2015年9月20日日曜日

ロンドン アガサ・クリスティーが住んだ家々

ロンドンにおいて、アガサ・クリスティーは生涯で9件の場所に移り住んだ。今までに全ての場所を1件毎に紹介してきたが、今回1つにまとめてみたい。

(1)ノースウィックテラス5番地(5 Northwick Terrace):1918年-1919年


ロンドン北西部のセントジョンズウッド地区(St. John's Wood)とリッソングローヴ地区(Lisson Grove)の中間辺り、セントジョンズウッドロード(St. John's Wood Road)とエッジウェアロード(Edgware Road)が交差した角の近くにある。
第一次世界大戦(1914年ー1918年)のため、フランスの前線に赴いていた夫アーチボルド・クリスティー(Archibald Christie:1889年ー1962年)が、戦争終結に伴い、英国に帰国し、空軍省に転属になった。それまで故郷のトーキー(Torquay)で母親と一緒に暮らしていたアガサ・クリスティーは、実家を離れて、ここに新居を構えたのである。

(2)アディソンマンションズ(Addison Mansions):1919年ー1922年


ロンドン西部ケンジントン地区(Kensington)内、ケンジントン(オリンピア)駅(Kensington Olympia Station)の近くにあるオリンピア展示場(Olympia Exhibition Centre)の裏手にあったが、今は現存していない。
1919年にトーキーの実家アッシュフィールド(Ashfield)で一人娘ロザリンド(Rosalind)を出産した後、アガサ・クリスティー一家はこのマンションの25号室に引っ越した。その後、違う棟の96号室へ移り住んでいる。

(3)クレスウェルプレイス22番地(22 Cresswell Place):1929年ー1976年



ロンドン南西部サウスケンジントン地区(South Kensington)内で、地下鉄サウスケンジントン駅(South Kensington Tube Station)と地下鉄グロースターロード駅(Gloucester Road Tube Station)の近くにある。
夫アーチボルドの不貞行為(浮気)、そして、彼女自身の記憶喪失による失踪事件等を経て、1928年4月にアーチボルドとの離婚が成立したアガサ・クリスティーは、一人娘ロザリンドと友人で秘書のカーロ・フィッシャーと一緒に暮らすため、この家を購入した。

(4)キャンプデンストリート47/48番地(47-48 Campden Street):1930年ー1934年


ロンドン西部ケンジントン地区内で、北側の地下鉄ノッティングヒルゲート駅(Notting Hill Tube Station)、東側のケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens)、南側の地下鉄ハイストリートケンジントン駅(High Street Kensington Tube Station)、そして、西側のホーランドパーク(Holland Park)に囲まれた一帯内にあり、閑静な高級住宅地の一つである。
1928年に夫アーチボルドと離婚したアガサ・クリスティーは、中東旅行の際に知り合った考古学者のサー・マックス・エドガー・ルシアン・マローワン(Sir Max Edgar Lucien Mallowan:1904年ー1978年)と1930年に再婚した。2番目の夫マックスは大英博物館(British Museum)で考古学の研究を行っていたため、通勤の利便性を考慮し、この物件を購入したようである。

(5)シェフィールドテラス58番地(58 Sheffield Terrace):1934年ー1941年


シェフィールドテラス58番地は、1930年に購入したキャンプデンストリート47/48番地の2本南の通りにある建物である。
マックス・マローワンと再婚したアガサ・クリスティーは、キャンプデンストリート47/48番地の物件には100%満足できなかったため、彼女の好みに合致するシェフィールドテラス58番地の物件が不動産市場に出たので、この物件を購入の上、移り住んだ。しかし、マックス・マローワンが発掘調査のため海外へ出かけることが多かったため、シェフィールドテラス58番地の物件は賃貸して、アガサ・クリスティーはデヴォン州(Devon)にあるグリーンウェイハウス(Greenway House)の家で暮らすことになった。

(6)ハーフムーンストリート(Half Moon Street):1939年


1939年に第二次世界大戦が勃発して、グリーンウェイハウスが米国海軍省によって接収され、米国軍の宿舎として使用されることになったため、アガサ・クリスティーとマックス・マローワンはデヴォン州からロンドンへ出て来た。生憎と、シェフィールドテラス58番地には、借家人がまだ入っていたので、彼らは借家を転々とする破目になった。
一つ目は、ロンドン中心部の高級地区メイフェア(Mayfair)内にあるハーフムーンストリートで、貴族、外科医、内科医や弁護士等が多く住む通りであったが、彼らが入居したフラットの状況はあまりにもひどく、1週間で転居した。

(7)パークプレイス(Park Place):1939年


彼らが移った二つ目の借家は、ロンドン中心部のセントジェイムズ地区(St. James'sーメイフェア地区の南側にあり)内にあるパークプレイスで、リッツ(The Ritz)ホテルの裏手に位置している。
彼らがこの通りに滞在していたのは短期間で、シェフィールドテラス58番地の借家人が立ち退いたため、二人ははれて閑静なケンジントン地区に戻ることができたのである。

(8)ローンロード3番地 ローンロードフラッツ(3 Lawn Road / Lawn Road Flats):1941年ー1946年


彼らはやっとのことでシェフィールドテラス58番地の家に戻ることができたが、ドイツ軍によるロンドン爆撃が続き、1940年10月にアガサ・クリスティーの家も被弾し、地下室、3階と屋根に大きな被害を蒙ってしまった。幸いにして、アガサ・クリスティーとマックス・マローワンの二人は、その時在宅していなかったため、命拾いをした。
ドイツ軍によるロンドン爆撃が更に激しくなる中、戦火を避けるべく、二人はエジプト学者スティーヴン・グランヴィルの勧めに従い、彼が住むロンドン北部ハムステッド(Hampstead)にあるローンロードフラッツ(イソコンビルディング - Isokon Building)の17号室に移り住んだ。

(9)スワンコート(Swan Court):1948年ー1976年


1945年2月に英軍海軍省による接収が終わり、グリーンハウスは返還されたが、アガサ・クリスティーとマックス・マローワンの二人は、ロンドンではクレスウェルプレイス22番地の家をベースにして暮らしていた。そして、1948年にロンドン中心部の高級地区チェルシー(Chelsea)にあるスワンコートの一室を購入した。

その後、クレスウェルプレイス22番地の家を賃貸して、ロンドンでの生活の場をスワンコートに移して、1976年に亡くなるまで、アガサ・クリスティーはスワンコートの一室とクレスウェルプレイス22番地の家を所有し続けたのである。

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