセルスクエア(Russell Square)を囲む建物の一つである。ラッセルスクエア近辺には、大英博物館(British Museum)やロンドン大学(University of London)等がある。
それらに加え、ロンドンへ出て来て諮問探偵を始めて間もないシャーロック・ホームズがジョン・H・ワトスンと一緒にベーカーストリート221Bで共同生活を始める前に住んでいたモンタギューストリート(Montague Street)は、ラッセルスクエアの南西の角から始まり、大英博物館に沿って南へ延びる通りである。
なお、ラッセルスクエア21番地の建物には、現在、ロンドン大学の施設(The School of Oriental and African Studies)が入っている。

ラッセルスクエア21番地には、現在、
ロンドン大学の施設(SOAS)が使用している

本作品「殺人者は21番地に住む(L'Assasin habite au 21)」は、ベルギーの小説家であるスタニスラス=アンドレ・ステーマン(Stanislas-Andre Steeman:1908年ー1970年)によって、1939年に発表された。
フランドル人とスラブ人の血を半々に受け継いだ彼は、1908年にベルギーのリエージュに出生した。
1924年に彼はブリュッセルの「ラ・ナシオン・ベルジュ(La Nation belge)」誌に記者として入社して、同僚のジャーナリストであるサンテール(Sintair)と共作で探偵小説を執筆する。
1929年からは単独で執筆を始め、1931年に「六死人(Six hommes mortsー2016年10月8日付ブログで紹介済)」でフランス冒険小説大賞を受賞して、一躍名声を手に入れる。冒険小説大賞とは、フランスの歴史あるミステリー賞で、パリのシャンゼリゼ書店が主催していたものである。「六死人」は、アガサ・クリスティー作「そして誰もいなくなった(And Then There Were None)」(1939年)に先行する作品として、後世の評判を呼んでいる。


1939年に発表された本作品は、物語の終盤、二度にわたって読者への挑戦が行われるという本格編である。本作品は、1942年にアンリ=ジョルジュ・クルーゾーの第1回監督作品として同題で映画化され、公開されている。
スタニスラス=アンドレ・ステーマンは、1945年からは南仏に居を構え、癌のため、1970年にこの世を去っている。

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